アッシリアの国際的軍事強国への推移は既に中アッシリア王国時代に見られる現象なのですが、アラム人の侵略とその克服という前段階を必要としたのです。
- ここで忘れてはならないのが「ヒクソスのエジプト支配」にも「紀元前1200年のカタストロフ」において「海の民」側としても対抗側としても現れ、旧約聖書に登場するペリシテ人とも縁が深いと目される古来リヴィア人(エジプト以東のアフリカ北岸諸族)の存在。クレタ島経由でミノス/ミケーネ文明と繋がる一方、パレスティナのカナン諸族よりも人的供給を受けていた。
アッシュール・ダン2世(Ashur dan II、在位紀元前934年~紀元前912年)
中アッシリア王国時代のアッシリアの王だが、彼の時代を新アッシリア時代に含める場合も多い。彼の治世自体についての史料は少ないが次代以降のアッシリア王達が拡大路線を取る基盤は彼の時代に構築されたと言える。
ティグラト・ピレセル2世の息子として生まれ、後を継いでアッシリア王となった。治世中内政の充実につとめ、アッシリアの州行政を整え、また農地拡大を推し進めて食糧生産を著しく拡大した。特にティグラト・ピレセル1世の時代以来常にアッシリアの抱える問題であったアラム人の制圧に成功し、アッシリアの国境を安定させたことは極めて重要であった。
彼の死後、息子のアダド・ニラリ2世が王位を継いだ。
アダド・ニラリ2世(在位紀元前911年~紀元前891年)
一般的に新アッシリア時代最初のアッシリア王であると考えられている。それまで名目的にアッシリアの下にあったに過ぎない諸地域をしっかりと確保した。
- アダド・ニラリ2世の治世から紀元前7世紀中旬のアッシュールバニパルの治世までの完全なリンム表(一年任期で交代するリンム職の名前を記したリスト)が残されており、恐らく古代オリエント史において正確に編年を復元できる最初の年はアダド・ニラリ2世の治世第1年(紀元前911年)である。ただし、『アッシリア王名表』は一般にアダド・ニラリ2世より数世紀前までの期間において相当正確であると考えられており、学者たちは紀元前12世紀後半のアッシュール・レシュ・イシ1世の時代まで共通した編年体系を用いている。
アダド・ニラリ2世の父はアッシュール・ダン2世である。小規模な宮廷闘争の後に王位を継承した。王位継承がアッシリアの名目的な属国の間での反乱を誘発した可能性が高い。
- ハブール川とユーフラテス川の合流点で紀元前910年に戦い、問題の種となっていた現地アラム人を征服し追放した。
- 北方では新ヒッタイトとフルリ人を平定した後、バビロニア王シャマシュ・ムダミクを2度攻撃し打ち破った。また同年中にディヤラ川北方の広大な領域と中部メソポタミアのヒートとザンクを併合。
- また治世の後半にはバビロニア(ナブー・シュマ・ウキン1世時代)からさらに領土を獲得。西方へも遠征を行い、アラム人の都市Kadmuhとヌサイビン(ニシビス)を平定。膨大な量の戦利品とともに、ハブール川地方も確保した。
彼の治世は 古代オリエントの経済的な復興の時代にあたっており、フェニキアとアラムの交易路が拡大し、アナトリアとリビア(エジプト以東のアフリカ北岸)、(「海の民」の系譜と推察されるリヴィア人王朝の)第22王朝エジプト(紀元前945年~紀元前715年)、メソポタミア、地中海が結びつけられた。
アダド・ニラリ2世の息子トゥクルティ・ニヌルタ2世も敵国との戦いを続けた。
トゥクルティ・ニヌルタ2世(Tukulti-Ninurta II、在位紀元前891年~紀元前883年)
名前の意味は「我が頼るのはニヌルタ神」である。
アダド・ニラリ2世の息子として生まれ、父の後を継いで紀元前891年にアッシリア王に即位したが、父王の時代にアッシリアが征服したティグリス川西部の諸都市が反乱を起こしたため、遠征を行ってこれを鎮圧した。
紀元前885年にはティグリス川の水源に達し、そこに記念碑を建築したという。こうして各地の反乱を鎮圧し、アッシリアの土台を固めた。
死後、息子のアッシュールナツィルパル2世が王位を継いだ。
アッシュールナツィルパル2世(Ashurnasirpal II, 在位紀元前883年~紀元前859年)
アッカド語ではアッシュール・ナツィル・アプリ(Ashur nasir apli)と表記され「アッシュール神は後継者を守護する」の意味である。新都カルフ(ニムルド)を建設した事で知られる。トゥクルティ・ニヌルタ2世の息子として生まれ、父王の代に強化されたアッシリアを更に強大化した。
- 紀元前883年に即位してから17年間に14回の遠征を遂行。シリア東部や、カルケミシュに進軍したほか、ザグロス山脈方面にも出兵。
- 征服した領土の統治方法として、現地の王に貢納を課すのではなくアッシリア人の総督を派遣する方法を多く用い、以後アッシリア王国の地方統治の範となった。ただし、従属する限りにおいては伝統的な権利を認められた地方君主も多い。
- 古来よりアッシリアの首都であったアッシュールに代わる新都カルフ(ニムルド)を建設。この都市の遺跡からは彼にまつわる数多くの遺物が出土しており、その中にはアッシリア式の建築様式として有名な人頭有翼獣の像などを施したものとして最も古い宮殿が含まれる。この町は以後サルゴン2世がドゥル・シャルキンに遷都するまでアッシリアの首都として機能した。
- 敵を如何に残酷に扱ったかを誇る文章や浮き彫りを残しており、一説には他者を威圧するための政治宣伝であったとも言われる。
- ちなみに馬にまたがる騎兵(Cavalry, Trooper)への移行が最初に確認されるのはこのアッシュールナツィルパル2世時代のレリーフで、裸馬に御者が盾を持ち、弓兵とまたがるという内容。従って速度は遅く、馬の腎臓を傷めたという。
死後、息子のシャルマネセル3世が王位を継いだ。
シャルマネセル3世(Shalmaneser III, 在位紀元前858年~紀元前824年)
アッカド語ではシャルマヌ・アシャレド(Shulmanu asharid)と表記され、名前の意味は「シャルマヌ神は至高なり」である。アッシリアの勢力を大幅に拡大したが、晩年には息子の反乱のために国内は大混乱に陥った。
- アッシュールナツィルパル2世の息子として生まれ、紀元前858年に即位すると父の代に大幅に強化されたアッシリアを更に拡大するべく多数の遠征を行った。
- 即位直後にシリアへの遠征に向かい、アラム系国家ビート・アディニを征服。かかるアッシリアの膨張に対し、シリア地方にある他の諸国は危機感を募らせ反アッシリアの同盟を結んだ。シャルマネセル3世自身が残した碑文によればダマスコ王ハダドエゼル、ハマテ王イルフレニ、イスラエル王アハブなど12の王がこの同盟に参加した。
- 紀元前853年にカルカルの戦いで両者は激突した。シャルマネセル3世はこの戦いを大勝利として記録するが、実際には勝利を収めなかったと考えられる。以降一時期バビロニアに矛先を変えて現地カルデア人達を征服したが、その後も繰り返しシリア地方に侵攻。
- ダマスコ王ハダドエゼルが紀元前842年に死去すると、その息子ハザエルの王位継承に反対してダマスコを攻撃。なおもダマスコの完全征服はできなかったが、これによってシリア地方での優越した地位を確保し、ダマスコ、イスラエル、フェニキアの各都市国家に貢納を課した。しかし、完全征服については断念したと見られる。
- 紀元前844年にウラルトゥ王国に遠征を行ってから、ウラルトゥと長期にわたる戦いを繰り返した。更に紀元前835年以降はメディアとも戦ったが、紀元前832年以降は息子のアッシュール・ダイン・アピルを軍総司令官に任じて彼に指揮を取らせた。
しかしアッシュール・ダイン・アピルは紀元前827年に突如反乱を起こし、カルフ(ニムルド)を除くアッシリアの大半の都市を制圧するに到る。シャルマネセル3世は反乱の鎮圧に成功しないまま紀元前824年死去し、別の息子シャムシ・アダド5世が後を継いで反乱鎮圧を引き継いだ。
シャムシ・アダド5世(Shamshi Adad V, 在位紀元前823年~紀元前811年)
伝説的な女王サンムラマート(セミラミスのモデル)は彼の王妃であった。
- シャルマネセル3世の息子として生まれたが、既に父王の在位中に彼の兄弟であるアッシュール・ダイン・アピルが反乱を起こしており、その最中である紀元前823年に王位を継承。
- アッシュール・ダイン・アピルとの戦いは激しく、一時はアッシリアの大部が彼の手におちた。シャムシ・アダド5世は紀元前820年頃ようやく反乱の鎮圧に成功したが、この反乱は後のサンムラマートの摂政就任と並んでアッシリアの王権弱体化の一因となった。
- アッシュール・ダイン・アピルの反乱を鎮圧すると、ウラルトゥ王国に遠征して領土の一部を獲得した。続いてメディアを攻撃してこれに貢納を課した。
- シャムシ・アダド5世の遠征の中で最も重要なのはバビロニアへの遠征である。バビロニア王マルドゥク・ザキル・シュミ1世はアッシュール・ダイン・アピルの反乱に際してシャムシ・アダド5世を支援する条約を締結しており、それと関係してアッシリア王はバビロニア王に対して下位となっていた。
- しかし、次代のバビロニア王マルドゥク・バラス・イクビとの間で関係が悪化し、紀元前813年頃シャムシ・アダド5世はバビロニア遠征を行った。これによってマルドゥク・バラス・イクビを捕虜とする事に成功した。
- バビロンでは新たにババ・アハ・イディナが即位し戦闘を続けたが、紀元前811年にバビロンを占領してこの王も捕らえた。この直後シャムシ・アダド5世は死去したと見られ、バビロニアに永続的な支配権を打ち立てるには到らなかった。以後バビロニアは深刻な政治混乱に陥り、10年余りの間に5人の王が乱立する。
息子アダド・ニラリ3世が王位を継いだが、この時アダド・ニラリ3世はまだ幼少であったと考えられ、王妃サンムラマートが摂政となって権勢を振るったと推定されている。
摂政サンムラマート(SammurāmatまたはSammuramāt, 紀元前811年~808年)
アッシリア王シャムシ・アダド5世の王妃にしてまだ幼かった息子アダド・ニラリ3世の摂政。ギリシャ神話におけるバビロンの女王セミラミスのモデルとなった人物とされている。
名前の由来
アッシリアの文書ではMÍ sa-am-mu-ra-matと綴られている。
- シケリアのディオドロスはこれをΣεμιραμιςまたはΣεμιραμιςとギリシア文字で綴り、この名前は「シリア語(おそらくアッシリア語)」の「鳩」を意味し、アッカド語のsummatuまたはsummuから派生したことを示すと主張した。
- (ユダヤ教の)ラビらは、この名前をšmy rʿm「天の雷」と理解していた。
- 現代の歴史学者モーシェ・ヴァインフェルドは、この名前はフェニキア語(šmm rmm、「高い天国」)に由来すると示唆している。
- ジェイミー・ノヴォトニーは言語構造的には西セム語またはアッカド語のどちらにも由来を見出し得るものであり、前者の場合原型はDN-rāmu/rāmat("DNは称揚された")、後者の場合原型はDN-ramāt("DNは愛された")と指摘した。
いずれの場合も、名前の最初の部分は神名から来ていると考えるべきであり、 もしこの名前が西セム系の言語に由来する場合、この名前の前半はšammuであった可能性がある(西セム語の音韻/š/は、新アッシリア語の/s/に対応するため)。これが新アッシリア語におけるsammuであるとすれば、dSa(-a-)mu(「赤」を意味する)という神の名前からの派生であった可能性がある。
生涯
シャムシ・アダド5世の妻であり、シャムシ・アダド5世が紀元前811年に亡くなった後、息子アダド・ニラリ3世が成人するまでの5年間、新アッシリア帝国の摂政として、国を統治した。
政治的に不安定な時期に摂政の職に就いており(通常、女性が支配者になることはは考えられなかったにもかかわらず)、アッシリア人がサンムラマートによる統治を受け入れた一つの理由としてありうるのが、この政治的不安定性である。アッシュールの街には、サンムラマートのために建てられたオベリスクがあり、そこには以下のように刻まれている。
サンムラマートの石碑世界の王でありアッシリアの王であるシャムシ・アダドの王妃であり、世界の王でありアッシリアの王であるアダド・ニラリの母であり、四方世界の王であるシャルマネセルの義理の娘である、
サンムラマートの孫がシャルマネセル4世である。
セミラミス
女王セミラミスは、通常、神話上の人物に過ぎないと考えられているが、アッシリアの記録には、セミラミスが、実際はサンムラマートをギリシャ語化させたものである可能性があることを示唆する証拠がある。もっとも、このような同一視には異論もある。
別の可能性として、サンムラマートが死後、シュメール神にあやかった称号を与えられたのではないかということが指摘されている。女性でありながら統治をうまく行うことができたことで、アッシリア人はサンムラマートに特別な敬意をもったと推測され、サンムラマートの統治の成果(破壊的な内戦後の帝国の安定と強化を含む)が世代を超えて語り継がれたため、最終的にサンムラマートは神話上の人物になったと考えられる。
ジョルジュ・ルーは、後にギリシア人とイラン人(ペルシャ人とメディア人)がセミラミス神話をつくりあげたのは、サンムラマートがこれらの民族に対し軍事的な成功を収めたことと、そのような帝国を支配する女性が目新しかったことによると推測している。
アダド・ニラリ3世(Adad-nirari III / Adad-narari, 在位紀元前811年~紀元前783年)
シャムシ・アダド5世の息子であり後継者であったが、即位後最初の5年間、母親のサンムラマートが極めて大きな影響力を持っていたことから即位の時にはかなり若かったと思われる。サンムラマートが振るった影響力はセミラミスの伝説を生み出した。サンムラマートは摂政として行動したという見解は広く退けられているが、この時代の彼女の影響力は巨大なものであった。またアダド・ニラリ3世の若さと、彼の父親がその治世初期に直面していた権力闘争はアッシリアのメソポタミアに対する支配に深刻な弱体化をもたらし、多数の将軍、総督、地方統治者の野心を刺激した。
- アッシュール・ニラリ5世、シャルマネセル4世、そしてアッシュール・ダン3世の父親。ティグラト・ピレセル3世は自らをアダド・ニラリ3世の息子であると王碑文において描写しているが、これが真実であるかどうかは不明瞭である。
- アダド・ニラリ3世の碑文によれば、彼は祖父のシャルマネセル3世の時代にアッシリアが享受していた力を取り戻すために複数の遠征を指揮した。リンム年代記も彼がその18年間の統治が終わる(紀元前783年)まで、あらゆる邦楽に向けて遠征を行い、またニネヴェにナブー神殿を建設したと記す。
- 紀元前796年にはベン・ハダド3世治世下のダマスカスを包囲したが、これはダマスカスのアラム人王国の衰退とヨアシュおよびヤロブアム2世治下のイスラエル王国の復活をもたらした(彼らはこの時アッシリア王に貢納を行った)。
こうしたアダド・ニラリ3世の精力的な行動にも関わらず、彼の死後、アッシリアは数十年にわたる長い弱体化の時代に入る。
シャルマネセル4世(Shalmaneser IV, 在位紀元前783年~紀元前773年)
名前の意味は「シャルマヌ神は至高なり」である。父親アダド・ニラリ3世の跡を継いで王となり、彼の跡は、兄弟のアッシュール・ダン3世が継いだ。彼の治世期間について、現存する史料は極めて少ない。
リンム年代記(eponym canon)によれば、シャルマネセル4世はウラルトゥへの遠征を数回率いた。
彼の統治権は高官たち、とりわけ軍の最高司令官であったシャムシ・イルによって厳しく制限されていた。
アッシュール・ダン3世(Ashur dan III, 在位紀元前772年~紀元前755年)
彼の治世に日食(Assyrian eclipse)が観測された事が記録に残っている。
- アッシリアでは毎年リンムと呼ばれる役職に1人の人間が選出され、毎年の記録はその年のリンム職にあった人間の名前で記録された。アッシュール・ダン3世の治世中のリンム、ブル・サギレの年に日食が起こったことが記録されているが、この日食が天文学的に紀元前763年6月15日に発生したことが割り出せるため、この年がアッシリア年代学の基点となっている。このためアッシュール・ダン3世の治世と連結可能な記録が残っていれば、非常に正確な編年を割り出すことが可能である。たとえば、新アッシリア時代の各王の治世年などは、この年を基点にして統治年数を加算、減算することで割りだされている。
アダド・ニラリ3世の息子として生まれ、兄王シャルマネセル4世の後を継いでアッシリア王となった。前王時代より引き続いてシャムシ・イルが大きな勢力を振るっており、また宦官勢力も依然として強力であったため、彼自身の権力はかなり制限されたと考えられる。王権が弱く、また地方長官の自立傾向が目立った時代であったため大きな業績は無いが、シリアへの遠征や反乱の鎮圧の記録が残っている。
彼の死後、弟のアッシュール・ニラリ5世が王位を継いだ。
アッシュール・ニラリ5世(Ashur nirari V, 在位紀元前754年~紀元前745年)
中央政府の権力が弱まる中即位し、また在位中に多くの反乱が発生するなどしたために大きな業績は少ない。
アダド・ニラリ3世の息子として生まれ、兄王アッシュール・ダン3世の後を継いで紀元前754年頃即位したが、当時のアッシリアは地方長官の権限が強まり半独立傾向を示した上に中央政府では宦官の勢力が拡大し、更に将軍シャムシ・イルが影響力を振るっており、アッシュール・ニラリ5世の権限は非常に限られていた。
紀元前753年頃、アルパドに遠征を行ってアルパド王マティールを服属させる事に成功したが、その後行われたウラルトゥへの遠征はウラルトゥ王サルドゥリ(サルドゥリシュ)2世(紀元前753年~735年)によって破られ失敗した。
- その後反乱が続発。紀元前745年頃カルフ(ニムルド)で何らかの異変が発生して王位はティグラト・ピレセル3世によって奪われ、恐らくこの時に死亡した。
- ティグラト・ピレセル3世とアッシュール・ニラリ5世の関係は明らかではない。ある説によればティグラト・ピレセル3世はアッシュール・ニラリ5世の息子、又は兄弟であるという。また別の説によれば、ティグラト・ピレセル3世は王族では無い簒奪者であったという。
どちらにせよアッシュール・ニラリ5世に関してティグラト・ピレセル3世はその王碑文で全く触れておらず、政治的に敵対関係にあった事が推測される。
そしていよいよ「新アッシリア帝国」時代が始まるという次第…