「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「ゴシック時代(12世紀~16世紀)」を基礎付けるゴシック建築の変遷について。

西欧における建築様式史に添わせる形でロマネスク時代(10世紀~12世紀)に引き続いてゴシック時代(12世紀~16世紀)なる時代区分を設定するなら、まずは時間的に「(ロマネスク時代の影響が次第に絶えていく前期12世紀~13世紀中旬)」「(黒死病流行やその影響を受けた政治や経済の混乱の結果としての)中断期(14世紀)」と「(ダメージからの回復が次第に進んだ)再開期(15世紀~16世紀)」を峻別し、それぞれの地域で何が展開したかに目を向けなければなりません。それでもあえて「(ロマネスク時代には存在せず、バロック時代に継承されていくゴシック精神なるもの」を抽出するなら以下となるでしょう。

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ゴシック建築の装飾

ゴシック建築の達成は、中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序を反映したことにあると言える。中世の人々にとっては事物の全てに象徴的な意味があり、故に、ゴシック教会を彩る様々な装飾は、聖職者たちの世界に対する理解そのものであった。彼らは、美を神の創造と同義であると考え、教会を装飾することを神への奉仕と捉えていた。従って、扉口のマリア像や聖ペテロ像、聖ニコラウス像、ステンドグラスに画かれたキリストの生涯といったものは、決して現代人の意味するところの「装飾」などではなく、石に刻まれた中世精神の表象なのである。

 現代人の擁するゴシック概念(Gothic Concept)は遥かにもっと多様です。

ゴシック建築

12世紀半ばの北フランスから始まった大聖堂などの宗教建築は、次のような共通の特徴を持っていた。第一には先の尖ったアーチ(尖頭アーチ)で建物の高さを強調し、天にそびえていくような印象を与えようとしていること、第二に建物の壁に大きな窓を開けて堂内に大量の光を取り入れていること、そして第三に、建物を外側から支えるアーチである飛梁などの構造物が外壁からせりだして、建物に異様な外観を与えていることである。

こうした特徴を持った大聖堂などの建築物は北方のヨーロッパが獲得し始めた独自の様式であったが、均整のとれた古典古代世界の文化を崇敬する15世紀~16世紀頃のイタリアの知識人たちは、いびつで不揃いな外見などに高い価値を認めず、侮蔑をこめてイタリア語で「ゴート人の (gotico)」と呼んだ。ゴート人はゲルマン人の古い民族で、実際には大建築とは無関係であったが、野蛮な民族による未完成の様式という意味をこめてそう呼んだのである。ゴシックという言葉はここに由来している(英: gothic / 仏: gothique / 独: Gotik)。

ゴシック様式ファッション(服飾史)

15世紀前半に西ヨーロッパで生まれた奇抜な装飾、誇張された体型、はっきりとした色づかいを特徴とするファッション(現代のゴシック・ファッションとは異なる)。

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ゴシックアーマー(プレートアーマー)

15世紀後半のドイツで生まれた鎧。板金に畝をつけ、つま先などをとがらせているのが特徴である。

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ゴシック・ロマンス

ゴシック様式の宗教建築は、建物自体の壮大さに加えて、異国や異教の影響を受けた怪物やグロテスクな意匠がさまざまに取り込まれている点にも特徴がある。18世紀後半のイギリスでは、こうしたゴシック風の修道院や邸宅を舞台にした一種のホラー小説が流行し、それはゴシック・ロマンスと呼ばれた。

別荘のストロベリー・ヒル・ハウスStrawberry Hill House)を自分好みの中世ゴシック風に改築し、敷地内で印刷した「オトラント城奇譚The Castle of Otranto,1764年)」を発表したホレス・ウォルポールHorace Walpole, 4th Earl of Orford, 1717年~1797年
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同性愛スキャンダルによって所領への逼塞を余儀なくされ、そこにシトー派風僧院を建てて千夜一夜物語にインスパイアされた幻想小説ヴァセックVathek,1786年)」をフランス語で発表したウィリアム・トマス・ベックフォードWilliam Thomas Beckford, 1760年~1844年)。
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ディオダティ荘の怪奇談義(1816年5月)」を契機に「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス(Frankenstein: or The Modern Prometheus, 1818年3月11日)」を執筆したメアリ・シェリMary Wollstonecraft Godwin Shelley , 1797年~1851年)。

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レディング修道院ラドクリフ夫人のゴシック小説に刺激されて「ノーサンガー・アビー(Northanger Abbey, 刊行1817年)」を執筆したジェーン・オスティン(Jane Austen, 1775年~1817年)

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 *これはこれで日本人の間に十分な理解が浸透してない部分。詳細はそのうち稿を改めて。

 とある歴史家の分析によれば「中断期(14世紀)」にはこういう変化があった様です。

古代史を専門とし『暴力と不平等の人類史』を上梓したスタンフォード大学教授のウォルター・シャイデルは、「戦争・革命・崩壊・疫病」という4つの衝撃を中心に古代から現代までを分析している。中世ヨーロッパの労働者の生活は、疫病の感染爆発後、どのように変化したのか。

「世界は一変した」

世界は一変した。感染爆発のさなかとその直後には、人間の活動が低下した。長期的には、ペストとそれがもたらした混乱が、人びとの考えや社会制度に広く爪痕を残した。

つまり、キリスト教の権威が弱まり、快楽主義と禁欲主義が同時に繁栄し、恐怖と跡継ぎがいない者の死亡が原因で、慈善活動が増えたのだ。芸術のスタイルまで影響を受けた。医者は長年守ってきた原則の再考を迫られた。

「経済的バランス感覚」の崩壊。

最も根本的な変化は、経済領域、なかでも労働市場で起きた。黒死病がヨーロッパに達したのは、3世紀にわたって人口が大きく──2倍、時には3倍に──増加していた時だった。西暦1000年ごろから、技術革新、農耕法と収穫高の改善、政情不安の改善があいまって、定住が進み、生産性が向上し、人口が増えた。都市は大規模化し、数も増えた。

ところが13世紀後半には、この長期にわたる繁栄は自然に終息した。中世の気候最適期が終わりを告げると、生産性が低下し、需要が供給を上回りはじめたため、飢えた人びとが増加して食料価格が上がった。耕作に適した土地の拡大は止まり、牧草地が縮小したせいで、タンパク質の供給は減った。

同時に、ますます質素になる食事において基本的な穀物がそれまで以上に主要な食品になった。人口圧力によって、労働の価値が下がり、したがって実質所得が減少した。生活水準も、せいぜいのところ横ばいだった。

14世紀初めには、気候が不安定で収穫が減った結果、壊滅的な飢饉となって、状況はいっそう悪化した。人口水準は14世紀初めの25年間で下がったものの、生活が維持できるかどうかの危機はさらに一世代のあいだ続き、動物間流行病のせいで家畜が激減した。

黒死病によって人口は激減したものの、物理的なインフラは損なわれずに残った。生産性が向上したおかげで、人口の減少ほど生産高は減らなかったため、1人当たりの平均的な産出量と所得は上昇した。

時おり主張されるように、ペストによって、本当に労働年齢にある人びとがそれより若いあるいは老いた人びとよりも多く命を落としたかどうかはわからないが、ともかく労働力に対して土地が余るようになった。

地代と金利は絶対的にも賃金比でも下がった。地主にとっては損だが、労働者は利益を望めそうだった。とはいえ、こうしたプロセスが実際の暮らしにおいてどう展開するかは、中世の労働者に有効な交渉力をもたらす制度と権力構造にかかっていた。

当時の西欧の観察者は、人びとの大量死によって賃上げ要求が高まったことにすぐに気づいた。カルメル会の修道士ジャン・ドゥ・ヴネットは、1360年ごろ年代記でペスト流行後の様子について書いている。

何でもふんだんにあるものの、価格は2倍だった。調度品や食料はもちろん、商品、賃金労働者、農業労働者、使用人などすべてがそうだ。唯一の例外は土地と家屋で、それらは現在でも供給過剰の状態にある。

作家のウィリアム・ディーンが書いたとされるロチェスター修道院年代記によれば、労働者不足が続いたため、庶民は雇用労働など歯牙にもかけず、3倍の賃金で貴人に仕えるという条件にもなかなか首を縦に振らなかった。

雇い主はただちに、人件費の上昇を抑制するよう当局に圧力をかけた。イングランド黒死病に襲われてから1年も経たない1349年6月、国王は労働者勅令を発布した。

住民の大部分、特に労働者と使用人(「召使い」)がペストで死亡して以降、多くの人びとが主人の窮状と労働者不足につけこんで、法外な給金をもらわないと働こうとしない……イングランドの領土に住むあらゆる男女は、自由民であれ非自由民であれ、身体が健康な60歳未満で、商売や特殊な技能の行使によって生活しているのではなく、耕す必要のある自分の土地からの不労所得がなく、他人のために働いているのではない限り、自分の地位とつりあう仕事を提供されたらその申し出を受ける義務が生じることを、ここに定める。その料金、仕着せ、支払い、給金は、わが国の統治の20年目[1346年]か、5、6年前の適切な年に、彼らが働いている地域で通常支払われていた金額でなければならない……多く受け取っていることが発覚すれば、牢獄行きとなる。

この勅令の効果は実際にはあまり上がらなかったようだ。それからわずか2年後の1351年、労働者制定法という別の法令で、こんな訴えがなされている。

先の勅令で述べられた雇われ人は、この勅令を無視して自分自身の豊かさや並外れた強欲さを優先している。20年目およびそれ以前に受け取っていた金額の2倍から3倍の仕着せや賃金をもらわない限り、偉人やその他の人びとのために働こうとしない。こうして、彼らは偉人に大変な損害を与え、あらゆる庶民を貧しくしている。

そして、このやっかいな状況を是正すべく、さらに詳細な制約と罰則が科されることになった。ところが、一世代も経ずしてこの施策も頓挫した。1390年代初め、レスターのアウグスティノ修道会の修道士、ヘンリー・ナイトンは年代記にこう書いている。

労働者はひどく思い上がっていて血の気も多いため、王の命令など気にも留めなかった。彼らを雇いたければ、その言いなりになるしかなかった。というのも、刈り取らずに農作物を失うか、労働者の傲慢さと貪欲さに迎合するか、2つにひとつしかなかったからだ。

もう少し中立的な言葉で言い換えると、政府の命令と抑圧によって賃金上昇を抑えようとする試みに対し、市場原理が勝ったということだ。雇用主、特に地主の個人的利益が、労働者に対して共同戦線を張ることによる強制できない集団的利益を上回ったからである。

イングランドばかりかほかの地域でも事情は変わらなかった。1349年、フランスも同様に賃金をペスト前の水準に抑えようとしたが、さらに早く負けを認めるはめになった。1351年には、改正法によって賃金を3分の1上げることがすでに認められつつあった。まもなく、人を雇いたい時は相場どおりの賃金を支払わなければならなくなった。

経済史家のロバート・アレンと共同研究者の尽力により、今では熟練・非熟練の都市労働者の実質賃金を示す長期的な時系列のデータが数多く手に入る。このデータは時に中世にまでさかのぼり、時空を超えて体系的に比較できるよう標準化されている。

 賃金が上昇し、肉を多く食べるようになった労働者たち。

ヨーロッパとレヴァント地方の11の都市で記録された非熟練労働者の賃金の長期的傾向から、明確な全体像が読みとれる。ペスト発生前の賃金がわかる少数のケース(ロンドン、アムステルダム、ウィーン、イスタンブール)では、ペストの流行以前は賃金が低く、その後急速に上昇している。

実質所得は15世紀初めから半ばにかけてピークに達している。この時期、ほかの都市でも同様のデータが残されており、やはり賃金上昇の動きが見られる。

14都市の熟練労働者の賃金についてもほぼ同じ構図が浮かび上がる。データが得られた地域では、ペスト発生の直前から15世紀半ばまでに人口の変化と実質所得には際立った相関関係がある。調査対象となった全都市で、人口が最低になった直後に実質所得がピークに達したのだ。人口が回復してくると賃金は減少に転じた。多くの都市で、1600年以降は人口が増え続けて実質所得は下がる一方だった。

地中海東岸でも同様の結果が見られる。黒死病の発生後、期間はヨーロッパより短かったものの、人件費が急騰したのだ。歴史家の アル=マクリーズィーはこう述べている。

職人、賃金労働者、荷物運搬人、使用人、馬丁、織工、作業員といった人びとの賃金は数倍に跳ね上がった。しかし、彼らの多くはもういない。ほとんどが死んでしまったのだ。この種の労働者を見つけるには、必死になって探す必要がある。

ペストの犠牲者からの遺贈や、遺産相続した生存者からの寄贈に支えられ、宗教的、教育的、慈善的寄付が急増した。おかげで、人手不足にもかかわらず建設工事が推進され、職人は非熟練都市労働者とともにわが世の春を謳歌した。

 とにかく基準となるのは実際のゴシック建設様式自体の変遷

ゴシック建築Gothic Architecture)は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。最も初期の建築はパリ近くのサン=ドニ聖ドニ修道院教会堂Basilique de Saint-Denis)の一部に現存する。イギリスイタリアの北部および中部ドイツのライン川流域ポーランドバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。

原義

ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀~16世紀アントニオ・フィラレーテジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する(ゴート族の建築様式というわけではない)。

ルネサンス以降、ゴシック建築は顧みられなくなっていたが(この時期をゴシック・サヴァイヴァルと呼ぶ)、その伝統は生き続け、18世紀になると、主として構造力学的観点から、合理的な構造であるとする再評価が始まった。18世紀~19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ゲーテフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンフリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部空間はヨーロッパの黒い森のイメージに例えられて賞賛され、当時のドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自らの民族的様式とする主張が挙がるなどした。

 概説

ゴシック建築は、歴史的区分としては1150年頃から1500年頃までの時代を指し、フランス王国からブリテンスカンディナヴィア半島ネーデルランド神聖ローマ帝国イベリア半島イタリア半島バルカン半島西部沿岸部ポーランドおよびポーランド・リトアニア共和国の版図に伝わった建築様式をいう。

しかし、これら歴史的・地理的条件が必ずしも相互に対応しないという点や、建築の形態的・技術的要因、図像などの美術的要因の定義づけが難しいという点で、他の建築様式に比べるとかなり不明瞭な枠組みであると言わざるを得ない。特に後期ゴシックは、地方様式とも絡む複雑な現象で、装飾や空間の構成を包括的に述べることはたいへん難しい。

ゴシック建築は、北フランス一帯において着実に発展していた後期ロマネスク建築のいくつかの要素を受け継ぎ、サン=ドニ修道院付属聖堂において一つの体系の中に組み込まれて誕生した。

12世紀中葉から、サンスランパリ、そしてシャルトルランスアミアンでは、これに倣って大規模かつ壮麗な聖堂が建てられることになった。当然、西ヨーロッパでは、このほかにもたくさんの建築物が建設されていたが、イル=ド=フランス地方をはじめとするフランス王国の中心地においてのみ、初期から盛期にいたるゴシック建築の首尾一貫した発展の状況を見ることができる。

ゴシック建築が伝播した他の諸国の政治的・経済的事情は多様で、発達や伝播の過程は複雑な様相を呈し、後期になるとこれが顕著に現れる。しかし、それでもゴシック建築が一定の建築的構成をふまえつつ流布したのは、国々を跨いで独自の組織網を構築していた修道院の活動が大きかった。

ロマネスク建築と同様に、ゴシック建築においてもベネディクト会シトー会の影響は大きく、13世紀以降ドミニコ会フランシスコ会などが、ゴシック建築の伝播に寄与することになった。

ゴシック建築は、尖ったアーチ尖頭アーチ)、飛び梁フライング・バットレス)、リブ・ヴォールトなどの工学的要素がよく知られており、これらは19世紀ゴシック・リヴァイヴァルにおいて過大に評価されたため、あたかもそのような建築の技術的特徴のみがゴシック建築を定義づけると考えられがちである。しかし、ゴシック建築の本質は、これらのモティーフを含めた全体の美的効果のほうが重要で、ロマネスク建築が部分と部分の組み合わせで構成され、各部がはっきりと分されているのに対し、ゴシック建築では全体が一定のリズムで秩序づけられている

リューベックグダンスクトルンクラクフなどの北ドイツポーランドを中心とするバルト海沿岸およびその大河川の流域ではブリック・コシックと呼ばれる、レンガを用いた独特のゴシック建築が発展した。

ゴシック建築以前

ロマネスク建築からゴシック建築への転換は、11世紀末期から12世紀早初期にかけてイングランドノルマンディー地方において行われた建築活動によってもたらされた。この地方では、すでに交差リブ・ヴォールトを分厚い構造壁に架ける試みが成されていたが、それ自体はロンバルディアアルザスプファルツのロマネスク建築においても同様に行われている。

しかし、ここでは後にゴシック建築に共通する、あるいはそれに発展する要素のいくつか(すなわち、フライング・バットレスに発展する側廊の屋根裏に設けられた梁状の控壁とトリフォリウムに発展する二重シェル式壁(ミュール・エペ)など)が指摘されている。 これらの建築活動は後にイル=ド=フランスに引き継がれ、ゴシック建築を開花することになる。

イル=ド=フランスとその周辺部の初期ゴシック建築

1130年サン=ドニ修道院シュジェール院長が、修道院付属聖堂現在は大聖堂)の改築工事を始めた。現在、3つの広間を納めた前廊西正面)と聖歌隊席を含めた一部が現存している。最初に多数の巡礼者のための大きな入り口が造られたが、これは円柱を束ねた支持柱に支えられた尖頭リブ・ヴォールトが空間を分節しており、これがノルマンディーの後期ロマネスクゴシック建築に発展させたものになっている。

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1140年に着工し1144年に完成した内陣は、後の大改修のためあまり残っていないが放射状の祭室と方形の祭室を有するシュヴェで、前廊と同じく革新的なものだったらしい。

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しかし、サン=ドニ修道院付属聖堂はあまりにも早熟した建築であり、12世紀後期になるまで比較的小規模な教会でひっそりと真似られるだけであった。

ところで、サンドニ大聖堂ゴシック様式と切っても切り離せないのが、シュジェという12世紀前半から半ばにかけてサンドニ修道院の院長であった人物だ。この辺りのところはゴシック建築に関する本などに非常に詳しく書かれており、私の知識の範囲を超えているので割愛させて頂くが、このシュジェなる人物、相当処世術に長けた人物であったらしい。

10歳の時に修道院に入るが、その時、後のフランス王となるルイ6世と知り合い、交友を深めることで、以降様々な形で政治に関与していくことになる。当時は宗教と政治は密接に関係していた(また反目していた)ので、宗教と政治の双方で重要な地位を占めるということは、世を牛耳るということをも意味していた。

国王の権力を後ろ盾にシュジェはサンドニ修道院の地位を高め、確固たるものとしていく一方で、宗教界でも、その処世術を生かし、教皇にも覚えの高い人物となり、押しも押されぬ人物となっていく。

こういった地位を確立した上で、彼は自分の修道院の改築に着手する。ゴシック研究の第一人者オットー・フォン・ジムソンがその著「ゴシックの大聖堂」で、シュジェ及びサンドニ大聖堂に関し、非常に詳細かつ緻密に論述しているが、彼は、コンスタンチノープルハギア・ソフィア、あるいはソロモンの神殿にインスピレーションを得、ここサンドニにそれを再現しようとした。

1140年に内陣が着工され、その僅か4年後の1144年に献堂されている。この内陣こそが交差ヴォールトを全面に採用、壁面にはステンドグラスが嵌め込まれた周歩廊祭室を持つ、後にゴシック様式と呼ばれるものとなるのである。

その印象は圧倒的で、スケールがそれ程大きくなく、周歩廊祭室の光が人の目線に直に飛び込んでくること、上部には壁が殆どない程ステンドグラスで埋め尽くされていることなどから、シャルトルやパリの大聖堂よりははるかに発展したゴシック様式のように思える。

もっとも内陣上部及び身廊は、シュジェの時代のものではなく13世紀前半の建築家ピエール・ド・モントルイユの手によるものではあるが。とにかくここがゴシック様式発祥の地であり、同様式を確立したシュジェの功績は建築史上、美術史上、大変輝かしいものとなっており、どのような本を読んでも、ここのところは見解が一致している。

サン=ドニと同じ頃(1130年頃から1164年)に建設されたサンス(ブルゴーニュ地方)サンテティエンヌ大聖堂は、周歩廊があるものの袖廊はなく、立面の強弱というロマネス建築特有の構成を持っている。ただし、六分ヴォールト3層にわかれた身廊立面ゴシック建築の要素を持っており、これは以後のゴシック建築に影響を及ぼした。

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12世紀後半になると、ブルゴーニュノルマンディーでは活発な建設活動が行われ初期ゴシック建築の発展を促したが、これは個々の独自性やロマネスク建築の伝統を阻害するものではなかった。ノワイヨンのノートルダム大聖堂サンリスのノートルダム大聖堂16世紀の改築により当時の造形はあまり残っていない)、トゥルネーのノートルダム大聖堂サン・ジェルメール・ド・フリなどは、それぞれロマネスク建築特有の構成を持つもの、あるいは逆にその伝統的形態を全く失ったものもある。

イル=ド=フランスとその周辺部の初期ゴシック建築は、シャンパーニュに広がった。シャロン=アン=シャンパーニュノートルダム=アン=ヴォー聖堂ランスのサン・レミ大聖堂の後陣は、初期ゴシック建築の最終的な完成形態で、両者ともに後陣の立面は4層構造で、大きな開口を取ることによって鳥籠のような線的で軽快な構造となっている。シャンパーニュでは、他にソワッソン大聖堂の袖廊がこれと全く同じ構成を有している。

ブルゴーニュではロマネスク建築が高度に発展していたため、その伝統が生き続けた。ブルゴーニュゴシック建築が導入されるのは1170年頃であり、これはヴェズレーで建設されたサント・マドレーヌ大聖堂の内陣に見ることができる。全体の構成はソワッソン大聖堂の袖廊に近いが、立面は3層構造で、線的な要素を強く意識したものになっており、これは13世紀以降、この地で盛んになる後期ゴシック建築のデザインに受け継がれた。

プランタジネット・ゴシック

ノルマンディゴシック建築の雛形が形成されたにもかかわらず、プランタジネットの勢力下にあった北、西フランスゴシック建築が導入されるのは遅かった。アンジューメーヌポワトゥーなどにゴシック建築が建設されるのは13世紀初頭になってからであるが、プランタジネット家の支配下で形成されたゴシック建築は、イル=ド=フランスとは異なる形態を獲得した。

プランタジネット・ゴシックの代表的な建築物はアンジェのサン・モーリス大聖堂である。極度に湾曲したヴォールトを頂く身廊の立面にはアーケードやクリアストーリなどの分節化が見られない。もともと単廊式で木造天井を持った建築物であったらしく、この形状はポワティエのサンティレール聖堂も同様で、ロマネスク建築の伝統を残す。

アンジェ大聖堂とは異なる形式として名高いのがポワティエの大聖堂で、これは1162年に起工されたが、完成は13世紀末のことである。ほぼ同じ高さ、同じ幅の身廊と側廊で、後にホール式と呼ばれる教会堂の空間に近い。アンジェのサン=セルジュ聖堂はこの形式に則った平面となっているが、細い柱によって分節されたベイと枝リヴによって分節されたヴォールトが、さらに華美な印象を与える。

アンジェポワティエともに、聖堂の形式としてはロマネスク建築において見られるものであり、細部については洗練されているものの、全体としての革新性はイル=ド=フランスのゴシック建築を超えるものではない。プランタジネット朝の建築後期ロマネスク建築初期ゴシック建築との間にそれほどの違いがないことを証明している。

カンタベリー大聖堂とリンカン大聖堂

イングランド本土に建設された最初の本格的なゴシック建築は、1174年に起工されたカンタベリー大聖堂である。最初の建設はギョーム・ド・サンスによって設計されたが、不慮の事故によって工事はイギリス人ウィリアムに引き継がれた。後陣が二重シェル式で造られており、全体として彫塑性の強いイングランドのロマネスク建築の伝統を残している。

リンカン大聖堂カンタベリーの後継であり、パリのノートルダムと対照的なロマネスク建築の厚い壁を思わせるクリアストーリ、屋根裏に開いたトリフォリウムなどの特徴は、イングランドの独自性を物語っている。

フランス王国の盛期ゴシッククラシカル・ゴシック

1194年の火災によって焼け落ちたシャルトルのノートルダム大聖堂は、1210年には身廊が再建され、1230年頃にはおおよその完成をみた。盛期ゴシックの最高傑作と呼ばれるこの大聖堂は、ランとパリのノートルダム大聖堂を踏襲した平面(袖廊はラン、二重周歩廊はパリ)をもっているが、内部はかなり独創的な空間になっている。身廊側の柱身はヴォールトの始まる高さまで真っすぐに伸びており、それまでの聖堂の柱が独立した印象を与えていたのに対して、リブとともに垂直性の高い輪郭となっている。身廊の壁面は高いアーケードと低いトリフォリウム、そして採光を得るためにアーケードと同じ高さのクリアストーリを持った3層構造となっており、パリのノートルダム大聖堂と比べると全体のプロポーションが再構成されているのがわかる。ここに嵌め込まれた166もの聖書のモティーフをちりばめたステンドグラス多数の彫刻で飾られた扉口によって、シャルトル大聖堂はしばしば中世スコラ学世界の結晶とみなされ「凍れる音楽」とも評される。なお「凍れる音楽」という言葉はドイツの哲学者シェリングに由来。

13世紀シャルトル大聖堂は当時流行した形式に沿うような大規模な改修が計画されたが、大聖堂内部の完成度の高さが、それを断念させるほどであった。外観については、本来7つの塔が建てられる予定だったが、こちらは未完成に終わっている。シャルトル大聖堂の影響は大きくソワッソン大聖堂の内陣ランスとアミアンノートルダム大聖堂にそれを見ることができる。

ランスのノートルダム大聖堂は、歴代のフランス国王を聖別する司教座であり、政治的な意味でも重要な聖堂である。その平面と立面の構成は、シャルトル大聖堂に準じたもので、装飾を除けば両者の違いはほとんどない。ランスの大聖堂は、シャルトルとは対照的に内部空間にも植物を模した豊かな装飾をもっており、この点はシャンパーニュ地方の特性を示している。外観についても、シャルトルよりも豊かな装飾で飾られており、フライング・バットレスを受けるキュレの修まりはより洗練されている。ただし建設過程は複雑で、4人の主任建築家が入れ替わっており、これによる施工上の混乱が見られる。

アミアンノートルダム大聖堂は、盛期ゴシックの最も洗練された大聖堂である。1221年ロベール・リュザルシュによって計画されたその大きさは、前述の大聖堂を全て凌駕しており、このため身廊最上部の薔薇窓下に四組窓が追加されている。一つのベイに対して二つの三組アーチの窓が取り付けられ、これらを除いては、ほとんどシャルトルの形態と共通するが、その構成は完全なる均衡を保っている。内陣はすでにクラシカル・ゴシックのものではなくレヨナン式ゴシックの段階に達している。

シャルトルの系譜に連なる最後の大聖堂は、ボーヴェのサン・ピエール大聖堂である。構造的には完全な失敗作で1284年に大規模な崩落をおこしたが、そのまま16世紀まで再建は行われなかった。この大聖堂の建設以後、この種の大聖堂はまったく建設されなくなった。

盛期ゴシック建設の伝播

シャルトルはゴシック建築の一つの頂点であるが、これとは異なった系統に属する聖堂も存在する。盛期ゴシックは、シャルトル大聖堂で確立された系譜のみで語れるものではなくイングランドノルマンディライン川流域アルプスでは、全く別系統の様式が採用された。

ブールジュのサン・テティエンヌ大聖堂は、シャルトルとほぼ同時期に建設された。平面は、パリのノートルダムを直接の源泉としているように思われるが、袖廊はなく、主廊立面は、全体的にほっそりとした印象を与える非常に高いアーケードと、背の低いトリフォリウム、小さなクリアストーリから成る。シャルトルに比べると重量の軽い構造で出来ており、このため構成はとても独創的で、他のいかなるゴシック教会堂にもこれに類似するものはなく、またこの構成を真似たものもたいへん少ない。

ブールジュの影響を受けた数少ない建築物の一つに、ル・マン大聖堂がある。この聖堂の建設経緯は複雑なものであったらしく、ブールジュとの共通点は高いアーケードを保有することをおいて他にない。この部分は、従ってブールジュの建築家の手によるものと考えられる。高窓を高くするためにトリフォリウムが排除され、身廊立面はアーケードとトリフォリウムの二層構造であるが、これは後のレヨナン様式の到来を告げるものである。

 シャルトルをはじめとする大教会堂が建設されていた頃、イングランドノルマンディライン川一帯、そしてアルプス山脈周辺部では、これらとは違ったゴシック建築が形成されようとしていた。北方地域では、ゴシック建築特有とされる薄い壁に対する意識は少なく、むしろ構造壁の厚みを利用した意匠が好まれた。

オセールサン・テティエンヌ聖堂は、1215年に起工されたもので、内部はクリアストーリ、トリフォリウム、アーケードの3層構造から成るが、中間部のトリフォリウムは二重シェル式壁(ミュール・エペ)を意識しており、通路状で背が高く、小円柱によって分節される。

この教会堂と同じ立面を有するものが、1220年頃に起工されたディジョンの教区教会堂であるノートルダム聖堂である。ただし、こちらは下方の窓の部分とトリフォリウムの上部(クリアストーリの下部)に通路が設けられている。両教会堂ともに、その他の意匠は初期ゴシックのもので、クリュニー修道院ノートルダム聖堂やリヨンの大聖堂の身廊部分、シャロン=シュル=ソーヌの大聖堂なども、ほとんど同じ意匠の内部空間を持つ。

カンタベリーでの大聖堂建立によって、イングランドゴシック建築1180年頃から定着しはじめる。アーリー・イングリッシュearly english)と呼ばれる段階における著名な建築物は1225年頃に起工したリンカン大聖堂の身廊である。カンタベリー大聖堂に由来する意匠を持つが、トリフォリウムは身廊に解放された通路状のものではなく、イングランドのロマネスク建築に見られる屋根裏に開いた開口部となっている。壁面はかなり厚く作られており、全体的にずんぐりとした印象で、シャルトル大聖堂のような上方への指向性はない。

ウェストミンスター寺院は、このようなアーリー・イングリッシュの形態に対し、大陸のレヨナン式の意匠を上手く融合させ、新たな空間を創出した。ウェストミンスターの様々な要素、トリフォリウムやクリアストーリは典型的なイングランドの形態であるが、三葉形と多弁飾りの複合トレーサリーといった装飾や、後陣のヴォールト架構は明らかに大陸由来のものである。特に窓のトレーサリーは、以後のイングランドゴシック建築に大きな影響を与えた。

 フランス王国レヨナン式(後期ゴシック)

 

1250年頃に始まる後期ゴシック建築は、それまでのゴシック建築の様相とは本質的に異なる複雑な現象である。後期の教会堂建築は、どちらかと言うと小型化の様相を示しており、これによって内部空間の立面を上・中・下と区切る分節は解け、装飾に対する嗜好性が全体の空間に対する意識を凌駕するようになった。

フランスの後期ゴシックを特徴づけるのは、全体のダイナミックな躍動感ではなく、細部の技巧的洗練と開口部の拡大である。このような現象の第一歩が1250年から始まるレヨナン式で、これは先行するいくつかの建築物にその萌芽が見られる。

サン=ドニ大聖堂は、シュジェール院長による工事の後、1231年に教会堂はさらに再建工事が行われ、1281年に竣工した。この工事で内陣の上部が建て直され、身廊と袖廊が新規に建築された。身廊はクリアストーリが拡大されたため、トリフォリウムの上が全てランセット窓で構成されており、また、トリフォリウムの外側の壁にも開口が設けられたため、身廊立面の全体が透明な壁と化している。

サン=ドニのように質量感を出さないような意匠は、1235年頃に建設されたサン・ジェルマン・アン・レー城館の礼拝堂にも見ることができる。礼拝堂の窓と西側のバラ窓の浮き彫りはレヨナン式の意匠そのものであるが、一方で、二重シェル式壁に特有の(特にブルゴーニュ特有の)特徴をも備えている。

サン=ドニも含めた1230年~1250年頃の建築物は、レヨナン式ゴシックの前段階にあたるもので、コート・スタイルあるいはステイル・ロワイヤル宮廷様式)とも呼ばれる。

聖王ルイ東ローマ帝国から購入したキリストの荊冠の保管所として、1242年頃に建設されたサント・シャペル礼拝堂は、控壁と鉄製補強材によって、軽やかな内部空間を形成している。ステンドグラスと彫刻は技巧性が高くレヨナン式ゴシックへの傾向を如実に現している。

パリに残るこの時期の建築物はノートルダム大聖堂の袖廊で、1245年~1250年にかけて建設された。トリフォリウムに類似する横に長いギャラリーと、その上部に設けられた巨大なバラ窓、そしてその間のスパンドレルにも設けられた開口部が、壁の重量を喪失させる。また、袖廊のファサードは、後にフランス国内外で模倣されるほどの影響力を持った。

サン=ドニとパリのノートルダムは、トロワ大聖堂の内陣1236年頃に起工されたストラスブールノートルダム大聖堂に影響を与えている。特に後者は、レヨナン式の影響を神聖ローマ帝国の領内に拡大させたと言う意味で重要である。オットー朝時代に建設された基礎の上に建設されたストラスブール大聖堂は、ブルゴーニュ特有の意匠を踏襲しつつ、コート・スタイルの要素を取り入れたものとなっており、ファサードについてはパリのノートルダム大聖堂袖廊の影響を認めることができる。

サン=ドニサント・シャペルで高度に洗練されたレヨナン式ゴシックは、北フランス南フランス、そしてイングランド神聖ローマ帝国にまで広がる。イタリアスペインでは、これに反抗するような意匠も形成された。

14世紀前半に入ると教義的と呼べるほどに体系化されたので、後期ゴシック建築は教条的で懐古趣味的と批判されることもある。実際1284年に完成したボーヴェのサン・ピエール大聖堂の後陣1272年に起工されたナルボンヌの大聖堂1280年頃に起工されたボルドーのサンタンドレ大聖堂1308年起工のヌヴェール大聖堂などレヨナン式の教会堂を挙げることができるが、これらには特に目立った形態の進展はない。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路というのをご存知でしょうか?

日本では空海ゆかりの四国八十八か所巡りというのがありますが、キリスト教信者には聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)に続く巡礼路というのが存在します。

エルサレムやローマという聖地は日本人にもよく知られていますが、このサンティアゴ・デ・コンポステーラ関しては、それほど知られていないように思います。

今でも毎年10万人以上の人たちがこの巡礼を行っており(徒歩、自転車、中には馬という人もいるとか)、私もピレネーの方へ行った際には、「巡礼者なのだろうな」と思われる人をたくさん見かけました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラに続くフランスからの巡礼路は全部で4本ありますが、そのうち一本が、ボルドーを通っています。その巡礼路上の3つの教会(大聖堂)が、1998年にユネスコ世界遺産に登録されました。ボルドーの街自体は2007年に世界遺産に登録されていますので、3つの教会だけが街より先に登録されたということです。

世界遺産に登録された一つが、こちらのサンタンドレ大聖堂です。

 

フランボワイアン・ゴシック(Flamboyant)

1340年代以降は、百年戦争の最も熾烈な時期であり、また黒死病の流行にともなってイングランドとフランスの建築活動は完全に停滞した。ヨーロッパのあらゆる活動が再び活発化するのは15世紀になってからであり、この時期まで多くの計画が放棄されたままであった。

  • 大教会堂は建設されなかったが、この時期にいくつかの城郭建築と都市自治体の公共建築が建てられている。
  • 特に城郭建築は、戦時における火器の使用により砦式から稜堡式に移行したが、その結果として居住性は重要性を失い、城郭と宮殿は全く別系統の建築に乖離していった。

15世紀ゴシック建築が復活するが、中世末期の建築は装飾の技巧性が際立つもので、一般にフランボワイアン(火焔式)と呼ばれる。フランスでは古典ゴシックの影響が強く、トレーサリーは幾何学模様のままだったのだが14世紀末から絡み合った曲線が好まれるようになった。このような趣味は、レヨナン式の空間そのものにはあまり影響を与えてはいないが、このレヨナン式とフランボワイアンの混成が、バロック建築の直接の源泉であるとする見方もある。実際に、構造的意味がまったくない小柱や、ヴォールトとは関わりのないようなリブの構成など、構造的な合理性よりも装飾性を求める考えかたは、バロック建築と共通するものと言えるであろう。フランボワイアンの意匠はフランスで生まれたものではなくイングランドのトレーサリー神聖ローマ帝国のネット・ヴォールトを取り入れたものである。

1480年に起工されたリューのシャペル=デュ=サンテスプリに見られる辻飾りのついた扁平星形ヴォールトは、ドイツからもたらされた意匠で、このような背の低いヴォールトはシャンパーニュで好まれた。

フランス中心部では、古典ゴシックから伝統的に垂直性への嗜好が強く1489年以後に起工されたパリのサン・セヴラン聖堂、および1494年起工サン・ジェルヴェ聖堂ルーアンのサン・マクルー教会、そしてモン・サン=ミシェルの大修道院聖堂の内陣などが、このようなフランボワイアンのすばらしい作例として残っている。

イングランドゴシック建築

後期において、発展的と呼べるゴシック建築の潮流は、フランス本土ではなくむしろイングランドゴシック建築であった。 イングランドゴシック建築は、伝統的に3期に分けられる。アーリー・イングリッシュに続き、1290年以降華飾式または曲線式decorated gothic)と呼ばれる建築、そして1330年頃から垂直様式(prependicular gothic)と呼ばれる建築が発達した。

イングランドでは、大陸のフライング・バットレスをあまり採用せず、つねに壁の厚さを想起させる意匠を好み、また、多くの場合、湾曲したアプスではなく平たい東端部を採用した。ほっそりしたプロポーションと薄い壁の意匠を意識した例外的な作例は、ウェストミンスター・アビーのほか数えるほどしかない。華飾式の意匠は、このような傾向のなかで形成されたイングランド独自のゴシック建築であった。

1280年~1290年の間に起工されたエクセターの大聖堂は、アーリー・イングリッシュの典型的な平面を持つが、ヴォールトを支える(ように見える)リブは、アーケード柱頭の持ち送りの上から伸びており、身廊立面は垂直に伸びる線的な要素よりも、面的に見える。イングランドでは大きな窓面が好まれたため、この大聖堂でも湾曲したアプスはなく、大きなステンドグラスを持つ平面的な後陣が採用されている。

1290年に起工されたヨークの大聖堂York Minster)、リッチフィールドの大聖堂などは、エクセターと全く同じ構成で、ほとんど同じ印象を受ける。

イギリスのゴシック建築、国民的様式とされたのが、いわゆる垂直様式である。イングランド南西部ロンドンでほぼ同時期に見られるため、どちらをその起原とするかについては議論がある。あえて直角的構成を採用するなど、大陸のゴシック建築の規範から隔たった概念のもとに形成されているのだが、特にファン・ヴォールトを用いる場合は、天井を支えるのにヴォールトを必要としなかったという点で、すでにゴシック建築ですらない。

1298年に起工し、1341年に完成したブリストルのセント・オーガスティン大聖堂は、バシリカ型ではなく、広間型の平面を持ち、側廊と身廊の高さが同じためクリアストーリが欠如している。従って、内部空間は両者を鮮明に区分することはない。また、ブリストルの建築家たちは、ゴシック建築特有の構成を驚くほど自由に操作し、束ね柱をヴォールトにまで伸ばして、リブ・放射リブ・枝状リブという三段階のヴォールト架構を用いた。側廊の荷重は、簡素な方杖によって横断アーチに渡されておりこれがトンネルのヴールトを形成している。

荷重を方杖によって簡潔に伝達し、これに美的効果をもたらしている最も印象的な例は、ウェルズの大聖堂である。1338年に、交差廊の上部に光塔の建設が計画されたが、この際、塔の荷重を支えるため、交差廊と身廊との間に巨大な方杖が架けられた。その形の奇妙さと大胆さは、大変強い印象を与える。

一方で、ヴォールトに対する自由な発想はグロスターの大聖堂回廊などにも生かされている。グロスターの回廊はファン・ヴォールト(扇形ヴォールト)を用いており、そこに交差リブヴォールトに覆われたゴシック建築の典型的な構成を見ることは不可能である。垂直様式では、交差リブヴォールトが全く捨てられたわけではなかったが、多くの場合、多数の辻飾りが設けられており、その印象は木々の枝張りに例えられたネット・ヴォールトと変わらないものとなった。垂直様式のリブはヴォールト架構とはもはやなんらの関係性もなく、構造的合理性で説明できるものではない。

垂直様式における最高傑作として名高いのが、ウェストミンスター寺院の東端にあるヘンリー7世チャペルである。壁面を埋め尽くす装飾は、ほとんど櫛の目を見るようであり、また天井からは、鍾乳石を思わせる石飾りが、幾つも垂れ下がっている。ここでは本来、石造建築における力学的な都合から誕生したヴォールトが、ほとんどその力学を無視するかのような装飾へと発展している。

イギリスではゴシック建築12世紀末から16世紀中頃までと、ヨーロッパで最も長く展開しただけでなく、その伝統が19世紀まで途絶えることなく、18~19世紀のゴシックの復興もそれに起因したといえる。

 神聖ローマ帝国ポーランド・リトアニア共和国

神聖ローマ帝国では、1230年頃まで特に西方地域でゴシック建築への反抗が根強く見られた。彼らはゴシック建築に無関心というわけではなく、いくつかの教会堂ではゴシック建築から採用されたと思しき装飾も見られるが、あくまで部分的な採用に止まり、構造的・美術的な原理としてゴシック建築を全面的に用いるということがなかった。バーゼルの大聖堂リンブルク・アン・デア・ラーン大聖堂ボンの大聖堂など、12世紀~13世紀初頭のこのような傾向を持つ建築物をトランジション・スタイル移行様式)と呼ぶこともある。

13世紀中期~後期にかけて、帝国内でフランスのゴシック建築が定着することになったが、その伝播はいくつかの芸術の中心地からバラバラに広がる傾向にあったため、ゴシック建築の発展状況は、帝国の政治状況と同じく斑模様である。

いくつかの芸術的中心地を挙げると、まず、ハンザ同盟の市民によって競うように建てられた巨大建築物のひとつ、リューベックのマリーエンキルヘが挙げられる。これは13世紀末~14世紀初頭にかけて、バイエルンプロイセンポーランドデンマークスウェーデンフィンランドなどで、一般にバックスタイン・ゴーティック煉瓦造ゴシック、ブリック・ゴシック)と呼ばれる建築を広めるきっかけとなった。構造として煉瓦を用いているため、細かい装飾は省かれ、むしろ構造を率直に表現する意匠となっている。この様式は北部ドイツからポーランド・リトアニア共和国の領域を中心として分布している。

1235年に身廊の建設が着工されたストラスブール大聖堂は、14世紀になっても依然として帝国内で最大の建築工事として続行しており、これは15世紀中期にまで及んだ。サン=ドニ大聖堂とトロワ大聖堂を規範とした身廊を持つ大聖堂の造営工事は、14世紀半ばに技巧的には最盛期を迎え、エスリンゲンのフラウエンキルヒェやウルムの大聖堂など、アルザスライン川上流部に影響を与えた。1400年代に建設されたストラスブールとウルムの西側両尖塔に見られる独特の形状は、その図像芸術からヴァイヒャー・シュティルWeicher Stil 、柔軟様式)とも呼ばれる。建築自体の影響力は、地域的には限定されていたものの、建築組合の影響は広がりを持っていたらしく、1459年には、ウィーン、ケルン、ベルン、プラハなどの大聖堂の建築工事が、ストラスブールの建築組合によって管理されることが決定した。ただし、この決定が建築の造営にどの程度影響を与えたのかはあまり明確ではない。

1248年に建設が開始されたケルン大聖堂ストラスブールと比肩しうる大規模工事で、フランスのアミアン大聖堂に依拠し、装飾についてはフランスを凌駕するほど壮麗な部分もある。この大聖堂の影響はラインラントに限られるが、オッペンハイムの大聖堂バヒャラッハのヴェルナーカペレなどの技巧性の高い教会堂が残る。アーヘン大聖堂内陣もまた、ケルン大聖堂パリのサント・シャペルの影響を受けたもので、カペッラ・ウィトレアガラスの祭室)と呼ばれる。

イタリア半島ゴシック建築

イタリア半島では、概してゴシック建築への反応は冷淡なものであったが、フランシスコ会とドメニコ会の活動によって、13世紀中期から北、および中央イタリアである程度導入されるようになった。

ゴシック建築の影響を受けたイタリア最初の建築物は、1228年に起工されたアッシジのサン・フランチェスコ聖堂である。ロマネスク建築に見られる単廊式の平面であるが、尖頭リブ・ヴォールトとこれを支える束ね柱、そして内部空間の一貫性は、ゴシック建築を取り入れた独創性の高いものとなっている。ただし、フランスのゴシック建築のように、薄い壁を形成するための構造的な努力はまったく見られず、また、フレスコ画を描くために都合が良いためと思われるが、イングランドのような壁を彫り込むような造形への関心も薄い。従って、サン・フランチェスコは、ゴシック建築というよりも、ゴシック建築の造形を取り入れることによってロマネスク建築の伝統から脱却した教会堂であると言える。

13世紀になっても、イタリアでは典型的なゴシック建築はめずらしい存在であった。

1230年頃に着工されたパドヴァのサンタントニオ大聖堂はロマネスク建築とビザンティン建築の混成様式であるし、1250年頃に起工されたシエーナの大聖堂などは、ファサードを除くとほとんどロマネスク建築のままである。オルヴィエートの大聖堂も、ファサードは美しいゴシック芸術の作品であるが、内部はシエーナと同じロマネスク建築である。

ただし、ゴシック建築の空間が全く無視されていたわけではない。13世紀イタリアでゴシック建築とみなしうる教会堂がフィレンツェに存在する。ドメニコ会が1279年に創建したフィレンツェサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂は、以後トスカーナ地方で建設されるゴシック建築にきわめて大きな影響力を持った教会堂建築であった。側廊が高いため小さな丸いクリアストーリしかない身廊は、装飾がほとんどなく、柱間が広くとられているので、フランスのゴシック建築に比べてゆったりとして簡素な印象である。

サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のようなゴシック建築のスタイルは、以後トスカーナゴシック建築に受け継がれた。これは1300年頃に設計されたフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂と、1294年に着工されたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の身廊を見れば明らかである。サンタ・クローチェ聖堂の造営はフランチェスコ会によるものでサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂には規模的にやや劣るものの、北ヨーロッパの大聖堂に匹敵する大きさである。シトー会の修道院建築から着想されたと思われるデザインで、これを構想したのはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と同じくアルノルフォ・ディ・カンビオであると考えられている。両教会堂の簡素で広々とした空間は、しばしばフランスのゴシック建築の美意識と対立するものとみなされ、ルネサンス建築の先駆けとも評される。1322年から開始されたシエーナの大聖堂拡張工事も、完成していれば、おそらくトスカーナゴシック建築の最良の作品のひとつになったと考えられる。

北イタリアでは14世紀初頭まで宗教建築そのものがあまり重要性を持たなかったが、ビザンティン建築の伝統から脱却しつつあったヴェネツィア共和国では、他の北イタリアに先駆けて、やはり修道会によってゴシック建築が導入される。14世紀初頭に起工されたドミニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂と、1330年頃に起工されたフランシスコ会のサンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ聖堂が、その代表的な建築物である。

14世紀後半になると、北イタリアでもようやく大規模な宗教建築が建立され始める。

1387年には、イタリア・ゴシック建築で最も有名なミラノの大聖堂の建設が始まった。この大聖堂は、中世の建築物としては非常に珍しいことだが、設計過程から職人との詳細なやり取りまで、建設に関わる綿密な記録が残っており、イタリアのみならず、フランス、ドイツでのゴシック建築に対する認識を知ることができる。構造と美術的な審議は1401年から始まり、パリから招かれた審議員はフランス伝統の古典ゴシックの形態を、ドイツ人の審議員は突き抜けるような垂直性の高いプロポーションを、イタリアの審議員は幾何学から導かれる幅の広いプロポーションを主張したことが読み取れる。結果的に、この大聖堂はイタリア独自のゴシック建築というよりも、各国のゴシック建築の美意識を取り入れた折衷的性格の強いものとなっている。しかし1858年まで延々と工事を行ってきたにもかかわらず、全体としての完成度はたいへん高く19世紀に追補されたファサード部分もゴシック・リヴァイヴァルの最高傑作として名高い。