アッシリアは常備軍を備えて以降国際的軍事強国となり、その一方で常備軍維持の為に略奪遠征を繰り返さざるを得なくなり、最終的に周囲に(財産を奪える富裕な)強敵がいなくなった時点で自壊します。
この時代のアッシリアはしばしば「新アッシリア帝国」と呼ばれます。
ティグラト・ピレセル3世(Tiglath Pileser III, 在位紀元前744年~紀元前727年)
アッカド語ではトゥクルティ・アピル・エシャラ(Tukulti apil Esharra)と表記され「我が頼りとするはエシャラの息子」と言う意味である。
彼の名前は旧約聖書やバビロニアの記録にはプル王として記録されている。これは彼の名、トゥクルティ・アピル・エシャラのアピルを極端に省略した蔑称と考えられ、彼を憎んだ被支配者達がこの名で記録に残したと考えられる。
王位継承
ティグラト・ピレセル3世の出自は明らかではない。王碑文の中で前任者に触れない事から、簒奪者ではないかとも言われる。王族の血筋であったのかどうかも定かではない。
*「出自が曖昧」という辺りが「モンゴル世界帝国を興したチンギス・ハーンの精神的継承者」ティムール(ペルシア語: تيمور Tīmūr/Taymūr, 1336年~1405年, ティムール朝主導者としての在位1370年~1405年)を想起させますね。
紀元前745年頃にカルフ(現ニムルド)でなんらかの混乱、又は反乱が発生し、その結果ティグラト・ピレセル3世がアッシリア王となった。
- かねてより自立傾向を示した地方長官達を制御するため、即位するとすぐに州を細分化して個々の勢力を削減。
- またサンムラマートによって強まっていた宦官の権限を弱体化させた。
- 更に軍制改革を行い常備軍を編成した。恐らく同時期に閲兵用の砦も建設されている。
こうした処置によって王権の強化を図ると、以後繰り返し軍事遠征を行って大きな成果を挙げた。
ウラルトゥ遠征
- 紀元前744年のうちにイラン高原西部の部族を攻撃してこれを服属させ、その後アッシリアに対する同盟を結んでいたウラルトゥ王国、並びにシリアの諸王国と戦い、紀元前743年にウラルトゥ軍を破る。
- そして紀元前742年にシリア地方の同盟諸国の中心であったアルパドを攻撃。3年にもわたる包囲戦の後、紀元前740年に陥落させる。
- さらに紀元前738年にはイスラエル王国に侵攻し、周辺諸国も威圧してユダ王国やダマスコに貢納させた。
- その後方向を北に転じて再びウラルトゥを攻撃し、紀元前736年にウラルトゥ王国の首都ヴァンを攻撃してこれを陥落させて領土に編入した。
シリア・エフライム戦争
- 紀元前734年にはエジプトに近いガザに進軍したが、その最中に貢納国であったイスラエル王国やダマスコ等が反アッシリアの同盟を結んで反乱を起こした。ユダ王国の王アハズは親アッシリア政策を取りこの同盟に参加しなかったため、イスラエルとダマスコはユダ王国を攻撃(シリア・エフライム戦争:シリアはダマスコ、エフライムはイスラエルの意)。これに対してアハズがダマスコ攻撃をアッシリアに要請してきた為、紀元前732年に再びダマスコを攻撃してその王レツィンを倒し、これを完全に征服して州とした。
バビロニア遠征
紀元前731年と紀元前729年にはバビロニア(バビロンE王朝)に遠征してナブー・ムキン・ゼリを打倒し、自らバビロニア王(バビロン第10王朝)となって支配下に組み入れた。その後、シナイ半島の諸部族にまで貢納を課した。
死去
紀元前727年に死去し、州長官を務めていたシャルマネセル5世が後を継いだ。
アッシリア王国がメソポタミアを統一したときの王であるティグラト・ピレセル3世の治世は革命的でした。王は帝国主義的な政治に切り替え、アッシリアに服従した国は属国として、抵抗した国は滅ぼして領地とし、属州にしました。
また、大規模な軍制改革を行いました。それまで、アッシリアの軍隊は自由農民や奴隷たちによって構成されていました。ティグラトピレセル王は属州や属国から徴兵されてきて訓練を受けた職業軍人を育成し、戦いがあるときだけ軍隊を作るのではなく常備しておくことにしました。
戦車にも改良を加えました。それまではスポークが6本の車輪の小型馬車を2頭の馬にひかせ、2人で乗っていましたが、スピードは出るのですが壊れやすく安全性に欠けるものでした。王の軍事改革後の戦車は8本スポークの車輪の大型馬車で、3頭の馬がひき3人で乗り込むことができました。
2人乗りの戦車には弓を射る軍人が乗るだけだったのですが、3人乗りになると馬を操る御者、弓を射る兵、そして盾で守る兵が乗れるようになりました。このおかげで攻撃する兵は攻撃に集中でき、また防御力も上がりました。ティグラト・ピレセル王の軍制大改革によってアッシリアの兵力は上がり、メソポタミアを統一するに至ったのです。
シャルマネセル5世(Shalmaneser V, 在位紀元前727年~紀元前722年)
アッカド語ではシャルマヌ・アシャレド (Shulmanu asharid) と表記され、その意味は「シャルマヌ神は至高なり」である。ティグラト・ピレセル3世の子として生まれた。父王の治世にはジミッラ (zimirra) 州の長官を務めていた。ティグラト・ピレセル3世の死に伴い、紀元前727年のテヴェトの月の25日に王位を継ぐ。
- 王位継承に伴い、それまで用いていた「ウルラユ」という名前を、アッカド語の名前に改名している。バビロン王としては依然ウルラユの名を使い続けたという説もあるが、公式な記録には残されていない。
- 旧約聖書「列王記」において、シャルマネセル5世は、サマリア占領と後のアッシリア捕囚を引き起こした人物として記載されている。すなわち、列王記第17章及び第18章によれば、シャルマネセル5世は、イスラエル王ホシェアに対し、エジプト王オソルコン4世に書状を送り、シャルマネセル5世に対する反乱を共謀したとの疑いをかけ、ホシェアを捕えた。エジプトは、当時アッシリアの付庸国に支配されていたイスラエルに拠点を設けたいと考え、付庸国の王たちがアッシリアに反乱を起こすようにそそのかし、軍事的支援を行った。シャルマネセル5世はサマリアを3年間包囲したのちに、最終的にサマリアを占領した。シャルマネセル5世がアッシリアへと連れ去ったイスラエルの部族は「(ティグラト・ピレセル3世が連れ去った部族と合わせ)失われた10部族(Ten Lost Tribes)」と呼ばれる。
紀元前722年にシャルマネセル5世は死去した。王碑文が残ってない上に他の史料にもほとんど登場せず、治世についての情報は少ない。
サルゴン2世(Sargon II, 紀元前722年~紀元前705年 )
アッカド語でŠarru-kīn。恐らく「真の王 」あるいは「正統なる王」の意。自分はティグラト・ピレセル3世(在位紀元前745年~紀元前727年)の息子であると主張しているが、これは不確かであり、恐らくシャルマネセル5世から王位を簒奪した。王となる前のサルゴン2世についてわかっていることは何もない。アッシリアの滅亡に至るまで1世紀近く新アッシリア帝国を統治することとなるサルゴン王朝の創始者として新アッシリア時代の最も重要な王の1人。王となった時、既に中年と言える年齢であり、恐らく40代であった。
概要
恐らく2,000年近く前にアッカド帝国を建設しメソポタミアの大部分を支配した伝説的君主サルゴンから名前を取り、世界を征服することを目指した軍事遠征によって古代の同名の王の足跡を辿ることを切望した。敬虔さ、正義、活動力、治世、そして強さのイメージを自分に持たせようとした。そして数多くの軍事的業績によって偉大な征服者、戦術家として認められる事に成功した。
アッシリアがメソポタミアの中核地帯に拠点を置く王国から真に多国・多民族的帝国へと変貌を遂げたのは主としてサルゴン2世とその後継者たちの時代であったが、この帝国の建設と発展は、ティグラト・ピレセル3世の治世における広範な民生・軍事改革によって可能となった。
さらに、ティグラト・ピレセル3世はバビロンとウラルトゥを従え、地中海の海岸地帯を征服する一連の遠征に取り掛かり、成功した。彼が成し遂げた軍事的革新には各州への課税に代えて兵士を徴発することなどがあり、アッシリア軍はこの時点で最も整備された軍隊の一つとなった。
治世初期と反乱
すでに3年目に入った先王シャルマネセル5世のサマリア(現イスラエル領)包囲を継承すると、すぐにこの地の税と労役を廃止(後に碑文において彼はこの税と労役を批判した)。目論見通りサマリアは迅速に陥落し、これによってイスラエル王国は滅亡した。
- サルゴン2世自身の碑文によれば、27,290人のユダヤ人がイスラエルから追放され、アッシリア帝国全域に再定住させられた。これは打ち破った敵国の人々を強制移住させるアッシリアの処分方法に沿ったものであり、この強制移住は有名なイスラエルの10支族の喪失を引き起こした。
次いでアッシリアの中核地帯と帝国の周辺地域における抵抗に直面。これはおそらく彼が簒奪者であったからである。
- まずはダマスカス、ハマト、アルパドの様な、かつて独立していたレヴァント諸王国に目をつけ、まずは紀元前720年に反乱主導者Yau-bi'diが率いるハマトを打倒し破壊。さらに同年のカルカルでの戦いでダマスカスとアルパドも撃破。
カルフに戻ると6,000~6,300人の「アッシリア人の罪人」または「恩義を知らぬ市民」(アッシリア帝国の中核地帯で反乱を起こしたか、サルゴン2世の即位を支持しなかった人々)をシリアに強制移住させ、ハマトや内乱によって破壊され損傷を受けた都市を再建させた。
バビロニアの反乱、そしてカルケミシュとウラルトゥの「討伐」
かつてメソポタミア南部の独立した王国であったバビロニアの反乱も反旗を翻した。バビロニアの有力な部族ビート・ヤキン(Bit-Yakin)の首長メロダク・バルアダン2世(マルドゥク・アプラ・イディナ2世)がバビロンの支配を奪い、バビロニアにおけるアッシリア支配の終了を告げたのである。
直ちに鎮圧軍が派遣されたがメロダク・バルアダン2世はアッシリアと敵対していたエラムと速やかに同盟を結んで大軍を編成。紀元前720年アッシリア軍とエラム軍がデール市近郊の平野で会戦(バビロニア軍は戦場への到着が遅れ、この戦闘には参加していない)。この戦いに勝利したメロダク・バルアダン2世が南部メソポタミアの支配権を確保した。
- 余談であるが2世紀後、同じ戦場でハカーマニシュ朝(アケメネス朝ペルシア)の軍隊が最後のバビロニア王ナボニドゥスを破ることになる。
一方、サルゴン2世は紀元前717年小さいが富裕なカルケミシュ王国の征服に力を傾けていく。
- この小国はアッシリア、アナトリア、そして地中海の交点に位置するとともにユーフラテス川の重要な渡河点を管理し、数世紀にわたり国際交易から利益を得ていた。
- さらには紀元前二千年紀に栄えたヒッタイトの旧領土内にあるアナトリアとシリアの諸王国に対し、ヒッタイトの後継者として半ば覇権的な役割を果たしており、その威光をさらに高めていたのである。
- かつてのアッシリアの同盟国であったカルケミシュを攻撃する為、カルケミシュの王ピシリ(Pisiri)がサルゴンを裏切って敵に売り渡したという口実で、サルゴンは王国と結んでいた条約を破った。
- 小国がアッシリアに対抗する手段は乏しく、カルケミシュはサルゴン2世によって征服され、この征服によってサルゴン2世はカルケミシュの巨大な国庫を接収することができた。それには330キログラムの精錬された金、大量の銅、象牙、鉄、そして60トン以上の銀が含まれる。
こうしてカルケミシュの国庫から膨大な銀を確保したことで、アッシリア経済は銅本位から銀本位へと変化を遂げた。当面の軍資金も蓄える事が出来た。
- 紀元前716年の遠征では、現在のイランにあったマンナエを攻撃し、その神殿を略奪。
- 紀元前715年にはメディアと呼ばれる地域で村落や都市を征服し、獲得した財宝と捕虜をカルフに送った。
次に攻略対象として選んだのは、次第に力を盛り返しつつあったウラルトゥであった。
- シャルマネセル5世の治世から再びアッシリアとの国境を侵す様になり、紀元前719年と紀元前717年には軍を派遣せねばならなくなったが、本格的な戦力投入は紀元前715年からで、その間にウラルトゥはアッシリアの国境にある22の都市を占領することに成功。これらの都市は速やかに奪回され、サルゴン側はウラルトゥの南部地域の破壊によって報復したが、以降もウラルトゥからの侵攻は続いていた。
- ちなみにサルゴン2世は敵ながらウラルトゥに敬意を払い、彼自身の碑文ではウラルトゥに対して敬意を示し、その素早い通信網、ウマ、運河網を称賛している。
- 際どい戦いだったが、結論から言えばサルゴン2世側が辛勝して敵を敗走させる事に成功する。その後、建設途中の要塞や大神殿ムサシルとハルディ神殿の聖域を破壊し尽くし、そこに長年に渡って奉納されてきた財宝を根こそぎ奪取して撤退。獲得した総分量は銀が10トン、金が1トン以上に達したという。今回の襲撃も裏の目的はやはり郡資金調達にあった様である。
そしてサルゴン2世の碑文によれば、ウラルトゥ王ルサ1世はこの報を受けると自殺した。
「新首都」ドゥル・シャルキン建設
紀元前713年の段階で、サルゴン2世は遠征の成功によって財政を強化しており、新たな首都とすることを意図してドゥル・シャルキン(アッカド語:Dur-Šarru-kīn、「サルゴンの要塞」の意)の建設に取り掛かった。
- それは壮大な試みで、これまでアッシリア王が建てた宮殿の中で最大かつ最も装飾豊かな宮殿であった。浮彫が宮殿の壁面を飾り、サルゴン2世の征服の場面、特にウラルトゥ遠征とムサシルの略奪が詳細に描かれていた。
その一方で周囲を囲む城壁は完全に要塞そのものだったという。
後期遠征
紀元前711年には現在のイスラエルにあったアシュドドを征服。またシロ・ヒッタイトの王国グルグム(紀元前711年)とクンムッフ(紀元前708年)をアッシリア帝国に組み込んだ。
紀元前713年の中央アナトリア遠征はタバルの小王国の征服を目指して行われ、ここにアッシリアの属州を置くことに成功した。だがこの属州は流血の反乱の後、紀元前711年に失われた。これはそれまでのアッシリアの歴史においてかつて無かったことである。
バビロン再征服
サルゴン2世の最大の勝利は、紀元前710年~紀元前709年にライバルであったバビロンの王メロダク・バルアダン2世を打ち破ったことである。
- 南部(バビロニア)におけるアッシリアの支配を回復しようとした最初の試みが失敗して以来、バビロニアはサルゴン2世に反目し続けていた。サルゴン2世は状況打開のためには過去に用いた単純な解決法とは異なる戦略を用いなければならないことを理解していた。紀元前710年にサルゴンが南へ向けて進発した時、アッシリア帝国の行政とドゥル・シャルキンの建設事業監督は息子で王太子のセンナケリブ(シン・アヘ・エリバ)の手に委ねられた。
- サルゴンはすぐにバビロンへは向かわず、代わりにティグリス川の東岸に沿って、アッシリア人がスラップ(Surappu)と言う名前で呼んだ川のそばにあったドゥル・アタラ市まで進む。当然メロダク・バルアダン2世によって要塞化されていたが速やかにこれを占領し、新たな属州ガンブル(Gambulu)の設置とドゥル・ナブー(Dur-Nabu)への改名を宣言した。これはこの都市周辺の土地を領土とすると宣言するものであった。
- サルゴンはこの地にしばし止まり、住民を服属させつ迎撃に現れるアラム人とエラム人の戦士達を各個撃破し続けた。これは彼らがメロダク・バルアダン2世と結ぶのを防ぐための処置だったのである。
- その後おもむろに軍を進め、ティグリス川とユーフラテス川の支流の一つを渡ってバビロンに近いドゥル・ラディンニ市に到着するとメロダク・バルアダン2世は側近達に持てるだけの財宝や王宮調度品を持した上で闇に紛れて逃走した。おそらく反撃に十分な兵力を集められなくなっていたのである。
以降しばらくそうやって都市から都市への追っ掛けっこを続けた後に交渉となり、紀元前709年、サルゴン2世がメロダク・バルアダン2世の命を保障するのと引き換えに、最後に立て篭もった都市を明け渡して外側の城壁を取り壊す事が合意されたのである。
治世末期
バビロニア再征服後、サルゴン2世はバビロンの市民からバビロン王に推戴され、続く3年間、バビロンのメロダク・バルアダン2世の宮殿に滞在。バーレーンやキュプロスのようなアッシリア帝国の中心部から遠く隔たった国々の支配者から拝礼と貢納を受けた。
- 紀元前707年いくつかのキュプロスの王国がアッシリアの支援を受けたアッシリアの属国ティロスによって打ち破られた。この遠征はキュプロス島にアッシリアの支配を確立することには繋がらなかったが、同盟国を助けるためアッシリアは歴史上初めてアッシリア人がアドナナ(Adonana)と呼ぶキュプロスの詳細な知識を獲得する事になったのだった。
- サルゴン2世はバビロンの新年祭に参加するとともに、ボルシッパからバビロンへ新しい運河を掘削し、ハマラナ人(Hamaranaeans)と呼ばれる人々を打ち破った。彼らはシッパル市近傍で隊商を襲っていた。
サルゴン2世がバビロンに居を構えていた間、センナケリブがカルフで摂政を担い続けていたが紀元前706年にサルゴンがアッシリアの中核地帯に帰還すると宮廷はドゥル・シャルキンに移転した。この都市の建設作業は未だ完了していなかったが、サルゴン2世は自身の栄誉として建設を夢見たこの首都をようやく楽しむことができた。だが、それは長くは続かなかったのである。
- 紀元前705年、サルゴン2世は反乱を起こしたタバル地方を再びアッシリアの属州へと戻すべくタバルに戻った。
- 成功裡に終わったバビロニアへの遠征の時のように、サルゴン2世はセンナケリブをアッシリアの中核地帯を担当させるために残し、自らは軍を率いてメソポタミアを経由してアナトリアに入った。
- サルゴン2世は明らかにタバルのような小国が持つ真の脅威を認識していなかった。タバルはこの頃、キンメリア人との同盟によって強化されていたのである(キンメリア人は後に戻って来てアッシリアにとって頭痛の種となる)。
サルゴン2世は自ら戦闘に加わって命を落とし、アッシリア軍に大きな衝撃を与えた。遺体も敵の手に落ち、アッシリア兵はこれを回収する事ができなかった。
センナケリブ(Sennacherib、在位:紀元前705年~紀元前681年)
バビロンとユダ王国に対する軍事遠征、および建設事業(特に、アッシリアの首都ニネヴェにおけるもの)によって著名である。
紀元前681年に暗殺されたことが伝わるが、その際の状況はよくわかっていない。最年少の息子エサルハドンを後継者としていたことと関連して、息子の1人によって殺害されたと見られている。
王位継承と大規模遠征の記録
サルゴン2世の陣没(紀元前705年)に続いたセンナケリブの即位年として、古代の記録は3つの異なる年(紀元前705年、紀元前704年、紀元前703年)を伝える。これはその王位継承が円滑なものではなかったことを示している。
- 恐らくセンナケリブはサルゴン2世の長男ではなかったが(彼の名前は、月神シンが兄弟の代わりを与えてくれた、という意味を持つ)、兄弟達が先に死亡した為に王位を継ぐ為の英才教育を施され、幼い頃から行政の実務を任されてきた。
- 王位継承の際、エジプト人の扇動によるシリア・パレスチナの蜂起が発生し、バビロニアではさらに深刻な、マルドゥク・アプラ・イディナ2世(メロダク・バルアダン2世)の再度の反乱が勃発した(彼はサルゴン2世に敗れた後、エラムへと逃亡していた)。マルドゥク・アプラ・イディナ2世はバビロン王位に就くと、反乱に賛同するカルデア人、アルメニア人、アラブ人、そしてエラム人を集め、大軍を組織した。
センナケリブの最初の遠征は紀元前703年末、マルドゥク・アプラ・イディナ2世に対して始められたもので。センナケリブはこの遠征で勝利を収め、マルドゥク・アプラ・イディナ2世は再びエラム人の保護を求めて逃亡した。
- センナケリブ自身が残した碑文によれば、キシュの平野でマルドゥク・アプラ・イディナ2世を打ち破った後、バビロンを占領して宝物庫を接収し、75の要塞と420の小都市を陥落させたという。ベル・イブニという名前の傀儡の王が立てられ、その後2年の間バビロンは平穏を保った。
紀元前701年には標的をバビロニアから、帝国の西部にあるユダ王ヒゼキヤへ変えた。ヒゼキヤは(ヌビア人が支配する)第25王朝エジプトとマルドゥク・アプラ・イディナ2世にそそのかされ、アッシリアに対して反旗を翻していたのである。
- この反乱は、この地域にあるカナン人とフェニキア人の小国群を巻き込んだ。より具体的にはシドンとアシュケロンが武力制圧され、ビュブロス、アシュドド、アンモン、モアブそしてエドムなどが抵抗を諦め貢納を支払い。エクロンがエジプトに救援を求めた結果、エジプト軍がアッシリア軍に敗北する。
- その後センナケリブはユダ王国の首都エルサレム市へ向かった。エルサレムを包囲して周囲の町々を、アッシリアの属国となっていたエクロン、ガザ、アシュドドに与える一方、エルサレム占領までは遂行せずヒゼキヤはアッシリアの臣下として王位を維持した。
- 旧約聖書の「列王記下」によれば、エルサレムを包囲していたアッシリア軍がヤハウェ(神)の使いによって撃たれたため撤退したとなっているが、アッシリア側の記録にはエルサレム占領を断念した理由を記すものはない。
センナケリブはバビロンに立てた傀儡王ベル・イブニを自身の宮殿で「小犬のごとく」成長したと描写しており、彼が従順であることを期待していたが、結局それまでのバビロニア人と同じように反乱を起こした。
- 紀元前700年センナケリブは彼を除き、息子のアッシュール・ナディン・シュミをバビロンの王に据えた。
- 以前バビロン王だったマルドゥク・アプラ・イディナ2世はエラムの支援で反乱を継続しており、センナケリブは紀元前694年フェニキア艦隊をティグリス川に展開させ、ペルシア湾岸にあるエラム人の基地を破壊する。
- この間にエラム人はアッシュール・ナディン・シュミを捕らえ、マルドゥク・アプラ・イディナ2世の息子ネルガル・ウシェズィブをバビロンの王とする。アッシュール・ナディン・シュミは以後完全に行方不明となった。後継者と目されていた彼を失った事が以降の王位継承争いの遠因となる。
- センナケリブは紀元前693年にネルガル・ウシェズィブを捕らえてニネヴェに送り、再度エラムを攻撃した。エラム王は山岳地帯へ逃亡し、センナケリブはエラムを略奪。
- しかし、センナケリブが撤退すると、エラム人は再びバビロンに現れ、別の反乱指導者ムシェズィプ・マルドゥクをバビロニア王位につけた。
紀元前689年長期に渡る包囲の末、センナケリブはバビロンを陥落させた。センナケリブはバビロン市を完全に破壊し「バビロニア問題」に終止符を打とうとする。この時センナケリブは、周辺の運河の水を流し込み、都市の基礎となる土地そのものさえも破壊したという。
小規模な遠征
センナケリブは国境地帯で小規模な遠征を行った。
- 紀元前702年と、紀元前699年~紀元前697年、幾つかの遠征をアッシリア東方の山岳地帯で行い、その成果としてメディア人から貢納を受けた事もあった。
- 紀元前696年と紀元前695年、遠征隊をアナトリアに派遣した。現地ではサルゴン2世の死以来、複数の属王が反乱を起こしていた。
- 紀元前690年頃にはアラビア砂漠北部へ遠征を行い、アラブ人の女王が逃げ込んだドゥマト・アル=ジャンダルを征服した。
しかし既に帝国は広大であり、これらの遠征では特筆すべき領土拡大はなかった。
アッシリア帝国は地方に分かれており、それぞれの地方総督は道路の保全や公共建築、行政政策の実現に責任を負っていた。
- 帝国の政策の重要な要素の1つは、人々の大規模な追放と再配置である。その目的は懲罰、反乱の抑止、帝国内の食糧生産を維持するための過疎地帯の人口回復であった。
- 紀元前745年~紀元前612年の間に450万人もの人々が移動させられた可能性がある。センナケリブの治世だけでも47万人が移動させられたかもしれない。
この時代に建造された建造物の壁面の石製彫刻には数多くの戦闘場面、串刺し、センナケリブの眼前で戦利品をもって練り歩く兵士たちなどが描かれている。彼は自らの征服活動を誇り、バビロンについても「その住民は、老いも若きも、余は憐れむことはなかった。そして彼らの死体で、余はその都の通りを埋め尽くした。」と書いているほか、ラキシュの戦いについて書いたセンナケリブの手紙では「そしてユダのヒゼキヤ、我が軛に従わざる者...彼を、余はエルサレムに閉じ込めた。彼の王都は鳥籠の如きものであった。土塁を築き、そして誰であれ、彼の市門から出てくる者には彼の罪の代償を支払わせた。余が略奪したる彼の町々を、余は彼の地から切り離した。」と述べている。
晩年の王位継承戦争
センケナリブは最初、長男のアッシュール・ナディン・シュミを自らの王位継承者とみなし、バビロニア統治も任せていたが彼がエラムの地に連れ去られて行方知れずとなってしまった為、新たに末子のエサルハドンを後継者とした。
この判断に不満を持つ兄弟達の間で王位継承戦争が起こり、その過程でセンケナリブ自身も命を落とすが、エサルハドンは最終的に王位継承戦争に勝利し、センケナリブの王国を継承した。
エサルハドン(Esarhaddon / Essarhaddon / Assarhaddon / Ashurhaddon、アッシュール・アハ・イディナ(Aššur-aḫa-iddina)=「アッシュール神は兄弟の代わりを賜れり」, Z在位紀元前681年~紀元前669年)
紀元前671年にエジプトを征服した事で有名。この征服によりアッシリア帝国は史上空前の規模となった。また父センナケリブによって破壊されたバビロン市を再建した。
王位継承戦争の爪痕
即位に先立って兄弟達の6週間に渡るクーデター鎮圧に取り組まねばならなかった事は、エサルハドンの心に生涯にわたって続く妄想症(paranoia)と(役人・総督達・男性親族に対する)を植え付けた。
- かかる被害妄想の結果として、エサルハドンが使用した宮殿の大半は各都市の主要人口集積地から離れた位置にある警備の厳重な要塞となる。
- また恐らく、男性親族への不信の結果として、彼の治世の間、母のナキアや娘のシェルア・エテラトの様な女性親族がそれ以前のアッシリア史における女性たちよりも、かなり大きな影響力と政治力を振るうことが出来た。
比較的短く困難な治世と、被害妄想・鬱・頻繁な病に苦しんでいたにも関わらず、エサルハドンは最も成功したアッシリアの王の一人と認識され続けている。何しろ見た目上は紀元前681年には速やかに兄弟たちを撃破し、アッシリアとバビロニアの双方で野心的な大建設プロジェクトを完遂し、メディア、アラビア半島、アナトリア、コーカサス、そしてレヴァントへの遠征を成功させ、エジプトを撃破して征服し、自身の死にあたっては2人の後継者アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンへの平和裏の権力移譲を成し遂げた英王なのだから。
宗教施設再建
エサルハドンは帝国南部のバビロニアの住民からの支持を確保したいと望んでおり、これを実現する為に南部全体においてそれまでのアッシリア王の誰よりも広い範囲で建築・修復プロジェクトに資金を注ぎ込んだ。
- バビロニアは彼の治世からそう遠く無い時期にアッシリア帝国の一部となったに過ぎず、前世紀のアッシリア王ティグラト・ピレセル3世によって征服され併合されるまでアッシリアの属王である現地人の王によって統治されていた。建設計画を通じて、エサルハドンは恐らくアッシリアによるこの地域への支配が継続することの恩恵、彼が現地人のバビロニア王と同様の配慮と寛容をもってバビロンを統治するつもりだということを示そうとした。
- エサルハドンの父センナケリブは紀元前689年にバビロン市を破壊し、都市神ベール(マルドゥク)の像をアッシリア領奥深くへと持ち去っていたが、バビロン市はバビロニアという地名の元となった都市であり、南メソポタミアにおいて1000年にわたって政治的・宗教的中心であった。バビロニア人の独立志向を抑えるため、エサルハドンはバビロン市の再建を紀元前680年に告知。これが彼の最も重要な事業の1つとなっていく。
- エサルハドンの治世を通してかかる再建事業を監督すべく彼が任命した役人からの報告が、この建設計画の巨大な規模を物語っている。バビロンの大がかりな復興は、センナケリブによる破壊の後に残されていた大量の瓦礫の除去、この時点までに奴隷化されていた、あるいは帝国全土に散らばっていたバビロン市民の再定住、大部分の建物の再建、エ・サギラとして知られるベール(マルドゥク)に捧げられた巨大な神殿複合体およびエ・テメンアンキと呼ばれる巨大なジッグラト、同様に2つの市内壁の修復などからなった。
- バビロンの再建はバビロニアの人々に向けて善意を示して見せるというだけではなく、バビロニア人が王権に付与していた特性の1つをエサルハドンが担うことを可能としたという意味で重要だった。アッシリア王は一般的に軍人であるとみなされていたが、バビロンの王は建築家かつ修復者(特に神殿の)というのが理想だったのである。
- エサルハドンは自身をこの都市の破壊と関連付けないよう注意し、バビロンに作った碑文では「神々に任命された」王として自分自身にのみ言及し、センナケリブには北方に建てた碑文でのみ言及した。そして父の所業としてではなく、バビロンが「神々の怒りに触れた」ものとしてバビロンの破壊を非難した。
- エサルハドンはバビロンの再建について次のように述べている。「偉大なる王、強き君主、全ての主、アッシュールの地の王、バビロンの支配者、敬虔なる羊飼い、マルドゥク神の寵愛を受ける、諸君主の君主、忠良なる指導者、マルドゥク神の伴侶ザルパニトゥム神に愛されし、謙虚なる、従順なる、神々の神聖なる栄華の下で世に出た最初の日より賞賛の全てを神々の御力に捧げ畏れ敬う[余、エサルハドン]。以前の王の治世において悪の兆しがありし時、バビロンは都市神たちの怒りを買い、神々の御命令により破壊された。全てをあるべき場所に修復し、神々の怒りを宥め、憤怒を鎮めるために選ばれた者はエサルハドン、余であった。御身マルドゥク神はアッシュールの地の守護を余に委ねられた。同時にバビロンの神々は彼らの神殿を再建し、彼らの宮殿エ・サギラの正しき儀式を再開するよう余に申し付けた。余は全ての我が労働者を呼び戻し、バビロニアの全ての人々を招集した。余は彼らを働かせ、地面を掘り、大地を籠へと運んだ」。
- エサルハドンはバビロンの市門、胸壁、堀、庭園、聖堂、その他の様々な建物・建造物の再建を成し遂げた。エ・サギラ神殿の建設中は特段の注意が払われ、宝石、芳香豊かな油、香料が神殿の基礎に捧げられた。貴金属が神殿の扉の覆いに選ばれ、ベール像を収める台座は黄金で作られた。エサルハドンがバビロンに任命したある総督からの報告によって、この再建はバビロニア人から極めて好評であったことが伝えられている。「
- 私はバビロンに入りました。バビロン市民は私を親しく迎え入れ「王はバビロンから持ち去られ奪われたものをもどした」と言って日々陛下を祝福しております。またシッパルからバーブ=マラート(Bab-marrat)に至るまでのカルデア人の首長たちは「バビロンに(人々を)再定住させた者(それは彼である)」と言って陛下を祝福しております。」
- バビロンの再建はエサルハドンの生前に完了せず、多くの作業が後継者たちの治世の間も行われていた。エサルハドン治世中の再建が正確にどの程度行われたのかは不明であるが、バビロンの神殿群の遺構から彼の石碑が発見されていることでかなりの程度作業は完了していたことが示されている。後継者達によって完全に修復が成されたと思われる市壁を例外として、エ・サギラ神殿とエ・テメンアンキのほぼ完全な修復など、エサルハドンは自身の再建目標をほぼ達成したかもしれない。
エサルハドンは南部の他の都市の再建事業も後見していた。例えば統治元年にアッシリアが戦争で鹵獲していた様々な南部の神々の像を返還している。
- センナケリブによるバビロン市の破壊以来、ベール像は他のバビロニアの伝統的な神々の像と共にアッシリア北東部にあるイッセテ(Issete)の町に保管されていた。他の神々の像についてもデール、Humhumia、シッパル=アルル(Sippar-aruru)のそれが返還されている。そして数年内にラルサとウルクの神像も返還された。バビロンで行ったのと同じように、エサルハドンはウルクで瓦礫を撤去し、そこにある女神イシュタルの神殿エ・アンナを修復した。ニップル、ボルシッパ、そしてアッカドといった諸都市でも小規模ながら同様の復興計画が実施されている。
一方、おそらく南部で行っている事業と同等の割合で北部でも事業がなされるという安心感をアッシリアの人々に与える為、エサルハドンはアッシュール市のエ・シャラ神殿の修復を確実に行った。この神殿は北部メソポタミアにおける代表的な神殿の1つである。アッシリアの首都ニネヴェ、およびアルベラの町でも同様の事業が実行に移された。南部で行われた神殿建設事業は北部の神殿建築事業と同様のものであったが、エサルハドンがバビロニアよりアッシリアに重きを置いていたことは、北部で行われた様々な行政的・軍事的建設事業に対応するものが南部では完全に欠如していたことから明らかである。
遠征に次ぐ遠征
アッシリアの政情不安に乗じて自由を獲得しようとしていた従属諸国はエサルハドンが彼らを制圧するのに十分なほど足場を固めていないと信じたがっていたが、領土拡大は熱望していた外国勢力は(エサルハドンの不信にも関わらず)アッシリア人総督達とその兵士達たちが完全にエサルハドンを支持している事をことを直ちに認識した。
- アッシリアにとって2つの重要な脅威はルサ2世統治下にある北方のウラルトゥと遊牧民キンメリア人である。アッシリアの仇敵たるウラルトゥは未だエサルハドンの兄弟達を保護していた。
- 一方キンメリア人もアッシリアの西部国境をかく乱していた。
エサルハドンはキンメリア人の攻撃を抑制すべく騎兵の練度で名高い遊牧民のスキタイ人と同盟を結んだが、効果はなかったものと見られる。
- 紀元前679年、キンメリア人はアッシリア帝国の西端の属州に侵入。
- 紀元前676年までにアッシリアに浸透して、経路上の神殿と諸都市を破壊した。キンメリア人の侵略を食い止めるべくエサルハドンはキリキアでの戦いで自ら兵士を率い、キンメリア人を退ける事に成功した。エサルハドンは碑文においてキンメリア王テウシュパを殺害したと主張している。
キンメリア人の侵入の最中、レヴァントのアッシリアの属領であったシドン市がエサルハドンの統治に対して反旗を翻した。
- シドンは紀元前701年にエサルハドンの父センナケリブによってアッシリアに征服され臣下となったばかりであった。エサルハドンは地中海沿岸沿いに軍を進め、紀元前677年にシドンを占領させたが、その王アブディ・ミルクッティは小舟で逃亡。1年後に捕縛され処刑された。
- 同年エサルハドンはキンメリア人に対しても決定的勝利を得た。反乱を起こしていた他の属王たる(恐らくキリキアにあった)クンドゥ(Kundu)とシッス(Sissu)のサンドゥアリ(Sanduarri)もまた破られて処刑されたのである。
勝利を祝うため、エサルハドンはこの2人の属王の頭を、彼らの貴族たちの周囲に吊るしてニネヴェでパレードさせた。シドンは領土を縮小させられてアッシリアの属州となり、かつてシドン王に属していた2つの都市の支配権は別の属王であるテュロス市のバアル1世に与えられた。エサルハドンは同時代の碑文でシドンに対する勝利を論じている。「我が威を恐れぬシドンの王、アブディ・ミルクッティ(Abdi-milkutti)は我が唇から紡ぎだされる言葉を鑑みることなく、恐るべき海を信頼し我が軛を投げ捨てた-シドン、彼が拠るこの都市は海の中にあり、[欠落]魚の如く、余は彼を捕られて海から出し、首を切り落とした。彼の妻、息子たち、宮殿の者ども、財産と品々、宝石、染め上げられた羊毛と亜麻の衣服、カエデとツゲの木、彼の宮殿に満ち満ちたあらゆる種類の宝物を、余は運び出した。彼の国中の人々を数え切れぬほど、また大量のウシ、ヒツジ、ロバを、余はアッシリアへと運んだ」。
ウラルトゥ制圧と惨敗に終わった第1回エジプト遠征
エジプト第25王朝の黒いファラオ(Black Pharaoh)タハルカは繰り返しエサルハドンの敵となり続け、彼が紀元前673年に行ったエジプト侵攻こそ撃退されたものの紀元前671年には打ち破られた。
一方、エサルハドンはシドンとキリキアの問題に対処した後、ウラルトゥに注意を向けた。
- まず彼はウラルトゥと同盟を結んでいたマンナエ人を攻撃したが、紀元前673年には公然とウラルトゥ自体との戦争を始めた。この戦争の一環として、エサルハドンはウラルトゥの属国であるシュプリア王国(Shupria)を攻撃して征服。その王国の首都ウブムはヴァン湖岸にあり、この侵攻におけるエサルハドンの開戦事由(casus belli)もシュプリア王がアッシリアからの政治亡命者(恐らくセンナケリブの死に関与した一党の一部)の引き渡しを拒否したことにある。シュプリア王は一連の書簡による長いやり取りで諦め、亡命者たちの引き渡しに同意したが、エサルハドンは同意にいたるまでに時間がかかり過ぎたことで寛大さを失っていた。ウブムの防衛軍はアッシリアの攻城兵器を焼き払おうと試みたが失敗し、火は返って町の中に広がった。その後アッシリア軍は町を占領して略奪した。亡命者たちは捕らえられて処刑された。シュプリア王はウラルトゥの罪人も同様にウラルトゥへの引き渡しを拒否していたが、彼らもアッシリアに捕らえられた後、ウラルトゥへ送還された。これは恐らく関係改善のための処置である。ウブム市は修復され、改名された後にアッシリアに併合され、2名の宦官が総督として任命された。
紀元前676年頃にはザグロス山脈やタウロス山脈方面に遠征して現地を押さえ、更にイシュクザーヤ(スキタイ)の王バルタトゥアに娘を嫁がせて遊牧民との関係改善を図った。
- 紀元前675年、エラム人がバビロニアに侵攻しシッパル市を占領。この時アッシリア軍は遠征のため遠く離れたアナトリアにいたが、南部属州の防衛の為にアナトリアへの遠征は放棄された。かかるエラムとの武力衝突とシッパル市の失陥は恥ずべきことであり、エサルハドンが碑文でこれに言及することはなく、ほとんど記録に残されていない。すぐ後のシッパル包囲戦でエラム王フンバン・ハルタシュ2世は死亡し、新たなエラム王ウルタクが困難な状況を引き継いだ。
- アッシリアとの関係を回復し新たな衝突を避けるべくウルタクはバビロニアへの侵攻を取りやめ、エラムが接収していた複数の神像を返還した。エサルハドンとウルタクは同盟を結び、お互いの子供を交換してそれぞれの宮廷で育てることとした。
エサルハドンの統治第7年末(紀元前673年の冬)に、エジプト侵攻は遂行される事になる。
- この侵攻について論じるアッシリアの史料は僅かで、一部の学者は恐らくアッシリアにとって最悪の敗北の1つに終わったと想定している。エジプトは何年にもわたりアッシリアの反対者達を支援しており、エサルハドンをエジプト襲撃し一網打尽にすることを望んでいた。エサルハドンが急速に軍を前進させた結果、アッシリア軍はエジプト支配下のアシュケロン市の外側に到着した時には疲労困憊となっており、エジプトを支配していたクシュ人の王タハルカによって打ち破られた。この敗北の後、エサルハドンは当面エジプト征服の計画を放棄し、ニネヴェへと引いた。
健康と鬱の悪化エジプト侵攻に失敗した紀元前673年までに、エサルハドンの健康悪化が明らかになっていた。アッシリア王であることの主要な要件の1つが完全な精神的・肉体的健康であったため、これは問題を引き起こした。エサルハドンは常に何らかの病気に苦しんでおり、しばしば宿営で飲食をせず人とも接触することなく何日も過ごした。彼が寵愛した妻、エシャラ・ハンマトの死と同じ年に彼の体調が改善した可能性はほとんどない。現存する宮廷文書からエサルハドンがしばしば悲嘆に暮れていたこと示す証言が圧倒的に得られており、妻の死、そしてその頃生まれたばかりの幼い子供の死によってエサルハドンは陰鬱になっていた。このことはエサルハドンの祓魔師の長で、エサルハドンの健康に主たる責任を負っていたアダド・シュマ・ウツル(Adad-shumu-usur)の手紙から明確に見て取ることができる。手紙の一例は以下のようなものである。「王、我が主は、私に「余は悲嘆に暮れている。この小さな我が子のために陰鬱になってしまっている。余はどうすれば良いのだろうか?」と書き送られました。もしそれが治癒可能なものであったならば、陛下は私に王国の半分を与えてくださることでしょう!しかし我々に何ができましょうか?おお、王、我が主よ、それは不可能なことなのです」エサルハドンの侍医を含む王宮の人々によって書き留められたメモと手紙では彼の体調について詳細に説明され、激しい嘔吐、繰り返される発熱と鼻血、眩暈、強い耳の痛み、下痢と陰鬱な精神状態について議論されている。エサルハドンは死が迫っていることを頻繁に恐れており、彼の健康状態の悪化は全身を顔面を含めて覆った発疹を見れば誰の目にも明らかなものとなっていた。侍医たちは恐らくアッシリアの最高の医師であったが、困惑しており最終的には自分たちに王を治癒する能力がないことを白状せざるを得なかった。このことは次のような手紙で明確に表されている。「我が主、王は「なぜ余の病の性質を特定し治療法を見出さないのか?」と私に問い続けておられます。既に直接申し上げたように、陛下の症状は判別不可能です」。アッシリア人は病を神罰と見なしたので、王が病に臥せっていたことは神々が彼を支持していないことを示すものと見たであろう。このことから、エサルハドンの健康不安は如何なる対価を支払っても臣下たちに隠しておかねばならなかった。王に謁見する際には誰であれ拝礼し、ヴェール越しでなければならないというアッシリアの伝統が、臣下たちの目から王の健康問題を覆い隠すことを可能とした。
生前の王位継承計画
紀元前672年エサルハドンは存命中の息子のうち年長のシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの継承者とし、年少のアッシュールバニパルをアッシリアの後継者とした。
自分自身が非常な困難の末にアッシリア王位を獲得していたため、エサルハドンは自分の死後の権力の移行がスムーズかつ平和裏に行われるよう複数のステップを踏んだ。
- エサルハドンとウルカザバルナ(Urkazabarna)と呼ばれる東方のメディアの王国の属王ラマタイア(Ramataia)との間で紀元前672年に結ばれた条約(誓約)から、エサルハドンの全ての息子が当時まだ未成年であり、問題があったことが明らかとなっている。この条約ではまた、エサルハドンが自分の死後に彼の後継者たちの即位に複数の派閥が反対し、おじ、従兄弟、さらには「元王族の子孫」と「アッシリアの首長、または総督の1人」を推戴するかもしれないと憂慮していたことが示されている。
- このことは、少なくともエサルハドンの兄弟の幾人かがこの時点でまだ生存しており、彼ら、あるいはその子供たちが自分の子供たちの脅威として登場する可能性があったことを示している。「元王族の子孫」への言及はエサルハドンの祖父サルゴン2世が簒奪によって王位を獲得し、それ以前の王たちと関係を持っていなかったかもしれないという事実を暗示するものである可能性もある。かつての王家の子孫が未だ生き残っていて、アッシリア王位への権利を要求する立場にあったかもしれない。
- 自らの死に伴う内戦を回避するため、エサルハドンは紀元前674年に長男シン・ナディン・アプリを王太子として指名した。しかし彼はその2年後に死亡し、再び王位継承は危機に直面する。
- この時、エサルハドンは2人の王太子を任命した。存命中の王子のうち年長の息子シャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの継承者に選び、年少のアッシュールバニパルをアッシリアの王太子に任命したのである。この二人の王子はニネヴェを共に訪れ、外国の代表者、アッシリアの貴族たち、そして兵士たちの祝賀を受けた。過去数十年にわたってアッシリア王は同時にバビロンの王を兼任しており、息子の1人をアッシリア王の後継者に、別の1人をバビロンの王の後継者にするというのは新機軸であった。
- アッシリア王位は明らかにエサルハドンの第一の称号であった。アッシリアの王太子に弟を、バビロンの王太子に兄を任命するという選択は、彼らの母親の出自によって説明できるかもしれない。アッシュールバニパルの母は恐らくアッシリア人であり、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロンの女性の息子であった(これは不確かである。アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが同母兄弟であった可能性もある)。このため、もしシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリアの王位に登れば問題のある結果を引き起こしたであろう。アッシュールバニパルは2番目に年長の息子であり、兄に次ぐ王位継承の有力な候補であった。
- エサルハドンは恐らく、バビロニア人に連なる者を王として戴くことにバビロニア人が満足するだろうと推測し、それ故にシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンとアッシリア帝国の南部の後継者とした。エサルハドンが作成した条約は、この二人の息子関係がどのようなものであると彼が想定していたのか幾分不明瞭なものとなっている。アッシュールバニパルが帝国の第一の継承者であったことは明らかであり、シャマシュ・シュム・ウキンは彼に忠誠の誓約を立てることになっていたが、別の部位ではアッシュールバニパルがシャマシュ・シュム・ウキンの管轄に干渉しないことも明記されており、これはより対等と言える関係を示している。二人の王太子はすぐにアッシリアの政治に深く関与するようになり、病気がちな父親の肩に背負われた負担の一部を引き受けた。
エサルハドンの母親ナキアはエサルハドンが自分の即位当初に発生した流血を避けるべくとった処置の別のステップとして、潜在的な敵と王位主張者に対してアッシュールバニパルがアッシリア王位に就くことへの支持を誓約させた。アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの王位継承を確実なものとするため、エサルハドン自身もまた少なくとも6人の東方の独立諸国の君主およびアッシリアの中核地帯の外側にいた複数の総督と前672年に継承条約を締結した。恐らく、このような諸条約の作成にいたる主たる動機は、エサルハドンの兄弟、特にアルダ・ムリッシが未だ生きており、アッシリア王位を要求していたことであろう。いくつかの碑文によってアルダ・ムリッシが紀元前673年の時点でもまだ生きていたことが示されている。
2度目のエジプト遠征
紀元前671の初頭、エサルハドンは再びエジプトへ向けての進軍を開始した。今回エジプト遠征の為にた編成された軍は紀元前673年の1度目の遠征でエサルハドンが運用した軍よりもかなり大規模であり、前回の問題を回避すべく非常にゆっくりと進軍した。
経路上、アッシリア西方の主要都市の1つハッラーンを通過し、この町でエサルハドンのエジプト征服が成功するであろうという預言が彼に表された。エサルハドン死後アッシュールバニパルに送られた手紙によれば、預言は次のようなものであった。「エサルハドンがエジプトに進軍する時、杉材の神殿がハッラーンに建てられた。そこでシン神が木柱の上で王位に就き、2つの冠が御神の頭上にあって、その正面に立つ神はヌスク神であった。エサルハドンが入りその冠を彼の頭上に戴き、神より次のように宣言された。「そなたは前に進み、世界を征服する!」。そして彼は行き、エジプトを征服した」。この預言を受けてから3ヶ月後、エサルハドンの軍勢はエジプト軍との最初の戦闘に勝利した。しかしこの預言と初戦の勝利にも関わらず、エサルハドンは自らの身辺に不安を抱いていた。エジプト軍を撃破してから僅か11日後、彼は「身代わり王」の儀式を執り行った。これは差し迫った危険を伝える何らかの予兆から王を守り匿うことを目的とした古代アッシリアの手法であった。エサルハドンは治世の早い段階でこの儀式を執り行っていたが、この時の儀式ではエジプト侵攻の指揮を執ることができなくなった。
- 「身代わり王」の儀式ではエサルハドンは100日間隠れ、その間代理人(可能ならば知的障害者)が王の寝台で眠り、王冠と王の衣装を身に着け、王の食事を取った。この100日の間、隠れていた本物の王は「農夫」という別名でのみ呼ばれた。儀式の目的は王に対する悪しき意図を身代わりの王に向かわせることで、本物の王エサルハドンの安全を守ることであった。この身代わり王は100日が終了した時点で何かが起こったかどうかに関係なく殺害された。
- エサルハドンが恐れていた予兆がどんなものであったにせよ彼は紀元前671年を生き延びたが、その後の2年間でこの儀式を2度執り行うことになったため、ほぼ1年間にわたってアッシリア王の義務を十分に果たすことができなくなった。この間、帝国の民政の大半は彼の王太子たち、アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって監督され、エジプトにいた軍隊は恐らく宦官長アッシュール・ナツィルによって指揮されたものと見られる。アッシリア軍はさらに2度の戦いでエジプト軍を破り、エジプトの首都メンフィスを占領して略奪することに成功した。
- アッシリア軍はさらにテュロスのバアル1世のようなエサルハドンに対抗してエジプトと同盟を結んでいたレヴァントの属王との戦いに直面した。
- エジプト第25朝王(ファラオ)タハルカは逃亡したが、エサルハドンはタハルカの妻と息子を含む家族を捉え、こうした王族の大半が人質としてアッシリアに送られた。エサルハドンに忠実な総督たちが新たに征服したエジプトの統治の担当者として置かれた。
エジプトの撃破を記念して建てられた エサルハドンの勝利の碑文において、エサルハドンは堂々たるポーズで描かれており、その手にはこん棒を持ち、属王たちは首に縄をかけられて彼の前で跪いている。この征服の結果、多数のエジプト人がアッシリアの中核地帯に強制移住させられた。エサルハドンは勝利の碑文においてこの征服を次のように説明している「(抜粋)大いなる神々に呪われたエジプトおよびクシュの王タハルカ(の軍)に対して、イシュフプリから彼の居城メンフィスまで、十五日の行程を、余は毎日休止することなく殺戮を行った。彼自身に対しても、余は五度矢の尖で打ち、癒しがたい傷を負わせた。余は彼の居城メンフィスを包囲し、坑道、破口、攻城梯子をもちいて、半日のうちに占領した。余は(メンフィス市を)略奪し、破壊し、火をかけた。彼の妃、ハレム、王太子ウシャナフル、その他の王子や王女たち(それに)彼の財貨、馬、牛、小家畜を数えきれないほど、戦利品としてアッシリアに運んだ。余はクシュ(の勢力)をエジプトから根絶した。余に対する恭順(の確保)のために、そこ(エジプト)にだれひとり(クシュ人を)残すことはしなかった。余はエジプト全土にわたって(各地に)王、総督、長官、商港監督官、代官、属吏を新たに任命した。我が主なるアッシュールならびに(他の)大いなる神々たちのために、寄進と供物を永遠にわたって定め、余の支配に対しては、貢納と進物を年ごとに絶えることなく彼ら(エジプト人)に課した。余は我が名を刻んだ石碑を作らせ、その上に我が主アッシュール神の栄光と武勇、我が素晴らしき所業、余が如何に我が主アッシュール神を守護し、我が征服の手の力を書かせた。我が全ての敵の視線にこの終わりの日を見せるため、余はこれを据え付けた」。
紀元前671年~紀元前670年の陰謀
エジプトにおけるエサルハドンの勝利の直後、ハッラーンの新たな預言についての報せが帝国中に広まった。エサルハドンがエジプトを征服し、以前にハッラーンで下された預言が証明されたことで、ハッラーンの神託は信頼できるものと考えられるようになっていたのである。神がかり状態となった女性が語った預言は次のようなものであった。「これはヌスク神の御言葉である。王権はサシ(Sasî)に属する。我はセンナケリブの名と種と打ち砕く!」この預言が意味するところは明らかであった。
- この中でセンナケリブの子孫全てが僭称者であると宣言されたことによってエサルハドンに対する反乱に有用な宗教的基盤が提供された。
- エサルハドンの肌の病変はハッラーンを訪れていた最中に現れた可能性があり、これが彼の地位が不法なものと宣言された理由であったかもしれない。
- 王権を持つ者として宣言されたサシが何者であるのか不明であるが、かつてのアッシリア王族と関係を持つ人物であったことは間違いなく、そうでなければ彼が王位適格者と見なされることは不可能であったであろう。エサルハドンの祖父サルゴン2世の子孫であった可能性もある。
- サシは帝国全土からの支持を速やかに獲得することに成功し、エサルハドンの宦官長アッシュール・ナツィルさえもサシの側に立った。
- エサルハドンがこの陰謀について把握するのにさほど時間はかからなかった。彼の妄想症の故に、エサルハドンは巨大な臣下の情報ネットワークを帝国に張り巡らしており、彼らはエサルハドンに対して企まれたいかなる行動についてでも耳にしたらエサルハドンに報告することを誓っていた。彼らからの報告を通じて、エサルハドンはサシの支持者達がハッラーンだけではなく、バビロンとアッシリアの中核地帯でも活動していたことを知っていた。しばらくの間、エサルハドンはサシ一派の活動についての情報を収集し、また自らの命を危ぶんで前回の「身代わり王」の儀式が終了してから僅か3ヶ月後、紀元前671年に2度目の「身代わり王」の儀式を執り行った。
- 「身代わり王」の儀式が終了するとすぐに、身を隠していたエサルハドンは表に姿を現し、陰謀に参加した人々を残酷に殺害して彼治世中2度目の粛清を行った。サシと彼に王権の預言を告げた女性の運命は不明であるが、恐らく捕らえられて処刑されたであろう。粛清された役人が広範囲にわたったため、アッシリアの行政機構は何年もの間、苦しむこととなった。
- 紀元前670年の最初の数か月、リンム(紀年官。就任者の名前がその年の年名として用いられる)職は任命されなかった。これはアッシリアの歴史において非常に珍しいことであった。
- サシの支持者の住居であると考えられている様々な都市の複数の建物の遺構は、紀元前670年に破壊されたものであると見られている。
この陰謀の後、エサルハドンは治安をかなり引き締めた。彼は自分への謁見を難しくするため、宮廷の階級に新たに2つの位を導入し、宮殿へのアクセスをコントロールする役人の数を制限した。
最期
エサルハドンは陰謀論を乗り切ったが、病と妄想症が治癒することはなかった。わずか1年後の紀元前669年、再度「身代わり王」の儀式を執り行っている。この頃一度破ったファラオのタハルカがエジプトの南から現れ、恐らくアッシリア内の混沌とした政治状況と相まってエサルハドンの支配からのエジプトの離脱を促した。
- エサルハドンはエジプト反乱の報告を受け取り、彼が自らエジプトに任命した総督たちの何人かさえも彼への貢納を止めて反乱に加わったことを知った。100日間の身隠しから戻った後、それまでよりは健康を取り戻していたと思われるエサルハドンはエジプトへの3度目の遠征に出発したがエジプトの国境に到達する前の紀元前669年11月1日ハッラーンで死亡した。遠征に対する反対があったという史料がないことは、エサルハドンの死が予期せぬ自然死であったことを示している。
エサルハドンの死後、彼の息子アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが政治的騒乱や流血を伴うことなく王位を継承することに成功した。これはエサルハドンの王位継承計画が、少なくとも当初は成功したことを意味している。
アラブ人との外交
紀元前671年のエサルハドンのエジプト遠征においてシナイ半島のアラブ人部族の支援は重要であった。エサルハドンはまた、センナケリブによって平定されたアラビア半島のアラブ人部族、特にアドゥンマトゥ市周辺の部族の忠誠を確保し続けることを決めていた。
- アドゥンマトゥの王ハザエルは、かつてセンナケリブが奪い取っていたハザエルの神々の像の返還を引き換えにエサルハドンに貢納を収め、複数の親族をその下に送っていた。
- ハザエルが死亡し、彼の息子ヤウタ(Yauta)が即位した時、ヤウタの王としての地位はエサルハドンによって承認されており、彼はこの新王の統治に対する反乱を撃破してヤウタを助けた。
- その後間もなく、ヤウタはエサルハドンに対して反旗を翻した。彼はアッシリア軍によって撃破されたがアッシュールバニパルの治世まで独立を維持することに成功した。
- エサルハドンはまた「アラブの女王」タブアをアッシリアの王宮で即位させ、故郷に戻って彼女の臣民を統治することを許可した。
別エピソードとして、エサルハドンはヤディ(Yadi)と呼ばれる都市の王に助けを求められた後、紀元前676年にバッザ(Bazza)の国に侵攻(アラビア半島東部に存在したと想定されている)。この遠征ではアッシリア軍はこの地域の8人の王を破り、征服地をヤディの王に与えている。
メディアとの外交
エサルハドンの治世にはメディア人の多くがアッシリアの臣下となった。
エサルハドンの軍隊は、紀元前676年以前のいずれかの時点でメディアの王エパルナ(Eparna)とシディルパルナ(Shidirparna)をビクニ山(Bikni、メディア中央部のどこかにあった山。正確な位置は不明)、を破り、アッシリアがメディアを脅かし得る大国である事をメディア人に証明した。この勝利の結果、メディア人の多くは争ってアッシリアに忠誠の誓約をたて、ニネヴェに貢納を納め、エサルハドンが彼らの地にアッシリア人の総督を置くことを認めたのである。
- エサルハドンがアッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンの継承に関する望みを守るため臣下たちに誓約をさせた時、アッシュールバニパル側への忠誠を誓った臣下の幾人かはメディアの支配者と君侯たちであった。
エサルハドンとメディアの関係は常に平和的なものであったわけではなく、遅くとも紀元前672年までにはメディア人がアッシリアに対する襲撃を行った事が記録されており、メディアはアッシリアの潜在的な敵としてエサルハドンの卜占の問いかけで恒常的に言及されている。
メディアにおけるエサルハドンの主たる敵はアッシリア人がカシュタリティと呼んだ人物である。彼はアッシリアの領土を襲撃していた。この人物は恐らくメディア2代目王フラオルテスと同一人物である。
アッシュールバニパル(Assurbanipal、在位紀元前668年~紀元前631年/627年頃)
アッカド語ではアッシュール・バニ・アプリ(Aššur-bāni-apli=「アッシュール神は後継者を賜れり」)と綴られる。一般的にアッシリア最後の偉大な支配者として記憶されている。
アッシュールバニパルの最も有名な業績は「(19世紀に発見された)アッシュールバニパルの図書館」と呼ばれる古代オリエントにおいて最も良く知られた図書館の建設である。彼自身この図書館を、自分の最も偉大な業績と考えていた。宗教的文書・手引書・メソポタミアの伝統的な物語など様々なジャンルの30,000点もの粘土板文書を集めたこの図書館によって「ギルガメシュ叙事詩」のような古代の文学作品が数多く今日に伝えられ、近現代のアッシリア学の発展に多大な影響を与え続けている。
即位前夜の情景
王太子に指名された後、父を注意深く観察して作法を学び、軍事戦術を学習して、王位に就く準備を整えた。また諜報組織の長も務め、アッシリア帝国全土の情報員からの情報を取りまとめて父親に報告している。特に将軍ナブー・シャル・ウツル(Nabu-shar-usur)と書記ナブー・アヒ・エリバ(Nabu-ahi-eriba)から教育を受け、文学と「歴史」への興味を深めた。
- 彼は書記技術と宗教的学識を習得し、自らの母語であるアッカド語に加え、シュメール語にも習熟。アッシュールバニパル自身の後の記録(彼の治世の主たる史料となる彼の年代記)によれば、その知性と勇気の故に、エサルハドンはアッシュールバニパルを気に入っていたという。
- エサルハドンは頻繁に病を患っており、恐らくは膠原病の一種である全身性エリテマトーデスに罹患していたことから、その治世の最後の数年間はアッシリア帝国の行政的義務の大半がアッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって担われた。
エサルハドンがエジプト遠征に出発すると、アッシュールバニパルは宮廷の一切を取り仕切り、紀元前669年にエサルハドンが死亡すると、アッシュールバニパルの元に全権が円滑に移行した。そして彼の戴冠式への出席後、兄弟のシャマシュ・シュム・ウキンがアッシリアが奪取していたバビロンのベール神像をバビロンに返還しバビロン王となる。
エジプト遠征
アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが正しく君主として即位した後、アッシュールバニパルは中途に終わっていたエサルハドンの最後のエジプト遠征を完遂するべく紀元前667年に出発した。
- 紀元前667年遠征では、アッシュールバニパルは経路で略奪しながら南はテーベにまで進軍した。
- 勝利の後(エサルハドンの宮廷で教育された)プサムテク1世とネカウ2世(ネコ2世)を共にファラオとして残し、属王とした。
- 紀元前666年~紀元前665年、アッシュールバニパルはタハルカの甥タヌトアメンによるエジプト再奪取の試みを打ち砕いた。
その後、アッシュールバニパルはアナトリアのタバル、北方のウラルトゥ、南東のエラムなど他の地域での戦いに注力した。彼のエジプトへの関心が低下したことを受けて、エジプトは流血を伴うことなくアッシリアの支配から緩やかに離脱していった。
エラム遠征
エラム王ウルタクはアッシリア支配下のバビロニアに突如攻撃を仕掛けたが、失敗してエラムに後退し、その後まもなく死亡した。後を継いだのはテウマンで、この人物はそれまでの君主家系と繋がりを持っておらず、政敵殺害の実績のみで支配を安定させていた人物だったので、エラム王位を巡っていたウルタクの息子達のうち3人がアッシリアに逃亡した。テウマンが彼らの引き渡しを要求したにも関わらず、アッシュールバニパルは彼らを庇護した。
- エラムに対する勝利後、アッシュールバニパルは領内の一連の反乱に対処しなければならなかった。
- バビロニアにおけるガンブル族(アラム人の部族)の首長ベール・イキシャ(Bel-iqisha)はエラム人侵攻を支持していたと疑われており、権限の一部を手放すことを強要され、その後に反乱を起こした。この反乱についてはほとんど何もわかっていないが、アッシュールバニパルがウルクの総督ナブー・ウシャブシ(Nabu-ushabshi)にベール・イキシャ攻撃を命じたことが現存する当時の書簡によって知られている。それはアッシュールバニパルの攻撃命令に対するナブー・ウシャブシからの返信であり、ナブー・ウシャブシはアッシュールバニパルに対してベール・イキシャが反乱を起こしエラム人を引き込んだと述べている。ナブー・ウシャブシはアッカドの地の全域から兵を動員することを請け合っているが、ベール・イキシャの反乱が大きな被害を出した形跡はなく、年代記では言及されていない。彼は間もなく殺害され、紀元前663年にはベール・イキシャの息子ドゥナヌがアッシュールバニパルに降伏した。
シャマシュ・シュム・ウキンは紀元前653年までにはアッシュールバニパルの支配にうんざりしていたように思われる。バビロンで発見された碑文によって、アッシュールバニパルがシャマシュ・シュム・ウキンの業務を管理し、本質的には自らの指示に従わせていたことが示されている。
- シャマシュ・シュム・ウキンはエラム王テウマンに使者を送りアッシュールバニパルの支配を揺るがすためにエラム軍を利用しようとした。アッシュールバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンが関与していることを知らなかった様であるが、紀元前652年にエラム人を打ち破り、その都市や国家自体を破壊した。このエラム遠征における最後の戦いはエラムの首都スーサの近郊で行われ、アッシリアの決定的な勝利に終わった。この結果の原因の一部はエラム軍部隊が逃亡したことによる。テウマン王はこの戦いで死亡した。この勝利の余波の中で、アッシュールバニパルはウルタクの息子のうち2人、ウンマニガシュをマダクトゥ(エラムの王宮があった都市、正確な位置は知られていない)とスーサの王に据え、タンマリトゥ1世をヒダルの王とした。アッシュールバニパルは自身の碑文においてこの勝利を次のように描写している。「恐るべき嵐の襲来の如く、余はエラムの全てを滅ぼした。余は、彼らの王テウマンの首を落とした。この男は、傲慢で悪事を企む者だ。余は数え切れないほどの兵士を殺した。生き残った兵士たちは余の手で捕らえた。余はスーサの平原を、まるでバルトゥ(baltu)やアシャグ(ashagu)の(木がいたるところに生えるが)ごとく彼らの死体で満たした。余は彼らの血をウライ(Ulai)に流し、その水を羊毛の如く赤く染めた。以前降伏したガンブル族のドゥナヌとその兄弟のサムグヌ(Sam'gunu)は、このアッシュールバニパルとテウマンの戦いが始まる以前に再び反乱を起こしていたと見られ、対エラム戦争が始まると、エラム側に同調した。そのために彼は家族もろとも捕らえられ殺害された。懲罰として、ガンブル族の首都シャピベル(Shapibel)は水没させられ、多くの住民が殺戮された。アッシュールバニパルはドゥナヌに替えてリムトゥ(Rimutu)という貴族を新たなガンブル族の族長とした。彼はかなりの金額を貢納としてアッシュールバニパルに支払うことに合意していた」 。またアッシュールバニパルはドゥナヌに対する自身の報復を以下のように描写している。「帰りの行軍において余はガンブル族の王ドゥナヌと対峙した。彼は、エラムを信じる者だった。ガンブル族の拠点シャピベル(Shapibel)を余は占領した。余はこの町に入り、その住民を子羊を屠るかのごとく殺戮した。ドゥナヌとサムグヌは私の主権の行使を妨げた者たちだが、彼らには、鉄の手かせ・足かせをはめてやった。ベール・イキシャの残りの息子たち、その家族、その父親の血を引く者、そこにいた者は全て、 ナブー・ナーイド(Nabû-nâ'id)、ベール・エティル(Bêl-êtir)、総督たるナブー・シュム・エレシュ(Nabû-shum-êresh)の息子たち、彼らを生み出した父の遺骨、ウルビ(Urbi)とテベ(Tebê)、ガンブルの民、牛、羊、ロバ、馬、ラバを、余はガンブルからアッシリアへと運んだ。彼の本拠地シャピベルを、余は完全に破壊して荒らし、がれきの山で埋め尽くした」。
アッシリア軍がエラムに遠征している最中、ペルシア人、キンメリア人、メディア人の同盟軍がアッシリアの首都ニネヴェに進軍し、市壁にまで到達した。この脅威に対抗するためにアッシュールバニパルは同盟を結んでいたスキタイ人を呼び寄せ敵軍を撃破した。メディア王フラオルテスはこの戦闘で殺害されたと一般的に考えられている。この攻撃の記録は乏しく、そもそもフラオルテスがこの戦いに参加していなかった可能性もある。彼の死は、アッシュールバニパル以後のアッシリア王によるメディア遠征時の出来事かもしれない。
リュディアとキンメリア人の処理
アッシュールバニパルが残した年代記によれば、彼の治世第3年(紀元前665年)、ルッディ(Luddi)の王グッグ(Guggu)がギミライ(Gimirrai)の攻撃を受けた際、アッシュール神がグッグに対してアッシリアに助けを求めるよう、夢の中で神託を与えた。グッグはそれに従ってアッシュールバニパルに使者を送り、アッシュール神とイシュタル神の力を得てギミライを撃破して、捕らえたギミライの首長二人を貢物と共にアッシリアに送り届けたという。
- この碑文に登場するルッディは、ヘロドトスなど古代ギリシアの著作家が記録に残している西アナトリアの国家リュディアに対応すると考えられる。同じくグッグはリュディアの伝説的な王ギュゲス、ギミライはギュゲス王の時にリュディアを席捲したことが知られるキンメリア人に対応する。
- キンメリア人はアッシリアの北、カフカス南部に居住していたインド・ヨーロッパ語を話す遊牧民で、アッシュールバニパルの父エサルハドンの時代にアッシリアを侵略したが撃退され、その後矛先をリュディアへと変えていた。
- この年代記の記録に依れば、ギュゲスはキンメリア人を撃退した後にアッシリアとの通交を打ち切り、その代わりにエジプトの王プシャミルキ(Pušamilki、プサムテク1世)との同盟を計画した。
- これを聞きつけたアッシュールバニパルはアッシュール神に祈ってギュゲスを呪詛し、逆にキンメリア人の側に立った。この結果としてリュディアは紀元前652年~紀元前650年頃に再びキンメリア人に制圧されたという。
- ギュゲスの死後、リュディアの王位を継いだ息子(ヘロドトスによればアルデュス)は再びアッシュールバニパルの支援を求めた。この時、彼は使者を通じて「あなたは、神々が見(恵み)給える王である。あなたは私の父を呪った。悪事はかれを見舞った。私は、あなたを畏れる奴隷であり、私に恵みをたれ給う。私があなたの軛を負うように」と述べたと、アッシュールバニパルの年代記は伝えている。
- アッシリアにとってリュディアとの接触は新しい事態であり、アッシュールバニパルの年代記においてルッディ(リュディア)は「父祖である諸王がその名をきいたことのない遠隔の地」と描写されている。キンメリア人のリュディア侵入についてのこの年代記の記録は概ねヘロドトスが著書『歴史』で記録している内容と一致しているが、ヘロドトスの記録にはアッシリアの動向についての言及はなく、キンメリア人のリュディア侵入はスキタイ人によって彼らが原住地を追われたためであるとされている。キンメリア人とリュディアの戦いにおいて、アッシュールバニパルが実際にどのように関与したのかは不明である。
ヘロドトスによればリュディアはアルデュスの孫アリュアッテス王の治世になってようやく完全にキンメリア人を撃退した。
バビロン問題
バビロンにおいてアッシュールバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの豪華な戴冠式の祝祭を後援した。アッシュールバニパルはバビロンで王の犠牲を捧げ続け(伝統的にバビロンの君主によって捧げられてきた)帝国南部の総督達は相変わらずアッシリア人だったし、軍隊と親衛隊もまたアッシリア人であったので王号を持つにも関わらずシャマシュ・シュム・ウキンはアッシュールバニパルの家臣のままであった。こうしてシャマシュ・シュム・ウキンのバビロンにおける治世初期は概ね平和な時の中で、要塞と神殿の修復に時が費やされた。
*ああっ、このパターン見覚えがある。「フランス国王の家臣にしてイングランド国王」って奴だ。ノルマン・コンクエストとか百年戦争を引き起こしちゃう奴…シャマシュ・シュム・ウキンは力を蓄えるにつれて兄弟の支配から独立する意向を強め紀元前652年にはエラム、クシュ、カルデア人などアッシリアの敵対勢力の連合と同盟を結び、全て南部の都市においてアッシュールバニパルが新たにどのような犠牲を捧げることも禁止。これが4年にわたる内戦を引き起こす。
- 紀元前650年までにはシャマシュ・シュム・ウキンの状況は厳しいものとなり、アッシュールバニパルの軍隊はシッパル、ボルシッパ、クタ、そしてバビロン自体も包囲下に置いた。バビロンは最終的に紀元前648年に陥落し、アッシュールバニパルによって略奪された。シャマシュ・シュム・ウキンは恐らく自殺に追い込まれた。
最終的にはニップルやウルク、ウルのようなバビロニアの都市の総督たちや「海の国(ペルシア湾岸に近い南シュメールの湿地帯)」の支配者たちの全てがバビロン王の存在を無視し、アッシュールバニパルを自分たちの君主とみなしたという。
二度目のエラム遠征
ウンマニガシュ統治下のエラムはシャマシュ・シュム・ウキンの側に立って反乱に参加し、アッシュールバニパルによってアッシリア帝国に組み込まれていたエラムの一部地方に対する支配権を部分的に回復していた。
- しかしウンマニガシュの軍勢はデール市の近郊で撃破され、その結果として彼はタンマリトゥ2世によってエラムから追放された。これによってタンマリトゥ2世がエラムの王となった。ウンマニガシュはアッシリアの宮廷に逃げ込みアッシュールバニパルの庇護を受けた。
- タンマリトゥ2世の統治は短期間であり、カルデア人将軍ナブー・ベール・シュマティと協力して幾度かの戦闘で勝利を収めたにもかかわらず紀元前649年の別の反乱で追放された。
- 新たなエラム王インダビビの治世も非常に短く、アッシュールバニパルが自らの敵国に対してエラムが支援を行っていることを理由にエラムに侵攻するという脅しを行った後に殺害された。
- インダビビに代わってフンバン・ハルタシュ3世がエラム王となった。ナブー・ベール・シュマティはエラム内の前線基地からアッシュールバニパルに対する戦いを続けた。フンバン・ハルタシュ3世はナブー・ベール・シュマティへの支援を放棄しようとしていたが、ナブー・ベール・シュマティは無視するのが不可能なほどエラム内に非常に多くの支持者を持っていた。
このような情勢下、アッシュールバニパルは紀元前647年に再びエラムに侵攻。
- フンバン・ハルタシュ3世は短期間の抵抗を試みて失敗した後、マダクトゥ(Madaktu)の玉座を放棄して山岳地帯へ逃げ去った。フンバン・ハルタシュ3世はタンマリトゥ2世によって王位から退けられ、タンマリトゥ2世が復位した。アッシリア軍がフーゼスターン地方を略奪した後に帰国すると、フンバン・ハルタシュ3世もエラムに戻りさらに王位を奪還した。
- アッシュールバニパルが紀元前646年にエラムに戻ったため、フンバン・ハルタシュ3世は再びマダクトゥを放棄し、まずドゥル・ウンタシュに逃げ、さらにエラム東方の山岳地帯へ逃げ込んだ。
- アッシュールバニパルの軍はその途上にある都市を略奪し破壊しながらフンバン・ハルタシュ3世を追撃した。エラムにある全ての政治的中心地が破壊され、それまではエラム王に貢納していた周辺の首長たちや小王国がアッシュールバニパルに貢納するようになった。
- こうした小王国の中には恐らく1世紀後にハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって作り上げられる帝国の前身であるパルスア(ペルシア)があった。パルスアの王クル(恐らくは大王クル2世/キュロス2世の祖父クル1世/キュロス1世と同一人物)は元々、アッシュールバニパルの遠征が始まった時点ではエラム側に立っていた。そのため息子のアルックを人質として差し出すことを余儀なくされた。Ḫudimiriと呼ばれる王によって統治されていた「エラムの向こうに広がる」王国のように、それまでアッシリアと接触を持ったことのなかった国々も、初めてアッシリアに貢納するようになった。
遠征からの帰途、アッシリア軍はスーサで残酷な略奪を行った。アッシュールバニパルの戦勝記念碑文では、この略奪が細部に至るまで詳細に描写されており、アッシリアによる王墓への冒涜、神殿に対する略奪と破壊、エラムの神々の像の奪取、そしてその地に塩を撒いたことが仔細に述べられている。これらの碑文の詳細さと長大さは、この出来事に文化的実体としてのエラムの打倒と根絶を宣言し、世界に衝撃を与える意図があったことを示している。この略奪についてのアッシュールバニパルの碑文の一部は以下の通りである。「彼らの神々の住処であり、彼らの神秘の玉座である、偉大にして神聖なる都市スーサを余は征服した。余は宮殿に入り、銀・金・財宝と富とが蓄えられた宝物庫の扉を開いた...。余はスーサのジッグラトを破壊した。余は輝く銅の角を破壊した。余はエラムの神殿を取り壊し、無に返した。余は彼らの神々と女神たちを風の中へ放り込んだ。彼らのいにしえの王たちと近年の王たちの墓を余は破壊し、太陽の下に晒し、彼らの遺骨をアッシュールの地へと運んだ。余はエラムの諸州を破壊し、余はそれらの地に塩を撒いた。完膚無きまでの残忍な遠征にもかかわらず、エラムはその後しばらくの間、政治的実体を維持した。フンバン・ハルタシュ3世が帰還してマダクトゥで統治を再開し、(手遅れであったものの)アッシュールバニパルに向けてナブー・ベール・シュマティを差し向けた。しかし、ナブー・ベール・シュマティはニネヴェに向かう途中で自殺した。その後フンバン・ハルタシュ3世も反乱で退位させられ、捕らえられてアッシリアに送られた。」。
- この直後からアッシリアの史料はエラムについて語らなくなる。
- アッシュールバニパルはエラムの諸都市に新たな総督を任命することなく、遠征後にエラムをアッシリアの属州として組み込もうともしなかった。そうする代わりに彼はエラムを破壊したまま無防備な状態のまま放置した。
エラムは荒廃した無人居となったが、アッシュールバニパルの遠征の数十年後、ペルシア人たちがこの地域に移り住み、荒れ果てた都市を再建した。
アラビア遠征
アラビア半島の諸部族に対するアッシュールバニパルの遠征について、現代の学者たちは比較的小さな関心しか払っていないが、彼が残した年代記の最後の版(A版)において最も長い記録がある軍事遠征である。
- ただし、アッシュールバニパルの年代記の記録は時系列が不確かであり、構成も複雑で史実の読み取りには多くの困難がある。編年に関する問題は歴史学者Israel Eph'Alの研究によって大部分解決されたものの、同じエピソードが複数回登場したり、文法上の誤りがあるなどの問題のほか、登場人物が物語の個々のエピソードで異なる立場を与えられているという問題もある。また年代記の各版の作成時に記載されたアラビア遠征の物語は、その都度いくらかの改変が行われている。
- アラブ人に対する遠征についてのアッシュールバニパルの最初の記録は紀元前649年に作成され、ケダル人の王であるハザエルの子ヤウタ(Yauta)がAmmuladdinという他のアラブの王と共にアッシュールバニパルに反乱を起こし、アッシリア帝国の西方領土を略奪したことについて記述している(ハザエルはアッシュールバニパルの父エサルハドンに貢納を行っていた)。アッシュールバニパルの記録によれば、彼の軍はモアブの王カマス・ハルタの軍と共に反乱軍を打ち破った。Ammuladdinは捕らえられ鎖に繋がれてアッシリアに送られ、ヤウタは逃亡した。ヤウタに代わって、アビヤテ(Abiyate)というアッシリアに忠実なアラブ人の将軍がケダル人の王とされた。この遠征についての最も古い記録は、「余のn番目の遠征」というフレーズが欠如し、敵対した人物を破ったとも述べず、敵の王が捕らえられて処刑されることもなく生き延びて逃亡しているという点において他の大部分のアッシュールバニパルの軍事記録と異なっている。
- この遠征についての第二の物語は紀元前648年に作成されたもので、アッシュールバニパルがアラブ人の女王アディヤ(Adiya)を破ったこと、ヤウタがNabayyateのナトゥヌ(Natnu)という別の首長の下へ逃げたこと、ナトゥヌがヤウタの受け入れを拒否しアッシュールバニパルに忠実であり続けたことが記録されている。このバージョンと更にその後に作られたバージョンの物語にはヤウタが何年も前にエサルハドンに対して反乱を起こしたことについて言及されている。これらの後から作られた記録はまた、ヤウタの反乱をシャマシュ・シュム・ウキンの反乱と明確に結びつけ、それを同時に発生したものとし、ヤウタの反乱は、シャマシュ・シュム・ウキンによるアッシリア内戦が引き起こした混乱に乗じたものであることを示唆している。
- 短期間で終わったこの最初の遠征の後、アッシュールバニパルはアラブ人に対する2度目の遠征を実施した。アッシュールバニパルのこの戦いについての記録は大部分がシリアにおけるウイアテ(Uiate、ヤウタと混同されていたが、恐らく別人)とそのアラブ人兵士たちの捜索に関する彼の軍の動きに関するものである。この記録によれば、アッシリア軍はシリアをダマスカスに向けて行軍し、その後Hulhulitiに進み、その後アビヤテを捕らえ、さらにウショ(Uššo)とアッコ(Akko)を破った。アビヤテが反乱を起こした動機については何の言及もない。さらに、前の遠征でアッシュールバニパルを支援していたNabayyateは、この2度目の遠征では撃破した相手として言及されている。この関係の変化について明らかにするような追加の情報は存在しない。
- アラビア遠征の物語の最後のバージョンでは、この2度の遠征はアッシュールバニパルの9度目の遠征を構成するものとされており、その内容がさらに広げられている。このバージョンではヤウタではなくアビヤテがケダル人の王とされ、シャマシュ・シュム・ウキンの反乱に加わったアラブ人の将軍はヤウタではなくAmmuladdinとなっている。そして、アッシュールバニパルが戦利品をアッシリアに持ち帰ったことで、アッシュールバニパルの帝国におけるインフレと、アラビアにおける飢餓が引き起こされたとされている。また、アッシリア軍だけではなくアッシュールバニパル自身も、個人的に戦闘で勝利を収めたことが明らかにされている。
この後から作られたバージョンの物語ではウイアテが捕らえられ、エラムでの戦争で捕らえられた捕虜と共に、ニネヴェのパレードで引き回されたと述べられている。
王位継承と編年
アッシュールバニパルの治世の終わりと、その後継者アッシュール・エティル・イラニの治世の始まりは史料の欠乏によって謎に包まれている。
- アッシュールバニパルが保存していた年代記は彼の治世の主たる史料であるが、恐らくは彼の病のために紀元前636年で終わっている。アッシュール・エティル・イラニの碑文ではアッシュールバニパルが自然死したことが示されているが、その死が正確にいつのことであったかを明らかなものとはしていない。
考古学的な発掘と発見が行われる1800年代、アッシュールバニパルは古代ギリシアの著作からサルダナパロスという名前で知られており、アッシリア最後の王と誤認識されていた。彼の死について人気のあった物語として、紀元前612年のニネヴェの陥落の時(実際にはアッシュールバニパルの死のほぼ20年後の出来事である)、サルダナパロスが宮殿もろとも自分自身と生き残っていた側女および下僕を焼いたというものがある。
- アッシュールバニパルの最後の年を紀元前627年とする見解が繰り返されているが、これは1世紀近く後の新バビロニアの王ナボニドゥスの母親がハッラーン市に作らせた碑文に基づいている。アッシュールバニパルが生きて王として統治していたことを示す最後の同時代史料は紀元前631年に作られたニップル市の契約書である。アッシュールバニパルの後継者たちの統治期間と整合させるため、アッシュールバニパルはこの紀元前631年に死亡したか、退位したか、あるいは追放されたということが一般的に合意されている。通常は紀元前631年が彼の死亡年とされている。もしアッシュールバニパルの治世が紀元前627年に終わったとすれば、バビロンから発掘された、彼の後継者であるアッシュール・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの碑文の内容とつじつまが合わなくなる。バビロンは紀元前626年にナボポラッサルによって占領され、その後再びアッシリアの手に戻ることはなかった。
- この2人の王のバビロン統治期間から逆算すれば、アッシュールバニパルのバビロン統治の終期は紀元前631年となるはずであるが、紀元前627年まで統治したと正当化する1つの可能性は、アッシュールバニパルと息子のアッシュール・エティル・イラニが共同統治を行っていたと仮定することである。しかし、それ以前のアッシリアの歴史において共同統治の実例は全く存在せず、またこの説はアッシュール・エティル・イラニが自身の碑文で父の治世が終わった後に王位に就いたと述べていることと明白に矛盾する。在位42年という誤った説が生じた原因として、後世のメソポタミアの歴史編さんにおいて、アッシュールバニパルがバビロンをシャマシュ・シュム・ウキンやカンダラヌと共同統治したという情報が作用した可能性はある。この2人のバビロン統治期間を合計すると42年間に及ぶからである。ただしカンダラヌが死亡したのは紀元前627年だが、アッシュールバニパルはその3年前に死亡している。
アッシュールバニパルの治世が紀元前627年まで続いたとする、かつて支持を集めた別の説は、アッシュールバニパルとカンダラヌが同一人物でありカンダラヌ(Kandalanu)は単にアッシュールバニパルがバビロンで使用した即位名であるというものである。この見解を擁護するものには、例えばポーランドの歴史学者シュテファン・ザワドスキの著書「The Fall of Assyria(1988年)」がある。これは複数の理由からあり得そうもないと考えられている。
- それまでのアッシリア王の中にバビロンにおいて別名を使用していた王は知られていない。
- バビロニアから発見された碑文でもまた、アッシュールバニパルとカンダラヌの治世期間の長さは異なっており、アッシュールバニパルの治世は彼が年間を通して王であった最初の年(紀元前668年)を起点とし、カンダラヌの治世はやはり彼が年間を通して王であった最初の年(紀元前647年)を起点として数えられている。
- 個人としてバビロンを統治していた全てのアッシリア王が「バビロンの王」という称号を自らの碑文で用いているが、アッシュールバニパルの碑文では紀元前648年以降に作られたものでさえこの称号は使用されていない。
- 最も重要なことは、バビロニアの史料がアッシュールバニパルとカンダラヌを2人の別の人物として取り扱っていることである。同時代のバビロニア史料もアッシュールバニパルをバビロンの王として描写していない。
アッシュールバニパルの地位は息子のアッシュール・エティル・イラニに継承された。また別の息子シン・シャル・イシュクンには要塞都市ニップルが与えられ、カンダラヌが死亡した時にはバビロンにおけるカンダラヌの後継者となることが定められた。この決定は、アッシュールバニパルの父エサルハドンの王位継承計画の影響を受けたものと思われる。
アッシリアの最後
アッシュールバニパルの死後、彼の息子アッシュール・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンはしばらくの間、帝国の支配を維持し続けたが彼らの治世の間に属国の多くが独立を宣言する機会を得た。
- 紀元前627年~紀元前612年に新アッシリア帝国は実質的に崩壊し、主にメディアと新たに独立した新バビロニアが主導する連合によって本国まで押し込まれた。そして紀元前612年ニネヴェ自体が略奪され破壊された。
最後の王アッシュール・ウバリト2世が紀元前609年にハッラーンで破られ、アッシリアは滅亡した。
史料が数多く残された時代でもあり、記録が詳細に残っています。その存在自体がバグによる暴走の様な印象もありますが、後に現れる国際的多民族帝国は概ねこの新アッシリア帝国をテンプレートとし、可能な限りデバッグを進めて形を取るのです。