「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】絶対他者に対する黙殺・抵抗・混交・受容し切れなかった部分の切り捨てのサイクル

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欧州近代史のうち国王や教会の伝統的権威と、それへの無限闘争を誓った政治的ロマン主義対消滅に終わってイデオロギー的空白を迎えるまでの時期を「近代前期」とするなら「1859年革命」以降、その空白を埋めるべく新たな主役となった政治的経済的イデオロギー的対立構造がこれとなる。

理論的背景はこれ。

 実は歴史上、それ以前から観測されてきた構造ではあった。

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①西ヨーロッパにおいて伝統的に部族連合時代から大貴族連合が掲げてきた中世的価値観を象徴する「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が近世的価値観を象徴する「実証主義(英:legal positivism, 独:Rechtspositivismus)に基づいて必要にして十分なだけの火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚組織の国民からの徴税によって養う主権国家」への推移。

産業革命時代(18世紀~19世紀)における大量消費/大量生産体制の普及に後押しされた、消費主体の(伝統的に家名存続や党争における勝利に興味を集中させてきた)貴族や聖職者の様なランティエ(rentier=不労所得階層)すなわち伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層から、産業的発展を主導する新興ブルジョワ階層や庶民階層への推移。

③上掲の大衆化展開、および各国で進行した(上級貴族のブルジョワ階層入りと明暗を分けた)下級貴族の庶民落ちを背景としての「政治的ロマン主義から大衆向けロマン主義文学への転換過程」。

時代によってPCPolitical Correctness、政治的正しさ)が何かは移ろいでいく。その揺らぎに付け込む形で「認識可能範囲外たる事象の地平線を跋扈する絶対他者」が社会変革の触媒の役割を果たすが、かかる価値観が全面的に社会の一部として取り込まれる事はない。一時期「永続革命家=ヨーロッパで最も危険な男」と目されたオーギュスト・ブランキLouis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)が「真の革命家は未来永劫、勝利の栄光と無縁であり続ける。何故なら既存体制の転覆は概ね、以降の反体制派を狩る新たな敵の登場しか意味しないからである」と語ったとされる様に。

  • 黙殺/幽閉段階…既存価値観の矛盾が鬱積すると、それまであえて強制的に視野外に置かれてきた「事象の地平線としての絶対他者」が周囲にある種の実存的不安を与える様になる。もちろん最初は影響力も小さく、大半の人々が見て見ぬ振りを決め込む。また幽閉を試みる動きも出てくる。
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    *2016年の紅白でRADWIMPSの野田次郎が履いてたのはどうやらメンズスカートらしく、だとすればそれは「君の名は」という作品における男女交代劇ともリンクした演出だったと推測されるのだが、誰もその可能性にすら言及する事はなかったのである。

    *この辺りの展開、1992年の紅白におけるこの「事件」を連想させるとも。

  • 抵抗/迫害段階…黙殺が不可能となると、体制側はまずそれを「最後には必ず自滅していく」堕落した存在や間抜けなコメディリリーフとしてのみ表現を許したりして勧善懲悪のバランスを保とうとする。排斥運動が勃発したりもする。

    ところであたし、先日のマレーシアでの上映延期騒ぎを報じたBBCが、同国での刑法(同性愛は違法)などについて報じた上でこんな風に付け加えていたのが忘れられないんですよ。

    • マレーシアでは)映画に同性愛者のキャラクターが出てきてもよいが、それは同性愛者がネガティブに描写されていたり、悔い改めたりする場合だけだ(Gay characters can be shown in films, but only if they are portrayed negatively or repent.

    …これって宗教を問わずどこの国にでもある考え方な気がします。日本でもね。
    *実際、米国のHays Code(1930年制定、1934年〜1968年履行)にも対応条項が存在しないにも関わらず、江戸川乱歩横溝正史などが律儀に「同性愛者は堕落していたり、破滅的最後を遂げる」ルールを守っている。

  • 混交段階…だが堤防崩壊は蟻の一穴から生じる。特に(商業至上主義的目論見から)しばしばメディアが彼らの存在を公然と広める様になり、こうして表舞台への台頭を許された「いかがわしい人々」 が反抗も受けつつ次第に既存価値観を変化させていく。

  • 受容し切れなかった部分の切り捨て段階…だが常に最終局面に訪れるのは「(表舞台への進出の足掛かりを得たいかがわしい人々」の「それまでまっとうだと思われてきた人々」に対する逆転勝利などではない。この戦いにおける勝利とは「新たに設定された新基準においてまっとうとされた人々の既存社会における受容」であり、それはしばしば「新たに設定された境界線においてすらいかがわしい人々が切り捨てられていくプロセス」を伴うのである。ただしもちろん誰が線引きするかは常にデリケートな問題であり続ける。

    米国ネット上では同性婚合法化2012年12月7日)の当日に同性愛者アカウントが「また世界が狭くなるね」と呟いたり、冗談交じりで異性愛者と「それでもバイは淫乱」と言い交す場面が見られた。そう、同性愛者も大半は貞節を大事にするという観点からは一般人であり、そこが新たな境界線となると(それまで一緒に迫害されていた)乱交派が切り捨てられてしまう事を十分自覚していたのだった。

    またネット上の彼らはトラブル回避の為もあって「異性に攻撃的な同性愛者」や「あらゆるセックス・アピールを攻撃する無性愛者」は決してメンバーに加えず、そうして排斥された人々は過激な政治クラスタにさらに怒りの感情を高めつつ合流していくのが常だった。復讐者として舞い戻ってきて「洗脳を解くオルグを喚き散らす場面もしばしば見掛けた。どうやら彼らは他所では「自分達こそLGBTQA層の代表者」と名乗っている様だったが、ネット上でますます自分達の多様性や多態性を思い知らされたLGBTQA層は、決してそういう動きに乗ろうとはしなかったのである。

    ブライアン・シンガー監督映画「ボヘミアン・ラプソディBohemian Rhapsody, 2018年)」で最悪だったのは、映画「クルージング(Cruzing, 1980年)」の影響で乱交派の悪評を買ったレザー・ゲイ(Leather gay)に「悪い例外的同性愛者」のレッテルを貼って切り捨て様とした部分である。しかもそれがニューヨークはグリニッジ・ヴィレッジの一角にあるクリストファー・ストリート(Christopher Street)発祥の文化であるにも関わらず「ミュンヘンナチス発祥の地」と結び付ける胸糞悪い演出まで加えて。

    それに対し、レディ・ガガが自伝的含みを持たせた「アリー/ スター誕生A Star Is Born, 2018年)」は、彼女の個性を引き出したドラッグ・クィーン文化をあくまで日常の一部として描き切っている。

 以下続報…