紀元前3千年紀後半(およそ紀元前2400年~紀元前2240年)に最初の繁栄を迎えるもアッカド帝国によるシュメール統一事業の最中に一旦滅ぼされる。
後にアモリ人が再建するもヒッタイトに再度滅ぼされる(紀元前2000年頃再建。最盛期紀元前1850年頃~紀元前1650年/1600年再滅亡)。
そこで使用されていたシュメール語と後世ヘブライ語の連続性が指摘されている。
紀元前3千年紀のエブラ
エブラの名は紀元前2300年頃のアッカドの文書にも見られる。紀元前3000年から絶えず人の居住があると見られるが、国力は次第に増し、その絶頂を紀元前3千年紀後半(およそ紀元前2400年~紀元前2240年)にの間に迎えている。遺跡で見つかった粘土板のほとんどはこの時期のものであり、経済に関係するものが中心である。
- エブラとアレッポ双方の文書に、エブラが隣国アルミ(Armi、当時のアレッポの呼び名)と条約を結んだことが記されている。
- 当時のエブラは商業の重要な中心地であり、ライバルだったマリ(メソポタミア南部のシュメール諸都市とシリア北部の都市を結ぶ戦略的に重要な中継点として繁栄。材木や石材といった建材のシリアの山岳部からの輸入に関与した)の1回目の破壊に関与した疑いもある(紀元前24世紀頃。アッカド王サルゴンの可能性も。紀元前1900年頃アラム人が再建し、バビロニア文明とクレタ島のミノア文明の影響を受けたが紀元前1759年頃バビロン第1王朝第6代の王ハンムラビに再度破壊され、以降メソポタミア中流域の繁栄は近隣にカッシート人が建設したテルカに移った)。エブラの貿易はメソポタミア(主にキシュ)向けのものとみられ、またエジプトとの交易があったこともカフラー王やペピ1世(メリラー・ペピ)からの贈り物があったことから確認されている。
- 粘土板には民が様々な家畜(ヒツジ、ヤギ、ウシ)を合計20万頭所有していたと記録されている。主な商品はおそらく周囲の山地(レバノンなど)から伐採した材木、および織物(ラガシュから発掘されたシュメール語の記録にも言及されている)であった。手工芸品も重要な輸出品だったとみられ、真珠貝を象眼した木製家具や色の異なる石を組み合わせて作った石像など、優美な加工品が遺跡から多く出土している。その工芸技術が後のアッカド帝国(紀元前2350年 - 紀元前2150年)に影響を与えた可能性も指摘されている。
- セム系神話の神々がエブラの遺跡にも見られるが(ダゴン、イシュタル、レセフ、ハダド)、クラ(Kura)やニダクル(Nidakul)など未知の神や、エンキやニンキ(Ninki)などシュメール神話の神々、アシュタピ(Ashtapi)、ヘバト(Hebat)、イシャラ(Ishara)などフルリ人の神話の神々の名も見られる。
- 旧約聖書の創世記に登場する名のうち、他の中東の遺跡からは見つかっていないがエブラ語ではほとんど同じ表記で登場するものもある。例えばアダム(a-da-mu、アダム)、ハワ(h’à-wa、イブ)、アバラマ(Abarama、アブラハム)、ビルハ、イシュマエル、イスラエル、エサウ、ミカエル、サウル、ダビデなどである。また聖書と同じ地名、例えばシナイ、イェルサルウム(Ye-ru-sa-lu-um, エルサレム)、ハツォール、ゲゼル、ドル、メギド、ヨッパなどである。
- その政治体制の詳細は不明だが、政府は商業エリートによって統治される寡頭制だったらしく、これら支配層が王を選挙で選び、防衛は傭兵に任せていた。伝統を破って絶対王政と世襲制を取り入れた結果、内乱が発生してアッカド帝国の介入を招いたとする説もある。
メソポタミアのほとんどを征服したアッカド王サルゴンとその孫ナラム・シンは、二人とも自分がエブラを破壊したと書き記している。破壊された正確な時期についてはなお論争のさなかであるが、紀元前2240年は説の中でも可能性の高いものである。これ以後の3世紀の間、エブラは経済的な重要性を若干回復したが、以前の繁栄には及ばなかった。この時期、ニップルの近郊のドレヘム(Drehem)からの文書やヒッタイトのカネシュ(Kanesh)からの文書にあるように、エブラは近隣の都市国家ウルシュ(Urshu)と結びつきを持っていた可能性もある。
紀元前2千年紀のエブラ
アッカド人による破壊から3世紀後の紀元前2000年頃、イビット・リム(Ibbit-Lim)が最初の王に即位してエブラはかつての重要性の一部を取り戻した。
- この頃のエブラの住民はアムル人であり、紀元前1850年から第二の繁栄期を迎え、紀元前1750年頃のアララハの文献にも言及がある。
紀元前1650年~1600年の時期にヒッタイトの王(ムルシリ1世またはハットゥシリ1世)により再度破壊された。2度目の破壊からはエブラは立ち直れず、7世紀までは小さな村として存続したが、以後は考古学調査がなされるまで忘却された。