テッサロニキ(希Θεσσαλονίκη、羅Thessaloniki)またはテサロニカ (Thessalonica)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャ都市。テサロニキ・セサロニキとも表記する。ギリシア北部,エーゲ海のテルメ湾に臨む港市。
紀元前315年頃、ヘレニズム諸国の一つとしてディアドコイ戦争(後継者戦争, 紀元前323年~紀元前281年)を戦ったアンティパトロス朝初代マケドニア王カッサンドロス(希Κάσσανδρος, 羅Kassandros、在位紀元前305年~紀元前297年)により創建された。妻のテッサロニカ(アレクサンドロス大王の異母妹でマケドニアの王妃でピリッポス2世の娘)の名に因んでテッサロニケーと名付け、徐々に都市としての重要性を高めていった。
- マケドニア王国が紀元前168年に滅ぼされると共和政ローマの自由都市となり、ディラキウムとビュザンティオンを結ぶエグナティア街道に面した交易の要衝となり、大商業地のローマやビザンティオンとの間の交易が促進された。バルカン半島を南北に大モラヴァ川やアクシオス川に沿って走る街道の南端としてギリシャとバルカン諸都市を結んでいた。
マケドニア属州(紀元前146年~395年以降東ローマ帝国に所属) - Wikipedia
初代ローマ皇帝アウグストゥスの統治以降、長く平和的に繁栄。小アジアほどではないがローマ世界にとって経済的に重要な存在であり続けた。
- エグナティア街道が建設されたことにより、ローマ商人のための施設が作られ、ローマ人の入植地も築かれてますます発展。ローマ帝国の支配は、マケドニアに新しい街道と新行政制度を持ち込んだだけでなく、マケドニアに暮らすローマ人に階級を問わず好景気をもたらした。この地には豊かな農地と放牧地があり、奴隷制度の社会の仕組みの中で、大規模な地主は財産を蓄えた。
- 生産者階層の生活水準が上がったことが、この地域の技術者や工芸師を増やすことにつながった。さまざまな商売やものづくりの事業が増えて、石工や炭坑夫、鍛冶屋などが雇われた。またギリシャ人はローマ世界中で家庭教師や教職や医者として求められた。
- 輸出品目として最も多かったのは農作物や家畜で、その他にも鉄、銅、金をはじめ、木材や松やに、油、麻、魚などが輸出された。
さらに、属州内の港ディオ、ペッラ、テッサロニキ、カッサンドレアなどもこの属州に富をもたらした。
- エグナティア街道が建設されたことにより、ローマ商人のための施設が作られ、ローマ人の入植地も築かれてますます発展。ローマ帝国の支配は、マケドニアに新しい街道と新行政制度を持ち込んだだけでなく、マケドニアに暮らすローマ人に階級を問わず好景気をもたらした。この地には豊かな農地と放牧地があり、奴隷制度の社会の仕組みの中で、大規模な地主は財産を蓄えた。
- 後にローマのマケドニア地方にある4地区のうちの1地区の首府となり、その後はバルカン半島での重要性から属州の首都となった。
- 当時のテッサロニキはキリスト教の拡大の中心としても重要で、パウロによって新約聖書の一書テサロニケの信徒への手紙一が書かれている。
- ローマ帝国がテトラルキアにより分割統治されるようになると、テッサロニキは4分割された。帝国のうちガレリウスが統治する領域の首府となり、ガレリウスは宮殿や新しい競馬場、ガレリウスの凱旋門、ロトンダなどの建設を命じた。
- 379年ローマのイリュリア県は東西のローマ帝国に分割され、テッサロニキは新しいイリュリア県の首府となった。
- 390年ゴート族Buthericusの逮捕の為にテオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった(ギリシア史に残る最初の虐殺)。476年に西ローマ帝国が倒れると東ローマ帝国の中では2番目に大きな都市となる。
東ローマ帝国初期にはコンスタンティノープルに次いで2番目に大きな都市であったと考えられ、その地位を1423年にヴェネツィア共和国に割譲されるまで保っていた。14世紀のテッサロニキの人口は100,000人程度で、当時のロンドンを凌いでいた。
- 6世紀~7世紀テッサロニキ周辺にアヴァールやスラヴ人が侵入し、テッサロニキを幾度も包囲したがいずれも失敗している。これまでの歴史的な 文献では多くのスラヴ人がテッサロニキの後背地に居住したとされるが、この移住は実際にはこれまで考えられてきたものより小規模なものである。
- 9世紀になるとテッサロニキ出身のキュリロスとメトディオスによりスラヴ人にとっては最初の文字であるグラゴル文字が考案された。古代教会スラヴ語は当時、このテッサロニキなどマケドニア地方で話されていたスラヴ人の言葉を基にしているとされている。
904年にはアラブの侵入によって短い間攻略された。12世紀のコムネノス王朝期にも経済成長は継続し、東ローマ帝国は北へと支配を広げる。
- 1204年に第4回十字軍によりコンスタンティノープルが包囲されると東ローマの支配を離れ、テッサロニキ王国としてラテン帝国の最大の隷属国となった。
- 1224年テッサロニキ王国は東ローマ帝国亡命政権たるテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスのエピロス専制侯国に侵略された。テオドロス1世は自ら皇帝と称し、テッサロニキを首都とした時代のエピロス専制国はテッサロニカ帝国とも呼ばれる。クロコトニッツァの戦い(1230年)で打ち負かされると、エピロス専制侯国は1246年に再び力が回復するまで第二次ブルガリア帝国属国となり、ニカイア帝国がテッサロニキを支配した。
- 1342年になると船員や貧民による反貴族主義のテッサロニキ・ゼアロット運動が隆盛。今日では社会革命といわれる動きで町は事実上、帝国からの独立状態を達成したが1350年に打倒され、町は帝国に再統合された。
1423年オスマン帝国からの防御を期待しアンドロニクス専制公の手からヴェネツィア共和国に割譲されている。実際1422年~1430年にオスマンにの封鎖下にあったが1430年3月29日にムラト2世に攻略されるまではヴェネツィア側が押していた。ランドマークでもあるホワイトタワーはこの頃に築かれたものである。
- オスマン帝国に攻略されると一時的に市民に対する酷い扱いや略奪のせいで多くの人口が流出。その中には知識人も含まれていたが、テッサロニキの帝国の大都市や交易の中心としての地位や評判は変わることはなかった。
- テッサロニキやスミルナ(現在のイズミル付近)はコンスタンティノープルよりは小さいがオスマン帝国にとっては交易の中枢として重視されていた。海運だけでなく手工業でも重視され、そのほとんどはギリシャ人が取り仕切っていた。
オスマン支配期にはムスリムやユダヤ人の人口が増加している。1500年の記録ではギリシャ人7,986人、ムスリム8,775人、ユダヤ人3,770人であったとされる。1519年にはセファルディムが15,715人で都市人口の54%を占めていた。この状況を指して「オスマン帝国は民族的にギリシャ人(東方正教徒)を阻止するための手段としてユダヤ系の人々を招き入れた」と指摘する歴史家もいる。