「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】イタリア経済学の伝統(主権国家から福祉国家へ)

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「(十分な火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって養う「善意の独裁者」としての主権国家(Civitas sui Iuris)」概念の延長線上に「(税収を横軸、それを財源に国家が遂行する公共サービス全般に対する納税者の満足度を縦軸に取ってフィードバック制御を成立させる「経済主体の一つ」としての)福祉国家(Welfare State)」概念が現れますが、この流れを主導してきたのは、意外にもオートヴィイル朝/ノルマン朝シチリア王国(1130年~1194年)発祥に起源を有するイタリア財政科学の伝統だったと言われています。

18世紀イタリア効用主義を産んだ南イタリアの特殊性

都市国家が群雄割拠していた北イタリアと異なり、南イタリアには13世紀末シチリアの晩祷事件以降、領域的に半島全体の1/3を占めるナポリ王国Regno di Napoli)が存在してきた。むろん1504年アラゴン王フェルナンド2世に再征服され、カスティーリャアラゴン連合王国スペイン)へ併合されてからの2世紀は王国としての立場も喪失し「ナポリ総督管轄区」としてスペインから派遣される総督副王)の統治下にあったが、スペイン継承戦争1701年~1714年)の結果、一時オーストリア支配下に入るった後でポーランド継承戦争1733年~1738年)を経てスペイン・ブルボン家出身のカルロ7世1716年~1788年)の下でシチリア王国とともに独立を取り戻す(両シチリア王国の原型)。

イタリアの経済学者は、ふつうは経済思想史の中であまり大きな位置は占めない。ほとんどの人は、ヴィルフレード・パレート (Vilfredo Pareto) やピエロ・スラッファといった巨人しか挙げられないだろう(ちなみにどっちも移民だった)。でもイタリアは、経済学においてとっても古い独自の伝統を持っていて無視できない存在なのだ。

この独自性は18世紀に生じたもので、ナポリの経済学者フェルディナンド・ガリアーニ (Ferdinando Galiani, 1751年) が啓蒙主義経済学思考の主流と「袂を分かった」ときに誕生した。かれは重商主義思考に対する反論全般には参加したけれど、フランス重農主義スコットランド学派には追随しなかった。

ガリアーニはむしろ、「イタリアの伝統」を構成する二つの道筋を創始した。一つは、経済主体としての政府に関する真剣な分析と、自然価値に関する効用ベースの理論だ。

ガリアーニにとって、経済は疑似科学的に分析してもダメで、もっときちんと考える必要があった。政府は経済における重要な存在だ、とかれは論じる。政府は、法や財政政策を通じて、経済や社会に良かれ悪しかれ影響を与える。国を抜きにした「自然状態」についての理論は、ガリアーニにしてみれば絶望的な空論で危険なまでに無邪気だった。重農主義一派の政策的結論――自由放任 (laissez-faire, laissez-passer)――は、かれらが前提において国を排除したから出てくる結果でしかない。この理論展開は、フランスの新コルベール主義やドイツの新官房学派に近いものだった。

ガリアーニはまた、重農主義者たちが採用した価値の「コスト」理論はひたすらまちがっていると論じた。かれの見方では、自然価値は効用ベースの需要が供給の希少性と相互に作用しあうことから生じる――この議論はすでに、別のイタリア人ベルナルド・ダヴァンザティ (Bernardo Davanzati) が予見していたものだった。この発想はフランスで、コンディラック神父ジャック・テュルゴーたちが考えるのと並行して発達したものだ。限界革命が起きても、イタリア人は特に驚くこともなく、その初期の構築にかなり貢献した。それどころか、ローザンヌ学派の多くはイタリアから来ている――ヴィルフレード・パレートエンリコ・バロネ (Enrico Barone)、ジョヴァンニ・アントネッリ (Giovanni Antonelli)、パスクアレ・ボニンゼグニ (Pasquale Boninsegni)などだ。ヘンリー・シュルツ (Schultz) など一部の経済学者は、ローザンヌ学派のことを単に「イタリア学派」と呼びたがるほどだ。影響力の強い新古典派経済学者のマフェオ・パンタレオーニ (Maffeo Pantaleoni) 、イタリアの「マーシャル派」もこのグループに入ると見ていい。

国の経済理論はイタリア独自の問題意識で、いくつかの段階を経ている。最初期段階では、それは明確に効用主義的だった。チェザーレ・ベッカリアピエトロ・ヴェッリは、国と財政政策が経済に与える影響に分析を絞った。かれらは国を、一般「社会福祉」向上のための道具として見ていた(経済に関与したり手を引いたりして、その法や慣習を変えたり等々)。イタリア人は効用――または「幸福」――という考えに、政策評価の基準を見て取った。具体的には、社会が「最大多数の最大幸福」を実現したときに社会福祉は最大になる、と論じた。これは効用主義的社会政策の一大旗印となる。

でも、効用主義的な視点はまだ国を「善意の独裁者」として見ていた。19世紀には、フランチェスコフェラーラ (Francesco Ferrara) の研究にはじまり、続くアントニオ・デ・ヴィティ・デ・マルコ (Antonio de Viti de Marco)、ウゴ・マッツォーラ (Ugo Mazzola)、ルイジ・エイナウディ(Luigi Einaudi) らの研究(ここには特にパレートやバロネ、パンタレオーニの研究も含まれる)の中で、国はそれ自体が「経済主体」として分析されるようになる。これはつまり、政府を「生産的」エージェント(つまりは民間生産の投入財となる集合財の生産者)、および「最適化」エージェント(つまり「歳入最大化」)として考えるということだ。かれらは特に、財政政策の影響分析に注目し、特にこの文脈では税の影響を重視した。イタリア「財政科学」は20世紀後半を通じてその独自路線を続けた。ブキャナンはイタリア財政派を、「公共選択」派の知的先人としている。

イタリア経済学第三の独自路線は、1960年ピエロ・スラッファが創始した、めざましい「古典」新リカード反革命だ。初期の活動のほとんどはケンブリッジで起きたけれど、新リカード派はスラッファのイタリア人弟子が帰国してからイタリアに根付いた。たとえばパシネッティ (Pasinetti) やガレグナーニ (Garegnani) などだ。ここでは新リカード派は容認されただけでなく、他のところでは不可能に思えたかなりの敬意を勝ち取ったのだった。

 「それを財源に国家が遂行する公共サービス全般に対する納税者の満足度」の算出は極めて難しく、また防衛問題などは未だこの基準のみで運用されている訳ではないので、経済学はもっぱら「国民が関与する生産手段全般」と税収の関係、福祉学はもっぱらその税収と「国民が国家が提供する公共サービスの一環として甘受する福祉サービス」に着目してきた訳ですね。