「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【雑想】実際の政治運動家としてのカール・マルクス

理論家としての側面との切り離しが重要です。

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唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになったブリュッセル時代のマルクスに革命を恐れる理由はなくなり「現在の問題は実践、つまり革命である」と公然と語るようになった。

  • 1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレン、フェルディナント・フライリヒラート、ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、ヘルマン・クリーゲ、エルンスト・ドロンケらとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「正義者同盟」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設するもマルクスの組織運営は独裁的と批判された。実際、創設してすぐヴァイトリングとクリーゲを批判して除名。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになったのである。
  • その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは「哲学の貧困(La misère de la philosophie,1947年)」によりプルードン批判を開始。
  • 新たな参加者が現れず、停滞気味の中の1847年1月ロンドン正義者同盟のマクシミリアン・ヨーゼフ・モルがマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」を結成することを正式に決議した。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする事を決議。
  • 合同によりマルクス共産主義者同盟ブリュッセル支部という立場になり、11月にはロンドンで開催された第二回大会に出席し同大会から綱領作成を一任されたマルクス1848年の2月革命直前までに小冊子「共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei,1948年)」を完成させた。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものである。「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」「共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ」といった章句が有名。そしてその中で「封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始する」という指針を定めた。

そして1847年の恐慌による失業者の増大を背景にフランス王都パリで1848年2月22日に暴動が発生し、それが3月に入ると欧州全体に飛び火する(2月/3月革命)

  • マルクスブリュッセルを出て3月5日にパリに到着すると翌6日共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設。4月上旬プロイセン領ライン地方ケルンに入ると4月中旬までに自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけ、6月1日に「新ライン新聞」を発行。同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加したがマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、ステファン・ボルンから「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘されている。
  • ちなみに同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった。あくまで実際の運動家としての彼はプロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見を退ける立場を貫いたのである。その一方で「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った。

しかし革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及せず、4月10日にはイギリスでチャーティスト運動が抑え込まれ、6月23日にはフランス・パリにおける労働者蜂起がフランス軍によって徹底的に鎮圧される(6月蜂起)。この事件がヨーロッパ各国の保守派にとっては本格的な反転攻勢の狼煙となり、オーストリア軍がロンバルディア(北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧。プロイセンでは革命を契機にルドルフ・カンプハウゼンやダーヴィト・ハンゼマンの自由主義内閣が発足したが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていく。5月から開催されたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続ける。

  • 革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判し続けた。
  • その結果「新ライン新聞」に対する風当たりは強まっていき、7月7日には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入って起訴され、9月25日のケルン戒厳令を契機に軍司令官から新聞発行停止命令を受ける。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃走。
  • 10月12日戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行したが、ブルジョワが逃げてしまったのでマルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し維持させるしかなかった。

しかし革命派の戦況はまずます絶望的になっていく。10月16日オーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までにオーストリア軍によって蹴散らされ、ウィーン滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員ローベルト・ブルムが見せしめの即決裁判で処刑。プロイセンにおいても11月1日に保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が宰相に就任し、11月10日にはフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会を停会に追い込む。

  • プロイセン国民議会が停会する直前に納税拒否を決議したので、マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと11月18日民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」と宣言。フェルディナント・ラッサールデュッセルドルフでこれに呼応するも11月22日に反逆容疑で逮捕されてしまう。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、1849年2月8日陪審制の裁判にかけられたが陪審員に反政府派が多かった為無罪判決を勝ち取る。おかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まり3月2日には軍人がマルクスの事務所にやってきてサーベルを抜いて脅迫したが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、ジャコバン派の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている。

5月にフランクフルト国民議会の決議したドイツ帝国憲法とドイツ帝冠をプロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領プファルツ地方で発生した武装蜂起は拡大し、亡命を余儀なくされたバーデン大公がプロイセン軍に鎮圧を要請した結果プロイセン皇太弟ヴィルヘルム(後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動する。

  • 革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた。これがきっかけで5月16日プロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされる。マルクス5月18日の『新ライン新聞』最終号を赤刷りで出版し「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなる。
  • パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地であるカイザースラウテルンに向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党代表」を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなくフランクフルト・アム・マインで釈放される。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた。
  • 6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリのリール通りに居住し「ランボス」なる偽名で文無しの潜伏生活を開始。ラッサールやフライリヒラートに金の無心をして生計を立てる。

この頃のフランスの大統領を務めていたのはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンボナパルト(後のフランス皇帝ナポレオン3世)で、カトリック保守の秩序党の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく対ローマ共和国戦争を遂行していた。

  • 左翼勢力がこれに反発し6月13日に蜂起するもまたもやフランス軍によって徹底鎮圧されフランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)。
  • この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクス8月16日にパリ行政長官からモルビアン県へ退去するよう命令を受ける。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここはポンティノ湿地の影響でマラリアが流行しており、このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固める。

そしてドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国はイギリス以外にはなかった。

  • エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた。これに応じてエンゲルス11月12日にはロンドンへやってきた。
  • 1849年秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりのヴィルヘルム・リープクネヒト、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だったアウグスト・ヴィリヒなどもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となる。彼らを糾合して1850年3月共産主義同盟を再結成。近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。
  • ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り「封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対する」としブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始したが、やがてオーストリアで行方不明に。

しかし1850年には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした小ドイツ主義統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された(オルミュッツの屈辱)。

  • こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えたが彼らの中には即時行動を求める者が多かったのである。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じる。
  • 1850年9月15日の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクス共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている。
  • 共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。1851年5月~6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発され、しかもてしまったのである。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(妻イェニーの兄)フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝。結局1852年10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至る(ケルン共産党事件)。

これを受けてさすがのマルクス共産主義者同盟の存続を諦め、1852年11月17日に正式に解散を決議。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる。

  • 実際の運動家としてのマルクスは「国王や教会の権威に対するブルジョワ階層の自由主義の勝利」を目指す活動しか遂行しておらず「期が熟していない」という理由で即時行動に消極的だった(現場は逆にそれを望む血の気が多いタイプが多く、それで勝手に自滅していく)。しかも独裁者として振る舞う事が多く、他人に対して不寛容で運動の実務に向いた人物でもなかった様である。

  • マルクスは当時「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」と主張しているが、この時代のドイツの農奴は解放されると革命から離脱し保守派の味方についてしまうのである。その後棄農して産業革命推進を支える労働力供給源となるが(その一方でユンカーの農園の労働力はポーランドからの出稼ぎ小作人に推移)「広い裏庭のある工業団地で家族が野菜を栽培したり家畜を飼って副収入を得る」独特の景色が展開する事になる(一方、英国の標準的労働者は夫婦共働きで狭い下宿に住み、祖母もしくは老人ホームから引き取った老婆に子育てを一任)。

  • こうして全体像を俯瞰するに「国王や教会の権威の絶対性」は政治的には二月革命/三月革命(1848年~1849年)の時点で打倒されたというより「オルミュッツ協定(1850年)」によって確認された守旧派大国間の協調体制がクリミア戦争(1853年~1856年)における帝政ロシアと英仏の衝突、サルディーニャ王国によるイタリア統一運動(Risorgimento,1815年~1871年)の主導権掌握(1859年よりフランスを味方につけて対オーストリア戦争を開始)、北欧諸国における(オスマン帝国の汎イスラム主義や帝政ロシアの汎スラブ主義の影響を受けて台頭した)汎スカンジナビア主義台頭に起因するシュレスウィヒ・ホルシュタイン問題(1848年~1866年)などの展開により自然崩壊が進み、1858年大不況を契機に一斉に矛盾が噴出したとも見て取れる。ただしこうした景色に急進共和派の居場所は全くと言っていいほど存在しなかったのである。

    そういえばプロイセン宰相に就任したビスマルク鉄血演説を披露しドイツ帝国独立に向けての第一歩を記したのも1862年の事だった。

    そして1873年設立恐慌から1896年大不況終焉の時期にかけて「介入国
    家的に制御された生産資本主義(der interventionsstaatlich regulierte
    Produktionskapitalismus)」とも「団体調整的な市場経済(eine korporative Marktwirtschaft)」とも形容される「世界市場指向性(Weltmarktorientierung)」を特徴とするドイツ工業の基礎が形成される事になるのである。
    ドイツ産業システムの起源とその歴史的変遷

この辺りの事実関係が確認出来た時点で以下続報…