イタリア海洋都市国家のうち、まず最初に台頭したのが南イタリアを本拠地とするアマルフィ公国(9世紀~12世紀)であり、聖ヨハネ騎士団(1113年~)の起源となったがオートヴィル朝シチリア王国(1130年~1194年)に滅ぼされる。
アマルフィ公国 (Ducato di Amalfi) またはアマルフィ共和国 (Repubblica di Amalfi) - Wikipedia
南イタリアのアマルフィを中心に9世紀から12世紀にかけて存在した海洋都市国家。ピサ、ジェノバ、ヴェネツィアなどの北部海洋都市国家が台頭するまでイタリアの商業の中心地として地中海貿易を支配していた地中海貿易の先駆的存在であり、初めて海商法を整備した国でもあった。実際アマルフィの海商法は国家としてのアマルフィが衰退した後も1570年頃まで使われ続けた。
①339年に設置された交易所を起源としている。元々は、東ローマ帝国系のナポリ公国に支配されていた地域であった。838年にランゴバルド人に占領されるが、翌839年ランゴバルド人を追放すると、知事を選出して自治共和国としての形を整え始める。958年には元首を選出して公国となり、間もなく最盛期を迎える。
②11世紀に入ると、政権は次第に不安定になっていき、サレルノ公国からの介入を許すようになる。
- ティレニア海に面し、アマルフィ海岸とソレント半島の付根のサレルノ湾に位置する。古代ギリシア人植民地を起源とし、紀元前2世紀ローマ植民地となった。
- 9世紀にはランゴバルド人によりサレルノ公国が成立したのち、1077年にはノルマン人傭兵ロベール・ギスカール(ロベルト・イル・グイスカルド)の支配下に入りノルマン人王朝オートヴィル朝(1130年~1194年)のもとで経済的な繁栄を遂げる。
サレルノ大学(Università degli Studi di Salerno, 9世紀?~)は、現存の世界の大学の中でボローニャ大学(Alma mater studiorum - Università di Bologna, 11世紀?)に次ぐ古い歴史を有する。ボローニャが法学を看板にしていたのに対しサレルノは医学の大学で、今日の解剖学教室のような階段教室が当時から既にあった様である。
③1023年頃アマルフィの商人がエルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立(最大2,000人が収容可能といわれた)。これが聖ヨハネ騎士団(1113年~)の起源となる。
④1073年ノルマン人ロベルト・イル・グイスカルドによって征服されると、アマルフィ公の地位も彼の息子に奪われ、独立を失う。1096年に反乱が起きるが、1101年鎮圧。1130年に再度反乱が起きるが、逆に1131年ルッジェーロ2世によってシチリア王国に併合された。
⑤1135年および1137年にはピサの攻撃を受け、以後は都市としても急速に衰退。
1023年頃にアマルフィの商人がエルサレムの洗礼者ヨハネ修道院跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所(最大2,000人が収容可能といわれた)を設立したのが端緒とされる。
- 第1回十字軍(1096年~1099年)の後、プロヴァンスのジェラールの努力によって1113年教皇パスカリス2世から騎士修道会として正式な承認を受けた。この時から聖アウグスティノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てる様になる。
- 1119年に設立されたテンプル騎士団と同様に徐々に軍事的要素を強めていったが、この時代は主に病院(ホスピタル)騎士団と呼ばれる様に病院や宿泊施設も従来どおり運営されており、騎士出身の修道士も平時には病院での医療奉仕が義務付けられ(騎士と呼ばれていても、公的には修道請願を立てた修道士であり、本来的な意味での騎士ではない)、設立時の趣旨を色濃く残していた。当時、この騎士団に入ることは大変な栄誉とされていたが、その代償として騎士団在籍中は如何なる理由があっても結婚が禁止された。
- 次第に軍事的要素を強め十字軍国家防衛の主力となり、聖ヨハネ騎士団だけで2つの大要塞と140の砦を守っていた。1187年のエルサレム陥落後はトリポリやアッコンを死守していたが、1291年になって遂に「最後のキリスト教徒の砦」アッコンが陥落するとキプロス島に逃れた。
- 以降は海軍(実態は海賊)となってイスラーム勢力と戦うも、キプロス王から警戒されて1309年、東ローマ帝国領であったロードス島を奪取してここに本拠地を移転する。
これ以降ロードス騎士団と呼ばれるようになり、1312年におけるテンプル騎士団の資産没収に際してはかなりの分前に預かったし、中東のイスラーム教徒と戦う唯一の主要騎士修道会として西欧から多額の寄進を受けれる様になった。しかし1522年にオスマン帝国スレイマン大帝が400隻の船団と20万人の兵を率いて来襲すると流石に衆寡敵せずでシチリア島に撤退。- 今度は教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世の斡旋により、シチリア王からマルタ島をタダ同然で賃貸され(賃貸料は毎年「マルタの鷹」1羽)、ロードス島時代同様にイスラームやヴェネツィアのユダヤ人への海賊行為と虜囚の奴隷売買で暮らす様になった。しかし16世紀に入って宗教改革が盛んになると西欧各地の騎士団領が没収され、17世紀にはロシア海軍やフランス海軍の一部として組み込まれるようになった。
1798年にはナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征の際にマルタ島を奪った為に改めて根拠地を喪失。一端は正教国家たるロシア帝国を頼り1801年ロシア皇帝パーヴェル1世を騎士団総長に選んだが、1803年に再びカトリックの総長に復帰。これ以降は求心力を失い、各地の支部が独自に活動するようになり1834年以降はローマを本部とする様になった。
オートヴィル家(Maison de Hauteville, イタリア語ではアルタヴィッラ家 Casa d'Altavilla) - Wikipedia
フランスのノルマンディー公国出身のノルマン系騎士の家系であったが、グリエルモ(鉄腕グリエルモ Guglielmo Braccio di Ferro)をはじめとするタンクレードの息子たちが南イタリアに移住し傭兵として活躍。
そのうちロベール・ギスカール(ロベルト・イル・グイスカルド)が南イタリア及びシチリア島を征服して1059年に正式にローマ教皇によってプッリャ・カラブリア公爵に封じられた。
1072年ロベルトは弟のルッジェーロ1世にシチリアを分与して伯爵とした。ロベルトの息子ボエモン1世は第1回十字軍(1096年~1099年)に参加し、アンティオキア公国(Principality of Antioch, 1098年~1268年)を建てた。
プッリャ・カラブリア公爵家はロベルトの孫グリエルモ2世の代で直系が絶え、ルッジェーロ1世の息子であるルッジェーロ2世が継承したことでナポリ・シチリアが統合された。そして1130年ルッジェーロ2世がローマ教皇から王号を得たことにより、オートヴィル朝シチリア王国(1130年~1194年)が成立する。
東方の文化を受け入れ地中海の交易で栄えたが、グリエルモ2世没後に傍系の庶子タンクレーディとルッジェーロ2世の娘コスタンツァの間で王位を巡る争いが起こり、コスタンツァの夫ハインリヒ6世によって征服されてホーエンシュタウフェン朝へと王位が移ることになった。
前ロマネスク時代(西ローマ帝国滅亡(476年/480年)からフランク王国滅亡(9世紀末)にかけての西欧)からロマネスク時代(10世紀~12世紀)への推移を語る上で欠かせない歴史的存在。ちなみに人によっては盲目的に絶賛して止まない当時の「ノルマン人の多様性と多態性への寛容さ」についてはこういう注釈もついていたりするので注意が必要である。
<高山博『中世シチリア王国』1999 講談社現代新書 p.183-184>
ノルマン=シチリア王国ではアラブ・イスラーム文化、ギリシア・東方正教文化、ラテン・カトリック文化が共存していたが、それぞれの文化集団に属する人々が混在していたのではなく、モザイク状に棲み分けていた。彼らは地域的に偏在していただけでなく、社会的立場も異なっており、世俗の領主や教会・修道院の聖職者はラテン系かノルマン系、王に仕える役人はアラブ人、ギリシア人、ラテン系であり、農民たちの多くはシチリアではアラブ人、ギリシア人、イタリア半島部ではギリシア人か南イタリア人であった。こうした文化的背景の異なる集団を、ノルマン人が危ないバランスで統合してかろうじて一つの王国を作り上げていたのである。
このような異文化集団の共存を可能にしたのは、この地に住む人々の宗教的・文化的寛容性ではない。強力な王権がアラブ人を必要とし、彼らに対する攻撃や排斥を抑制していたからである。したがって、戦争や争乱のときには必ずと言ってもよいほど、異文化集団に対する略奪や攻撃が行われた。また、王国のアラブ人人口が減少し王権にとってアラブ人が不要になると、アラブ人住民に対する態度も冷淡となった。そして、異文化集団によって支えられた王国の文化的・経済的繁栄も終焉を迎えるのである。
とりあえず、以下続報…