「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】欧州中世における「ロマネスク時代(10世紀~12世紀)」について。

ロマネスク時代
(Romanesque Age, 10世紀~12世紀)

当時の時代的キーワードは「多様性の統一」だったとも。歴史の表舞台に「ノルマン人」が現れ、そして消えていった 時期。欧州建築史上のロマネスク運動はアストゥリアス地方イングランドに発祥し(ノルマンディ地方に興って各現地における先住民の伝統儀礼を大胆に取り組み続ける事でキリスト教による全ヨーロッパ人への精神支配を完成させ様と試みたクリューニュー修道会運動や(ブルゴーニュの中心地ディジョンに興って元来修道院が有していた開拓者精神に回帰しようとした)シトー修道会運動を中心に後世歴史家が「フランチャイズ方式」と揶揄する画一性を備えつつ広域展開。欧州の伝統的中世区分では中世前期末期から中世盛期(10世紀~13世紀)前半に該当する。

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①この時代を特徴付けるのは、最終的にヘゲモニー勝者となったノルマン人を中心とする以下の諸族の緩やかな部族連合的紐帯を背景とする人的ネットワークである。

  • ノルマン人貴族(Norman)…ノルマンディ地方を最初の足掛りにイングランドイタリア半島南部(その領域は最大事にはイタリア半島全土の3分の1、シチリア島、マルタ諸島や北アフリカの一部まで広がった) の征服に成功。

    人によっては盲目的に絶賛して止まない当時の「ノルマン人の多様性と多態性への寛容さ」についてはこういう注釈もついていたりするので注意が必要である。

    <高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.183-184>

    ノルマン=シチリア王国ではアラブ・イスラーム文化ギリシア東方正教文化ラテン・カトリック文化が共存していたが、それぞれの文化集団に属する人々が混在していたのではなく、モザイク状に棲み分けていた。彼らは地域的に偏在していただけでなく、社会的立場も異なっており、世俗の領主や教会・修道院の聖職者はラテン系ノルマン系、王に仕える役人はアラブ人ギリシアラテン系であり、農民たちの多くはシチリアではアラブ人ギリシアイタリア半島部ではギリシア南イタリアであった。こうした文化的背景の異なる集団を、ノルマン人が危ないバランスで統合してかろうじて一つの王国を作り上げていたのである。

    このような異文化集団の共存を可能にしたのは、この地に住む人々の宗教的・文化的寛容性ではない。強力な王権がアラブ人を必要とし、彼らに対する攻撃や排斥を抑制していたからである。したがって、戦争や争乱のときには必ずと言ってもよいほど、異文化集団に対する略奪や攻撃が行われた。また、王国のアラブ人人口が減少し王権にとってアラブ人が不要になると、アラブ人住民に対する態度も冷淡となった。そして、異文化集団によって支えられた王国の文化的・経済的繁栄も終焉を迎えるのである。

    ウェールズアイルランドへの侵攻は失敗に終わった。ビザンチン帝国の版図アフリカ北岸への進出も失敗。

    ウェールズ少史

    1066年ヘイスティングスの戦いに勝利を収めたノルマンディー公ウイリアムイングランドを征服した。彼はウェールズの征服に着手するため、ウェールズ国境付近に国境管轄官領土を創設する。国境管轄官は強大な権力と特権を与えられウェールズへと侵攻する。肥沃な南東ウェールズはノルマン人の手に陥るが、しかし山岳部のウェールズは有能な指導者に率いられ抵抗を続ける。その結果、ウェールズイングランドの宗主権を暗黙裡に認めることにより独立を維持した。

    しかしながらムラービト朝アラビア語:المرابطون al-Murābiṭūn, 1040年~1147年)やムワッヒド朝アラビア語 : الموحدون al-Muwahhidūn, 1130年~1269年)といったマグリブ(チュニジア以西のアフリカ北岸)/アンダルシア(イベリア半島南部)を支配領域とするベルベル人イスラム王朝におけるキリスト教徒やユダヤ教徒への改宗強制運動の高まりや、マラズギルトの戦いトルコ語:Malazgirt Savaşı、ギリシア語: Μάχη του Μαντζικέρτ Mache tou Manzikert, 1071年8月26日)でセルジューク朝 (ペルシア語: سلجوقیان, 現代トルコ語: Büyük Selçuklu Devleti, 1038年~1308年)に大敗したビザンチン帝国がアナトリア半島を失陥しローマ教会に救援を求めてきたた は、十字軍国家の一つとしてアンティオキア公国(Principality of Antioch, 1098年~1268年)を樹立する事には成功し、キリキア地域経由でアルメニア文化が欧州に伝播する契機となったとされている(アルメニア民族主義的世界観)。

    南イタリアアルメニア公国経由で当時欧州各地より遥かに先進的状態にあったイスラム文化の影響を色濃く受けた。

  • アストゥリアス貴族(Asturias)…5世紀以降ローマ領内に侵攻し、6世紀に入るとフランク王国アキテーヌプロヴァンスを奪われ、8世紀以降イスラム遠征軍にピレネー山脈以北に追い立てられアストゥリアス王国アストゥリアス語: Reinu d'Asturies, スペイン語: Reino de Asturias, 羅: Asturorum Regnum, 718年~925年)やレオン王国(スペイン語: Reino de León, アストゥリアス語: Reinu de Llión, 910年~1252年)を建てた西ゴート王国(羅Regnum Visigothorum, 415年~711年)の遺臣達。

    11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラが巡礼地として知られるようになり、フランス人の巡礼者を引き付けるようになった。当時はまだイベリア半島の住民はほとんど参詣せず、巡礼に参加するのは一部の上層階級の人に過ぎず「フランス人の道」と呼ばれていた。聖遺物の発見されたヤコブはスペイン人にとってそれほど重要な聖人でもなかったからである。レオン王国聖イシドロカスティーリャでは聖ミリャンアラゴンでは聖ゲオルギウス守護聖人とされており、民衆の一番大切な信仰対象は聖母マリアであった。
    フランス人はクリュニー修道院の改革精神をスペインにもたらした。クリュニーは王権から寄進を受けてスペイン各地に修道院を獲得し、さらに新たな征服地の司牧を任せられるようになった。一旦はレオンとカスティーリャガリシアに三分割された祖国を再統合したアルフォンソ6世レオン国王1065年~1109年, カスティーリャ国王1072年~1109年)が1085年トレドを攻略すると、トレド大司教をクリュニー派のベルナール (Bernard de Sedirac) に任せている。

    この様に国王とクリュニーは深く結びついていたが、必ずしも王権とクリュニーの利害が完全に一致していたわけではない。トレド大司教ベルナールは王が不在の時にトレドの大モスクを奪取するという事件を起こしたが、これに王は激怒した。アルフォンソ自身は「二宗教の皇帝」と自称したように、イスラム教徒との共存を考えており、クリュニーや改革派教皇が称揚する十字軍的な聖戦概念とはズレがあったのである。

    その一方で改革派教皇はその首位権をイベリア半島に及ぼそうとし「コンスタンティヌスの寄進状」を持ち出して西ローマ帝国の故地は教皇に捧げられていると主張したが、これはカスティーリャ王国の「新ゴート主義(Neogoticismo)」とは基本的に相容れないものであった。グレゴリウス7世イベリア半島に首位権を主張した時、アルフォンソは「イスパニア皇帝」あるいは「トレド皇帝」を自称して牽制した。またクリュニーに多大な寄進をすることで教皇権に対する防壁としてクリュニーを利用しようとした。

    アルフォンソは他方、教皇やクリュニーの要求していた、モサラベ式典礼からローマ式典礼への移行には応え、イスパニアの教会改革を実施した。これによってイスパニア教会が独自の典礼を捨てローマへ一致する道は確定され、イスパニア教会史に一つの画期が訪れたとはいえよう。

    その一方で1090年のレオン教会会議で西ゴート書体の使用が禁止され、カロリング書体が義務づけられたにもかかわらず、アルフォンソは西ゴート書体を使い続けている。

    この様に「コンスタンティヌスの寄進状」を持ち出してイベリア半島教皇庁の直轄地であると主張した教皇に対し「アストゥリアス王国西ゴート王国の後継国家である」とする神秘的な「新ゴート主義(Neogoticismo)」に傾倒する国王派クリューニュー修道会と結ぶ事で対抗しようとしたのであった。

  • ブルグント貴族英:Burgundians, 仏:Burgondes, 独:Burgunden, 羅:Burgundiones)…帝政ローマ時代の5世紀ラインラント(Rheinland)すなわちドイツ西部のライン川沿岸からローヌ川流域へと進出。ブルゴーニュ(Bourgogne,フランス北部)及びスイスのフランス語圏に割拠するもし同世紀のうちに西ローマ帝国が滅亡しフランク王国支配下に入ったブルグント王国(仏: Royaume de Bourgogne, 独: Königreich Burgund, 411年~1378年)の遺臣達。ちなみに管轄領域としては9世紀末よりプロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地方も含む様になる。

    10世紀末よりブルゴーニュ地方を起点に(各現地における先住民の伝統儀礼を大胆に取り組み続ける事でキリスト教による全ヨーロッパ人への精神支配を完成させ様と試みたクリューニュー修道会運動(全盛期927年~1156年)が始まった。その特徴は歴史家も「フランチャイズ形式」と呼ぶほどの厳格な画一性であったが、次第に建築や衣装の典礼の壮麗さを誇示する様になり聖俗両界の支持を失っていく。

    909年ないし910年アキテーヌ公ギョーム1世が創設したベネディクト会系のクリュニー修道院を頂点とした修道会。フランス・ブルゴーニュ地方修道院だが、ロマンス語圏を中心に聖俗両界から支持され、有力者が所有する私有修道院の寄進が行われた。その結果、937年までに17修道院を管轄下に置くこととなった。

    その後もブルゴーニュをはじめプロヴァンスオーヴェルニュスペインイタリアといったロマンス語地域に広がり、またイギリスにも至り、それとともに子修道院・孫修道院の数が増加。994年には371048年には65と増加し、12世紀~14世紀にかけて1000以上もの修道院を管轄化に置く一大会派として隆盛を極めた。また影響を及ぼした修道院3000になったと言われている。それにより頂点たるクリュニー修道院に富と権力が集中し、荘厳なミサの挙行をおこなったり、当時として比類なき大きさの大聖堂を建築したりした。

    しかしその豪華で贅沢な生活は時として反発を生み、ペトルス・ダミアニはクリュニー派修道院を脱し、また分離した一部がシトー会を新たに組織したりした。

    またドイツ地域に関しては、ゴルツェ修道院を中心として同時代に進んだロレーヌ修道院改革共通の会則遵守に従いながらも、ヒエラルキー制のない自治的運動)の影響もあって直接的なクリュニーの影響はさほど及ばなかった。

    教皇ウルバヌス2世在位1088年~1099年)はクリュニー修道院長をつとめた人物であった。またグレゴリウス7世在位1073年~1085年)はクリュニー会から直接的あるいは間接的に影響を受けたとされる。

    シトー会やフランシスコ会ドミニコ会などの修道院生活刷新運動の影響でクリュニー会は凋落をはじめ、フランス革命に際してクリュニー修道院が破壊されることとなった。

    ちなみに、味以上に価格でも有名なブルゴーニュの赤ワインであるロマネ・コンティの畑は、クリュニー会派の修道院が開墾したのがはじまりであり、16世紀まで同修道院の所有であった。また「もう1つのモンラッシェ」と称されるマコン村の白ワインの畑もクリュニー会派の修道院が開墾したものである。

    代わって12世紀宗教改革の急先鋒に立ったのがシトー派修道会で、建築や衣装の典礼の華美を禁じる一方、荒野開拓や産業開発を指導。

    堕落した従来の修道院に対して反旗を翻し、清貧と神への献身と厳しい自己鍛錬を信仰の柱とする修道院運動を起こしたクリュニー修道院だったが、時がたつにつれ、従来の目的を忘れて富を蓄え、世俗的な享楽にふける修道院が増えてきた。それに対して再び起こった修道院改革運動の中心となったのがシトー派(1098年設立, 1106年公認)であった。

    • 創始者ロベールは世俗的な欲望と放縦からきっぱりと決別することを目指して、ディジョン南方の荒野シトーに修道院を建立した。ベネティクト派の修道士やクリュニー派の修道士黒衣を身にまとったのに対し、シトー派の修道士たちは白衣を身につけた。その白は、自己犠牲、清貧、福音主義を象徴した。
    • 12世紀中旬修道院長ベルナルドゥス(ベルナール)の指導のもとで発展し、修道士は清貧・服従・労働の生活を守った。
    • イングランドにも渡り牧羊を飼育して毛織物をつくる技術をもたらしたと言われている。
    • 13世紀にはドイツの東方植民とも結びつき未開地の開墾に従事し、大開墾時代をもたらした。

    しかし13世紀に入ると次第に俗化し、托鉢修道会の出現によって衰退した。

    堀米庸三『正統と異端』1964 中公新書 p.154>

    クリュニーの清貧は修道士の清貧ではあったが、修道院のそれではなかった。それゆえにクリュニーの繁栄は王侯のような富をもたらし,その聖堂とそのなかに営まれる生活は華麗をきわめるものとなったが、シトーでは教会の装飾としては十字架以外になく、フッサードもアプシスも取り除かれた簡素無比のシトー式の建築を生みだした。クリュニーでは日常の儀式典礼の荘厳化に多大の努力が払われ(クリュニーは中世多声音楽の発展者)、一日の生活中、瞑想や作務にさかれる時間がまったく犠牲にされてしまったが、シトーではこの点こそ修道生活の重点がおかれたところで、不必要な会話をはぶくため手の会話さえ発明されたほどであった。中世イギリスの牧羊業の画期的発展が、シトー修道会の導入とともに始まることもここで想起しておかなくてはならない。

    堀米庸三『正統と異端』1964 中公新書 p.160>

    修道会そのものの清貧は最も早くすて去られ、シトー派はたちまちクリュニーのあとを追うこととなり、1170年、法王アレクサンダー3世は、シトー修道会が初期の理想を忘却したことについて厳しく叱責しなければならなかった。これはシトー修道会がひたかくしにかくしてきたため、ようやく第二次世界大戦後(1952年)になって明らかにされた事実である。またイノセント3世カタリ派の異端説得のため、最初シトー派説教師を用いたが、民衆の生活から遊離した彼らの説得はただ嘲笑を勝ったにすぎなかった。

    現世離れによって、その説教が説得力を失う」問題は13世紀に都市部で起ったフランチェスコ修道会やドミニコ修道会の主要課題となっていく訳だが、ここで興味深いのが建築や衣装の典礼の華美を禁じられたシトー修道会の「堕落」は「美食」に一点集中した感がある辺り。例えばワイン…

    現在のブルゴーニュの名声のルーツを語るのであれば、遥か1億5000万年以上前、ジュラ期までさかのぼらなければなりません。ブルゴーニュはその当時海で、海中生物の死骸が白亜質泥岩とともに圧縮されて化石となり、また海中の石灰分が沈殿して石化し、後にこれがブルゴーニュ地方の地質となりました。

    ブルゴーニュで葡萄の栽培が始まったのはギリシャまたはローマ時代だと言われています。ギリシャ人がマルセイユに移民した紀元前600年頃に彼らがローヌ渓谷を移動した際、ローヌのみならずブルゴーニュも葡萄を植樹したという説と、古代ブルゴーニュの遺跡にローマ文明の影響がみられる事から、ローマ人が葡萄を持ち込んだとする説がありますがいずれにせよ確かな証拠がないため、未だ推論の域をでていません。

    ブルゴーニュの隆盛をもたらしたのはキリスト教がこの地で修道院を繁栄させた事によります。10世紀アキテーヌ公は、マコネのクリュニーに今ではリキュールでも名高い、ベネディクト修道会を設け、ブルゴーニュ公国の修道院の中心としました。さらに1098年ベネディクト会の別流シトー会がシトー修道院をニュイ・サン=ジョルジュ村の東の荒れ地にシトー修道院を建てました、シトー会の修道僧は質素な生活と困難な労働を生活の基準とし、岩だらけの荒れ地を開梱し、今日コート・ドール黄金の)と呼ばれる銘醸地の基礎を造りあげたのです。

    現在、INAOによって決定されている生産地呼称法=アペラシオン・オリジネ・コントローレAOC)の原形はすでにこの修道院時代にあったようで、例えばクロ・ブジョの斜面の裾で出来るワインを「修道士用キュヴェ・デ・モワンヌ)」、より美味しい中腹で採れたワインを「王様用キュベ・デ・ロワ)」さらに上部の最上の地域で採れた葡萄よりつくられるワインを「法王用キュヴェ・デ・パフ)」と呼んでいたそうである。

    この当時、もう一つの代表的ワイン産地「ボルドー」はイギリスの支配下にあったため、ブルゴーニュワインは主にパリに出荷されていて、彼ら宗教団体はその大半を掌握していました。

    ブルゴーニュ公国の隆盛

    こうしたブルゴーニュ公国の隆盛は14中旬~15世紀中旬に絶頂を極めました。この間、2人の代表的な君主がブルゴーニュのワイン造りに多大な影響を与えています。最初の一人はフィリップ豪胆公1364年~1404年)で1395年ガメ種を引き抜き、高品質のワインを産するピノ・ノワールを植えるように命じました。これが後のブルゴーニュワインのスタイルを決定づけたのです。次に有名なのがフィリップ善良公1419年~1467年)でジャンヌ・ダルクを捕らえた人物として悪名高いのですが、終生ブルゴーニュワインを庇護し、奨励しました。1441年にはディジョンの水捌けの悪い土地ではピノ・ノワールを植える事を禁止する法律を制定し、品質の向上に貢献しました。また、フィリップ善良公が任命したニコラ・ロラン財務長官が1443年に亡くなった時それまで蓄えた膨大な遺産をボーヌの名高いオテル・デューに寄贈し、現在オスピス・ド・ボーヌの医療院の一部になるとともに、寄進されたぶどう畑から出来るワインの収益で維持されています。しかし、こうしたブルゴーニュ公国時代は最後のシャルル豪胆公1467年~1477年)が戦死、軍隊が壊滅してしまったことで終焉を迎えます。

    フランス革命

    1789年フランス革命ブルゴーニュ地方に与えた影響は非常に大きく、現在のブルゴーニュの複雑なワイン事情が出来たのはこの時です、富裕階級や修道院のワイン畑を分割したのに続き、ナポレオン民法がさらに畑の細分化を助長する、親が死んだ場合、子供には全員土地の平均分与が義務付けられたためです。

    こうして、ブルゴーニュの畑はとんでもないほどに細分化され、同じ畑でも多数の所有者がいるという状況になってしまいした。

    フィロキセラの被害

    19世紀後半、新大陸から持ち込まれたダニの一種であるフィロキセラによってフランスのぶどう畑は壊滅的な被害を受けましたが、ブルゴーニュもその等しくその被害を受けました。

    世界大戦

    第一次世界大戦はさしたる被害を及ぼさなかったものの、第二次世界大戦では、ドイツ軍に占領され、撤収するドイツ軍と連合軍の間で熾烈な先頭が繰り広げられました。

    特にコート・ド・ボーヌの丘は激戦地でしたが、ワイン好きのフランス人司令官が、撤退中のドイツ軍がピョリニー・モンラッシェやシャサーニュ・モンラッシェ、ムルソーの格付け畑に入ると追撃を手控えたという逸話が残っています。

    また「ディジョンの料理人」といえばメディチ家が持ち込んだイタリア・ルネサンス式宮廷料理を全てフランス産の材料で再構成してフランス宮廷料理の原型を構築した事でも知られる。

  • ランゴバルト貴族(英:Lombards, 伊:Longobardi, 独:Langobarden, 仏:Lombards, 羅:Langobardi, 希:Langobardoi)…東ローマ帝国イスラム遠征軍への対応に追われた6世紀後半イタリア半島ロンバルティア(Lombardia)地方への進出を果た、首都をパヴィアに置いたが774年カール大帝によって実質的に滅ぼされたランゴバルト王国(568年~774年)の遺臣達。

どうしてそんなものが生じたのか? おそらくはノルマン人達が主にそのキャリアを古代末期(3世紀~7世紀)に帝政ローマ/ビザンチン帝国の領内に居座る事に成功した「蛮族残党」の傭兵としてキャリアを開始した事と密接な関係がある。こうした「蛮族残党」達は、国家としては滅ぼされつつも地方行政の担い手、すなわち「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の末端としてはこの時代まで確実に機能し続けていたのであった。そう、ちょうど古代日本において、(律令制導入が検討される以前に)古墳国家時代の末端を支えた氏族的在地有力者達が(律令体制が完全浸透する平安時代中旬までは確実に生き延びた様に。

  • かかる勢力は(イブン・ハルドゥーンの王朝交代論に盲目的に従う)部族連合的組織の宿痾によって自然消滅していったと目されている。ただし彼らは別に帝政ローマの様に「より強い部族連合的紐帯を備えた辺境の蛮族の侵入」に敗北したわけではない。クリュニー修道院シトー修道院が「奢侈に耽溺する殿堂」へと転落していく様な堕落の過程で勝手に弱体化していったのである。

それにつけても「ここまでは我々が知ってる欧州中世ではない」感が半端ないのです。