最初に獲得された十字軍国家にして、最初に失われた十字軍国家。アルメニア系移民が多数在住するキキリアとセルジューク朝トルコ に挟まれており、元々難治の土地ではあったのです。その陥落が第2回十字軍(1147年~1148年)招聘の契機となりました。
エデッサ伯国(1098年~1150年) - Wikipedia
古代史上および初期キリスト教史上よく知られたエデッサ(現在のトルコ領ウルファ)の街の周囲に建国された12世紀の十字軍国家のひとつ。
- 海に接しておらず陸に閉ざされていることが他の十字軍国家と異なっている。また他の十字軍国家から遠く、その最も近い隣人、アンティオキア公国と仲がよくなかった。
- 首都エデッサを含め国の半分が、ユーフラテス川の東にあるため、他の十字軍国家よりも相当東に位置していた。
創設
第1回十字軍(1096年~1099年)の際、ブローニュのボードゥアンは、アンティオキアとエルサレムへ向かう十字軍本隊を離れ、まず南のキリキア(小アジアの南部の地中海岸。元は東ローマ帝国領だが、当時はアルメニア人が多かった地方)へ、その後、東のエデッサへ向かった。1098年エデッサ(現在のトルコ領ウルファ)にたどりついたボードゥアンは統治者ソロスと会談し、セルジューク朝の武将たちをはじめとするテュルク系勢力から街を守る部隊になってほしいというソロスに対し、自らを養子、後継者と認めさせることに成功した。
- ソロスはアルメニア人ではあったがギリシャ正教系の正教会信徒の統治者であったため、非カルケドン派であるアルメニア使徒教会を奉ずるアルメニア人の住民からは嫌悪されていた。
- 養子になる儀式の数日後、市民の暴動によってソロスは命を落としたが、ボードゥアンがこの暴動に対しどういう役割を果たしたかは不明である。
ともあれボードゥアンはエデッサの統治者の座に着き、伯爵になったことを宣言した(彼は兄の臣下として、ヴェルダン伯の称号をすでに持っていた)。ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯領が成立した。
- 1100年、エルサレム陥落後も王とならず、その支配者たる「聖墳墓の守護者」に任ぜられていた彼の兄ゴドフロワ・ド・ブイヨンが死んだ時、ボードゥアンはエルサレムに入り、エルサレム王ボードゥアン1世(在位1100年~1118年)になり、エルサレム王国を建国した。エデッサ伯国は彼のいとこのボードゥアン(のちのエルサレム王ボードゥアン2世)に引き継がれた。ちなみにボードゥアン2世デュ・ブール(Baudouin II du Bourg, 2代エデッサ伯1100年~1118年, 2代エルサレム王1118年~1131年)が岩のドームにあった自らのかつての宮殿の一角、通称「ソロモンの神殿」と呼ばれた場所を修道騎士会に提供し、これがテンプル騎士団の由来となる。
- その後1118年「1101年の十字軍」で中東に到着してユーフラテス川沿いのテル・バシールの領主をしていたジョスランが伯爵位を引き継いだ。
西洋人の君主は、近隣のアルメニア人の君主たちと良好な関係を形成した。また、頻繁に異人種間の結婚を行った。特に最初の3人の伯爵はすべてアルメニア人と結婚した。初代ボードゥアンの妻が1097年に死ぬと、彼はキリキア王国(小アルメニア)の王家の君主コンスタンティン1世(在位1095年~1099年)の孫娘アルダと結婚した。ボードゥアン2世は、マラティアの街の領主ガブリエルの娘モーフィアと、3代目のジョスラン1世はコンスタンティン1世の娘と結婚した。
近隣のムスリムとの抗争
ボードゥアン2世は、まもなく北シリアおよび小アジア情勢に関係するようになった。
- 1103年に小アジア中央部のテュルク系ダニシュメンド朝から、彼の捕虜となったアンティオキア公ボエモン1世を身代金で救出するのを支援し、アンティオキア公国とともに、1104年にキリキアで東ローマ帝国を攻撃した。1104年末に、アンティオキア公国に協力してシリア北部のハッラーンを制圧し、セルジューク朝の分裂に乗じモースルやバグダードへ通ずる道を押さえたが、モースルやマルディンのムスリム軍連合に完敗し、ボードゥアン2世もジョスランも捕虜となった(ハッラーンの戦い)。
- 2人が1108年に身代金を払い救出されるまで、アンティオキア公国の摂政タンクレードがエデッサの摂政も行っていたが、タンクレードが一時戦いに敗れたため、ボードゥアン2世は都市の統治を回復するために努力しなければならなかった。この結果、ボードゥアン2世はムスリムの地方政権のいくつかと同盟しなければならなくなる。
- 1110年には、ユーフラテスの東方の領地がすべてモースルの領主マウドゥードに奪われた。しかし、他のムスリム君主による攻撃の場合と同様、マウドゥードも十字軍駆逐よりは自分の勢力の強化により深い関心があったため、エデッサ自体に対する攻撃はこれに続かなかった。
- 1118年にエルサレム王ボードゥアン1世が死んだ時、エデッサ伯ボードゥアン2世はエルサレムに移りエルサレム王ボードゥアン2世になった。ボードゥアン1世の兄のブローニュ伯ウスタシュがエデッサ伯の第1位の継承者であったが、彼は遠くフランスにいてエデッサの伯爵位を望まなかったため、エデッサ伯爵位は1119年に上述のジョスランに与えられた。
- エデッサ伯ジョスラン1世はユーフラテスの岸辺で1122年にアレッポの地方政権アルトゥク朝のアタベク(領主)バラクに敗れ捕虜となった。憂慮したエルサレム王ボードゥアン2世は彼を救出しようとユーフラテスに来たが、彼もまたバラクに捕らえられてしまった。エルサレム王国はその王が留守になる危機に直面した。
しかし、ジョスランは1123年に逃げて、翌1124年バラクの跡を継いだティムルタシュが安易にもボードゥアン2世を釈放。
陥落
ジョスランは1131年に戦いで殺されたため、彼の息子ジョスラン2世が伯国を後継したが、この時までにムスリムの強大なアタベク(領主)ザンギーが、アレッポおよびモースルを結合して支配しており、エデッサを脅かし始めた。
- その間、ジョスラン2世は東ローマ帝国の皇帝ヨハネス2世コムネノスのシリア遠征に付き合わされたが、結局この遠征はザンギーの離間策によって中止された。
- ジョスラン2世はザンギーの脅威が高まる間、自国の安全に注意をほとんど払わず、救援を拒むトリポリ伯国と口論を続けていた。
- 1144年の段階で、同じ十字軍国家であるアンティオキア公国やトリポリ伯国とは抗争で仲が悪く、強大な国である東ローマ帝国やエルサレム王国はヨハネス2世コムネノスやフルク王が亡くなったばかりで安定しておらず、頼れる国がどこにもなかったので、増大するザンギーの勢力に抵抗するため近隣のディヤルバクルのアルトゥク朝の領主カラ・アスラーンと連合した。
1144年秋、ジョスラン2世は全軍とともにカラ・アスラーンと合流し、エデッサの西のテル・バーシルまで略奪戦に出かけた。
- これを聞いたザンギーはすぐさまエデッサ攻囲戦を開始し、街の北の「時の門」のそばに陣を張った。街は庶民ばかりで軍隊はおらず、司教たちが指揮を執ることになった。司教らは、キリスト教徒のアルメニア人はザンギーに降伏しないだろうと期待していた。エデッサは難攻不落の城塞であり市民は防衛に奮戦したが、誰も攻城戦の経験がなく、城塞の守り方や守るべき要所を知らず、工兵が城壁下にトンネルを掘り始めてもなすすべがなかった。
- 度重なる休戦協定はエデッサ側の拒否で失敗に終わり、ザンギーは街の北の城壁の土台を取り除き、材木で支えて油や硫黄を一杯につめ、12月24日ついに火を放った。油は燃え上がり城壁は崩れ落ち、ザンギーの軍が侵入して城郭に逃げられなかった人々を虐殺した。城郭は司祭の過失から固く閉まっており、殺到した群衆がパニックに陥り司祭も含む5,000人以上が圧死した。ザンギーは殺戮の中止命令を出してキリスト教徒の代表と話し合い、12月26日街はザンギーに明け渡された。
- アルメニア人やアラブ人のキリスト教徒は解放されたが、西洋人を待っていた運命は過酷だった。持っていた財宝は没収され、貴族や司祭たちは衣服をはがれて鎖につながれアレッポへと送られ、職人たちは囚人として各職種別に働かされ、残り100人ほどは処刑された。
ジョスラン2世は自らの首都が失われる間、遠くテル・バーシルにとどまったままであった。
- この事件は十字軍国家を震え上がらせ、エルサレム王国のフルク王の未亡人メリザンドはヨーロッパに特使を送り、その惨害と救援要請を訴えた。これが第2回十字軍(1147年~1148年)を招くことになる。
- またムスリム世界は、はじめての勝利らしい勝利に熱狂し、バグダードのアッバース朝のカリフはありとあらゆる美辞麗句に満ちた敬称をザンギーに与えた。後のムスリムの年代記作家らはこれを十字軍国家に対するジハードの始まりと述べている。
ジョスラン2世はテル・バシールでユーフラテスの西側の領土をかろうじて支配し続け、エデッサ回復のため市内の残存勢力と連絡を取り合い努力した。
人口と構成
エデッサは領域の点から見れば、十字軍国家の中で最大級だったが、人口から見れば最小の国の1つだった。エデッサの街自体は約10,000人の住民が住んでいたが、伯国の残りはほとんどわずかな農村と要塞からなっていたのである。
- 国土は西はアンティオキア公国国境から、東はユーフラテスを横切ってさらに東に伸びていたが、それが大体最大領域だった。
- また北の方へはしばしば領土をアルメニア人の住んでいた領域まで伸ばしていた。
- 南はアレッポ、東はモースルとジャジーラ地方(メソポタミア北部)という強力なムスリム都市群に隣接していた。
住民はほとんどシリアのギリシャ正教系の正教会、シリア正教会、そしてアルメニア使徒教会のキリスト教徒で、ギリシャ正教やイスラム教の信者もいくらかいた。西洋人の数は常に少ないままだったが、カトリックの教会が一つあった為にこの都市の陥落が第2回十字軍(1147年~1148年)に結びついたのである。
西洋史的には、それに続いた第3回十字軍(1189年~1192年)同様、この時招聘された第2回十字軍(1147年~1148年)のメンバーが重要となる様です。
第2回十字軍(1147年~1148年) - Wikipedia
エデッサ伯領の喪失を受けて、ローマ教皇エウゲニウス3世によって呼びかけられた。フランス、ドイツ国王の他、多数の貴族、司教、庶民の参加者を得たが、主要参加者がそれぞれ別々の思惑を持って、バラバラに行動したため、ほとんど成果を挙げられずに終わった。
1145年、モースルの太守ザンギーの反攻によって十字軍国家のエデッサ伯領が奪われたとの知らせを受けて、ローマ教皇エウゲニウス3世は聖地救援の十字軍を呼びかけた。
- この知らせにはプレスター・ジョンについての情報も含まれており、その救援も期待されたようである。
教皇の頼みで、シトー修道会の高名な神学者であり名説教家として知られていたクレルヴォーのベルナルドゥス(ベルナール)が勧誘説教を行った。ベルナルドゥスは騎士修道会の心身両面での戦いを評価しており、聖地への巡礼と異教徒との戦いを通じて贖罪を行い、それを経た後に各人が世の中に福音を伝えることを、この十字軍の宗教的目的として構想していた。彼の果たした影響のため、この十字軍は「聖ベルナールの十字軍」とも呼ばれる。
- フランス王ルイ7世と王妃アリエノール、ドイツ王コンラート3世、シュヴァーベン公フリードリヒ(後の皇帝フリードリヒ1世)の他、第1回十字軍には及ばないものの多数の貴族や司教が参加。
- さらに庶民も熱狂し、ベルナルドゥスは教皇に宛てた手紙で「一般庶民男子の8割が参加し、女しか残っていない。後家さんだらけだ。」と報告している。
- ただ、既にイベリア半島ではレコンキスタが佳境に入っており、イベリア半島方面やマルセイユ、ジェノヴァ、ピサの住人はそちらに参加することが勧められ、また、ドイツ諸侯から希望された北方スラヴ人征服も十字軍(ヴェンド十字軍)として認められた。
以上からも分かるように、この時には他の十字軍とは違いエルサレム奪還という最終目的が無い(まだエルサレム王国は維持しており、直接的に攻撃を受けているわけでもない)ため、その軍事的目的がエデッサ伯領を奪回するのか、ザンギー朝を攻撃するのか、エルサレム周辺の他のイスラム教国を征服するのか、イスラム教徒を片っ端から攻撃するのかはっきりしなかった。
迷走
西欧からの軍勢はエルサレムに集結したが、戦意は低く既にエルサレムに来たことで巡礼の目的は果たしたと考えて帰りたがる者も多かった。
- イングランド、ノルマンディーはスティーヴン王の無政府時代のため、まとまった出兵は行えなかったが、各々の騎士達がスコットランド、フランドル勢と共に船で出立した。途中、リスボンを攻撃しているポルトガル王アフォンソ1世の軍に合流して、1147年10月にリスボンを攻略(リスボン攻防戦)した後、東に向かいフランス王と合流した。
- ドイツ王は陸路を通って、ハンガリーからコンスタンティノープルにたどり着いたが、東ローマ帝国側の協力を受けられず、単独で小アジアを横断している時にルーム・セルジューク朝軍に襲われ敗北を喫した。その後、わずかな生き残りがエルサレムにたどり着いた。
- フランス王はドイツ王のたどったコースを後から追いかける形になり、同じように小アジアでルーム・セルジューク朝軍に敗れた。なんとかアンティオキア公国にたどり着き、王妃エレアノールの叔父アンティオキア公レーモンからエデッサ伯領奪回を持ちかけられるが、断りエルサレムに向かった。
エルサレム国王ボードゥアン3世(在位1143年~1162年。次代アモーリー1世
(在位1162年~1174年)同様、フルクとメリザンドの息子)の元でアッコンにおいて軍議が行われ、政情不安で比較的弱いと考えられたダマスクスの地方政権(ブーリー朝)を攻めることになった。
- エルサレム王国の多くの臣下たちは、これを馬鹿げた考えだと反対した。ダマスクスはザンギー朝とは古くから対立しており、1140年にダマスクス領主ムイーヌッディーン・ウヌルがエルサレム王国軍の救援でザンギーの軍を追い払って以来、ダマスクスとエルサレム王国は同盟関係にあったためである。しかし、エルサレムやアンティオキアとともに聖書にも登場する聖都ダマスクスを手に入れ、この遠征を正当化する成果としたい西欧諸国側に、現地十字軍国家側は結局押し切られた。
- 1148年7月23日、ダマスクス攻撃が始まったが、ダマスクスの領主ウヌルは城の周囲の井戸や泉を埋め、対立していたザンギー朝の面々(ザンギーの後を継いだヌールッディーンや、その兄であるサイフッディーン等)ほかさまざまなムスリム国家に救援を求めた。さらに、西欧からの大軍の到来で動揺していたエルサレム王国はじめ現地十字軍国家に「ダマスクス陥落の次は、十字軍国家を直轄化して取り上げるはずだ」と文書を送り離間策を行った。そのため、元々数が少なかった十字軍はヌールッディーンらのムスリム軍やダマスクスの伏兵に悩まされた上、給水にも困り、さらなるムスリムの援軍の脅威を吹き込む十字軍国家の説得を受け、わずか4日後何の成果も無くエルサレムへ撤退した。
エルサレムに戻った後、十字軍は解散し、それぞれ帰路についた。結果ローマ教皇の主導で行われた十字軍の中では、リスボン征服などイベリア半島での成果を除き、最も成果の無かった十字軍と言って良い(第4回十字軍ですらカトリック勢力の拡大という成果はあった)。
- 西欧はこの失敗に脱力し、教皇エウゲニウス3世と宣教師ベルナルドゥスの権威は失墜。彼らが新しい十字軍を呼びかけても、もはや応じる者はいなかった。
- 十字軍は何の成果も挙げずに帰ったばかりか、対立していたダマスクスとヌールッディーンを協力させ、後にヌールッディーンにダマスクスを領有させシリアを統一させることになり、イスラム勢力の結集を助長した。一方、土着化した十字軍国家はムスリムながら盟邦だったダマスクスを失い、かねてから西洋人には妥協しなかったヌールッディーンのシリア統一によって圧迫される羽目に陥る。
これ以降、最後の十字軍まで、現地の要望を無視した十字軍の暴走を現地十字軍国家が止められず、結果遠征規模に見合った成功を得る事無く終わる図式が続く事になる。
その一方でこの時のイベリア半島におけるリスボン奪取(1147年)はローマ教皇の口添えで1143年にコインブラを拠点に開闢したばかりのブルゴーニュ朝ポルトガル王国(1143年~ 1383年)にとって重要な躍進の端緒となりました。その後1179年に教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結んでローマ教皇庁から正式に国王として認められ、1248年にカスティーリャ王国がセビーリヤを征服してジブラルタルから大西洋への出口が確保されて以降、経済拠点としても浮上してきます(首都リスボンをはじめとするポルトガル諸港が北海と地中海を結ぶイベリア半島における安全な交易拠点に変貌を遂げ、フランドルやイギリスとの交易が活発化し、ジェノバ人を筆頭とする外国人商人が押し寄せ都心部に冨が集中)。
この結果、ポルトガルにもブルジョワ階層と経済的発展から取り残されたフィダルゴ(血統を重んじるが貧乏な農村貴族)との間に緊張感が生じ、現地修道騎士団が中心となって元宗主国カスティーリャ王国の干渉を廃したアヴィス朝ポルトガル(1385年~1580年)開闢とアフリカ十字軍(1415年~15世紀中旬)着手の原動力となるのです。
スラヴ人に対する十字軍もまた、これ以降も続く展開を迎え大開拓時代(12世紀~14世紀)を推進しましたが、15世紀に入るとドイツ騎士団と支配下諸都市の軋轢が目立つ様に。
ところでこの時代を語る上で以下の人への言及が避けられません。
クレルヴォーのベルナルドゥス(羅Bernardus Claraevallensis, 仏Bernard de Clairvaux, 1090年~1153年)あるいは聖ベルナルド - Wikipedia
12世紀のフランス出身の神学者。すぐれた説教家としても有名である。フランス語読みでクレルヴォーのベルナール(聖ベルナール)とも呼ばれる。聖公会とカトリック教会の聖人であり、35人の教会博士のうちの一人でもある。1830年8月20日教皇ピウス8世から教会博士の称号を贈られている。その卓越した聖書注釈により「蜜の流れるような博士(Doctor Mellifluus)」と称されている。また第2回十字軍(1147年~1148年)の勧誘に大きな役割を果たしたことでも知られる。
- 1090年、フランスのディジョンに近いフォンテーヌで、騎士テセランの子として生まれた。母親アレトはモンバールの貴族の家の出で信仰厚く、教育熱心であったが、ベルナルドゥスが幼いうちに世を去った。家族はベルナルドゥスに軍人としてキャリアを積んでほしいと願っていたが、彼自身は母の姿の影響もあり、修道院に入りたいと思っていた。それならばと家族はベルナルドゥスをシャティヨン=シュル=セーヌへ送り、聖職者として出世するために必要な高等教育を受けさせることにした。
- しかし修道士として世俗と無縁の生活を送りたいという希望を決してあきらめず、ついに1112年シトー修道院に入ることができた。同修道院はモレスムスのロベルトゥスが1098年に開いたものであった。ベルナルドゥスは念願の修道院に入るにあたり、自分だけでなく 兄弟や親族、友人なども連れて修道院の門をたたいた。
- 同修道院はベネディクト会改革運動から出たシトー会によるものであったが、初期の熱意を失いつつあった。しかし、そこへ地域の名門一族からベルナルドゥスをはじめとする理想に燃えた若き入会者が一挙に30人も加わったことで、ベネディクト会のみならず西欧の修道制に大きな影響を与える修道院になっていく。シトー修道院は活気にあふれ、そこからさまざまな修道院が生まれていった。その中の一つに、トロワ伯ユーグから与えられたオーブの谷の一角に1115年に創設されたクレルヴォー修道院があった。院長には若きベルナルドゥスが任命された。このことから彼はクレルヴォーのベルナルドゥスと呼ばれることになる。
- シトー会の新しい会則に従って作られたクレルヴォー修道院は、シトー会の中でも大きな影響力を持つようになっていく。形式的にはシトー修道院の子院であったが、実質は最重要修道院であった。それもこれもベルナルドゥスの名声と人格に負うところが大きかった。
ベルナルドゥスの聖性と自己節制の厳しさ、そして説教師としての優れた資質によって、彼の名声は高まっていき、クレルヴォーには多くの巡礼者が押しかけるようになった。ベルナルドゥスが奇跡を起こしたという噂が広まると、各地から病者や障害のある者がやってきて、奇跡的な治癒を願った。結果的にこの名声によって、静かな観想生活を送りたいと願っていたベルナルドゥス自身の思いとは裏腹に、世俗世界にかかわらざるをえなくなってゆく。
- 1124年に教皇ホノリウス2世が就任した頃には、ベルナルドゥスはフランスの教会において押しも押されもせぬ存在になっており、教皇も助言を求めるほどになっていたのである。
- 1129年、アルバーノのマテウス枢機卿の招きでトロワの司教会議に参加したベルナルドゥスは、そこでテンプル騎士団の認可が得られるように働きかけ、シャロンの司教会議ではヴェルダン司教アンリの問題を司教辞任という形で決着させることに成功し、教会政治における手腕でも高い評価を得た。
教会において、ベルナルドゥスの評価が決定的になるのはむしろ、その後起こった教会分裂騒動の収拾においてであった。
- それは1130年に教皇ホノリウス2世が亡くなり、教皇選挙が紛糾したことに端を発している。後継にえらばれたインノケンティウス2世に対して対立教皇アナクレトゥス2世が立つという事態になり、ルイ6世(肥満王)が1130年にエタンに司教会議を招集、事態の打開を目指した。
- そこにおいてベルナルドゥスはインノケンティウス2世の強力な擁護者となり、多くの論戦を戦った。ローマにはすでにフランスやイギリス、スペインなど各国の支持を取り付けたアナクレトゥス2世が居座っておりインノケンティウス2世は各地の放浪を余儀なくされていたが、ベルナルドゥスはこれを逆手にとり、インノケンティウスこそ「世界に受け入れられた教皇である」と主張した。
- ベルナルドゥスは教皇からの使命を受け各地を旅行した。ミラノでは高官や聖職者たちがミラノの大司教に着任することを願ったが、ベルナルドゥスはクレルヴォー修道院に戻った。そこから神聖ローマ皇帝ロタール3世との議論のためにリエージュに向かった。
- 1133年になると皇帝は兵を率いてローマを目指し、ベルナルドゥスは教皇の意図を受けてジェノヴァとピサの同盟を成立させた。ローマにいたアナクレトゥス2世はサンタンジェロ城を擁しシチリア王の後ろ盾を持っていたが、ロタール3世の兵力の前にしぶしぶインノケンティウス2世との対話に応じることになった。
- ローマでロタール3世はインノケンティウス2世から王冠を受けることができたが、ホーエンシュタウフェン家との争いがあったため、自身の威光を高めることができなかった。ベルナルドゥスが再び召喚され、説得に向かったことで1135年春にホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世はロタール3世との和解に応じ、臣従を約束した。
- 同年6月に入るとベルナルドゥスはイタリアにやってきて、ピサ教会会議を主導し対立教皇アナクレトゥス2世を破門に追い込むことに成功した。北イタリアではベルナルドゥスの影響力は絶大となっており、ミラノとロンバルディアの諸都市もベルナルドゥスの説得に応じてロタール3世とインノケンティウス2世への臣従を約束した。
- 1137年、ロタール2世の最後のローマ訪問に伴ってベルナルドゥスもイタリアへ戻り、モンテ・カッシーノでベネディクト会内の問題の解決にあたり、サレルノではシチリア王と破門された対立教皇アナクレトゥス2世の離間を狙ったが、これは果たせなかった。
- アナクレトゥス2世は1138年3月13日になくなったが、支持者たちは次の対立教皇を擁立した。これがウィクトル4世である。しかしベルナルドゥスの長年の運動の結果、対立教皇は支持基盤の多くを失っており、自ら退位し、ここに教会分裂は収拾、ベルナルドゥスもようやくクレルヴォーに戻ることができた。
クレルヴォー修道院自体もこの頃までに簡素さを好んだベルナルドゥスの意図と裏腹に「有名な院長」にふさわしい規模と内容に作りかえられていた。
- ベルナルドゥスの圧倒的な影響力はピエール・アベラールとの論争において明白となる。1140年のサンスでの宗教会議では、当代随一の学識で売り出し中だった気鋭の学者アベラールも、年下のベルナルドゥスの前ではかたなしであり直接討論中に退場する。結局、普遍論争で対立したアベラールは有罪宣告を受けることになったのであった(ちなみに晩年はクリュニー修道院で過ごしている)。
ベルナルドゥスが有名になったことで、シトー会も大発展をとげた。
- 1130年~1145年の間に、少なくとも93の修道院がシトー会に加入あるいは新設された。修道院の地域はイングランドやアイルランドにまで及んだ。
- 1145年にはシトー会出身の修道士のローマ近郊のアクエ・シルヴィエの院長であったベルナルド・パガネッリが教皇に選ばれエウゲニウス3世を名乗った。このことはヨーロッパにおけるベルナルドゥスの影響力が頂点に達したことを示す出来事であった。
こうして教会分裂の収拾を達成したベルナルドゥスが次に要請されたのは、異端との戦いであった。
- アルビジョワ派が当時異端として世間を騒がせていた。特にローザンヌのアンリという説教師の名前が知れ渡っていた。1145年6月オスティアのアルベリック枢機卿の招きによってベルナルドゥスは盛んに説教を行い、異端の影響力が及ぶのを食い止めるのに成功した。
- また、教皇の願いに応じて十字軍の勧誘演説を行うことになった。この効果は絶大で、ヴェズレーでの会談でフランスの諸侯の前でベルナルドゥスが十字軍への勧誘をおこなった結果、感動した諸侯は続々聖地へと赴いた。その中にはフランス王ルイ7世、当時その王妃だったアリエノール・ダキテーヌなども含まれていた。さらに各地を回って遊説した結果、熱狂的な十字軍運動を巻き起こし、神聖ローマ皇帝コンラート3世も十字軍に加わったが、肝心の十字軍が惨敗したことがベルナルドゥスに大きなショックを与えた。彼はなぜ神がこのような結末を許したのかと自問し、結局従軍者の犯した罪によるのだと結論付けている。
- ベルナルドゥスは十字軍敗退の知らせをクレルヴォーで聞いたが、そこにはアルノルド・ダ・ブレシアの反乱によってローマを追われたエウゲニウス3世もかくまわれていた。
- 1148年にはベルナルドゥスは教皇とともにランス教会会議に参加、スコラ学者でポワチエ司教のジルベール・ド・ポルレの学説を攻撃したが、そのころには十字軍の失敗などによってベルナルドゥスの影響力はかなり弱まっていた。
- 十字軍の敗北によって、新しい軍勢を投入しようという動きが起こり、フランスの霊的指導者となっていたサン・ドニ修道院の院長シュジェールの招きでシャルトル教会会議に参加したベルナルドゥスは、教皇の求めで自ら十字軍の陣頭に立つことを要請された。幸い、クレルヴォーの院長職の責任からこの任務を免れたが、さまざまな出来事や論争、親友の死などによってベルナルドゥス自身も衰えていた。
- その一方で明晰な頭脳が死ぬまで衰えなかったことは、最後の著作『デ・コンシデラチオーネ(De consideratione)』が証している。
後世から振り返るとロマネスク時代(10世紀~12世紀)を終わらせた重要展開だったとも…