「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】欧州中世における「建築史上の暗黒時代(8世紀~10世紀)」について。

建築史上の暗黒時代
(The Dark Age of Architectural History, 8世紀~10世紀)

欧州の伝統的中世区分では、ほぼ(古代末期を除去した)中世前期に該当。当時の欧州文化圏は木造建築中心で後世に代表的建築物が残されず、かつ利用可能な文字史料も限られる為当時の建築様式の復元が殆ど不可能とされている。

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 ①建築史上、ロマネスク時代(10世紀~12世紀)に繋がった鍵として、トレドを建築しながらイスラム勢に「ピレネー山脈の向こう側」すなわちイベリア半島北西部へと追われた西ゴート王国(羅Regnum Visigothorum, 415年~711年)の遺臣が建国したアストゥリアス王国アストゥリアス語: Reinu d'Asturies、スペイン語: Reino de Asturiasラテン語: Asturorum Regnum, 718年~925年)が重視される。

②一方、カール大帝ザクセン戦争独: Sachsenkriege、英: Saxon Wars, 772年~804年)によりザクセン地方がフランク王国羅: Regnum Francorum, 仏: Royaumes francs, 独: Fränkisches Reich, 5世紀後半~9世紀末/10世紀)の版図に接収された結果、北欧諸族もその影響下に入り(おそらくフランク王ルートヴィヒ1世の命によって9世紀遂行された北欧布教への反動などもあって)ヴァイキング英:Vikingスウェーデン語:viking、独:Wikinger, 北欧諸族による略奪遠征)によるヴァイキング時代Viking Age, 800年~1050年)が始まってしまう。

  • 歴史に登場した最初の時点ではヴァイキングは「北欧諸族の農民や狩漁民が一時的に編成する冒険商人集団の散発的襲来」に過ぎなかったが、次第に北欧本土はデンマーク王国ノルウェー王国スェーデン王国に統合され襲撃の主体もこれらの国々の国家事業へと推移していった。

    こうした「デーン人の王達」のイングランド侵攻は次第に単なる略奪でなく移民(あるいは侵攻を見合わせる代償「デーンゲルド=退去料」の徴収先)を伴う様になり、その結果としてほぼ今日のヨークから南、ロンドン北方に至る地域(ノーサンブリア地方全域とミッドランド地方南東部に該当し、「五市地方」すなわちレスター、リンカン、ノッティンガム、スタムフォード、ダービーが主な定住地に選ばれた)が、ノルマン・コンクエスト(1066年)以降も長期に渡って残存したデーンロウ英Danelaw, 古英語 Dena lagu)なる地域行政上の特別地帯が形成される事になる。
    *その一方で北欧人は「最終的にラグナロクによって全て滅ぶ」終末観が新約聖書に提示された黙示録の世界観と合致したから自ら喜んでキリスト教に改宗したという。

    「デーンロー地域内の社会的不均質性について」

    ちなみにオックスフォード大学でOld English及び中世文学を教えていたJ.R.R.トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, 1892~1973年)の研究対象であった古英語文学、すなわちデンマークを舞台とする叙事詩ベーオウルフ英: Beowulf, 古英語: Bēowulf, 成立8世紀~9世紀)」やエゼルレッド2世代の西暦991年8月10日イングランドエセックスにあるモルドン近郊でモルドン太守ビュルフトヌスが侵入してきたヴァイキングに大敗した史実に取材した叙事詩モルドンの戦い(The Battle of Maldon)」、民族移動時代(400年~800年)にフリースラントで起きたデーン人とフリース人との間の争いを扱った英雄詩断章「フィンネスブルグ争乱断章Finnesburg Fragment )」あるいは「フィンズブルフ争乱断章Finnsburh Fragment )」はかかるデーン人文化に立脚しており、その分析から生じた「イングランド先住民にとってはアングロ=サクソン諸侯もデーン人も等しく侵略者に過ぎなかった」なる歴史観は「ホビットの冒険The Hobbit, or There and Back Again, 1937年)」や「指輪物語The Lord of the Rings, 執筆1937年〜1949年, 初版1954年〜1955年)」といった創作ファンタジー古典ばかりか幸村誠ヴィンランド・サガ(Vinland Saga, 2005年)」の様な日本の歴史マンガにまで影響を与えている。

    『モールドンの戦い』とトールキンの試み

  • その一方でフランスのノルマンディ泊地に定住した集団は(おそらくローマ時代にガリア人統治官僚として利用された後に現地で土豪化したサルマタイの一枝族)アラン人やアヴァール人経由でフランク王国が発明した「鎧で踏ん張る重装衝突槍騎兵の密集突撃」を継承し、現地に割拠する「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の一員となった。ノルマン人と呼ばれる存在の誕生である。

    紀元前5世紀頃、ユーラシアのステップにおいて、西にスキタイ人、その東にサルマタイ人、その東方にサカ人が暮らしていた。彼らは人類史上はじめて洗練された騎馬術を習得したといわれる東イラン系の遊牧騎馬民族とされる。サルマタイ人は、紀元前3世紀頃、西方の南ウクライナ黒海北岸)に移動し、スキタイ人を壊滅させた。サルマタイ人スキタイ人を滅ぼすことができたのは優れた騎馬戦闘術と重装武装の武具甲冑を持っていたためと言われている。紀元前2世紀には、サルマタイ人はヨーロッパに侵入し、そのまま残ったものはアラン人Alans)と呼ばれるようになった

    最古の騎馬民族スキタイ系の流れを汲むアラン人は、騎馬遊牧民族特有の派手で濃厚な文化をもっていた。彼らの騎馬軍団はゲルマン人武装民集団と比べてはるかに統制がとれ、洗練されていた。アラン人の成人男子は全員が熟練した騎馬戦士で、幼い頃から乗馬に慣れ騎馬戦法に長じていた。また、オリエント美術やギリシア美術の影響を受けて洗練された装具を身に着けた金髪碧眼のアラン人は、彼らを敵とするローマ人ゲルマン人を魅了したと言われる。

    帝政末期のローマでは、ゲルマン人をはじめ外国人をしばしば重用したが、文化レベルも低くなく統制のとれているアラン人は高い評価を受けていた。同時、多くは武装難民に過ぎなかったゲルマン人もまた、精鋭騎馬民族を編成するアラン人の力を得ることでやがてローマを打ち滅ぼし、国家を建設するまで成長したといわれている。

    フン族に呑み込まれる形でヨーロッパに雪崩れ込んできたアラン人は、フン族の支配から脱すると、分派が進み、それぞれの運命を辿ることになる。アラン人の一派は、5世紀初めフン族の西進により、東ゲルマン系のヴァンダル族スエビ族とともにライン川を渡り、ピレネー山脈を越え、ガリアからイベリア半島に達した。さらにヴァンダル族は、アラン人とともに、北アフリカに渡り、439年カルタゴを占領し国家を建てるが、これは、同盟したアラン人の協力があってのことであった。そのことを示すように、ヴァンダル国王は「ヴァンダルとアランの王」と名乗った。

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    ガリアに残ったアラン人の一派は、アッティラフン族との対決となったカタラウヌムの戦い(451年)では、アエティウス率いるローマ軍の中翼を担い武勇を振るった。

    • この時代までにローマ軍の主体はフランク族ヴァンダル族ラニ西ゴート族などで構成されるフォエデラティ羅: foederati, 戦士を傭兵として供給してもらうことと引き換えにローマが「援助」を与えた周辺の蛮族)へと変貌していた(西ゴート国王アラリック1世も、その出自はゴート族のフォエデラティの統率者だった)。ここでいう「援助」は当初金銭か食料を指したが、4世紀~5世紀における税収減を受けて「ローマ帝国辺境部の特定地域への定住(支配)」を指す様になり、それまで現地に自給自足型の広大なヴィッラを構えて住んでいた地主らも彼らへの妥協を余儀なくされていく。その過程でローマへの忠誠心は益々減衰し、地方単位のまとまりが重視される様になり、分裂状態の深刻化が進行していく。

    453年アッティラが没するとフン族は急速に衰退し、また、西ローマ帝国も滅亡するが、ガリア地方のアラン人はそのままの勢力を保ち、貴族とした生き残った。混乱の中世初期においても、アラン人の軍事力は健在で、メロヴィング朝フランク王国でもアラン人を顧問に向かい入れたほどだった。

    この頃になると、騎馬遊牧民族として移住こそ生活の旨としていたアラン人も定住生活に移行し、ローマ・カトリックに改宗し、土地の言葉を話し、土着民との結婚によって同化していた。しかし、現在のフランス、ブルターニュ地方などでは、脈々アラン系貴族の血が受け継がれ、精悍なる騎馬民族の伝統が残っている。

    また、東西ローマ帝国の騎兵スタイルを踏襲したと言われる、鎧兜を着けたヨーロッパ中世騎士たちにしても、両帝国の傭兵の多くがアラン人であったことを考えれば、ひいては彼らからの文化的影響を受けたと見なすこともできる。実際、中世の騎士がまとった鎖帷子くさりかたびら/チェーン・メイル)の鎧は、アラン人の騎馬先史の装備に似ているし、いわゆる、「騎士道」の概念も、アラン人戦士の作法を基礎にしており、紋章をもって騎士を任命するのは、アラン人の流儀がもとになっていると考えられている。さらには、騎士達が熱狂した馬上槍試合は、騎馬で戦うアラン人の戦闘様式の発展したものだといわれ、美術の分野でもスキタイ人以来アラン人が用いた冶金技術が、ゴシック美術に影響したと言われる。
    http://i1.wp.com/www.kavehfarrokh.com/wp-content/uploads/2014/02/2-Sassanian-and-viking-Helmets.jpg
    ところで…ここまで徹底したサルマタイ人/アラン人の高評価の背後にはしばしば16世紀~19世紀ポーランド=リトワニア共和国の貴族階層ウクライナ・コサックの間で流行したサルマティズム/サルマタイ主義ポーランド語: Sarmatyzm / ウクライナ語: Сарматизм / リトアニア語: Sarmatisms / 英語: Sarmatism)が透けて見える事がある。
    *当初信仰心、誠実さ、愛国心、勇敢、平等と自由を鼓吹する理想主義的文化運動として始まったそれは次第に腐敗し、信心を狂信に、誠実さを政治的無知に、誇りを傲慢さに、勇敢を頑迷に、自由を無秩序に変容させてしまったという批判もある。

    ハリウッド映画でいうと「アーサー伝説の起源もまたサルマティズム/サルマタイ主義だった」なる大胆な立場に立脚する「キング・アーサー英: King Arthur, 2004年)」辺りが著名。

    ウィリアム・マクニールヴェネツィアVenice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1978年)」

    732年頃カロリング家の宮廷で恐るべき戦術が発明された。鎧兜に身を固めた職業戦士による乗馬突撃の一種だが片手に盾、片手に長槍を構えて激突の瞬間身体を前のめりに倒し、重い鐙で衝撃を受け止める事によって構えた槍の穂先に恐ろしいエネルギーを込める様になったのである。

    • 戦闘が乗馬突撃の可能な広い場所で行われる限り、こうした重装槍騎兵(Heavy Shock Cavalry)を数十人用意するだけで確実に勝利が勝ち取れた。
    • ピピン3世在位751年~768年)やカール大帝在位800年~814年)が北イタリアのランゴバルドロンバルディア)人やザクセンサクゾン)人に対して連戦連勝を誇ったのはこの戦術の御陰だったとも。

    いずれにせよ分裂状態に陥ったカロリング朝にこんな騎馬軍団を維持する余力がある筈もなく、再びその維持費が支払える様になったのはロワーヌ川とライン川の流域で950年前後に社会制度と農作物生産体制の変革があって再び装備を調え訓練を受けた専業騎士達が大量に養える様になってから。かくして北フランスからフランドルにかけて広がる北西ヨーロッパの肥沃な平原に封建的・荘園的中心地が出現する事になった。
    *ちなみに当時における農業生産力や出生数の増加を単純に「ヨーロッパが寒冷な気候から温暖な気候への変化した結果」に帰する歴史観も存在する(中世温暖期理論)。

    菊池良生傭兵の二千年史2002年)」

    866年シャルル禿頭王(le Chauve, der Kahle、西フランク王国初代国王シャルル2世(Charles II、843年〜877年)、西ローマ帝国皇帝カール2世(Karl II、875年〜877年))は軍の召集にあたって、家臣は必ず馬に乗って出頭するように厳命した。このとき召集させられた騎兵は単に馬に乗る兵ではなく、君主より領地を封土され、その御恩 に対し「いざ、鎌倉」の際に君主の下に馬を駆って馳せ参じる騎士であった。

    一説によれば鎧、兜、剣、槍、盾と合計三十キロのフル装備に身を固める騎士一人を養うのには150ヘクタールの土地からの収入が必要との事。

    マイケル・ハワードヨーロッパ史における戦争War in European History、1976年)」

    この戦法(重装衝突槍騎兵の密集突撃)は歩兵を蹴散らすのにはもちろん、細長いボートでどんな小さな川も上ってくるバイキングや、丈夫なポニーに乗って疾駆してくるハンガリー騎兵に対してもことのほか有効だった。

    そしてかかる戦術的優位は(地域によって差があるものの)一般に13世紀~15世紀ポーランドリトアニア共和国ウクライナ・コサックといった東欧諸国では17世紀中旬)まで続いたと目されている。

    当時欧州に割拠した「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」はどれも、すなわち(スカンディナヴィア半島を含むバルト海沿岸部から出発してリガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、ロシア平原経由でドニエプル川を下って黒海に現れ、ビザンチン帝国に到達して略奪遠征を遂行したり逆に対ヴァイキング兵力として雇われたりした)民族系統不明のヴァリャーグ単数形, 古東スラヴ語:Варягъ, ギリシア語:Βάραγγος, 古ノルド語:Væringjar, ウクライナ語:Варя́г/Variah、ベラルーシ語:Вара́г/Varah, ロシア語: Варя́г/Varyag)/ヴァリャーギ複数形, 古東スラヴ語:Варягы/Варязі/Варяже, ギリシア語:Βάραγγοι/Varangoi/Βαριάγοι/Variagoi, ウクライナ語:Варя́ги/Variahy, ベラルーシ語:Вара́гі/Varahi, ロシア語:Варя́ги/Varyagi)も含め、こぞって競い合う様に「鎧で踏ん張る重装衝突槍騎兵の密集突撃」や「ヴァイキングの船団運用術」やこれらを支えるハスカール制(Huskarl, 食客)を積極的に採用。その結果、驚くほど均質な存在となり原型がどういうものだったか推測が困難になってしまったケースさえ存在する。

    ハスカール(古ノルド語:Huskarl)

    暗黒時代から中世初期にかけてのゲルマン民族、特に北欧やイングランドなどにいた職業軍人、傭兵の一つ。ハウスカール英Housecarl)とも。

    封建制度が確立した中世ヨーロッパ社会であれば土地を媒体として騎士を戦争に参加させるなどして職業軍人を確保できるが、封建制度が無い、あっても未成熟な社会においてはハスカールは必要な存在であった。彼らは小規模ではあるが常備軍であり、幼少の頃から高度な戦闘訓練を受けて、首領や王侯貴族に私兵として仕え、その報酬として主に金銭や略奪品の分け前などを受け取っていた。しかしこうした首領や王侯貴族が十分な略奪を行わずハスカールへの報酬を払えない場合、ハスカールは彼らを排除したり見捨てたりすることもあった。自発的な戦闘集団であったため、このように主君に絶対服従を誓う決定力のある戦力とは言いがたかったが、ヘイスティングズの戦いでは例外的にハロルド2世が戦死した後も彼の配下であったハスカールは最後の一人に至るまで果敢に戦い、討ち死にしていったという。 また、時代が下ると傭兵全般を指してハスカールと呼ばれた。

    文献として初めて記録されたのは11世紀初頭からで、スヴェン1世イングランドを征服しハスカールの制度をイングランドに持ち込んだことから始まる。イングランドでのハスカールは王宮に住み、1人の伯に対して250~300人が仕えていたという。当時のイングランドとしてはほぼ最強の戦士集団であり、相次ぐ戦いでハスカールを消耗したこともハロルド2世ウィリアム1世に敗北した要因の一つだと言う。

    中世ロシアのキエフ大公国、およびその他の諸公国に存在した親衛隊ないし従士団であるドルジー (Druzhina) もまた、元来はロシアに侵攻したヴァイキングヴァリャーグ)のハスカールが起源とされる。

    こうしたヴァイキングノルマン人)の傭兵部隊は東ローマ帝国ではヴァラング隊 (Varangias) あるいはヴァリャーグVaryag)と呼ばれ皇帝の親衛隊として仕え、ノルマン騎士団に対抗出来る唯一の戦力として重宝された。恐らくドゥビナ河とドニエプル川を伝って黒海まで進出し、東ローマ帝国に雇われてノルマン人の好敵手となったスェーデン人冒険商人達あたりではないかと推察されている。

    一方、十字軍に招集された封建的騎士伯とその従者)達は「騎士は攻撃を継続することで勇武を示すことが常に要求される」とする「騎士道の規律アイテム(Item)=常に前衛(avante garde)であり続ける事を要求される究極の督戦条項条項)」の遵守を誓わされ、自らも部族連合的結集力を背景に先陣争いの功績を競い合い、伝統的乗馬突撃による決戦以外の一切を否定する倫理規定に従って生きたと考えられている。

    他方、初期アナール派を代表する一人たるマルク・ブロックの「封建社会Feudal Society、1939)」には「この最も厄介な分子(騎士達の事)瀉血するように十字軍 として圏外に出すことによって、フェーデ私闘で窒息して死滅することから免れたのである」とする。おそらくどちらの側面もあったのであろう。また「空気を読まず乗馬突撃」の気風は時代が下るほど敗北しかもたらさなくなっていく。

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  • 例えば10世紀前半フランドル現在のベルギーとオランダに跨がる地域)に割拠したブラバント公領を舞台にマジャール人侵攻を背景に展開する「白鳥の騎士ローエングリン(馬でなく白鳥を模した川船を主要な乗り物とする)の概念には如何なる原型が存在したのだろうか。川船はノルマンディーを泊地としていたヴァイキングやオルレアン地方に割拠していたアラン人やセーヌ川を遡ってパリを襲撃していたブリトンの様な「敵側」を暗喩しているという説もあり、実際その正体は「(アーサー王伝説の一環たるモンサルヴァート城で聖杯を守護する王パルツィヴァルの息子」であったりもする。

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    中世フランス文学・比較神話学の権威フィリップ・ヴァルテールは、「ハクチョウを連れた騎士」ローエングリンの伝説と、死後に白い鳥に変身して飛び立つヤマトタケルの伝説の比較により「インド=ヨーロッパ神話」に先立って「ユーラシア神話」が存在したという壮大な仮説を披露している。

    いずれにせよ中世の詩人フライダンクは「神は三つの身分をつくりたもうた。祈る人、戦う人、耕す人である」と歌った。10世紀末頃にはかなり広まっていた考え方とされる。「祈る人」である聖職者はともかく「 戦う人」の身分固定化は 戦争の様相が変化し、その結果、かなり兵農分離が進んだ事を示している。

フランク王国衰退に便乗した「マジャール人の侵攻(10世紀)」があったのもこの 時期。

④そしてこの時代を生き延びたのは以下の三王統のみだった。

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とりあえず、以下続報…