コンスタンティノープル陥落(1453年)によって東ローマ帝国が滅んだ際、ローディの和(伊Pace di Lodi、1454年)を締結したルネサンス期イタリア五大国の内訳…
ローディの和―中世イタリアに40年和平をもたらした5ヵ国同盟
ローマ教皇国(羅Status Pontificius, 伊Stato Pontificio) - Wikipedia
476年(480年)に西ローマ帝国が滅亡した時点では存在すらしていなかったが、古代末期から中世初期にかけて次第に東ゴート王国、それを滅ぼした東ローマ帝国のラヴェンナ総督府(Exarchate of Ravenna)、ついで6世紀にイタリアに侵入して東ローマ領を侵食したランゴバルド人のランゴバルド王国などの遺領が「ローマ教皇領」と目されていく。
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こうした中、732年にカロリング家のカール・マルテルが、ランゴバルド王国と同盟して、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の侵入を食い止めた。さらに、その後カール・マルテルは土地を貸与する封建制度で騎兵隊を創設。フランク王国でメロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになる。
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ランゴバルド王国を牽制したかった教皇ザカリアスは、751年に名目だけの王と成り下がっていたフランク王国(メロヴィング朝)のキルデリク3世を廃し、カロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持してカロリング朝が創設された。本格的に教皇領が世俗の国家のように成立するのは、翌752年にこの国王ピピン3世(小ピピン)がランゴバルド王国から奪ったイタリアの領土を寄進してからである。この時期ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服し、ローマ教皇に献じ(ピピンの寄進)、教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。カトリック教会の中心であるローマ教皇庁が領土をもったことは、精神的な存在であるはずの教会の世俗化につながった。
つづく教皇ステファヌス3世はガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、ピピン3世の息子カールとカールマンに塗油の秘蹟を施した。そして773年に教皇ハドリアヌス1世は、ランゴバルド王国によってローマを脅かされていたが、ピピン3世の跡を継いだカール1世(カール大帝)に援軍を要請し、774年にランゴバルド王国は滅亡。カール大帝も教皇にローマを中心とした中部イタリアを献じた。ハドリアヌス1世は『偽イシドールス法令集』中の『コンスタンティヌス帝の寄進状』を持ち出して、イタリア全土が教皇の支配に服するようになることをカール大帝に要望。そして教皇レオ3世は800年、カール1世をローマに招いて、ローマ皇帝の冠をカールに授け、彼に「西ローマ皇帝」の地位を与えた。この場合の「西ローマ」はイタリア半島と西ヨーロッパ内陸部、ガリアとゲルマニア(理念上はヒスパニアとブリタニアも含む)を指す領域的な用語で、かつての東西分裂時代の西ローマ帝国とは基本的に異なり、その支配者に注目すれば「カロリング帝国」もしくは「フランク帝国」となる。かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった。欧州の大実力者フランク王国とローマ教皇が提携することによって、東方教会と東ローマ帝国やイスラム帝国に対抗できる体制が整った。
*教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった。しかし、カール大帝の没後にフランク王国は三分裂し、ヴェルダン条約(843年)で西フランク王国(フランス王国)と東フランク王国が欧州の大国となる。その一方でローマ教皇ニコラウス1世とコンスタンディヌーポリ総主教フォティオス1世とがフィリオクェ問題を巡って「フォティオスの分離(863年〜867年)」と呼ばれる東西教会の対立状態に陥った。東ローマ帝国の皇帝バシレイオス1世はフォティオス1世を罷免して対立を解消しようと図る。しかしながら同時期、教皇領拡大政策で周辺国と争いが絶えなかった教皇ヨハネス12世は東フランク王国の国王オットー1世に救援を要請し、窮地を脱出。ヨハネス12世は962年にオットー1世にローマ皇帝の帝冠を与え(神聖ローマ帝国)、この見返りとしてオットー大帝は教皇領を保障し1054年に東西教会は分裂。
神聖ローマ帝国とローマ教会の関係は「叙任権闘争」や「教皇派と皇帝派」の時代も揺らぎ続けてきたが(イタリアに隣接するシュヴァーベン大公が皇統となった)ホーエンシュタウフェン朝時代に差し掛かると、神聖ローマ皇帝やシチリア王がしばしばイタリア支配を目指して教皇領に侵攻。 1254年に教皇の意を受けたフランス王ルイ9世王弟シャルル・ダンジュー(カルロ1世)が神聖ローマ帝国を滅亡させると、それ以降は教皇領は安泰となった。しかし、教皇のアヴィニョン捕囚(1309年〜1377年)が起こると、教皇による教皇領への支配が弱まり、各地を支配する代官が僭主(シニョリーア)として独立君主のように振舞う様に。
イタリア戦争時代に入るとスペインのボルハ家出身の教皇アレクサンデル6世(1492年〜1503年)が庶子チェーザレ・ボルジアを用いて教皇領の再統一を進める。
ユリウス2世(1503年〜1513年)の時代以降、フランスやスペイン、オーストリアの圧力を受けながらも、教皇領は国家としての機能を持つようになり17世紀に教皇領は最大となったが三十年戦争(1618年〜1648年)で神聖ローマ帝国が敗れると、ヴェストファーレン体制(1648年〜1789年)下でヨーロッパの小邦にも主権が認められるようになり教皇権力の衰微が始まる。