「最初の殉教者」ステファノ(?~35年/36年頃没)に至る話…
ヘレニズム時代の当初、エルサレムは(ユダや人を比較的公平に扱う事で有名な)プトレスマイオス朝エジプトの統治下にありました。
しかし紀元前198年になるとセレウコス朝シリア(主にイラン東部、メソポタミア、シリアを統治)のアンティオコス三世がプトレオマイオス朝をアジアから駆逐してしまうのです。
エルサレムにおける展開
アンティオコス三世自身はユダヤ人に中半自治的な状態を認めていたが、彼の二代後の後継者アンティオコス四世エピファネスはローマやパルミラの勢力拡大に対抗すべく軍資金を支配民族から収奪する事と、彼らをヘレニズム文化一色に染め上げる事しか考えていなかったのでユダヤ人を激怒させマカバイ戦争(Maccabean revolt, 紀元前167年)を引き起こしてしまい、その討伐の途中で急死する。セレウコス朝シリアはこれ以降滅亡に向かうが、次に現れたローマ帝国とはさらに激しく衝突し、エルサレムを完全に失ってしまう。
同時期(バビロニアのユダヤ人コミュニティを領する)パルティアもセレウコス朝シリアからの離脱して独立。
- 反乱を首謀したハスモン家は、元来はセレウコス朝とユダヤ人上流階層のギリシャ主義に対する反感から始まった筈なのにやがてローマ帝国に支援を求めてローマ元老院から独立を保証される一方でセレウコス朝から小領主の1人に任命され、次第に単なるギリシャ主義的専制君主へと変貌していく。これを快く思わず紀元前2世紀以降、死海のそばの荒野に修道院の様な建物を建てて共同生活を送る様になったのがエッセネ派であり、ユダヤ教の儀式の厳密化を要求する様になったのがファリサイ派であり、国際的で貴族的な気質の祭司が集まって結成したのがサドカイ派なのだった。
- 結局ハスモン王朝は混乱に乗じて乗り込んできたローマの手によって紀元前37年に廃位に追い込まれ、それまでの生存者は後任となったヘロデに軒並み暗殺されてしまうが、この地の動乱はその後も収まる事はなかったのである。
紀元66年から紀元67年にかけて荒れ狂った反乱は紀元70年におけるエルサレム神殿破壊という悲惨な結果を生む。それまでユダヤ教の宗教的中心だった神殿の喪失は必然的に社会的宗教的指導者層を形成してきた祭司職そのものの衰退をもたらす一方で新たな宗教指導者層と崇拝場所が登場してきた。
- ラビ…「もはや町にも、寺院宗教にも、政治的主権にも意味はない。重要なのはトーラーに込められた宗教的伝統と、実質的に毎日増え続けている宗教的規則である」と豪語する新たな宗教指導者層。トーラーの日常的学習と、それに関連する口承伝承を重視し、宗教的規則の厳格な遵守を要求するファリサイ派的立場。「毎日のトーラー精読」を重視した事で結果的に後のユダヤ人社会におけるあらゆる知的活動や文化行動の基礎を準備する事となった。
- シナゴーグ(ギリシャ語の「集会」)…元々以前からユダヤ人の居るあらゆる場所に存在し、儀式や(パレスティナ以外の地での)礼拝の為に使われてきた。神殿破壊後は公的宗教活動の中心に昇格し、共同社会における定期礼拝やそこで行われるトーラーの朗読や解説が行われる場となる。
132年の反乱再発に際してローマ軍は容赦ない報復を行った。ユダヤ領内のユダヤ人を完全に追放し、代わりに非ユダヤ人を入植させて町の中心にハドリアヌス帝とローマの神々の彫像が立ち並ぶ神殿を建て、完全に異教徒の都市としてしまったのである(名前もシリア=パレスチナに改めてユダヤ人の立ち入りが禁止された)。ユダヤ人の多くは北のガラリアに送られたが、残りの者は奴隷として売られた(こうして売られたユダヤ員の数が膨大だった為に奴隷の価格が下がり、馬並みになったという)。
- 戦火を避けて避難した大多数の住人達はシリア、アナトリア半島、ローマ(当時のユダヤ人地下墓地の遺跡が残る)のユダヤ人共同体を膨れ上がらせ、イベリア半島やガリアやライン地方においてもユダヤ人の増加が見られた。さらにはローマ帝国の領土から完全に脱出してパルティアに入国し、バビロンのユダヤ人社会に合流した者も少なくなかったとされる。
- 古代ローマ帝国内におけるユダヤ人の足跡は、既に紀元1世紀には国境を越えてその向こう側の辺境地帯まで届いていた。それはプロバンスやガリア各地にも残っているが、最も永続性が高かったのがスペインである。
西ヨーロッパにおける最初の重要なユダヤ人社会はシチリアと南イタリアに出現したが、それらは1091年までビザンチン帝国の統治下にあった土地だった。これらの地域のバリ、オリア、オトラントの町には9世紀以降ラビの法を学ぶ神学校が設けられ、礼拝時にはビザンチン帝国の皇帝下での迫害を謳った詩が朗唱された。これは今日なおアシュケナジム(欧州中部と東部のユダヤ人)の間で歌い継がれている。
以下続報…