世界史について語る以上、一時期地中海沿岸商圏の全てを手中に納め、その文化が黒海沿岸経由で中央アジアにまで及んだフェニキア商人について触れざるを得ません。
その影響範囲の広大さは、主に言語分野における後世への影響を辿るだけで十分です。
北セム系言語であるフェニキア語を表す、22文字からなる音素文字。古代地中海世界において現在のレバノン一帯を中心に活動していたフェニキア商人によって使用されていた。通常右から左に書かれたが、牛耕式(行が変わるたびに書字方向を変える)で書かれた文章もある。
- 22の字母を持つ純粋なアブジャド(子音文字)である。すなわち、子音を表現する字母のみから構成され、母音用のいかなる記号も持たないという文字体系であった。このような文字体系において母音は文脈から判断するということになる。
- この特徴はフェニキア文字から生まれたアラム文字(紀元前600年頃~紀元後600年頃)、ヘブライ文字(紀元前200年頃~現在)、アラビア文字(400年頃~現在)などにも受け継がれたが、これらの文字では子音文字がある程度母音を表記するためにも用いられた(準母音と呼ばれる)のに対し、フェニキア文字は純粋に子音のみを表記した。
- フェニキア文字と同系統の古い文字には楔形文字の字形を持つウガリット文字(原シナイ文字に続く世界最古の音素文字の一つ。紀元前紀元前14世紀~紀元前13世紀頃の粘土板文書でウガリット語の表記に用いられた表音文字。フルリ語の表記にも用いられた)や、いまのイエメン一帯で使われた南アラビア文字(史料的には紀元前1千年紀初頭(充分な資料が現れるのは紀元前800年頃)~紀元後6世紀中頃。7世紀以降アラビア半島のイスラム化によるアラビア文字の普及によって使用されなくなっていく)があるが、これらの文字がいずれも28-30字ほどを持つのに対し、フェニキア文字は22文字しかない。これはフェニキア語において子音体系が簡易化したことを反映しているものと考えられている。
フェニキア商人により欧州と中東をまたいで広められた。それらの地域で様々な種類の言語を表記する為に使われるようになり、多くの後継文字体系が生み出された。現代の文字体系の多くが、各地に広まったその派生と考えられている。
- フェニキア文字の変化形であるアラム文字は、現代のアラビア文字とヘブライ文字の祖先である。またこの系列に属するソグド文字(4世紀~11世紀, 6世紀以降の世俗文書、仏典、マニ教文献に見られる中世イラン語。パフラヴィー語同様、しばしばアラム語の単語を書いてソグド語で読む特殊な書き方をする為、実際の発音には不明点が多い)は東方に伝わってウイグル文字(8世紀頃~トルファンなどの9世紀~12世紀頃の壁画や文書資料に登場した初期には縦書/横書併用だったが、仏典などで漢文との併記や混用などの影響の結果、徐々に縦書きが中心となる~天山ウイグル王国時代(11世紀~13世紀)に正書法整備)が成立し、モンゴル文字(1208年~現代)、満州文字( 1599年頃 (有圏点字は1632年頃)~現代)などが派生した。
主に3世紀~7世紀にかけてのペルシア語(主に文語)を指す呼称。古代ペルシア語の直系であるが、古代ペルシア語にあった名詞や動詞の活用などは著しく簡略化され、発音・文法に関しても近代ペルシア語にはるかに近い。
サーサーン朝ペルシアの公用語として、碑文やゾロアスター教の文献などに用いられた。また、マニ教の文献にも用いられた。文字資料が多く書かれるようになったのはサーサーン朝(226年~651年)末期で、現存する文字資料にはサーサーン朝滅亡後のイスラム時代に成立したものも多い。
その表記にはアラム文字の変形であるパフラヴィー文字が用いられたが、アラム文字はもともとセム語用の文字でイラン語の表記を想定していない上に、この時代の文字なので以下のようなさまざまな不具合があり、解読が困難を極める。そこでパフラヴィー語の実際の発音を知る為、同じアラム系文字でもより表音的に書かれたマニ教系中期ペルシア語文献との比較による再建が行われている。
- 記号によって母音を表すアブギダ(現在世界で用いられる文字体系のおよそ半数はこれ)に分類され、インド、東南アジア、チベットで現在も使われているブラーフミー文字(紀元前6世紀~)もアラム文字が元になっているという説がある。さらにはパスパ文字(1269年~1368年頃)を通じて朝鮮のハングル(1446年~)にも影響を与えている可能性が指摘されている。
またブラーフミー数字(紀元前3世紀以前)は、現在世界中で使われているアラビア数字の元になっている。
- ギリシア文字(紀元前9世紀頃~現在)はフェニキア文字の直系の後継であるが、特定の文字の音価は母音を表すように変更されアルファベットとなった。さらにこれを発展させてラテン文字(紀元前7世紀頃~現代)、コプト文字(300年~14世紀)、キリル文字(940年頃~現代)といったアルファベットが生み出された。
エジプト文字のデモティック(民衆文字)に基づく文字も7文字あって、その起源はヒエログリフ(神聖文字)にまで遡る。これらのアルファベットはギリシア文字には対応しない。
ロシア語で使う33文字(大文字小文字を同一視して)はロシア文字と呼ばれる事もあるが、キリル文字はブルガリア語やセルビア語をはじめとする多くの言語で使用されており、文字もそれぞれ微妙に異なる。そして、キリル文字発祥の地はブルガリアであるとされるため、キリル文字の総称としてロシア文字と呼ぶのは不適当である。
スラヴ人に布教を行った正教会の宣教師キュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)の兄弟が862年~863年頃に考案したグラゴル文字が元になっている。グラゴル文字はスラヴ語を表記するための初めての文字であり、スラヴ語圏において広く使用されるようになったが、彼らの布教はローマ教会の圧力によって失敗に終わり、885年のメトディオスの死後、弾圧されたオフリドのクリメントら彼の弟子達はブルガリア帝国へと移動し、ブルガリア皇帝のボリス1世に庇護されてそこで布教活動を続けた。
フェニキア文字などの西セム諸文字は、18世紀にジャン=ジャック・バルテルミによって解読された。バルテルミは1756年にパルミラ文字について、ギリシア語との二言語碑文をたよりに固有名詞を比較することで各文字の表す音を明らかにし、それから本文を同系の言語であるヘブライ語やシリア語の知識をもとに解釈することで一晩で解読に成功した。同様の方法でバルテルミはフェニキア語や帝国アラム語の文字も解読に成功した。バルテルミによる解読は古文字解読の最初の成功例であった。
その成立過程
フェニキア文字に先行する古い音素文字と考えられる文字に、ルクソール近くのワディ・エル・ホルで発見された落書きや、シナイ半島のサラービート・アル・ハーディムで発見された文字があり(ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字)、紀元前1800年頃のものと考えられている。パレスチナにも紀元前17世紀~15世紀頃の文字が発見されており、原カナン文字(紀元前15世紀頃~紀元前1050年。22の象形文字からなる頭音書法(アクロフォニー)による子音文字)と呼ばれている。これらから見て、音素文字は紀元前2000年頃に発明されたと考えられる。
原シナイ文字の存在から、音素文字はエジプトのヒエログリフ(神聖文字)の知識を持ち、西セム語を母語とする労働者によって、ヒエログリフの字形をもとに頭音法の原理によってその文字が表すセム語の単語の最初の子音を取ったものという説が行われている。この説が立証されるには原シナイ文字の解読が正しいものでなければならないが、しかし現状では原シナイ文字の解読はすこぶる疑わしい。
フェニキア文字と同系の文字で、充分な資料のある最古の文字はウガリット文字(紀元前14世紀頃)で、27子音字と声門破裂音で始まる3つの音節文字を持っている。原カナン文字とフェニキア文字は連続性が強いため、フェニキア文字に変わった時期を定めることはできないが、便宜的に紀元前11世紀半ば以降のものをフェニキア文字と呼んでいる。フェニキア文字では文字の数が22に減少し、字形は抽象的になった。書字方向は安定して右から左へ書かれるようになった。最古のフェニキア文字による碑文のひとつに棺に刻まれたアヒラム碑文がある(紀元前850年頃)。
現存するフェニキア文字の初期の碑文はフェニキア語を表記しているが、後にはアラム語、ヘブライ語、および(メシャ碑文に代表される)モアブ語などの言語を表すためにも使われた。アラム語やヘブライ語はフェニキア語よりも多くの子音を持っていたため、1つの文字で複数の子音を表記した。
- フェニキア人による音素文字の採用は非常な成功を収め、さまざまな変種が地中海で起源前9世紀頃から採用された。さらには、ギリシア文字(紀元前9世紀頃~現在。東方系のイオニア式アルファベットが起源)、古イタリア文字(エトルリア文字, 紀元前8世紀~紀元前1世紀。特にピテクサエ(イスキア島)とクーマエに植民したエウボイア島住民の西方ギリシア文字26文字の影響が色濃く、所謂ローマ数字の原型もこの時代に定まっている)、アナトリア半島の諸文字(おそらくギリシャ文字から派生したと考えられているリュディア文字(紀元前8世紀末/紀元前7世紀~紀元前3世紀)、カリア文字(紀元前7世紀~紀元前3世紀)、リュキア文字(紀元前5世紀-紀元前4世紀)など)、イベリア文字(紀元前5世紀~紀元1世紀)へ発展していった。その成功の理由の一つは、音声的特徴にあった。フェニキア文字は一つの記号で一つの音を表す文字体系としては、初めて広く使われたものである。当時使われていた楔形文字やエジプト神聖文字等の他の文字体系では多くの複雑な文字が必要で、学習が困難であったのに比べて、この体系は単純だった。この一対一方式のおかげでフェニキア文字は数多くの言語で採用されることになった。
- フェニキア文字が成功したもう一つの理由は、音素文字の使用を北アフリカと欧州に広めた、フェニキア商人の海商文化であった。実際、フェニキア文字の碑文ははるかアイルランドにまで見つかっている。フェニキア文字の碑文は、ビブロス (現レバノン) や北アフリカのカルタゴのような、かつてフェニキアの都市や居留地が多数あった地中海沿岸の考古学遺跡で発見されている。後にはそれ以前にエジプトで使われた証拠も発見されている。
文字は元来尖筆で刻み込まれていたので、ほとんどの形状は角張って直線的であるが、より曲線的なものが次第に使われるようになり、ローマ時代北アフリカの新ポエニ文字へと発展していった。カルタゴの人々(Punics)が用いていたフェニキア語は「ポエニ語」と呼ばれてローマ時代にも存続したが、やがてベルベル人のベルベル語や、イスラム教とともにやってきたアラビア語に飲み込まれ、消滅してしまう。
①フェニキア商人の名前が最初に歴史上に登場するのは古代エジプト新王国(紀元前1570年~紀元前1070年)時代。とはいえこの 時期西アジアと地中海世界との接点として栄えていたのは金属貿易としてタウロス山の銀、エジプトの金、キプロスの銅を扱う都市国家ウガリット(ウガリット語: 𐎜𐎂𐎗𐎚 ugrt [ugaritu]、英: Ugarit, 全盛期紀元前1450年頃~紀元前1200年頃)だった。
②そしてそんな折「紀元前1200年のカタストロフ」が勃発してウガリットやカデシュ
やカルケミシュやエマルが壊滅。フェニキア商人に大躍進の機会が巡ってくる。
キプロス島の繁栄
キプロス島も海の民の侵入を受けたが紀元前12世紀中には復興して躍進したことが考古学的調査から明らかになっており、港町エンコミ、キティオンでは大掛かりな建築物が構築されるまでに至っていた。キプロスで採掘される銅が精錬されエジプトやシリアへ送られていることも明らかになっている。
キプロス島はレヴァントと商業的、文化的に密接に結びついており、エンコミ、キティオンではオリエント的影響を受けた建築物、神殿の奉納物が発見され、また、キプロスで発見される土器もシリア、パレスチナのものが多い。このことからキプロス島とペリシテ人らのと間に密接な文化的つながりがあったことが以前より注目されており、このつながりが取引のネットワークと化し、紀元前11世紀後半にはフェニキア人とペリシテ人らとの間で商業取引が行われたことが想像されている。
エジプトを侵略した海洋民族シャルダナ (Shardana) とサルデーニャのつながりこそ不明だが、ヌラーゲ時代(紀元前1800年~250年頃, 全盛期紀元前1200年~900年頃)のサルデーニャ人が既に、西地中海で交易を行っていたミケーネ人と接触していた事は明らかである。
そして紀元前8世紀から、Tharros(ターロス)、Bithia(ビティア)、Sulcis(スルシス)、Nora(ノーラ)、Karalis(カラリス、現在のカリャリ)と、フェニキア人が都市や砦をいくつもサルデーニャに築いた。
フェニキア人の活動
ミケーネ文明が崩壊してギリシャの海上活動が衰退すると、地中海を制したのはフェニキア人であった。それまでパレスチナを中心とする海上交易はウガリットに独占されていたが、カナーン人の末裔であるフェニキア人らはこの好機を逃すことなくテュロス、シドンを中心に活動、地中海沿岸にカルタゴを代表とする植民都市を築いた。
紀元前11世紀後半になるとフェニキアの活発な取引はバイクローム土器と呼ばれる二色で彩色された土器の分布からその範囲が想像されており、フェニキア人の本拠地であるフェニキア海岸(北はテル・スカス(Tell Sukas)、南はカルメル山半島)からシリア(アムク平野、ホムス地方)、パレスチナ北部(ガリラヤ、メギッド、ベテ・シェメシュ)、フィリスティア(テル・カシレ)、ネゲブ北部(テル・エサル、テル・マソス)、ナイル・デルタ(テル・エル=レタベ)などでこの土器が発見されている。また、彼らの活動は商業だけではなく軍事活動も伴っていたことが考古学的資料から明らかになっている。
フェニキア人という名称は自称ではなく、ギリシア人による呼称である。ギリシア人は、交易などを目的に東から来た人々をこう呼んだ。
- フェニキアという名称は、フェニキア人の居住地がギリシャ語で Φοινίκη (Phoiníkē; ポイニケー)と呼ばれたことに由来している。その語源は不明であり、フェニキアがミュレックスと呼ばれる貝から取れる紫色の染料(貝紫)を特産としていたことから「紫色(または「緋色」)」という意味のギリシア語を語源とする説も存在する。
- 今日でも南部のサイーダなどの町中でこの貝殻の山を見ることができる。フェニキア人の母体となったとされるカナンという呼称も、アッカド語で染料を意味するキナッフに由来する。
歴史家ヘロドトスは、その著書「歴史」の序文で「ペルシア側の学者の説では、争いの因をなしたのはフェニキア人であったという。それによれは、フェニキア人は、いわゆる紅海からこちらの海に渡って来て、現在も彼らの住んでいる場所に定住するや、たちまち遠洋航海にのりだして、エジプトやアッシリアの貨物を運んでは各地を回ったがアルゴスにも来たという。」と書いている。
- エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。紀元前12世紀頃から盛んな海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出、地中海全域を舞台に活躍する。また、その交易活動にともなってアルファベットなどの古代オリエントで生まれた優れた文明を地中海世界全域に伝えた。
- 彼らが建設した主な主要都市にアラドス(現在のアルワード島)、ティルス(現在のスール)、シドン、ビュブロス、ベリュトス(現在のベイルート)などがある。後期青銅器時代には既にこれらの都市が存在していたことがアマルナ文書から確認できる。
- フェニキア人は海上交易に活躍し、紀元前15世紀頃~紀元前8世紀頃に繁栄を極めた。さらに、カルタゴなどの海外植民市を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。船材にレバノン杉を主に使用した。
優れた商人であり、その繁栄は海上交易に支えられていた。紀元前8世紀のティルスは地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に至る交易ネットワークのハブとなっていた。貝紫とレバノンスギがフェニキア本土の特産品であり、この地域の都市国家の成立と繁栄を支えた。また、タルテッソス(イベリア半島)の銀をオリエントに持ちこむ航路はフェニキア人が独占していた。
紀元前11世紀にはテュロスはイスラエル王ダビデと友好関係を結び、紀元前10世紀にテュロス王ヒラムがイスラエル王ソロモンと共同で紅海の貿易に進出する。紀元前9世紀にはテュロスを中心にフェニキアの貿易網が栄える様子が旧約聖書のエゼキエル書に記される。
ギリシア人のホメロスも紀元前8世紀頃成立の叙事詩『イリアス』や『オデュッセイア』でフェニキア人を船を操る商人や職人の集団と表現している。
ヘロドトスの『歴史』によれば、紀元前600年頃エジプトのファラオネコ2世の命を受けたフェニキア人が紅海から出港。喜望峰を経て、時計回りにアフリカ大陸を一周し、3年目にエジプトに帰ってきたという。バルトロメウ・ディアスが喜望峰を「発見」する2000年以上前の話である。フェニキア人は極めて優れた航海術を有していたのである。
しかし紀元前9世紀~紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされ、フェニキア地方(現在のレバノン)の諸都市は政治的な独立を失っていく。
- アッシリア滅亡後は新バビロニア、次いでアケメネス朝(ペルシア帝国)に服属するが、海上交易では繁栄を続けた。
- しかしアケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王によってティルスが征服されると、マケドニア系の勢力に取り込まれてヘレニズム世界の一部となる。
紀元前9世紀テュルスが北アフリカに建設した植民都市カルタゴは、フェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅んだ。
ところでフェニキア商人の寄港地は考古学的に見て(概ね現地への大規模移民を伴ったギリシャ植民都市と異なり)現地有力者の所領を間借りする小規模なものが多かったが(ガレー船による沿岸航海ではどうしても沢山の泊地が必要となる)、それをどうやって獲得していったかについて旧約聖書に興味深い記述があるのです。
- まずは狙う首長や相手国を「借金漬け」にする。
- 政略結婚に託けて神官団を送り込む。
- 当時オリエント世界で信仰されていた神々はどの地でも概ね「(フェニキア商人同様に)豊穣を司る地母神とその配偶者」などで構成されており、フェニキア式の宗教儀礼を強要し、特産物にして威信材たる「貝紫の儀礼服」や「シドンの銀食器」などを生活必需品に変貌させ「裏切れない取引相手」に仕立て上げるなど造作もなかった。
「列王記」では北王国(イスラエル王国)「歴代誌」では南王国(ユダ王国)がこの手口に引っ掛かって大変な事になります。
その一方で上掲の様に新アッシリア帝国の王ティグラト・ピレセル3世 (Tiglath Pileser III, 在位紀元前744年~紀元前727年)が現れてオリエント世界において多民族帝国時代が始まるとレバノンにあるフェニキア人本拠地を脅かし始めた訳です(それ以前の段階からビブロスの名前は聞かなくなっていく。レバノン杉を狙うアラム人の侵略を受けたとも)。
この隙を突いてアナトリア半島や黒海沿岸に次々と植民都市を構築して東地中海交易に割り込んできたのがギリシャ商人でした(紀元前7世紀まではコリントスを中心とするドーリア人商圏、紀元前6世紀にはアテナイ海上帝国がライバルとなる)。シドンやティルスはアケメネス朝ペルシャと結ぶ事でこれに対抗しようとしましたが、ティルスは最終的にアケメネス朝ペルシャを滅したアレキサンダー大王の東征(紀元前334年~紀元前324年)によって破壊されてしまいます。
紀元前1200年のカタストロフ - Wikipedia
ギリシャの明暗
ミケーネ文明が崩壊して暗黒時代を迎えたギリシャであったが、この切っ掛けはギリシャに悪影響を与えるばかりではなかった。
- 西アジアでは強力な王権が発達していたが、ミケーネ文明の時代、ギリシャはワナックス(線文字B: 𐀷𐀩𐀏 - wa-na-ka、アナックスとも)や宮殿を中心とする再分配システムを中心に発達していた。この中でもワナックスは王権へ進化する可能性もあったが、結局、王の絶対性を担保する王権へ発達することはなかった。
- このため、ギリシャでは西アジアでは普通に見られる王に関する彫刻などは見られず、王の名前すら明らかではない。ある意味、宮殿の崩壊はこのワナックスなどのシステムの限界を表したものとすら言える。
このカタストロフの影響はギリシャと東方との関係を一時的ながらも遮断することとなったが、この遮断は新たな社会構造を構築するチャンスをギリシャに与えることになった。そしてポリスが成立し、古代ギリシア文明が繁栄することになる。
少なくとも新石器時代には人類が居住し、紀元前3千年紀~紀元前2千年紀にミノア文明が栄えた。古代ギリシア時代には辺境ではあるものの「100の都市を持つ」と謳われるほど多くのポリスがクレタ島内に形成され、ヘレニズム時代には傭兵と海賊の島として広く知られた。
フェニキア人が築いた植民市は次第に都市国家へと成長していきます。中でも有名なのがシドンとティルスです。ここでは、そのうちティルスについてお話ししましょう。
- ティルスは、やはり現在のレバノンの地中海沿いに位置する東地中海最大交易拠点都市でした。銀・黄金・錫・鉛・奴隷・青銅商品・馬・軍馬・ラバ・象牙・小麦・きび・蜜・オリーブ油・ぶどう酒・羊毛・布地・羊・山羊・香料・宝石などの商品がティルスに輸入され、そして再輸出されたのです。
- アケメネス朝ペルシアの支配下に入って以降もその保護を受けながら勢力を伸ばし、多くの商品がティルス経由でフェニキア人の船によって往来したのです。
ティルスは地中海沿岸にいくつもの植民市を築いていきます。その中で最も重要だったのが現在のチュニジア共和国にあったカルタゴで、母市ティルスがアレクサンドロス大王の侵攻によって衰退してからは、地中海交易の中心地となりますが第1次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)敗戦を契機にシチリア島、サルデーニャ島、コルシカ島を喪失。さらに損失の埋め合わせに開拓したイベリア半島の植民市も第2次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)で引き渡さざるを得なくなってしまいます。
それでも復興を果たしたカルタゴの再興を目の当たりにしたローマは、猛烈に警戒心を強めます。さらに当時のローマの支配層にとっては、どれだけ軍事的成果を上げたかが極めて重要な問題になっていました。軍事的な成果が、国内での地位の向上に結び付いていたからで、そうした情勢下、カルタゴはローマにとって格好の標的の一つに選ばれてしまったのです。
- カルタゴの殲滅を狙ったローマは、ついに紀元前149年には第3次ポエニ戦争を仕掛け、カルタゴを滅ぼしにかかります。ローマ軍は、文字通りカルタゴ市を破壊し尽くしました。カルタゴのフェニキア人は殺されるか奴隷になるかしか道はありませんでした。ローマ軍は、カルタゴが再興することがないよう、その地に大量の塩を撒いたと言われています。ローマ軍の仕打ちはそれほど苛烈なものでした。
カルタゴが滅ぶと、交易拠点を失ったほかのフェニキア人の都市国家も急速に衰えていきます。それに代わってローマは、西地中海を支配する大帝国へと成長していくのです。
全体構図としては「フェニキア人の地中海商圏」は黒海沿岸部と中華王朝を結ぶ「草原の道(Silk Rord)」や、季節風貿易によってインドや東南アジアに至る「海の道(Ceramic Road)」でユーラシア大陸全体と繋がっていたという流れとなります。まさしく言語的影響範囲と重なりますね。
ただ、歴史のこの時点では、今日のヨーロッパ内陸部に当たる箇所がすっぽりと抜け落ちていたのです…ある意味、 中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aṣabīyah)論に従うなら、かくしてハダル(حضر ḥaḍar)=「十分に文弱化し連帯意識を失った都市住民」=「地中海世界」を最初に脅かしたバトウ(بدو badw)=「強烈な部族的紐帯を保ったままハダルを視野外から脅かす王位請求者達」こそが(エトルリア人、ギリシャ人、フェニキア人を各個撃破して地中海覇権を獲得するまでの)イタリア半島のローマ人だったという話になるのかもしれません。