「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】[マルクス主義」と「レーニン主義」の狭間に顕現した「修正主義」

 社会民主主義の重要な源流の一つとなったのは「我々が自由意思や個性と信じ込んでるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」なる提言で欧州思想史にカール・マルクスKarl Marx, 1818年~1883年)が「資本論(Das Kapital: Kritik der politischen Oekonomie, 第1部1867年, 第2部1885年, 第3部1894年)」以上の爪痕を残した残した「経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の出版にも尽力したパトロンの一人だったフェルディナント・ラッサールFerdinand Johann Gottlieb Lassalle, 1825年~1864年)。 

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  • 大ドイツ主義の立場からイタリア王国(統一運動1815年~1871年)やドイツ帝国(1850年以降急速に工業化が進んだ各領邦国家が石炭, 鉄(後に鋼鉄), 化学薬品, 鉄道を介して結びつき1871年成立)の独立を決っして認めず「こんなの当然歴史上の一時的間違いに過ぎない。やがてハプスブルグ帝国は両国とも再併呑する。その方が両国民にとっても幸福な結末なのだ」と予言したマルクスエンゲルスに対し「分離は歴史的必然。再併合なんてありえない」と断言して名を上げる。

  • ドイツ帝国(1871年~1919年)建国の立役者たるプロイセン王国宰相ビスマルク接触し「収入制限選挙にかこつけて議会を牛耳り、既得権益保全しか念頭にないブルジョワ階層を国家と労働者で挟撃する福祉主義国家のグランド・デザインに端緒をつける。
    マルクスの反応は「俺を裏切ったな。こうなったら絶交だ。だけどお願いですから仕送りは絶やさないでください。人類の未来の為に」というものだったという。

さらにこんなイデオロギーも後世に残しました。

ラッサール「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」

豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。

法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の普遍精神Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。

  • 普遍精神Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。いずれにせよ「どれだけの速度でそれが進行すべきか」は曖昧。

    17-18世紀のフランスにおける一般意志概念の変遷について

その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。

  • 神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。

  • 農奴隷農制隷農制農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。

  • ギルドの廃止自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。

  • そして現在の世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面している。

エドモンド・バークの「崇高Sublime)」概念の影響を受けて「(認識可能な)(独Ding、英Thing)の世界」と「(その枠外に広がる)物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)の世界」を峻別したやカント哲学同様、ハノーファー王国1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)経由でドイツが受けてきた英国からの影響が色濃く表れている。というか英国のコモン・ローCommon Law)的で, かつ法実定主義(Legal Positivism)的な風味がひしひしと…

ところで…

  • ジョン・スチュアート・ミルJohn Stuart Mill、1806年~1873年)の「 自由論(On Liberty, 1859年)」における「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」なる古典的自由主義の大源流となる信念表明

  • カール・マルクスKarl Marx, 1818年~1883年)の経済学批判Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」における「我々が自由意思や個性と信じ込んでるものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」なる提言

  •  チャールズ・ダーウィンCharles Robert Darwin, 1809年~1882年)の「種の起源On the Origin of Species、初版1859年)」における「進化は系統的に展開する系統進化論。

この様な時代の画期となる思想が出揃う前後には、人類の経済活動のグローバル化に伴う史上初の「世界恐慌1号」も起こっていたのです。

1857年恐慌(Panic of 1857) - Wikipedia

19世紀半ばアメリカ合衆国で国際経済の退潮と国内経済が急拡大した事から生じた金融危機。ニューヨークの銀行が大いに必要としていた金を積んでいた蒸気船SSセントラル・アメリがハリケーンのために沈んだ事が引き金となったになった。

史上初の「世界恐慌1号」とされる。事業の国際展開と大規模化の進行、それまでの数年間景気が良かったので、多くの銀行、商人、農夫がリスクを負って投資を行う機会を掴んでいた事が重なり、市場価格下落がたちまちそれに繋がった。

 1857年9月に始まり1859年までにほぼ鎮静化したが、米国は景気回復の見込みが立たないまま南北戦争(1861年~1865年)に突入。終戦後になってもまだ影響が残っていたという。

サルデーニャ島への鉄道敷設サルデーニャ島の社会基盤の開発は遅れていたが、19世紀初期カルロ・フェリーチェによる統治のもと、南のカリャリから北のサッサリに至る島の大動脈が建設される。そして1861年サルデーニャ王国がイタリア統一を果たして国名を「イタリア王国」と改め、1883年にはカリャリからサッサリまでの鉄道が開通した。

ヒジャーズ鉄道(Hejaz railway) - Wikipedia

オスマン帝国によって建設された、シリアのダマスカスから現在のサウジアラビア聖地マディーナメディナ)までの区間を、シリア、ヨルダン、およびアラビア半島西部のヒジャーズ地方を縦断して連絡した鉄道である。総延長は1,308km、軌間は1,050mmで、オスマン帝国の鉄道網の一部をなしており、当初の計画では聖地マッカメッカ)を終着駅にしていた。

その敷設目的は、ムスリムたちの聖地であるマッカやマディーナへ向かうハッジ(大巡)の巡礼者たちの交通のためであるとされたが、真の目的は、オスマン帝国の宗教に対する支配やヒジャーズ地方に対する軍事支配を強め、またダマスカスとヒジャーズ地方との交易を強化するためであったとも考えられる。実際、当初から沿線に電信線が敷設されていた。

鉄道は1900年に建設開始され、1908年に完成し多くの巡礼者や兵士を南へ運んだが、第一次世界大戦(1914年~1918年)時にイギリスの支援を受けたアラブ勢力に破壊され、路線のほとんどは以後再建されることはなかった。

映画「アラビアのロレンスLawrence of Arabia、1962年)」は、こうした状況を背景にしている。

①トーマス・エドワード・ロレンスが所属するイギリスのカイロ領事は「預言者ムハマンドの末裔ハーシム家を支援していた。

②一方、ジョン・フィルビーの所属したイギリスのインド総督府ワッハーブ派サウード家を支援していた。

アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードはイギリスとの戦力差をわきまえ反抗する事はなく1920年にイギリス支援を背景に中部アラビアのリヤド周辺一帯のナジュド支配下に置く。そしてハーシム家フサインがカリフを称してイスラム教指導者層の反発を招いた隙を突いてロレンスが建国に助力したヒジャーズ王国領土を手中に収め、その後ワッハーブ派サウード家によるナジュド及びヒジャーズ王国 (1926年〜1932年)を経て、メッカと「ヒジュラ聖遷が生んだ光の街メディナという二大観光拠点を押さえたサウジアラビア (サウード家によるアラビアの王国」の意味)が1932年に成立する事になったのだった。

④一方、ハーシム家は十字軍国家再来ともいうべきアレッポと、当時ですら手中に収められなかったダマスカス獲得に燃えるフランスにシリアから追い出されつつ、英国後援下イラク国王ヨルダン国王の座を獲得する。

その一方で、かろうじて19世紀の間の欧州においてはダラダラと景気の乱高下が続くのですが、次第に「正統派(Orthodox)」の「資本主義経済はやがて必然的に崩壊し、革命が勃発する」なるが御題目がもっともらしい輝きを失っていきます。
オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンにおける財政破綻を発端とする世界恐慌

*欧州において(産業革命導入による大量生産・大量消費スタイル浸透によって消費の主体が伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層から新興ブルジョワ階層や庶民に推移した結果としての)新大陸からの安価な農畜産物輸出輸入への対応が完了した事による新大陸側の不況突入。

 当然、その影響を受けてイデオロギー論の展開も…

カール・マルクスの死後間もなく、マルクス派の経済学が、マルクスの仲間や共著者の内輪を指導者として登場した。特にフリードリッヒ・エンゲルスカール・カウツキーが大きい。どちらもドイツ人だった。でも、マルクス学派はやがて内部からの修正主義論争に揺らぐ――エデュアルド・ベルンシュタインが、マルクスの古い唯物論的な解釈に対して、人間主義的な挑戦をつきつけたのだった。具体的には、ベルンシュタイン1899年) は資本主義の経済的な崩壊が「不可避」だというマルクスの考え方を疑問視した。そして、もし社会主義が実現するなら、それは意識的な選択として、政治や教育システムを通じて導くべきもので「必然的」な革命の用意をするだけじゃダメだ、と論じた。似たような立場を取ったのは、イギリスのシドニー・ウェッブフェビアン社会主義者たち と、フランスのジャン・ジョレス (Jean Jaurès) だった。

ベルンシュタインの政治的メッセージは、危機と崩壊の理論をめぐって初期マルクス派を揺るがした経済論争につながった。『資本論』第2巻で、カール・マルクスは安定成長の必要条件はあまりに数が多すぎて、資本主義はとても崩壊を避けられないと示唆している。ベルンシュタインの後を受けて、ミハイル・トゥガン=バラノフスキー (1905) はこれに反論して、資本主義は安定成長を実現できるし、だから資本主義の崩壊は必然ではないと論じた。さらに現実的な経験は、資本主義は 1900年代初期にはどう見ても改善に向かっているとしか見えなかった。

正統マルクス学派の大物たちみんな――カール・カウツキーローザ・ルクセンブルグゲオルギー・プレハーノフ等々――がベルンシュタインと修正主義者たち打倒に立ち上がった。でも正統派の応答はバラバラで、それ自体がさらに議論を引き起こした。たとえばカール・カウツキーはまず、マルクスの著作には資本主義崩壊の理論なんかそもそもない、と主張し、それから1902年になって「危機的な不況」の理論があると認めた――ドーンと一発で崩壊するんじゃなくて、繰り返し起こる危機がだんだん深刻になっていくのだ、と強調しているんだというわけ。この理論はまた、ルイス・ボーディン (Louis Boudin) も述べている。

これを追う形で変なひねりを加えたのがローザ・ルクセンブルグ (1913年) だった。要するに彼女は「剰余の蓄積」が何を実現するのかはっきりしていない、と論じた。特に、拡大した生産力によって生産された財を買ってその剰余を実現する人がいない場合には。「財の需要はどこにある?」と彼女は何度も繰り返し尋ねる。マルクス体系の批判の中で、彼女は閉鎖系においては危機は不可避だけれど、開放系つまり外部に消費が存在する系)では、非資本主義諸国で新しい購買者を獲得することにより、危機は避けられる。帝国主義とは、資本主義国家がまさにそうした消費者を獲得しようとする競争なのだ、と彼女は論じた。

修正主義論争は、ウィーンの法律家と学者の一団を活気づけた。これが有名なオーストリアマルクス派――マックス・アドラーオットー・バウアールフォルト・ヒルファーディングカール・レナーだ。ドイツ勢に対して、オーストリア人たちは革命戦略の問題にはあまり関心を見せず、むしろマルクス主義の理論分析に専念した。おかげでかれらは修正主義もどきの態度を採用するようになる。

オーストリアマルクス派たちは、特に科学の新カント哲学と、当時登場しつつあってウィーンで大流行の positivist 哲学に大きく影響を受けていた。オーストリアマルクス派の見方では、マルクス体系は社会的探求のための体系、というかもっと一般的な社会理論の中に埋め込まれている経済理論で、その一般社会理論それ自体の中心が、経済関係にあるのだった。

そもそも「資本主義社会は間もなく自らの複雑化に耐え切れなくなって自壊する」はマルクスの死後刊行された「資本論第2巻1885年)」に掲載されていた予言で、本当はマルクスの言葉ではなかったなんて話まであります。

  • 追い詰められた「正統派(Orthodox)」は(選挙に勝てない少数派である事をカバーする為)この言葉に準拠して次第に民主集中制共産党独裁)や産業集中制計画経済)へと傾いていく。そしてその過程でマルクスフォイエルバッハから継承した人間疎外論や人間解放論を忘れ去っていく。こうして共産主義は急速に「(縁日で的屋が売ってる)タコが入ってないタコ焼き」へと変貌して行った側面も。

  • またこの発言が大不況時代1873年〜1896年)に該当する事も考え合わせると20世紀末日本における五島勉ノストラダムスの大予言1973年〜1996年)」の様に世紀末不安を煽った可能性も浮上してくる。だとすれば「予言が外れた」失望感が、かえって修正主義(Revisionism)や社会民主主義(Social democracy)へのシフトを加速した可能性も視野に入れておくべきとも。

そして「正統派」にとっての次の戦場となったのが「帝国主義」だったのでした。「オリエント史」なんて全然拾えないまま…

  • 南アフリカに取材したホブスン帝国主義Imperialism: A Study、1902年)」は「私益増大の為に国を動かしたい植民地の経営者や官僚と、内政の不備を隠す為に海外戦争に国民の目を向けさせたがってる国内政治家の公私混同に満ちた利害の一致」こそがボーア戦争Boer War、Anglo Boer War、1899年〜1902年)を泥沼化させ、余力を失ったい英国はその隙を突いたロシア帝国のアジア方面における南下に対抗すべく日英同盟Anglo-Japanese Alliance、1902年〜1923年)締結を余儀なくさせた戦犯と分析する。
    大日本帝国臣民末裔としては、もうサービス従事業者に徹底して「任された責務は全てちゃんと果たした筈ですが、何か?」とでも言い返すしかない。

    ちなみに(セシル・ローズ)アフリカや南米やロシアや中東で植民地商人が競って奪い合ったのは、主に原住民の財布や労働力というより現地に埋蔵されている地下資源。また現地に派遣されるのも独占資本の手先などではなく本国で冷や飯を食ってる没落層ほとんどが野垂れ死に、ごく一部だけが成功を納めて凱旋する口減らしシステム)なのが本当に残酷な大英帝国なんですわ…

  • これに対し、上掲書を底本の一つとするウラジーミル・レーニン帝国主義Империализм, как высшая стадия капитализма (популярный очерк)=資本主義の最高の段階としての帝国主義(平易な概説), 執筆1916年, 初版刊行1917年)の内容は極めて政治的である。というか、とにかく参照されてるデータとそれに基づく主張の関係が恣意的過ぎて全く自明ではない記述が延々と続く。どうしてこうなった?

    第一次世界大戦(1914年~1918年)が勃発すると、ドイツ社会民主党の指導者にして当時マルクス主義理論の泰斗といわれていたカール・カウツキーKarl Johann Kautsky, 1854年~1938年)ら戦争支持派がそれぞれの祖国を支持する「祖国擁護」論に走って第二インターナショナルが事実上崩壊。

    主流派が戦争を支持し(城内平和)世界を驚かせた。ソビエト連邦社会主義指導者ウラジーミル・レーニンはドイツ社民党の戦争支持を「裏切り」とまで呼んで批判している。国内においても彼らを「売国奴」と呼ぶ声が左派中心に存在した。
    マルクスエンゲルス社民党党首ベーベルも「ロシア帝国ツァーリズムこそがヨーロッパ社会主義運動の最大の敵」と定義しており、ことにエンゲルスは「もしフランス共和国ツァーリの支配するロシア帝国と組むのであれば遺憾ながらドイツ社会主義者はフランスと戦うしかないだろう」とまで述べていた。これらを考えればドイツ社会主義者の主流であるドイツ社民党が戦争を支持したことはさほど不思議なことではなかったといえる。

    もちろん戦争目的において社民党は他の保守・右翼政党の主張とは異にした。保守・右翼政党は占領地をドイツ帝国に併合することによって達成される「勝利の平和」が戦争目的であると主張したのに対して、社民党はこれに反対して敵国との和解による「和解の平和」が戦争目的であると主張したのである。

    しかし戦況が泥沼化するとともに「勝利の平和」論は疑問視せざるを得なくなり「和解の平和」論が有利になっていく。中道政党である中央党(社民党に次ぐ第二党)のマティアス・エルツベルガーも「勝利の平和」から「和解の平和」に転じた。そしてエルツベルガーの主導下、1917年社民党と中央党と進歩人民党の三党(社民党と中央党の二党で帝国議会過半数を超える)は共同して「平和決議」を帝国議会で採択させる展開となった。

    1918年7月には連合軍の大反撃が行われ、ドイツ国防軍が後退を開始。一挙に戦線が崩壊することはなかったが、これ以上戦争を継続すればそれも時間の問題となる。そして参戦と同時に連合国の中心となったアメリカ合衆国は、休戦に応じる条件として「世界平和を攪乱させる政府の除去」を主張し、暗にドイツ帝国の解体を求めてきた。パウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長エーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長ら軍の最高司令部はこれ以上の戦争継続は不可能と判断して、まだ戦争継続可能と主張する皇帝ヴィルヘルム2世を説得のうえ、帝国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリングに休戦の準備のために政府の大改革を求めたが、保守主義者のヘルトリングはそのようなことはとても応じられぬとして総辞職した。

    1918年10月3日由主義者としてアメリカはじめ連合国から評価が高かったマクシミリアン・フォン・バーデンが帝国宰相に任じられる。社民党と中央党と進歩人民党がマクシミリアンを支持して与党を構成した。マクシミリアン自体は政党人ではなかったが、閣僚はこの三党の者から構成されていたので、ドイツ帝国の最初で最後の政党内閣となった。マクシミリアン社民党アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするために10月27日ヴィルヘルム2世を説得して憲法を改正させて、内閣はライヒ議会に責任を負うという議院内閣制を確立。

    ②戦争支持派がさらに奢り昂って祖国を擁護し「帝国主義は列強がとる政策の一つに過ぎず、必ずしも不可避ではない」などと寝言を言い出したので「自由競争は必ず、生産手段の集積を経て独占資本に至る」「独占資本は必ず直接搾取から金融詐術や利得独占への変遷を経て帝国主義戦争へと突入する」なるイデオロギー的原理原則を再確認。また必然的にわいてくる「何故、労働運動や社会主義運動の中から戦争支持派が現れるか」なる疑問について「超過利潤による労働貴族の培養」なる思考上の枠組を用意する。
    *まぁソ連中華人民共和国も普通に帝国主義戦争に参入してきたし、反省する気はまだない?

    レーニン率いるボルシェヴィキロシア社会民主労働党)とロシア労働者階級は第1次世界大戦渦中の1917年ロシア帝国主義を打倒し、労働者政府を樹立して戦争を終わらせました。これがロシア革命です。革命の原動力は、戦争への怒りでした。
     
    第1次大戦では、各国政府が「自衛」を掲げて参戦を正当化しましたが、レーニンのみが「1914年~1018年の戦争が、どちらの側から見ても帝国主義戦争すなわち、侵略的、略奪的、強盗的な戦争であり、世界の分けどりのための、植民地や金融資本の『勢力範囲』等々の分割と再分割とのための戦争であった」帝国主義論』フランス語版およびドイツ語版への序言)と本質を見抜いていました。逆に、レーニン以外のすべての「社会主義」潮流は、開戦と同時に社会排外主義(言葉では社会主義、行動では排外主義)に転落し、戦争に協力しました。
     
    帝国主義戦争に内乱国内戦)を対置し、自国政府を打倒することにのみ展望がある——レーニンは、このことを実践で示したのです。

    現在、中東やウクライナで戦争が始まり、東アジアでも新たな戦争の危機が切迫している。戦争当事国アメリカ、ロシア、EU諸国、日本など)の政府は、いずれも「自衛のため」「国民の生命・財産を守るため」「テロとの闘い」等々の言葉で自らの戦争行為を正当化し、その真の目的を押し隠そうとしている。 だがこの戦争は、実際には、これらの帝国主義諸国と大国が全世界の市場・資源・領土・勢力圏を互いに分捕りあい、他民族を暴力的に征服しようとする侵略的、略奪的な強盗同士の戦争であり、列強を牛耳る1%の資本家階級の利益と延命のために、その他の99%の労働者人民を互いに殺し合わせる戦争である。

    資本家階級とその政府は、労働者人民の間に国家主義・排外主義と民族的憎悪をあおり立て、彼らを戦争に動員することで、その団結と国際連帯を破壊し、自らの支配を維持しようと狙う。その行き着く先は、第1次、第2次大戦に続く3度目の帝国主義世界戦争である。

    だが、戦争は労働者階級の全面協力なくしては遂行できない。労働者階級が戦争協力を断固拒否し、他国の人民と連帯して自国政府帝国主義打倒の闘いに立ち上がること――すなわちプロレタリア革命こそが、戦争を阻止し、この世界から一切の戦争をなくす唯一の道である。

    自由競争段階にあった資本主義においては必然的に生産の集積がおこり、独占体が生まれる。同時に資金の融通や両替など「ひかえめな仲介者」であった銀行は自らも独占体となり、資金融通などや簿記を通じて産業を支配するようになる。銀行独占体産業独占体が融合・癒着した金融資本が成立すると金融資本は経済だけでなく政治や社会の隅々を支配する金融寡頭制を敷く。巨大な生産力を獲得した独占体に対し、国内大衆は貧困な状態に置かれたままになり「過剰な資本」が国外へと輸出される。この資本輸出先を巡り資本家団体の間での世界の分割が行われる。やがてこれは世界の隅々を列強が分割し尽くすことになり、世界に無主地はなくなる。資本主義の発展は各国ごとに不均等であり、新興の独占資本主義国が旧来の独占資本主義国の利権を打ち破るために再分割の闘争を行う。したがって、再分割をめぐる帝国主義戦争は必然である。

    ゆえに、帝国主義戦争を不可避でないとする潮流は誤りだ。そして自国の帝国主義戦争を支持しようとさせる労働運動・社会主義運動の潮流は、資本輸出によってもたらされた超過利潤によって買収された労働貴族が担っており、労働者階級の利益を裏切っている。

    帝国主義に発展した資本主義の基礎は独占であり、この段階では生産の社会化は極限まで達しており、資本主義は実体的な富の生産による搾取という本来的な経済のあり方を失い、金融詐術や独占の利得によって利潤をあげる寄生し腐朽した資本主義になり、次の社会主義にとって代わられざるをえない。 
    *だから、まずは世界平和とプロレタリア革命実現の為に、労働貴族を皆殺しにせよという話になるのかな?

そしてこの次に来るのが石原莞爾世界最終戦争論(The Theory of World War Final, 1940年)」 …そりゃもう、戦争不可避?

一方「オリエント史」との擦り合わせは主にソ連とトルコの経済戦争という形で表面化してくる事に。