「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「地中海の係争地」サルデーニャ島

 サルデーニャ/サルディーニャ/サルディニアSardegna)は、イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。

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新石器時代からローマ帝国の時代にかけてヌラーゲNuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。

  • 少しわかっていることは、エジプトの碑文に「海の民」という意味の名前で登場する人々を指しているということである。その碑文の研究によると、彼らはサルディスリディア)を出発しティレニア海にたどり着いた。そこで、サルデーニャに行く者とエトルリアに行く者に分かれた、ということである。

  • しかし、サルデーニャ人の起源に関する理論のほとんどは、遺伝学的な研究と民族の移動状況を重要視している。遺伝学的な研究によると、サルデーニャ人は周辺地域の人々や若い民族とは異なり、前インド=ヨーロッパ人だとしている。

新石器時代以降の遺跡の散らばりぐあい、点在範囲、その大きさを調べれば、島の大体の人口がわかり、また彼らがこの島のどこに上陸し、定着したかがわかる。

先史時代

1979年15万年前にさかのぼる人類の痕跡が発見された。ガッルーラからサルデーニャ北部に居住した最初の人間は、おそらくイタリア半島トスカーナから渡ってきたとみられている。島の中央部にはバレアレス海を渡り、イベリア半島から来た人々が居住したとも考えられている。先史時代の約5000年〜6000年前)や、現在カリャリの考古学博物館に納められている地中海地方の母神像から、高いレベルで石の彫刻を作る能力を持っていたと推測される。

古代ローマの進出以前はローマの基礎を築いたとされるエトルリア人が多く住む土地で、トスカーナという名前も「エトルリア人の土地」を意味する(古代ローマ人エトルリア人を "Tusci" と呼び、また "Etrusci" とも呼んだ)。ローマはエトルリア人を吸収し、トスカーナは本国の一部となった。

ラメセス3世の神殿碑文」にはトゥレシュエトルリア人?)の名前が「海の民」のメンバーとしてシェルデンサルディニア人?)、シェクレシュシチリア人?)、エクウェシュアカイア人?リュキアからのルッカ(アナトリア半島西南部住民)、ペルシェトペリシテ人)に併記される。

エトルリア(ラテン語: Etruria) - Wikipedia

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紀元前8世紀~紀元前1世紀頃イタリア半島中部にあった都市国家群。ギリシア語ではテュッレーニア (Τυρρηνία Tyrrhenia)。

  • 都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの12都市連盟と呼ばれるゆるやかな連合を形成し、祭祀・軍事で協力することもあった。

  • 古代ギリシアとは異なる独自の文化をもっていた。当時としては高い建築技術をもち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされた。王政ローマの7人の王の最後の3人はエトルリア系である。

鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた。

石器文化と黒曜石の時代

石器時代には既に、モンテ・アルチ (Monte Arci) が重要な役割を演じていた。この休火山は、黒曜石採掘と刃物・矢じりへの加工の中心地のひとつであった。現在でも山腹では火山ガラスを見つけることが出来る。サッサリの考古学博物館には、紀元前2600年頃青銅器時代またはAneolithic Age)の土器が展示されている。

ヌラーゲ文化(青銅器時代)の遺跡

先史時代のサルデーニャは、ヌラーゲと呼ばれる独特の石造りの構造物に特徴づけられている。サルデーニャには複雑な構造のものから単純なものまで、大小7000のヌラーゲが現存している。最も有名なのはカリャリバルーミニのヌラーゲ遺跡、スー・ヌラージ・ディ・バルーミニである。このヌラーゲは紀元前1800年~250年頃にわたって造られ、紀元前1200年~900年頃に全盛期を迎えた。聖なる水場の隣に建てられ(例:Santa Cristina, Sardara)、墓の構造はドルメンと呼ばれる。この時代サルデーニャ人は既に、西地中海で交易を行っていたミケーネ人接触していたことがわかっている。

エジプトを侵略した海洋民族シャルダナ (Shardana) とサルデーニャとのつながりは真偽が疑わしく、立証されていない。墓場 (Tombe dei giganti) には沈みかけの船をかたどった墓石があり、長い航海中に惨事があったことを示している。古代ギリシャで初めて地中海を西に航海したエウボイア人は、サルデーニャHyknousaと呼んだ。のちにラテン化しIchnus(s)aイクヌーザ)となった。ノーラ遺跡の石碑はフェニキアがこの島をShardenと呼んだ証拠となっており、これがSardiniaという名前の由来となっている。

フェニキア人、カルタゴ人、そしてローマ人

紀元前8世紀から、Tharrosターロス)、Bithiaビティア)、Sulcisスルシス)、Noraノーラ)、Karalisカラリス、現在のカリャリ)と、フェニキア人が都市や砦をいくつもサルデーニャに築いた。

紀元前238年、ローマ人が島を獲得した。

  • ローマはカルタゴ第一次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)を戦ったが、戦後にカルタゴの傭兵が反乱を起こしたため、ローマはこの年サルデーニャに上陸し、占領する機会を得た。
  • ローマ人がサルデーニャを獲得した時点で、既に社会基盤と(少なくとも平野部では)都市化された文化があり、シチリアとともにエジプト征服までのあいだローマの穀倉地帯のひとつでありつづけた。

フェニキアカルタゴ文化は、ローマ人の支配下にあっても紀元後数世紀まで根強く残った。Tharrosターロス)、Noraノーラ)、Bithiaビティア)、Antasアンタス)、Monte Sirai(モンテ・シライ)らは、建築と都市計画の調査に非常に重要な考古学遺跡となっている。

中世

ローマ帝国の滅亡後、何度も征服対象とされている。

  • 東ローマ帝国による帝国の一部としての奪還に先立ち、456年北アフリカのヴァンダル人に占領された。

  • 711年からは、サラセン人による沿岸部の都市への攻撃が始まった。これが原因となり、9世紀には1800年の歴史を持つターロスが放棄され、内陸のオリスターノが取って代わった。アラブ人に対抗するために、海洋共和国であったピサジェノヴァによる支援が求められた。

  • 1063年から、この地域の東ローマ帝国の政治行政組織を踏襲する形で、審判による統治を意味するジュディカーティGiudicati)という制度が形成された。中世後期において最も特筆すべき、今に至るまで島のヒロインと慕われる人物は、ジュディカーティであったアルボレア国の妃エレオノーラ・ダルボレアEleonora d'Arborea)である。彼女は法制の整備に尽力し、1395年に発効した先進的な民法カルタ・デ・ログCarta de Logu)は1827年まで使われた。
  • 同じ時代、アラゴンカタルーニャ王国の影響が大きくなり、これはアラゴンによるサルデーニャ占領まで続いた。アラゴンの塔と呼ばれた見張り台が沿岸部全域にわたって作られ、アラブ人の侵入を防ぐことに役立った。これらの見張り台のいくつかは、ちょうど戦略上の重要地点にあったフェニキア都市の石を使って作られた。教会建築への再利用としての好例は、古い都市オトカOthoca)の跡に建てられたサンタ・ジュスタSanta Giusta)教会にみられる。

当時のスペインの影響の強さは、今でもアルゲーロ周辺でカタルーニャ語の方言が使われていることからも伺える。

サルデーニャ王国の誕生から現代

スペイン継承戦争1701年~1714年)でサルデーニャスペインからオーストリアに渡った。しかし、旧領回復を目指すスペインは1717年サルデーニャに侵攻(スペインによるサルデーニャ侵攻)。四国同盟戦争1718年 - 1720年)を経て、1720年シチリア島との交換によりサヴォイアが領有した。以後、イタリア統一の1861年まで、サルデーニャピエモンテとともにサルデーニャ王国を形成していた。

1861年サルデーニャ王国がイタリア統一を果たして国名を「イタリア王国」と改め、1883年にはカリャリからサッサリまでの鉄道が開通した。

  • ムッソリーニ政権下では、オリスターノ周辺の沼沢地が干拓され、最も成功した農村コミュニティとなったアルボレアの基盤が作られた。またムッソリーニは鉱業の中心地としてカルボーニを建設した。第二次世界大戦後、石炭の重要性は低下し、観光業が盛んとなった。雇用を創出するための様々な施策は、安価な労働力をもっても埋め合わせることの出来ない高い運送費のために、これまでのところうまくいってはいない。

今日、サルデーニャ自治州であり、その歴史は言語と文化の中にいまだ息づいている。また注目すべきは沿岸部と内陸部の差異である。沿岸部は常に外部からの影響に対してよりオープンであった。今日サルデーニャは、船や飛行機の便がよい北部の海岸や島々(ラ・マッダレーナ、コスタ・ズメラルダ)と南部カリャリ周辺の海岸によって、最もよく知られている。

以下続報…