「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「異文化交流の十字路」としてのアルメニア史

東ローマ帝国エルサレムを結ぶ沿岸経路にあった国。当然その歴史は複雑怪奇。

大アルメニア王国 - Wikipedia

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紀元前190年~紀元前66年に独立状態、428年までローマとペルシアへの従属状態にあった国家。1世紀キリスト教の布教が行われ、301年キリスト教を国教とした。

それ以前に、ヒッタイト滅亡後にまず現れたのが、アッシリアの衰退の隙を突いて大きくなったこの国。

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ウラルトゥ(Urarutu/Biainili, 紀元前9世紀頃~紀元前585年頃)

ヒッタイト滅亡後、アナトリア半島に割拠した王国。その版図は、現在のトルコ東部のヴァン湖周辺を中心に、メソポタミア北部からコーカサス南部にわたった。

その呼称

ウラルトゥ」という呼称は、同時期に覇を競ったアッシリア人たちが呼んだ名である。ウラルトゥ語ではビアインリ (Biainli)と呼ばれ、これは「ヴァン (Van)」の語源となった。また「ウラルトゥ」の名はアララト山 (Ararat) とも関係づけられる。そして「ハルディ」と呼ばれる神を信仰していたことからハルディア (Haldia)とも称された。

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紀元前743年頃ウラルトゥ王国の最大版図(黄色)。緑色はアッシリア帝国の版図

言語系統

ウラルトゥ語はフルリ・ウラルトゥ語族に分類される膠着語である。フルリ人が築いたミタンニ王国紀元前1500年頃~紀元前1270年頃)で使用されたフルリ語と近縁関係にある。 

前史

紀元前1250年頃アッシリアの文書は「ウルアトリ (Uruatri)」または「ナイリ (Nairi)」と呼ばれる民族とのゆるやかな同盟関係に言及している。現在知られているウラルトゥについての情報のほとんどは、アッシリアの文書から得られたものである。

  • 紀元前1200年のカタストロフ」に際しては、キリキア地方にあったヒッタイト都市タルソス/タルススTarsos)も「海の民」の襲撃を受けている。後のパウロ の聖地。キリキア・アルメニア王国の首都(1198年~1375年)。

  • 飢饉が蔓延しアラム人が侵攻してくる直前、絶頂期の中アッシリア王朝の王ティグラト・ピレセル1世Tiglath Pileser、在位紀元前1115年 - 紀元前1077年)が遠征の一環としてカッパドキア地方のキリキア人を撃破して征服している。アッシリア王として初めて地中海に到達した。この時代にはまだウラルトゥ王国は存在していなかったのである。

  • 飢饉とアラム人侵攻に苦しめられ始めた初期の王たるアッシュール・ベル・カラAshur bel kala, 在位:紀元前1074年~紀元前1056年)は、即位するとすぐにウラルトゥ地方へ遠征を遂行した勝利を収め多くの戦利品を得た。この時代にはまだまだそれを妨げる現地勢力は存在していなかったのである。

  • また新アッシリア王国の王アッシュールナツィルパル2世Ashurnasirpal II, 在位紀元前883年~紀元前859年)のカルケミシュ遠征に際しても特別な言及はない。この時代にもまだウラルトゥ王国は存在していなかったのである。

黎明期

その民族は紀元前860年~紀元前830年に、王アラマ紀元前858年~紀元前844年)とルティプリ紀元前844年~紀元前834年)の下で黎明期を迎え、王国を形成した。首都は、初期の頃にはアルザシュクンに置かれていた。

  • シャルマネセル3世Shalmaneser III, 在位紀元前858年~紀元前824年)が治世後期よりウラルトゥ王国への遠征を開始するも泥沼化。さらに紀元前835年以降はメディアとも戦ったが、紀元前832年以降息子のアッシュール・ダイン・アピルを軍総司令官に任じて指揮を任せていた所、反乱を誘発してしまいアッシリア王国を弱体化させてしまう。

  • 別の息子でアッシュール・ダイン・アピルの反乱を鎮圧したアッシリアシャムシ・アダド5世Shamshi Adad V, 在位紀元前823年~紀元前811年)はウラルトゥ王国に遠征して領土の一部を回復。続いてメディアを攻撃して貢納を課し、バビロニア遠征によってバビロニアを徹底的に叩く事に成功するも短命に終わり、こうした勝利も全て一時的なものに終わってしまう。

皮肉にもウラルトゥ王国は、こうした「アッシリア側の自打球」に乗じる形で拡大を加速させていったのである。

拡大期

その息子サルドゥリ1世紀元前834~紀元前828年)の下で、紀元前832年頃に現在のヴァンのあたりに遷都しトゥシュパ (Tushpa) と呼ばれた。ウラルトゥ王国はメヌアメヌアシュ,  紀元前820年~紀元前785年)からサルドゥリサルドゥリシュ2世紀元前753年~735年)の時代が最盛期で、最盛期にはアルメニア高原全域を含み、東は現在のタブリーズを越え、南はティグリス川、西はユーフラテス川上流域にまで至った。元来ウラルトゥは鉄鉱山や良馬に恵まれている一方、アッシリアはユーフラテス河上流域を押さえられてしまうと鉄や馬の主要供給源たるアナトリア高原との連絡を断たれてしまうのである。

  • 記録によればシャルマネセル4世Shalmaneser IV, 在位紀元前783年~紀元前773年)が幾度かウラルトゥ遠征を試みているが、さしたる成果はあげてない。

  • アッシュール・ニラリ5世Ashur nirari V, 在位紀元前754年~紀元前745年)に至っては紀元前753年頃アルパドに遠征を行ってアルパド王ティーを服属させる事に成功するも、続けて行われたウラルトゥへの遠征はウラルトゥ王サルドゥリサルドゥリシュ2世紀元前753年~735年)に破られ敗北。以降国内で反乱が相次ぎ、混乱の中で敗死した。
    そうした国内の混乱を鎮めたティグラト・ピレセル3世(Tiglath Pileser III, 紀元前744年~紀元前727年)は、遠征に先立って同盟国アルパドを滅ぼす入念さで大勝を治めるも、国内不安から長期進駐を許されず、やはりその占領政策が中途半端なもので終わってしまう。

衰退期・滅亡

紀元前714年には、ウラルトゥの王ルサ1世 (Rusa, 紀元前735年~紀元前714年) がサルゴン2世率いるアッシリア軍に大敗して王は自殺に追い込まれた。この戦い以降、ウラルトゥ王国はアッシリアと幾度か戦った(ウラルトゥ・アッシリア戦争紀元前714年~紀元前585年)。ウラルトゥ王国は、キンメリア人やアッシリアの攻撃に苦しんだ。

紀元前585年スキタイ人の攻撃によってウラルトゥ王国は滅んだ。アケメネス朝の成立後、この地にアルメニア人が定住した(アルメニア紀元前553年~紀元前331年)。

発掘

紀元後5世紀頃以降一旦は忘れ去られていたが、18世紀~19世紀の発掘によって再発見された。 

ネットにはこんな記録も転がってました。

アルメニア通史

ウラルトゥのアルギュシュティアルギシュティス1世王紀元前785年~753年)は攻勢を強め、アナトリア小アジア東部をもアッシリアから奪い、シリア北部まで勢力を伸ばし、国土を最大とした。父の政策に習って都市建設にも熱心で、アルギシュティヒニリ現在のアルマヴィル)を782年に、新都エレブニアルメニア首都エレヴァン)を造営し、灌漑用城や農地の開拓にも熱心であった様である。彼がウラルトゥ黄金期の王であると言っていいだろう。
 
かかるウラルトゥ王国の強大化はまたしてもアッシリアの懸念を呼び、紀元前8世紀には再び交戦が始まった。

ティグラト・ピレセル三世

弱体化した王権を立て直したのは、ニムルドでクーデターを起こし、アッシュール・ニラリ五世をおそらく殺害して、王位を奪った剛腕のアッシリアティグラト・ピレセルアッカド語トゥクルティ・アパル・エシャラ三世であった。

アダド・ニラリ三世以後の四代の王たちの時代アッシリアは宦官達や将軍シャムシ・イルの専権によって混乱していた。この情勢を打破したティグラト・ピレセル三世は、即位宣言の際に、通例である先代王アッシュール・ニラリ五世への言及がないため簒奪者ではないかと言われているのだが、アッシュール・ニラリ五世の血縁者であった可能性もある。

どちらにせよ彼は優れた将帥であり、直属の常備軍を再編成し、全方面に軍事活動を再開した。彼の直接指導する軍団によって、アッシリアは帝国として強大な勢力復権に成功する。

当時のウラルトゥ王サルドゥリ二世紀元前753年~730年)は、決して無能な軍事指導者ではなくアッシュール・ニラリ五世の送った軍勢を敗る事には成功した。しかし、イランとシリアで勝利を収め意気の上がるティグラト・ピレセル三世の軍勢を防ぐ事は出来なかった。

アッシリア軍はシリアのアルパドといったウラルトゥの同盟国を各個撃破し、アッシリア包囲網を瓦解させ、鉱石などの交易ルートを奪還する事に成功する。

こうした窮状を打開すべく、735年または736年)にシリアの救援に出陣したサルドゥリ二世自身が率いるウラルトゥ軍は、アッシリア軍とユーフラテス河畔で決戦に及んだが大敗を喫し壊走。王自身は戦場から逃げ延びたが、首都トゥシュバは追撃してきたティグラト・ピレセル三世によって包囲され、陥落した。この時にサルドゥリ二世自身も戦死したと考えられている。

アッシリア軍は略奪するだけでなくウラルトゥの領土に入植も試み、永続支配を狙った。だがティグラト・ピレセル三世の政治基盤も盤石ではなく、内政に専念するため積極的な軍事行動は控えるようになっていった。ウラルトゥ側も新王ルサルサス一世王紀元前735年頃~714年)の必死の反撃により、ウラルトゥは自国領土からアッシリア軍を退去させたようである。ルサ一世は、アッシリア側に寝返り始めた地方総督や豪族達を慰撫するため、国内を常に移動して、権威回復に努めた。加えて、北方トランスコーカサス一帯の直接統治のために遠征を行い、王室財政の基盤とすべく開発を推進した。

サルゴン二世

しかし紀元前718年から繰り返し国境付近で挑発行動を起こしていたアッシリアは、紀元前714年、国王サルゴンシャル・キン二世自らが親率する大軍でウラルトゥに進撃してきた。これはルサ一世が遊牧民対策に謀殺されていたためであった。

サルゴン二世は親衛隊を直率してウラルトゥ諸部族連合軍と決戦を行い苦戦の末に決定的な勝利を博して、その軍勢を壊滅させた。背後を衝こうとした迂回機動に失敗したウラルトゥ軍は、逆にこの作戦を察知したサルゴンによって策源地、キャンプを夜間急襲され、戦闘継続能力を喪失したのである。そして退却時の追撃によってウラルトゥ軍は各所で包囲され、大敗を喫した。このサルゴン軍の勝利はアッシリア側の情報収集能力の差であったと考えられている。ルサ一世の行動はサルゴンに筒抜けであった。さらにサルゴン二世はウラルトゥの精神的支柱だった聖都ムサシルも破壊しハルディ神殿を略奪、ウラルトゥ王国の要人、貴族をほとんど全て殺害してしまった。ルサ一世はムサシルに、略奪を恐れて王室財産を避難させていたが、それが仇となり、スパイの報告を受けたサルゴンによって狙われたのである。

ウラルトゥ王ルサ一世は精神的なショックから立ち直れず同年に死去(自殺と言われている)する有様であった。

また同時期715年、702年黒海の北からキンメリア人がウラルトゥに現れて破壊の限りをつくした事も痛手だった。

それでもウラルトゥはアルギシュティアルギステス二世紀元前714年~685年)の元、アナトリアの諸都市やメディアの豪族達(その一人ダイアックは息子フラワルティシュがメディア王国の統一者となることで知られる)と連合することでアッシリアに対抗した。また北方に領土拡大または直轄地の増大を目的とした軍事行動を繰り返した。
 
とはいえ、アッシリアに対する貢納金や農作物の支払いやアッシリア軍の軍事行動の黙認、森林資源、鉱物資源の供出あるいは採掘権の譲渡などが課せられた上での平和であったと言う。つまり、実質は属国的な扱いとなっていた。

だがサルゴン二世は完全な併合までは成し遂げる事が出来なかった。サルゴン二世は王位継承において正統性に欠けていたらしく、国内対策にも忙殺され、外征はやがて下火となっていったからである。 

しかし、これらの侵略によりウラルトゥが滅亡寸前まで追い込まれたことは、取り返しのつかない痛手となり、ナイリの王国は栄光の時代を終え、衰退の時代へと向っていった。

…と言うのがアッシリア側の資料に基ずく歴史の流れである。

 ウラルトゥ王国の最後

しかしサルゴン率いるアッシリアの侵略がどの程度、真実を持って描かれているか疑問を持つ史家も居て、その後もウラルトゥ王国は、それなりに存続していたことを考えると、王国の経済、軍事力を壊滅させたとまではいかなかったようである。

紀元前680年に即位したルサ二世~639年)は首都をトゥシパからティシェバイナカルミル・ブルール遺跡)に遷し、改革を行い国家の建て直しを計ったが、アッシリアアッシュールバニパルアッシュール・バニ・アプリ)に破れ、宗主権を認めることとなった。

ルサ二世の死後には混乱が続き、王位継承順ですら判然としなくなる(従って以下の在位年はあくまで推測である)。

ルサ二世の子であると思われるサルドゥリ三世時代紀元前639~625年)には、スキタイ遊牧民や国内のアルメニア部族も離反し、略奪に現れるようになった。これ以後さしものウラルトゥ部族連合も解体をはじめ衰退していったようである。

その後アルメニア地方一帯はサルドゥリ四世紀元前625年頃~620年頃)、簒奪者の可能性もあるエリメナ王紀元前620年頃~605年頃)が即位した。

加えて王国は紀元前612年頃からイランのメディア王朝の侵出をうけて、実質支配されるようになったと思われる。エリメナの子供ルサ三世紀元前605年~595年)の子ルサ四世在位紀元前595年~585年頃)が、おそらく最後のウラルトゥ王であった。

その治世の時代には、すでにウラルトゥの主な都市は廃墟と化していた様である。

そしてルサ四世の抵抗も虚しく紀元前585年首都ティシェバイナがスキタイ人メディア人またはアルメニア)の侵略によって陥落し、遂に滅亡したのである。

廃墟と化した王国はメディアに合併された。

そして紀元前550年にメディア王国がハカマーニシュアケメネス朝ペルシアに滅ぼされると、そのままペルシャ帝国のサトラップ)の一つとして、その支配下に収まったのである。

こんな情報も。

ウラルトゥの歴史

ウラルトゥには3つの主な神が存在しその中心はハルディHaldiで神殿はアルディニArdiniムサシル)にあった。

ハルディHaldiは戦士の神で王は戦争での勝利のためにこの神に祈った。その神殿は武器によって飾られた。

Ḫaldi - Wikiwand

  • ライオンに上に立つ、有翼あるいは無翼の男として描かれる。
  • 妻はウラルトゥでは一般的に豊穣の女神アルバニArubaniとされるが、ムサシルには女神バグヴァルティBagvartiを妻と言及する資料があるり地域的である。 
  • ある資料ではアルメニア民族の伝説的族長のハイクハルディに由来するとする。

クメヌKumenuクンマンヌ)のテイスパスTheispasは天候の神、特に嵐と雷の神であった。フルリ人の主神テシュブの変形。

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  • 牡牛の上に乗った稲妻の矢を持った男として描かれる。
  • インド神話インドラに対応する。時には戦争の神でもあった。
  • 彼の妻は女神フバHubaであった。

トゥシュパTushpaシヴィニShiviniは太陽神である。アッシリアの太陽神シャマシュに対応する。

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  • 跪いて太陽盤を頭上に掲げる男として描かれる。
  • 彼の妻はトゥシュプエアTushpueaと考えられる。有翼女性像がこの神と考えられる。

その他に月の女神セラルディSelardiがある。

アモリ人の風神ハダド(アダド)や北西セム系のバール(Baal=男主人)/バーラト(Baalat=女主人)」、エジプトの嵐神セトなどと同一視されてきたフルリ人の風神の影響力の絶大さを感じます。

メソポタミア北部からシリア、パレスチナにかけて信仰されていた天候神アダドは、ウガリットではバアルと同一視されていた。アダドはシリアではハダド、カナンではハッドゥと呼ばれ、バアルとハダドはたびたび関連づけられていた。またヒクソスによるエジプト第15王朝・エジプト第16王朝ではエジプト神話にも取り入れられ同じ嵐の神のセトと同一視された。

そして、いよいよ…

アルメニア王国の独立

その前史はアケメネス朝アレクサンドロス帝国セレウコス朝サトラッピ)であった。アルメニアはおもに交易の担い手としてメソポタミア小アジア地中海方面で活躍していたが、セレウコス朝アンティオコス3世在位:紀元前223年~紀元前187年)がマグネシアの戦い紀元前190年~紀元前189年)でローマ軍に敗れると、アルメニアサトラップ太守、総督アルタクシアスザリアドレスがローマ軍の賛同を得て独立を宣言し、それぞれアルメニア王国ソフィーネ王国を建国する。

  • 紀元前2世紀までの大アルメニア現在のカラバフを含む)ではアルメニア語が話されており、現在のアルメニア人はその直接の言語学的な子孫であると考えてよい。

  • アルメニア王国はその創立者アルタクシアス1世在位:紀元前189年~紀元前159年)に因んでアルタクシアス朝と呼ばれる。アルタクシアス朝紀元前189年~66年)はかつてのウラルトゥ帝国の版図を中心に約2世紀間その支配を確立。

  • アルタクシアス1世の在位中、アルメニア公用語としての地位を確立するが、諸々の記録にアルメニア文字が使われるようになるには、紀元後3世紀~5世紀の人と思われる聖メスローブすなわちメスローブ・マシュトツの出現を待たねばならない。したがってアルメニア文字によるアルタクシアス朝の当時の記録は存在しない。

アルタクシアス1世の在位中、東と西に分裂していたアルメニアの統一が紀元前165年に提案されたが、彼の生存中に果たすことができなかった。

 繁栄

アルタクシアス朝を継いだ者の中でアルメニア史において〝帝王”の名を冠して呼ばれるのはティグラネス2世ティグラネス大王と呼ばれる)ただ一人である。

  • ティグラネス2世在位:紀元前95年~54年)はアルメニア人の間では〝王の中の王”として伝説的な存在にすらなっている。ティグラネス2世の統治のもと、アルメニアの東と西が統一され、アルメニア王国は古代史上における最盛期を迎えた。
  • パルティアから広大な領土を得ただけでなく、大アルメニア帝国の確立を目指して各地を転戦し、その遠征先は遠くパレスチナプトレマイオスにまで達したといわれる。
  • さらに領土を拡大し、イベリアアトロパネテアルバニアをはじめとするコーカサスの諸地域も紀元前83年までに帰属させた。これらの征服地はシリアと南方の一部を放棄させられた以外、ほぼ500年間アルメニアアルタクシアス朝によって統治される。

しかしその晩年にはセレウコス朝とも婚姻関係を持っていた義父のポントス王ミトラダテス6世ローマ帝国との紛争に巻き込まれ、シリアをはじめとする一部の領土を放棄してローマ帝国の同盟国となることでその独立を承認された。

ローマとパルティアの支配

ローマ皇帝ネロの治世下、ローマは同盟を結んだアルメニアに侵略してきたパルティアと55年~63年に渡って戦った。

60年アルメニア奪還と62年の喪失の後、ローマはパンノニアから第十五アポロンのシリア総督コルブロを派遣する。コルブロ第十五アポロンの他、第三ガリア軍第五マケドニア第十フレテンシス軍第二十二軍を率いて63年アルメニアの王位をティリダテス1世に復位させたヴォロガセス1世の領域に入った。

これ以来、パルティアが望む人物を王に就け、戴冠はローマ皇帝及びその代理が行うという両属体制が出来た。名目上はローマ帝国の属国で、実質はパルティアの属国という折衷案である。

114年第5次パルティア戦争を有利に運んだトラヤヌスは、一時的にアルメニアを属州化した。しかし、新たに属州化したメソポタミア地域の維持に耐えかねたローマ帝国は、118年にこれらの属州を放棄。その後、再びアルメニア王国の支配に戻った。

ヴォロガセス4世アルメニアに侵略し、旗下の将軍を王位に就けたことによって162年~165年ルキウス・ウェルス帝の戦役が引き起こされた。パルティアの脅威に対し、ウェルスは東へ出発した。彼の軍は大勝を治め、首都を取り返した。ローマ市民権を持ち、アルメニアの相続権利を持つソハエムスが傀儡王として即位した。

アルメニア王国の衰退

ーサーン朝ペルシア252年アルメニアを占領し、ローマ287年に取り戻すまで保持した。384年には王国は東ローマペルシアの間で分裂。

  • 西アルメニアは即座にアルメニアという名でローマの属州となった。
  • アルメニア428年までペルシアの内部でそのまま王国として残った。
  • その後地方貴族が王制を廃止、サーサーン朝が行政官を送り込んだ。

アルメニア301年キリスト教後のアルメニア教会)を国教としたが、これは世界初であった。アルメニア人の間にはキリスト教は浸透しており、ローマ側においても、ペルシア側に併合された地域でもキリスト教の信仰は衰えることはなかった。

キリキア・アルメニア王国(アルメニア語Կիլիկիայի Հայկական Թագավորություն kilikiayi haykakan thagavoruthyun、1080年/1198年~1375年) - Wikipedia

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現在のトルコ南岸部のキリキア地方においてアルメニアにより建国された王国。単にキリキア王国、もしくはキリキアのアルメニア王国という言い方もされる。

かつてカフカス地方に存在したアルメニア王国アルメニア王国)と区別してアルメニア王国と呼ぶこともあるが、単に「アルメニア」と呼ぶ場合は、時に、古代の大アルメニア王国ローマ帝国によって部分的に間接統治されたときの地域・アルメニア属州のことを指すこともある。

建国

建国年については、第一王朝ルーベン王朝)の創始年である1080年をして建国年とみなす説と、ローマ教皇らに王冠を授けられて独立国と認められた1198年からとみなす説があり、文献によってまちまちである(本項では、あくまで章の分割の容易さなどから、前説を採ることにする)。

  • 1198年に当時のキリキア侯レヴォン2世が王として認められるまでは、代々の君主は (prince) であり、国も王国ではなく侯国であったことに注意を要する。

建国当時は隣にアンティオキア公国などの十字軍国家があり、それらの国々や西欧諸国と密接に関わっていた国である。

離散アルメニア人の集結

紀元前後よりローマとペルシャの両者により間接的な支配を受け続けていたカフカスアルメニア地方は7世紀ムスリムの侵略を受け、一部のアルメニア人はペルシャ東ローマ帝国などの外部へ移住した。

  • 一旦アルメニアはかつての勢力を挽回したが、11世紀になると国力を回復した東ローマ帝国により侵略される。

  • さらに11世紀中旬には、東方において勢力の膨張しているセルジューク・トルコにより侵略される。この一連の侵略により、カフカスを離れ移住していくアルメニア人は増え、彼らはペルシャコンスタンティノープルバルカン半島などにも移住したが、多くはキリキアや、その東部のシリア北部現在のトルコ南東部とシリアとの国境あたり、つまりエデッサのあるあたり)、カッパドキア小アジアなどに移住していった。

  • 一方キリキアは、10世紀前半まではアラブ系の支配領域だったが、当時ここの支配者だったアラブ系のハムダーン朝963年東ローマ帝国皇帝ニケフォロス2世との戦闘で敗退し、キリキア東ローマ帝国となる。

  • この時、東ローマ帝国はこの地方を執りまとめる長官にアルメニアを指定した。ところが彼らは世襲化されたため、この地方の長官たちは土地の開発にいそしんで私腹を肥やし、勢力をつけるようになる。もはや彼らにとって東ローマ帝国は、自分たちの権威を裏づけたり利用したりするためだけの存在となり、東ローマの中央政府に対してはうわべだけの忠誠心しか見せていなかった。

当時のキリキア住人は多くがギリシャシリア人アラブ人であったが、全般的に閑散とした地域であったといわれている。ここに続々とアルメニアが移住し、キリキアはまたたく間にアルメニア人優勢の地域となっていく。彼らアルメニア人移民は農民だけでなく、商人や貴族など、さまざまな身分の人々で構成されていた。 

諸侯国の誕生

11世紀後半になると、それまでアルメニアを攻撃していたセルジューク・トルコが進路を変更し、小アジアへ侵攻しようとしていた。マンジケルトの戦い(1071年)で東ローマ帝国は大敗し、東ローマ帝国の勢力が弱くなっていく。そして、キリキアの地にもトルコ軍が進入してくる。

この頃、東ローマ帝国セルジューク朝の侵略に手を焼き、キリキアの統治に目がいかなくなっている間に、キリキアおよび北シリア)の各地では、勢力をつけたアルメニア人有力者によるいくつかの小君主国が誕生する。これらの諸国の統治者は次の2種に分けられる。

小君主のうちの多くは前者であったが、これらの諸国は不安定であった。この地域には侵略者であるトルコ人が進出し軍事的脅威にさらされていたうえ、民衆であるアルメニア人にとってはアルメニア系君主はアルメニアに対する侵略者である東ローマ帝国の役人であり、ギリシャ語しか話せなかったこともあり、全然信頼されていなかったのである。

  • 例えばキリキアの広範囲を領有していた東ローマ帝国アルメニア系地方長官フィラレトゥスは1078年に建国するが、10年も経たないうちに崩壊する。フィラレトスの部下であったアルメニア系の武将たちは各地で独立政権を築くが、やはりトルコ人勢力やアルメニア人民衆との衝突にさらされ、西欧からやってきた十字軍の武力にすがった。
  • 例えばエデッサのソロスはギリシャ正教系の正教会信徒の統治者であったため、非カルケドン派であるアルメニア使徒教会を奉ずるアルメニア人からは敵視されており、第1回十字軍(1096年~1099年)の際にブーローニュのボードゥアンを招き入れて彼を後継者にする儀式を行うものの、その数日後にアルメニア人市民の暴動で殺され、ボードゥアンによるエデッサ伯国建国に利用された。

  • メリテネのガブリエルエデッサ伯国に協力し婚姻関係を結ぶものの、セルジューク系のダニシュメンド朝に攻め滅ぼされた。

これらの小君主国のなかで着々と力をつけてきたのは、キリキア北部、トロス山脈を横切る、通称「キリキアの門」と呼ばれた隘路の東の山中に城砦を築いていたルーベンルーペン)であった。この地で1080年に小国を樹立する。

東ローマの役人ではなく、カフカス出身のアルメニアの貴族であった。東ローマ帝国に侵略されるまでの1世紀間ほどアルメニアで勢力をつけていたバグラトゥニ朝バグラティド朝)の血を受け継いでいたともいわれる。

彼が構えた領域は交通の要衝地であり、守りの堅い地であった。この後ルーベンを始祖とするこの国は徐々に力をつけてキリキア全土を支配する王国となるため、ルーベンの家系はルーベン朝ルベニッド朝)と呼ばれる。

十字軍への協力と領土拡大

マンジケルトの戦いによる敗北以降、じわじわとセルジューク朝小アジアの領土を奪われていった東ローマ帝国は、11世紀末アナトリア半島西岸あたりまで攻め寄られると、東ローマ帝国1095年ローマ教皇を通し、西側諸国に援軍を要請する。

  • 当時の西側諸国では諸侯が各々の農村荘園)を統治する荘園制で成立していたが、ヴァイキング活動沈静化により、戦いに飢えた領主同士の内紛が多かった。

  • そんな中、民衆の間で聖地への巡礼がブームだった西欧では「イスラムエルサレムの巡礼者を虐殺している」というデマが流れたため、旗揚げする口実を見つけた諸侯や騎士、巡礼希望者が集い第1回十字軍(1096年~1099年)となって出陣。

しかしコンスタンティノープルに結集した十字軍はこの地の政府や民衆に冷遇され、これを境に十字軍と東ローマ帝国は対立するようになる。

セルジューク朝をはじめ諸勢力に侵略を受けていたアルメニア人にとって、このような十字軍はまさしく救世主であった。カトリックである彼らとは宗派こそ違っていたが、セルジューク軍に敵う勢力である上、アルメニア人にとって目の敵である東ローマ帝国とも不和状態だった十字軍は、まさに神の遣いと思えただろう。アルメニア人は彼らを味方にすることで自分たちによる統治を磐石なものにしようと考える。

夏の猛暑のさなかで水や食糧の不足に耐えながらアナトリア高原でセルジューク軍を破り、シリアのアンティオキアに向けて東進してきた十字軍は、1097年9月頃タルソス山脈北西にやってくる。ここで大多数の十字軍騎士諸侯は最短路であるが難所でもあるキリキアの門を避けてカッパドキアへ進む。そこでこの地に移住していたアルメニア人は彼らの来訪を熱烈に歓迎し、食糧などの物資を支援した。また十字軍はアルメニア人のいる街を包囲していたセルジューク軍を駆逐したりもしている。

一方、ブーローニュのボードワンタラント公ボエモンの甥タンクレッドは迂回路の提案が東ローマ帝国の道案内役によるものだったために反対し、めいめい独自に軍を率いてキリキアの門を進んでいく。彼らは、タルソスアダナなどのキリキア平野部の街にある城塞などに構えているセルジューク軍を排除し、その後十字軍本体と合流するため東方に去っていく。

東ローマ帝国との争い

この過程を経て、キリキアでの独立の障害になるのはただ1つ、弱体化した東ローマ勢力という状態になる。2代目のコスタンディン1世から5代目レヴォン1世レオ1世)までの間、ルーベン朝は東ローマ勢力などを攻撃して着々と領地を広げ、1132年には海岸を含むキリキアのほぼ全域を手中におさめた。

  • しかし東ローマの皇帝ヨハネス2世コムネノス1136年、帝国の再興を訴えて遠征を行い、その一環としてキリキアを制圧する。これによりキリキア全土が東ローマ帝国に併合され、また、レヴォン1世と2人の息子、妻は捕らえられる。そして息子のうち1人は処刑され、レヴォン1世1140年に獄死した。

生き残った息子トロス1141年にキリキアを脱出、すぐに逆侵攻をかけ、東ローマ軍を撃退する。彼はトロス2世として即位したが、東ローマの勢力には逆らえず、1158年には皇帝マヌエル1世コムネノスに臣従した。ちなみに、このころアルメニア使徒教会は戦乱をさけて本山をキリキアへ移している。トロス2世につづくルーベン2世フレールーベン3世は、みなトロス2世の政策を引きついでいった。

王国の承認

1187年レヴォン1世の孫であったルーベン3世の死後、弟のレヴォン2世玉座を継いだ。彼はコンヤアレッポダマスクスなどの領主たちと戦い、地中海沿岸の地域をつぎつぎに降伏させ、またアンティオキア公国など周辺の十字軍国家とは王族どうしの結婚などで干渉をすすめた。

ちょうどそのころ、エジプトからサラーフッディーンが現れてエルサレム王国を滅ぼし、教皇グレゴリウス8世による第3回十字軍1189年~1192年)の呼びかけが行われていた。レヴォン2世は建国の経緯などから、十字軍との連携が国の命運をきめると考え、フリードリヒ1世など神聖ローマ皇帝の後援をうけて、キリキアを公国から王国へ格上げさせた。

1199年1月6日、彼はタルススの大聖堂で、グリゴール6世総主教によって王冠を、ハインリヒ6世の名において、赤と白で獅子を染めぬいた軍旗と紋章を授けられた。ここにキリキア・アルメニア王国が誕生し、彼はその初代国王レヴォン1世となったのである(本文では人名の重複をさけるため、今後も彼をレヴォン2世とよび、彼以降の王もルーベン朝初代から序数を割りふることとする)。レヴォン2世は後に「大王」と呼ばれることになるが、急速に拡大したキリキア・アルメニア王国政経軍事をひとつにまとめ、あたらしい統一王国を作りあげたのは彼なのだから、ふさわしい呼び名といえる。

レヴォン2世の死後、ルーベン3世の孫ルーベン=ライムンドキリキアの傀儡としてアンティオキア公になったが放逐されたレーモン・ルーペン)による簒奪未遂をへて、レヴォン2世の娘ザベルが女王となった。摂政がたてられたがすぐに暗殺され、アルメニアの大貴族ヘトゥム家のコスタンディン・バベロンが次の摂政とされた。彼はレヴォン2世のいとこでもあり、統一キリキア王国の敵は野心で動いているキリスト教国家ではなく、伸張いちじるしいイスラム国家だと考えていた。コスタンディンセルジューク朝の干渉に対抗するため、アンティオキア公ボエモン4世との同盟(具体的には彼の息子フィリップとザベルの婚約)をうちだしたが、アルメニアの民俗になじめないフィリップはアルメニア教会に従わなかった。1224年フィリップは投獄され、2年後に病死した(毒殺説もある)。ザベルはセレウキアで修道女になったが、フィリップの死後に還俗させられ、コスタンディンの息子ヘトゥムと再婚した。のちのヘトゥム1世であり、彼の家系をヘトゥム朝ヘスミッド朝)という。

モンゴルとマムルーク

ゼベルヘトゥム1世の共同統治と時期を同じくして、モンゴル帝国が勢力をのばし、中東からエジプトにまで到達していた。

  • 1243年キョセ・ダーでセルジューク朝に圧勝したモンゴル軍は、そのまま進軍してアルメニア王国を荒廃させたが、彼らはキリキアには何もしなかった。ヘトゥム1世は、先んじてモンゴルと同盟を結んでいたのである。

  • 1247年モンゴルの首都カラコルムに赴いた王弟スンバトは、キリキアの独立保障と、さらにセルジューク朝からのキリキア領奪還を約束された。1253年にはヘトゥム1世がみずからカラコルムへ“お参り”しモンケ・ハーンからキリキアの免税とアルメニア教会の自由を得た。さらにキリキア軍はフレグの下で戦い、モンゴルの地中海征服に貢献した。アレッポで起きたムスリム虐殺には、キリキア軍が関与しているとされる。

このころアイユーブ朝が倒れ、マムルーク朝がエジプトやパレスチナの支配権をにぎった。キリキア軍はカッパドキアメソポタミアの交易路を寸断するかたちで土地を支配していたため、マムルークたちの標的となった。

  • 1266年マムルーク朝のスルターン・バイバルスがキリキアに降伏勧告を送るが、ヘトゥム1世はこれを拒否し、すぐにイルハン朝へ救援をもとめて旅立つ。
  • だが、その間にマムルーク軍はキリキアを攻略し、カラーウーンひきいる騎馬軍団によってヘトゥムの2人の息子のうち1人は戦死、もう1人は捕虜となった。
  • ヘトゥム1世は莫大な身代金を支払って息子を買いもどし、さらに多くの要塞をマムルーク朝にあけわたした。

ヘトゥム1世1269年に退位し、買いもどされた息子レヴォレヴォン3世となった。臣従したにもかかわらず、マムルーク朝はキリキアへの攻撃を続けていた。

  • 1275年の侵攻では首都タルススの王宮と大聖堂が焼け落ち、無抵抗のアルメニア15000人が虐殺され、10000人がエジプトに連行された。アヤスという町は、住民のほとんどが死亡した。
  • 1281年ホムスでモンゴル軍がマムルーク軍に大敗すると、マムルーク朝は一方的な休戦をもとめた。さらに1285年には、スルターンとなったカラーウーンによって、厳しい休戦協定が課せられた。キリキアはまたも多くの要塞を割譲し、しかも新たに防衛施設を築いてはならず、ローマ教会の経済封鎖を破るエジプトとの貿易を強制され、さらに毎年100万ディナールの賠償金までおしつけられたのである。そして協定を結んでおきながら、当のマムルーク軍は事あるごとにキリキアでの略奪をくりかえしていた。
  • 1292年の侵攻ではアルメニア教会総本山が動座。幾つもの都市が放棄された。

1293年レヴォン3世の後を継いでいた息子のヘトゥム2世王弟トロス3世に譲位し、修道士となった。とはいえ、このあとも彼は健在で、修道院内からマムルーク朝アーディル・キトブガーを相手に、連行された人々を解放するよう交渉している。

宮廷内部でも混乱がつづき、目まぐるしく王が交替するなか、1299年に復位したヘトゥム2世イルハン朝ガザン・ハンに支援をもとめ、イルハン=キリキア連合軍マムルークシリアで対決した。

ヘトゥム2世は甥のレヴォン4世に譲位するが、1307年揃って、キリキア内に駐屯するイルハン朝の将軍ビラルグーに面会している。すでにイルハンイスラム王朝に変わりつつあり、ビラルグーアルメニア人を虐殺したひとりだった。

ヘトゥム2世王弟オシンはこれに激昂し、軍勢を率いてイルハン軍をキリキアから叩き出してしまう。タルススに凱旋したオシンは、ヘトゥムレヴォを押しのけて戴冠した。

ヘトゥム朝はオシンの次代レヴォン5世まで続く。彼はリュジニャン朝キプロスと同盟を結んだが、結局マムルーク朝の襲撃を止めることはできず、怒り狂った群集によって殺されてしまった。

滅亡

レヴォン5世の跡継ぎとして、彼の従兄弟に当たるキプロス王子ギー・ド・リュジニャンが指名され、1342年コスタンディン4世として戴冠した。ルジニャン王朝の始まり、そしてキリキア・アルメニア王国の終わりの始まりである。

  • 本名からもわかるように、コスタンディン4世はフランス出身の十字軍騎士ギー・ド・リュジニャンの子孫であり、自分たちの慣れ親しんだカトリックの信仰や西ヨーロッパの常識をキリキアに持ちこもうとした。貴族たちは大歓迎だったが変化をきらう農民たちは拒絶反応をしめし、紛争が頻発する。
  • 1343年にはその隙をついてマムルーク朝が侵攻を再開し、ルジニアン朝の王達はヨーロッパの同胞に助けを求めるも応えるものはなく、無為に年月だけが経過する。
  • 1374年~1375年に主要都市すべてが陥落した際、コスタンディン4世の甥でアルメニア王となっていたレヴォン6世と王女夫婦が捕虜となり、キリキア・アルメニア王国は滅びた。その後安全を確保されて出国し1393年パリで没する。

その後、キリキア・アルメニア王の称号は彼のいとこのキプロスジャック1世が受けつぎ、代々のキプロス王がアルメニア王を称することになった。キプロス王国がヴェネツィア共和国に併合された時、この称号はサヴォイア公カルロに引きわたされ、以後サヴォイア家が保持している。

その後

キリキアを奪取したマムルーク朝だが、けっきょく統治するまでには至らなかった。テュルク系の遊牧民族、さらにはティムールがキリキアを征服したのである。

  • この時、裕福なアルメニア人はほとんど逃亡し、キプロスで再出発をはかった。
  • キプロス王国がなくなってからはフランスイタリアオランダポーランドスペインなど、ヨーロッパ各地に旅立っている。

キリキアは15世紀に入ってオスマン帝国支配下に入り、アダナ州と名づけられた。

現在キリキアはトルコ共和国領であり、キリキア・アルメニア教会はレバノン遷座している。キリキア・アルメニア王国の国旗であった「赤白の獅子」はアルメニアの国章に取り入れられ、その歴史を語っている。

経済

地中海東岸という立地もあり、キリキア・アルメニア王国は年々豊かになっていった。地中海、中央アジアペルシャ湾を結ぶ多くの貿易ルートの合流点に位置していたためである。キリキアは家畜皮革羊毛綿花などを輸入していたが、とりわけ香辛料貿易を重視し、木材穀物避け果物生糸などを輸出していた。

  • レヴォン王の時代、キリキアの経済は飛躍的に発展し、同時に西ヨーロッパの経済と堅く結びついた。彼はピサ、ジェノヴァ、フランス、カタロニアなどと協定を結び、貿易の際に税を減免するなどの特権を与えて通商の安定をはかった。アヤス、タルスス、アダナ、マミストラなどは重要な外港となり、ヨーロッパ人商人の町ができ、独自の生活習慣、礼拝、裁判、土地売買が行われていた。

  • キリキア貴族が第二言語としてフランス語を学んでいたころ、キリキアでの商用共通語はイタリア語になっていた。イタリア半島の海洋都市国家群が、キリキアの通商に大きく食いこんでいたのである。アヤスなどは東西貿易の結節点になったことで“生き返った町”ともされた。アジアとヨーロッパからそれぞれ貴重品が集まるこの街には、たとえばマルコ・ポーロ1271年に寄港している。

13世紀末トロス3世の時代にキリキアは独自通貨を発行し始めた。発行された金貨と銀貨はそれぞれ「ドラム」「タクヴォリン」と単位を決められ、当時キリキアで流通していたイタリアのドゥカートフローリンゼッキーノギリシャベザント、アラブのディルハム、フランスのリーヴルなどと交換された。

文化

キリキア・アルメニア王国は支配階級を輩出するアルメニア以外に、ギリシャユダヤイスラム教徒が多い諸民族やその他のヨーロッパ系民族が多く暮らしていた。しかし、各民族の文化よりも特にフランスとの政治経済的紐帯が、キリキア文化に大きな影響を与えた。

  • キリキア貴族は騎士道精神やファッション、洗礼名にいたるまでフランス式を採用し、社会構造もアルメニアの伝統的なものから中世ヨーロッパの封建制へと変質した。アルメニア人貴族に西欧風爵位が叙され、フランス周辺と同じように馬上槍試合が人気となった。さらにラテン式の発音を表すため、アルメニア文字へ新たに2つの文字が加えられた。

  • こうした変革は反発も呼んだ。貴族でない“普通のアルメニア人はカトリックギリシャ正教の侵入を嫌っていた。

しかしキリキアは西欧文化を受け入れるだけでなく、アルメニア文化を西に発信していたのである。

  • 十字軍が故国に帰ったのち、アルメニア式石造建築技術は西欧諸国に衝撃を与え、ヨーロッパ人たちは競ってアルメニアの築城技術を取りいれ、十字軍国家に住むアルメニア人石工に師事した。アルメニアの城はほとんどの場合、石積みの高さを不規則に造り、聖ヨハネ騎士団が築いたクラック・デ・シュヴァリエマルガット城のように曲線的な城壁と円塔を多く用いていた。

キリキアでは時にすぐれたアルメニア芸術が生みだされ、なかでも13世紀に完成したトロス・ロスリンの装飾写本が有名である。

宗教

国王ヘトゥム2世は退位後にフランシスコ会となった。アルメニア人歴史家ネルセス・バリェンもまた会士であり、カトリックとの合同を支持していた。しかし、ローマ教皇側の強硬な姿勢によって、合同の望みは遠ざかる一方だった。

  • 1045年東ローマ帝国セルジューク朝の後継者たちによる陣取り合戦の舞台となっていたアルメニアからアルメニア使徒教会総主教座とその信者達がキリキアへ避難してきた。

  • 1058年スィヴァスへ鎮座した総主教座は、それからキリキア各地を転々としたのち1149年フロムクラへ落ち着き、5つの大主教座、14の主教座、60の修道院を得て安定した。

  • 1198年、総主教グリゴール6世アルメニア使徒教会ローマ・カトリック教会の合同を宣言したが、地方の聖職者と信徒たちが無視したため合同は失敗した。カトリック側はキリキアに宣教師を送りこんだが、ごく限られた成果しか得られなかった。フランシスコ会もこのキリキア宣教に動員され、後に東方宣教の英雄となるジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノがキリキアで説教を行っている。

1261年アルメニア教会代表のムフタール・スケウラツィは、アクレ現在のアッコ)で開かれた合同会議で、次のようにアルメニア側の不満を述べた。

いったいなぜ、互いに対等である使徒座について自分たちだけで決めたことを、ローマ教会は力で押しつけるのですか? しかも(アルメニア使徒教会はその議案を否決しています。我々(アルメニア)には教会内部の前例に従って、あなたがた(ローマ教会)をこの件で訴追する権限がある。そしてあなたがたに、我々の権限を否定する資格はありません。 

マムルーク朝によるフロムクラ陥落後、総主教座はスィス(現在のコザン)に遷座した。キリキア・アルメニア王国滅亡から長い時がすぎた1441年キリキア総主教グリゴール9世アルメニア使徒教会とローマ教会の合同をフィレンツェ公会議の席上で宣言した。このことはアルメニア総主教キラコス1世などによるアルメニア教会の分裂という結末を生み、アルメニア総主教座エチミアジン遷座、スィスのキリキア総主教座を排斥した。現在もアルメニア使徒教会にはエチミアジン総主教座キリキア首座主教が並立しているが、エチミアジン総主教が教会の主席、キリキア主教が次席ということで落ち着いている。

以下続報…