「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】【段階的発展説】マックス・ウェーバー「鋼鉄の檻(Gehäuse)」

一般に「段階的発展説」に数えられませんが「脱ぎ捨ててきた殻の歴史=結果として残されてきた歴史」は理論上それと重なる筈なのです。

マックス・ウェーバー鋼鉄の檻(Gehäuse)」理論は社会は微小変化の累積を精算する為に「定期的脱皮」を必要とし、それが間に合わなくなった時に概念的死を迎えるという考え方。

ある意味フランス流実証主義アメリカ流実証主義の「ええとこどり」を狙ったとも考えられる。

  • 常に「脱皮に失敗した社会は死ぬ」恐怖が実存する事自体がこのモデルの一番秀逸な箇所で、それを回避せんとして国民統合が進行し様々な「痛みも伴う改革」が容認されていくのである。

  • 実際の国家形態の変遷としてはドイツの場合が「プロイセンとその同盟領邦ドイツ帝国ワイマール体制ナチスドイツ戦後ドイツ」、日本の場合が「(日本独自に芽生えた)氏姓制→(中華王朝より輸入され江戸幕藩体制に至る)律令国家体制大日本帝国戦後日本」なる推移を辿ってきた。フランスが歩んだ現実の歴史にも適用可能。「(それ以前の封建主義的体制の総決算としての)絶対王政フランス革命政府(第一次共和制,1789年~1799年)→総裁政府(1795年~1799年)/統領政府(1799年~1804年)→(皇帝ナポレオンによる)第一次帝政(1804年~1814年)→復古王政(1804年~1830年)→七月王政(1830年~1848年)→(大統領ルイ・ナポレオンによる)第二共和制(1848年~1852年)→(皇帝ナポレオン三世による)第二帝政(1851年末~1870年)→第三共和制(1870年~1840年)→ヴィシー政権(1941年~1944年)→第四共和制(1944年~1958年)→(ドゴール大統領による)第五共和制(1958年~現在)」…

  • ロシアなら「帝政ロシア(1721年~1917年)→ソビエト連邦(1917年~1991年)→現在のロシア」、中国なら「統一中華王朝(紀元前221年~1912年)→中華民国(1912年現在)/中華人民共和国(1921年~現在)」。一方(神聖ローマ帝国後継国としての)ハプスブルグ君主国(800年~1918年)やオスマン帝国(1299年~1922年)を見舞ったのは滅亡(解体)。まぁロシアもその遷移の実体はこちらに近い。

とはいえ第二次世界大戦(1939年~1945年)以降の世界は大幅に過去の歴史的拘束から解放され「理想としては無相関たるべき(すなわち元来はそれぞれが直行基底として機能すべき)三層評価軸」によってその大半が説明される様になったのです。

  • 「(国の体裁を保つのに充分な火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制による徴税によって養う)主権国家体制(Civitas Sui Iuris)の国際的協調体制」が担保する実証主義(Legal Positivism)の有効範囲。欧州におけるこの出現が近世とそれ以前を分ける重要タームとなった。

  • 「(パトロネージュ要素を含む)複式簿記的検算」が担保する経済実証主義(Economical Positivism)の有効範囲。当初は帆船による奴隷、金銀、紙、香辛料や調味料、陶器、砂糖、毛織物、絹や麻、キャラコ、紅茶、昆布等の海産物といった「世界商品(World Products)」の大陸間交易網として出発したものの…

    19世紀産業革命以降は冷蔵技術の発達によって農産物や畜産品の遠距離輸送が可能となり、工業機械化による大量生産・大量消費スタイルが消費の主体を(王侯貴族や聖職者といった)伝統的インテリ/ブルジョワ/政治的エリート階層から新興産業階層や労働者供給階層に推移させた。また鉄道網に電信線が併設されたり海底ケーブルが敷設されたりしたのを皮切りに国際通信網の整備が始まる。20世紀に入ると天然ガスや石油といったエネルギー輸送需要も急増。

  • イデオロギー(Ideologie=特定の時代や社会において日常生活を包括的に説明する為に用いられる哲学的根拠)」によって個々の集団的アイデンティティ(Group Identity=集団的自我同一性)が担保される文化実証主義(Caltual Positicism)の有効範囲。「パラダイム(Paradaim=特定の時代や分野において支配的規範となる物の見方や捉え方。科学・思想・産業・経済などさまざまな分野で用いられる)」および(その概念の厳密再定義版たる)「専門図式(Disciplinary Matrix=記号的一般化、特定のモデルへの確信、価値、「これまで一度も解いた事のない問題を既存の方法の応用によってアナロジカルに解くパターン認識の源泉」見本例(Exemplars)から構成される)」を部分集合として含む。

それでは逆にこの「三層階層」はこの時期までにどう整えられてきたのでしょう。ラッサールの財産私有制段階発展説はこの様に捉えます。

  • 「(神官団が天文学や測量技術などを活用して農業暦などを保守する)政教一致段階」下では(あらゆる知識を独占する)神官団が、しばしば(生産物の出来高を保証する)経済実証主義と(現状維持が最善の選択である事を神話や宗教儀礼などによってイデオロギー的に説明する)文化実証主義の評価次元を潰す(行列式=0に設定する)。とはいえ他勢力との対抗上、戦争遂行を指揮する独裁官が一時的に任命される事もあった。

    インドのグプタ朝(320年~550年頃)で農村社会にバラモン僧が派遣され農業指導に従事する様になったり、欧州の修道院がチーズやワインの生産産業を振興したのも、かかる宗産一体状態の気質を継承した側面を感じずにはいられない。

    当時の農村社会はクトゥンビンと呼ばれる小農が基盤となって支えていたが、ここへバラモンが進出し指導的立場となったのもこの時代の特徴である。バラモンは農村にて租税免除などの特権を与えられ、先進技術や学問を農村に伝えるとともに農村の秩序維持の役目を果たした。辺境の未開地にまでバラモンの居住地が拡大したことは、地方における農業の発展や政治システムの伝播につながったとされる。

    一方、ナーランダ僧院がこの時代に設立されるなど、仏教などほかの宗教が迫害される事はなく手厚い庇護を受けた。しかしインドにおける仏教は教学研究は盛んになったものの、この時代から衰退に転じる。

  • 「(領主が領民と領土を全人格的に代表する)農本主義的権威体制(いわゆる封建制)」下では概ね安定的支配を志向する領主ギルドがしばしば実証主義文化実証主義の評価次元を潰した(行列式=0に設定する)。しかし経済力もまたこれらの権力者達の県力維持には不可欠な要因であり、それで欧州においてはユダヤ人金融家(宮殿銀行家や高利貸し)が活用されたり、権力者主導下、産業や交易が振興される事もあった。その一方で「十字軍運動」「ヴィザンティン征服」「イタリア支配」といった空想的理念(欧州中世的形而上学概念)を生涯掛けて追求した「夢想家」の権力者も輩出した時代だった事は否めない。

    つまりこの時代はまだまだ原則として文化実証主義は常に権力側にあり続けるしかなかった。その事は当時大学で教えられていた「支配する側の学問=リベラルアーツ的なるもの」に対応する一方、アラビア哲学者のイブン・スィーナー(Avicenna,980年~1037年)やイヴン・ルシュド(Averroes,1126年~1198年)、イタリア・ルネサンス期の解剖学者アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius,1514年~1564年)の様な時代改革者が守旧派の妨害から逃れる為に君主の直属官僚や侍医に就任するしかなかった現実をも反映していたのである。
    一方、フィレンツェ訛りの俗ラテン語で執筆されたルネサンス期イタリア文学の大源流にはアリエノール・ダキテーヌのポアティエ宮廷やホーエンシュタフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世パレルモ宮廷に集った「オック語で歌う」華やかな南仏文化由来のトルバドゥール(吟遊詩人)や遍歴騎士達の姿があった。彼らの本来の居場所であった南仏宮廷が北フランス諸侯を動員したアヴィニョン十字軍(1209年~1229年)によって焼かれると、その生存者はイタリアへと逃げ込んだという。

  • こうして全体像を俯瞰すると古代ギリシャ時代における「アテナイの陶器」の飛躍的発展がどれほどの奇跡だったかが改めて思い出される。この都市国家はアケメネス朝ペルシャが影響力を増すアナトリア半島から逃亡してきた外国人商人や外国人興亡を庇護し自由な雰囲気に置く事でドーリア交易権を大きく蚕食し、ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)で包囲されその立場を保てなくなるまで商業的成功を続けたのだった。歴史上「(国家イデオロギーと独立して存在する)イデオロギー」が観測された最初の事例?独立性が高過ぎて「アテナイ神話の物語構成」と「アテナイ製陶器に描かれたギリシャ神話の物語構成」が一致しないという…

そして欧州本土における中世から近代にかけての歴史展開。

  • 英仏の場合はフランス王室イングランド王室の間の領土紛争を発端とする百年戦争(1337年/1339年~1453年)とそれに続いた大貴族間の内紛、すなわち英国における(百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが執権争いに発展した)薔薇戦争(1455年~1485年/1487年)とフランスにおける公益同盟戦争(1465年~1483年)とフロンドの乱(1648年~1653年)を通じて中欧州権的体制が他の地域に先行して進行。その過程でフランス国王は神聖ローマ帝国皇帝にイタリア戦争(15世紀末~1547年)で敗退しユグノー戦争(1562年~1598年)を経験。イングランド清教徒革命(狭義1642年~1649年,広義1639年~1660年)を乗り越えた。大航海時代(16世紀中旬~17世紀中旬)到来によって欧州の経済的中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移したのもこの時期。

    皮肉にもポルトガルによる西回り航路開拓に資金を投じたのは(オスマン帝国ヴェネツィアによるレパント交易独占を快く思ってなかった)フィレンツェなどのイタリア豪商達だった(船や人材を供給したのは主に祖国が破産し出稼ぎを余儀なくされたジェノバ)。

    欧州経済の中心が大西洋沿岸へと推移した事による収入源を補填したのは西ヨーロッパの人口急増を支える食糧輸出事業だったが(これに応える為にエルベ河以東の東欧では再版農奴制が広まる)、ジャガイモやとうもろこしの様な新世界作物が普及するにつれそれも頭打ちになってしまう。その一方で大西洋では三角貿易が展開。

  • 一方(14世紀、黒死病の猛威からいち早く抜け出した)ルネサンス期イタリアにおける文化実証主義の急成長は、ドイツ諸侯との文化格差を広げ宗教革命を勃発させてしまう。この時神聖ローマ皇帝とドイツ諸侯の間で帝結されたアウクスブルクの宗教和議(1555年)で導入された(領主や都市が領民の信仰を決定する)領邦教会は、この地域の国家統合を大幅に遅らせる結果となった。

    その後宗教戦争は泥沼化。カソリック陣営は新大陸から収奪してきた金銀を戦費の支払いに充てたがその結果インフレが進行し(王侯貴族や聖職者といった)地税生活者やフッガー家の様な伝統的産業家の収入を相対的に目減りさせてしまう(価格革命)。その一方で(百年戦争当時のイングランドやフランスの様に)戦争継続の為の中央集権化や徴税制度の整備、そして何より経済学の研究が始まる。

    そして最終的に三十年戦争(1618年~1648年)を終わらせたウェストファリア条約(1648年)締結によって国際協調体制が始まったとされるが、この時最終的勝者となったのは「漁夫の利を得た後参組」すなわちフランススウェーデンであり、前者は「太陽王ルイ14世(在位1643年~1715年)の時代にむしろ「ウェストフェリア体制を脅かす暴れん坊」として振る舞い、後者は大北方戦争(1703年~1709年)で大敗して覇者の座を帝政ロシアに明け渡してしまう。

    そして戦費を湯水の様に浪費し続け消耗したフランスは「回復の時代」へ。ちなみにウェストフェリア条約締結時点では清教徒革命の最中だった英国はこの時期「ウォルポールの平和」を感受していた。

当時の数学史を眺めると「宮廷や大学では数学研究が捗らない」現実が。

啓蒙君主達が続々と諸国の有識者を招聘する様になった宮廷文化最盛期、しかしむしろ英国人数学者アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton、1642年~1727年)が微積分や万有引力のアイディアをまとめたのがペスト流行に伴うケンブリッジ大学閉鎖期(1665年~1666年)、ドイツ人数学者ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年~1716年)が並行して微積分の概念を発展させたのが主にパリ出張中に最初の主君だったマインツ選帝侯が亡くなり、カレンベルク侯ヨハン・フリードリヒにより顧問官兼図書館長へと任ぜられハノーファーに移住するまでの失職期間(1673年~1676年)だった辺りが興味深い。

イエズス会の軍隊式教育で育てられ、オランダ軍に入隊してその合理主義精神を学んで「方法序説(Discours de la méthode, 1637年)」を著したフランス人数学者ルネ・デカルト(René Descartes、1596年~1650年)が寿命を縮めたのはスウェーデン女王クリスティーナに招聘されて早起きを強要されたからからと言われる。その一方でスコットランドの様な「僻地」では特に誰からもパトロネージュを受けてないジェームズ・グレゴリー(James Gregory,1638年~1675年)がグレゴリー級数を、コリン・マクローリン(Colin Maclaurin,1698~1746年)がテイラー級数の応用例たるマクローリン級数を研究。「ただの計算マシーンに過ぎない」と啓蒙君主に嫌われ「僻地の新興国帝政ロシアに就職先を求めたスイス人数学者レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler,1707年~1783年)がこれにさらに複素数の概念を追加して対数概念と三角関数概念を統合するオイラーの公式(Eulerian Formula)e^{iθ}=cos(θ)+sin(θ)iを完成させる。

当時の数学の発展速度は歯痒いほど緩慢に見えるが、ガウス(Johann Carl Friedrich Gauß,1777年~1855年)が複素平面(Complex Plane)概念を本格的に提唱するのはフランス革命(1789年~1795年)に続いたナポレオン戦争(1799年~1815年)の1811年であり(ただし同概念について1797年にCaspar Wesselが書簡で言及しており、Jean-Robert Argandも1806年に同様の手法を用いている)、それなしの研究だったと考えると十分納得がいくのである。

そして「リスボン地震(1755年)」という変革の予兆…

そしてそれに続いた激動の時代…

ただしこれはあくまでフランスの歴史。1864年の決闘であっけなく死去したラッサールにとって、ドイツは彼が生きてる間中ずっと「プロイセン王国とその同盟国」であり続けるのです。

オルミュッツ協定(Olmützer Punktation)は、チェコの都市オロモウツ(当時はオーストリア帝国)において1850年11月29日プロイセンオーストリアロシアによって確認された協定。1848年革命によって大きく動揺したドイツ連邦の枠組みを基本的に復活させたものであり、「小ドイツ主義」に基づくドイツ統一を頓挫させる内容であった。「オルミュッツの屈辱」とも称される。

オルミュッツ協定(オルミュッツの屈辱)は、「小ドイツ主義」によるドイツ統一を狙うプロイセンにいくつかの教訓を残した。

  • 少なくともオーストリアを牽制しうるだけの国際情勢が現出しない限り、ドイツ統一は困難である
  • そうした状況が生まれたとしても外交交渉のみで円満な解決が得られることはほぼ不可能であり、軍事的手段に訴えざるを得ない。

前者(国際情勢)については1853年に勃発したクリミア戦争が重要な転換点となった。

  • ナポレオン戦争以後、初めて五大国のうちの三国(英・仏VS露)が衝突したこの戦争において、オーストリアは両勢力に配慮して中立政策をとったが、このことがオーストリアの支持を期待していたロシアの失望を招き、しかも英・仏側がセヴァストポリ要塞を陥落させたのを見計らって、英・仏側に味方したために従来までの墺・露間の密月関係に終止符が打たれた。
  • さらに英・仏にも甘い汁を吸おうとした参戦への嫌悪感からオーストリアはヨーロッパでの外交戦略で孤立し、プロイセン外交にとって有利な要素となった。

しかしドイツ統一問題は、北ドイツにも及ぶ。

また、後者(軍事的解決)に関しては、1862年プロイセン首相に就任するオットー・フォン・ビスマルクによる「鉄血政策」によって、具体的方策が準備されることになる。いずれにしてもプロイセンは、小ドイツ主義を貫徹するために、軍事的手段を含めた政策を取る局面を迎えたのだった。

  • こういう意味合いにおいて「ドイツ帝国建国(1871年)」なる脱皮(不連続)への準備(連続)期間(1850年~1870年)を「オルミッツ体制期」と呼ぶ事も可能かもしれませんが、彼が次の歴史段階として提示したのはあくまで「封建的所有関係解放後に純粋な個人間の問題として現れる資本家と労働者の利害衝突」。個人としては小ドイツ主義に傾倒していたとしても、到底それを口に出来る雰囲気にはなっていなかった訳です。

こうしてラッサールの歴史段階説マックス・ウェーバー鋼鉄の檻」理論の関係が明らかに出来た事がこの投稿範囲の収穫。

  • この様に全体像を俯瞰すると、ドイツ社会学が伝統的に「方法論的個人主義」を採択してきたのは「国家の話に踏み込むと検閲され逮捕の危険が生じる」からという知見を得た。

  • 一方近代国家樹立と産業革命導入を乗り越えて「国家主義からそれなりに自由なイデオロギー」が相応規模で再建されるのはやはり定説通り1960年代~1970年代辺りなのかも?

そんな感じで以下続報…