「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【フェミニズムの歴史】とある「ミソジニー」の起源?

そもそも「ミソジニー(misogyny、女性嫌悪)」とは何か。

misogyny(日本語音写形:[アメリカ英語]ミサジャニィ、[イギリス英語]ミソジニィ、慣習音写形:ミソジニー) は、1650年代初出の英語である。直接には、ラテン語 (New Latin)の misogynia(日本語音写形:ミソギュニア)に由来しており、その語源にあたるのは、古代ギリシア語で「憎しみ」「嫌悪」を意味するμῖσος(ラテン翻字:mîsos)と、同じく「女性」を意味するγυν(ラテン翻字:gunḗ) の2語である。

対義語には、「女性や女らしさに対する愛好」を意味する「フィロジニー(英: philogyny)」と、「男性や男らしさに対する嫌悪」を意味する「ミサンドリー(英: misandry)」の2つがある。

ところで前期魔女狩り(1480年~1520年)は、イタリア・ルネサンス期における「魔女の槌(1486年)」までしか遡れなくなる一方、それは当時の典型的ルネサンス教皇シクストゥス4世(在位1471年~1484年)を介して「スペイン異端審問」に結びつけられる。

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魔女狩りは、“魔女狩りの手引書”といわれる『魔女の槌』が著わされた1480年代に始まり、その後一時停滞し、1580年代に再び、魔女についての新しい文献が出て再燃し、今度は大きな被害をもたらしたという。これを一続きの流れとして見がちである。しかし、実際には二つの大きな波としてみることができる。宗教裁判所が先頭に立って行ない、犠牲者は限られていた1480年~1520年と、世俗裁判所(領主・国王)が行ない、被害は大きかった1580年~1670年とである。仮に前者を前期魔女狩り、後者を後期魔女狩りとする。

ハインリヒ・クラーマー (Heinrich Kramer(クレーマー (Krämer) ), 1430年 - 1505年) は、15世紀ドイツのドミニコ会士、宗教裁判官。『魔女の槌』の著者。ハインリヒ・インスティトーリス (Heinrich Institoris) とも。

1430年頃、エルザス地方の帝国都市シュレットシュタット(現在のグラン・テスト地域圏セレスタ)にて出生。若くして郷里のドミニコ会修道院に入り、教育を受けた。その後、おそらくケルンのドミニコ会大神学校で学問を修めた。講師を務めながらの学業の末、1479年までにローマで神学博士となり、人文主義者風にラテン名ヘンリクス・インスティトーリス (羅: Henricus Institoris) を名乗った。

1474年ドミニコ会指導部より異端審問官に任命され、その4年後には教皇シクトゥス4世より、上部ドイツ(現在のドイツ南部、オーストリア西部、フランスのアルザス、スイス)で異端審問を行う権限を認定された。教皇の宗教裁判官としてのかれの関心事は、教皇首位説に異を唱える公会議首位論者の取締と、魔女や異端の撲滅であった。

1484年、クラーマーは、マレフィキウム(害悪魔術)に手を染める男女を糾問する権限をかれに与える教皇勅書をインノケンティウス8世から引き出した。この教書は『スンミス・デシデランテス・アフェクティブス(このうえない熱情をもって願わくば)』というタイトルで知られる。翌1485年にはさらに3通の教皇の認定書を得てティロル伯領内のブレッサノーネ司教領(ブリクセン司教領)に入り、魔女狩りを始めた。ティロルにおける審問でクラーマーがとった手法は、容赦のない拷問、弁護の禁止、尋問記録の改竄といった、当時の基準に照らしても非法なものであった。こうしたやり口に現地の市民や貴族、聖職者たちは反発した。ブレッサノーネの司教ゲオルク2世・ゴルザーは、ティロルの首都インスブルックの法廷に代理人を派遣して対抗し、被告に弁護人をつけることに成功した。クラーマーの審問手続きに問題があるとした弁護人の主張は認められ、被疑者たちは釈放された。クラーマーは立退きを勧奨する司教ゴルザーの書簡を受け取ってもなお当地に居座ったが、翌年2月にはティロルから撤退した。ゴルザーは友人に宛てた手紙のなかで、クラーマーは耄碌して幼児化し、狂っているようにも見えると評した。

この敗北の後、魔女とそれに対する法的手続きについての知見をまとめた大部の著書を短期間で書き上げた。それが魔女裁判の手引書と言われる『魔女の槌』である。同書は1486年秋にシュパイアーで初めて印行された。

1500年、クラーマーは教皇アレクサンデル6世よりベーメンとメーレンでヴァルド派を取り締まる権限を与えられたが、その地で魔女裁判の成果をあげたという記録は残っていない。1505年、メーレンのオルミュッツで没した。

ルネサンス教皇の典型ともいえる存在で、自らの名前にちなんだシスティーナ礼拝堂を建設し、そこへ幾多の芸術家を招聘して初期ルネサンス芸術の成果をローマに導入した(ミケランジェロの有名な天井画は後の時代に付け加えられたものである)。政治的には失政が多く、イタリアに無用の戦争と混乱をもたらした。

スペインにおいて教皇庁から独立した独自の異端審問(スペイン異端審問)を行う許可を与えているが、これはアラゴン王フェルナンド2世の求めに応じたものであった。同王のおさめるシチリア王国からの軍事援助がなくなればオスマン帝国の脅威に対してなすすべのない教皇にはこれを拒否することはできなかったのである。その後、教皇のお墨付きを得たスペイン異端審問所が政治的な理由での告発を繰り返し、必要以上に過激な処罰を行ったことで教皇を悩ませることになる。

カスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚(1469年)レコンキスタの完了(1492年)により、スペインに待望の統一王権が誕生した。フェルナンド2世にとって国内の一致のためにも、表面上はキリスト教に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていたモリスコ、コンベルソの存在が邪魔なものになっていた。フェルナンド2世は異端審問のシステムを用いれば、これらの人々を排斥し、政敵を打ち倒すことができると考えた。さらにフェルナンドはユダヤ人金融業者から多額の債務を負っていたため、もし金融業者たちを異端審問によって社会的に抹殺できれば債務が帳消しになるという思惑もあった。

フェルナンドはローマ教皇と親交を深めることで自らの王権を強化しようと考えていたが、同時に教皇の影響力を自国からできる限り排除したいとも思っていた。異端審問はすべて教皇の管轄下で行われるため、もしフェルナンドがスペイン国内で異端審問を行っても自分の思い通りにはできず、教皇庁の介入を許すことになる。フェルナンドは異端審問を自らの政治目的に沿って利用するためにも、教皇の監督行為を排除した異端審問を行いたいと考えていた。そこでスペインにおいて王の監督のもとに独自に異端審問を行う許可を教皇シクストゥス4世に願った。

教皇は当然、世俗権力によって異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知し、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。そこでフェルナンドはさまざまな方策を用いて、この許可を得ようとした。ここで活躍したのがスペイン人枢機卿ロドリゴ・ボルハであった。彼の奔走の甲斐もあって、1478年教皇はしぶしぶながらカスティーリャ地方以外においてのみ独自の異端審問を行うことを許可した(これによってボルハ枢機卿は後年のコンクラーヴェスペイン王の強力な後押しを受けることができた。彼こそが堕落した中世教皇の筆頭にあげられるアレクサンデル6世である)。

こうしてユダヤ教徒イスラム教徒に狙いを定めたフェルナンドとイザベルによって異端審問所の長官に任命されたのがトマス・デ・トルケマダである。そもそも「異端」審問というものは、「キリスト教徒でありながら、正しい信仰を持っていないもの」を裁くためのものであり、ユダヤ教徒イスラム教徒をその信仰ゆえに裁く権利はなかった。しかし初期のスペイン異端審問所は、一旦改宗しながらユダヤ教イスラム教の習慣を守るコンベルソ、モリスコを多く裁いた。

シクストゥス4世はセビリアから始められたスペイン異端審問がユダヤ人に的をしぼって行われていることに見かねて抗議したが、フェルナンド王が自らの支配下にあるシチリア王国の兵力による教皇庁への支援打ち切りをほのめかして恫喝したため、引き下がらざるを得なかった。教皇としてフェルナンド王の行きすぎた行動や見境のない処罰がキリスト教と異端審問の名を借りて行われていることを看過できず、スペイン異端審問を「ユダヤ人の財産狙いの行為である」と断言している。「もっともカトリック的な王」という称号とは裏腹にフェルナンドは教皇を徹底的に利用し、教皇に対しては従順を装いながらも強圧的に臨んでいた。教皇がフェルナンドの要求を断れなかった背景には当時の地中海情勢がある。勢い盛んだったオスマン帝国ギリシア支配下においてイタリア本土を脅かし始めたのだ。教皇領とイタリア半島の安全はシチリア王国の軍事力によって保障されていた。シチリア王国の主でもあるフェルナンドはこれを対教皇折衝の切り札としていたのである。教皇はフェルナンドの要求を飲まざるを得ない状況に追い込まれた。こうしてスペイン異端審問に教皇の正式なお墨付きを得たフェルナンドは、教皇の干渉なしに自由に異端審問を利用できるようになった。

そんな感じで以下続報。