「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】テッサロニキの興亡

テッサロニキ希Θεσσαλονίκη、羅Thessaloniki)またはテサロニカThessalonica)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャ都市。テサロニキ・セサロニキとも表記する。ギリシア北部,エーゲ海のテルメ湾に臨む港市。

f:id:ochimusha01:20200710055734p:plain

 紀元前315年頃、ヘレニズム諸国の一つとしてディアドコイ戦争後継者戦争, 紀元前323年~紀元前281年)を戦ったアンティパトロス朝初代マケドニアカッサンドロス希Κάσσανδρος, 羅Kassandros、在位紀元前305年~紀元前297年)により創建された。妻のテッサロニカ(アレクサンドロス大王の異母妹でマケドニアの王妃でピリッポス2世の娘)の名に因んでテッサロニケーと名付け、徐々に都市としての重要性を高めていった。

  • マケドニア王国が紀元前168年に滅ぼされると共和政ローマ自由都市となり、ディラキウムビュザンティオンを結ぶエグナティア街道に面した交易の要衝となり、大商業地のローマやビザンティオンとの間の交易が促進された。バルカン半島を南北に大モラヴァ川やアクシオス川に沿って走る街道の南端としてギリシャとバルカン諸都市を結んでいた。

    マケドニア属州(紀元前146年~395年以降東ローマ帝国に所属) - Wikipedia

    初代ローマ皇帝アウグストゥスの統治以降、長く平和的に繁栄。小アジアほどではないがローマ世界にとって経済的に重要な存在であり続けた。

    • エグナティア街道が建設されたことにより、ローマ商人のための施設が作られ、ローマ人の入植地も築かれてますます発展。ローマ帝国の支配は、マケドニアに新しい街道と新行政制度を持ち込んだだけでなく、マケドニアに暮らすローマ人に階級を問わず好景気をもたらした。この地には豊かな農地と放牧地があり、奴隷制度の社会の仕組みの中で、大規模な地主は財産を蓄えた。

    • 生産者階層の生活水準が上がったことが、この地域の技術者や工芸師を増やすことにつながった。さまざまな商売やものづくりの事業が増えて、石工炭坑夫鍛冶屋などが雇われた。またギリシャ人はローマ世界中で家庭教師教職医者として求められた。

    • 輸出品目として最も多かったのは農作物家畜で、その他にもをはじめ、木材松やになどが輸出された。

    さらに、属州内の港ディオペッラテッサロニキカッサンドレアなどもこの属州に富をもたらした。 

  • 後にローマのマケドニア地方にある4地区のうちの1地区の首府となり、その後はバルカン半島での重要性から属州の首都となった。
  • 当時のテッサロニキキリスト教の拡大の中心としても重要で、パウロによって新約聖書の一書テサロニケの信徒への手紙一が書かれている。

  • ローマ帝国がテトラルキアにより分割統治されるようになると、テッサロニキは4分割された。帝国のうちガレリウスが統治する領域の首府となり、ガレリウスは宮殿や新しい競馬場、ガレリウスの凱旋門、ロトンダなどの建設を命じた。

  • 379年ローマのイリュリア県は東西のローマ帝国に分割され、テッサロニキは新しいイリュリア県の首府となった。

  • 390年ゴート族Buthericusの逮捕の為にテオドシウス1世が派遣した軍によるテッサロニカの虐殺が起こった(ギリシア史に残る最初の虐殺)。476年西ローマ帝国が倒れると東ローマ帝国の中では2番目に大きな都市となる。

東ローマ帝国初期にはコンスタンティノープルに次いで2番目に大きな都市であったと考えられ、その地位を1423年ヴェネツィア共和国に割譲されるまで保っていた。14世紀テッサロニキの人口は100,000人程度で、当時のロンドンを凌いでいた。

904年にはアラブの侵入によって短い間攻略された。12世紀コムネノス王朝にも経済成長は継続し、東ローマ帝国は北へと支配を広げる。

1423年オスマン帝国からの防御を期待しアンドロニクス専制の手からヴェネツィア共和国に割譲されている。実際1422年~1430年オスマンにの封鎖下にあったが1430年3月29日にムラト2世に攻略されるまではヴェネツィア側が押していた。ランドマークでもあるホワイトタワーはこの頃に築かれたものである。

オスマン支配期にはムスリムユダヤ人の人口が増加している。1500年の記録ではギリシャ7,986人ムスリム8,775人ユダヤ3,770人であったとされる。1519年にはセファルディム15,715人で都市人口の54%を占めていた。この状況を指して「オスマン帝国は民族的にギリシャ東方正教を阻止するための手段としてユダヤ系の人々を招き入れた」と指摘する歴史家もいる。