アモリ人、カッシート人に続く「バビロニア文明に完全帰依してしまった人々」。
何故かギリシャ人は彼らを「最初からのバビロニア先住民」と考えました。
カルデア(希Χαλδαία, ChaldaiaよりChaldea, Chaldæa, アッカド語: māt Ḫaldu, ヘブライ語,כשדים, Kaśdim, アラム語: ܟܠܕܘ, Kaldo)
メソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称。紀元前10世紀以降この地に移り住んだセム系遊牧民の諸部族はカルデア人と呼ばれる様になり、紀元前7世紀に新バビロニア王国を建国した。
- 短命に終わったバビロン第11王朝(BC6世紀)を、歴史家は慣習的にカルデア王朝、カルデア帝国、あるいは新バビロニア王国と呼ぶ。と言っても、この王朝の歴代の支配者のうち、カルデア人であると分かっているのは最初の4人だけである。最後の支配者ナボニドゥス(そしてその息子であった摂政ベルシャザル)の出自ははっきりしていないが、一説にはアッシリア出身とも言われる。
- カルデア人が定住した地域はバビロニア南部にあり、主にユーフラテス川の東岸沿いにあった。カルデアという名は一般にメソポタミア南部全域を指す言葉として使われるようになったが、本来のカルデアは実のところ、ユーフラテス川とチグリス川の堆積物によってメソポタミア南東端に形成された、この2つの川の流れに沿った長さ約400マイル、幅およそ100マイルに広がる広大な平原であった。
- ヘブライ聖書ではカルデア人を指して כשדים (カスディム) という言葉が用いられており、七十人訳聖書ではこれをカルデア人と翻訳している。アブラハムの出身地もカスディムのウルと書かれている。
- 古代ギリシア人がカルデア人(Χαλδαίος, カルダイオス)と呼んだのは、バビロニアがアケメネス朝ペルシアの支配を受ける前のバビロニアの支配階級であった。現在ではカルデア人がバビロニアの最初の定住民であったとは考えられていないが、ヘレニズム期の歴史家シケリアのディオドロスは、カルデア人を最古のバビロニア人とした。古代世界においてカルデア人は天文学・占星術を発達させていたことで高名であり「カルデア人の知恵」とは天文学・占星術のことであった。占星術を司るバビロニアの知識階級ないし祭司階級をたんにカルデア人と呼ぶようにもなった。
カルデア人が使用した言語はアッカド語のバビロニア方言であった。これはアッシリア・アッカド語と同じセム語であるが、発音と文字に若干変わったところがある。後期にはアッカド語のバビロニア方言もアッシリア方言も話されなくなり、メソポタミア中でアラム語がこれに取って代わった。アラム語は今日までイラクとその周辺国のアッシリア人と呼ばれるキリスト教徒(アッシリア東方教会やカルデア・カトリック教会(英語版)の信徒)の母語であり続けている(アッシリア現代アラム語、カルデア現代アラム語)。
バビロニアのカルデア人は、シリア攻略に行き詰まった新アッシリア王国の王シャルマネセル3世(Shalmaneser III, 在位紀元前858年~紀元前824年)に「片手間で」征服された経験も有するが、詳細はあくまで不明。
当時はまだまだ「まつろわぬ民」色が強かった?
世界大百科事典【新バビロニア】より
…紀元前625年~紀元前539年。カルデア王朝ともいう。カルデア人は紀元前8世紀までに南バビロニア一帯に部族に分かれて定着し,名目的にはバビロン王に臣従していた。…
世界大百科事典【ナボポラッサル】より
…カルデア人ヤキン族の出身。アッシリアの宗主権下で海国の首長の地位にあったが,同帝国最後の英王アッシュールバニパルとバビロンにおけるその傀儡(かいらい)であったカンダラーヌKandalanuの死後1年を経てバビロンの王位に就き,新バビロニア王朝(カルデア王朝)を建設した。即位後10年近くはアッシリアの執拗な反撃に耐えて,もっぱら政権の維持・確立に努めたが,治世10年頃からは攻勢に転じ,毎年のごとくティグリス川沿いあるいはユーフラテス川沿いにアッシリア遠征を行った。…
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
本来ペルシア湾岸沿いの、ティグリス、ユーフラテス両大河のつくるデルタおよびその西縁の南バビロニアの一部の地をさす。
アッカド語ではMt Kaldi(「カルデア人の国」の意)、『旧約聖書』では全バビロニアを意味した(カルデアのウル)。
カルデア人はバビロニアにおけるアラム人のもっとも重要な大種族で、紀元前一千年紀初頭に南部バビロニアにいくつもの部族に分かれて定住し、バビロニアの言語、文化を採用。アッシリア王の年代記には紀元前9世紀初頭に現れ、紀元前8世紀末にはビート・ヤキン族のメロダクバラダン2世が出てバビロニア王となり(在位紀元前722年~紀元前710年)、シリア、パレスチナ、エジプト、エラムなどと謀ってアッシリアを包囲する反乱を企てたが失敗した。
紀元前626年、カルデア人の王ナボポラサルがアッシリアの弱体化に乗じてバビロニア王となり、メディア王キャクサレスと連合してアッシリアを滅ぼし(紀元前609年)、南部メソポタミアからシリア、パレスチナに及ぶ一大王国を確立した。これがカルデア王国もしくは新バビロニア王国(紀元前626年~紀元前539年)で、バビロニア最後の独立王国となった。
カルデア人は、ギリシア、ラテン史料ではバビロニアの祭司階層や、さらに一般的に占星術や呪術(じゅじゅつ)を行う者、もしくは賢者を意味した。
カルデア人がバビロンを都に紀元前625年に建国し、アッシリア帝国を滅ぼし、メソポタミアを支配して4国分立の一角を担った。ネブカドネザル王は紀元前586年、イェルサレムのユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行(バビロン捕囚)したが、紀元前538年にアケメネス朝ペルシアに滅ぼされた。
セム系遊牧民カルデア人が紀元前625年、メソポタミアに新バビロニア王国を建国し、イラン高原のメディアと連合してアッシリア帝国を紀元前612年に滅ぼした。
- 新バビロニアはバビロンを都にしカルデア王国、あるいはバビロン第11王朝とも言われる。アッシリア帝国滅亡後の4国分立時代のリディア王国(小アジア)、メディア王国(イラン高原)、エジプト末期王朝(第26王朝など)の中では最も栄えたとされる。
- 紀元前6世紀前半のネブカドネザル2世の時期に、エジプトの勢力を排除してパレスチナに進出、イェルサレムを占領してユダ王国を滅ぼした。パレスチナ遠征は紀元前593年と紀元前586年の二度おこなわれ、二度にわたってユダヤ人をバビロンに連行した。これが、ユダヤ人の苦難の歴史として旧約聖書伝えられた、バビロン捕囚である。
- バビロンは、バビロニア(古バビロニア、第一王朝)の時代の都として栄えていたが、アッシリア帝国滅亡時に破壊された。ネブカドネザル王はその復興に力を注ぎ、バビロンの城門に壮麗なイシュタル門(現在は当初の半分の大きさで復元されている、青い釉薬で飾られた門)やマルドゥク神殿やジッグラト(聖塔)を再建。またバビロンには「空中庭園」があったという。
この新バビロニアはネブカドネザル王の死後、内紛によって急速に衰え、イランから興ったアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって、紀元前538年に滅ぼされた。キュロス2世はバビロンに捕らえられていたユダヤ人を解放した。
新バビロン王朝第二代英王ネブカドネザル2世(在位紀元前604年~紀元前562年)といえば二次にわたって史上有名な「バビ ロン補囚」を行ない、イスラエルの王国を滅ぼしてユダヤの民をバビロンへと強制移住させた為に、旧約聖書「ダニエル書(第4章33)」において「野獣と化して 狂死した極悪人」として描かれている訳だが、近年の研究では「補囚」とは言ってもユダヤ人に対する扱いには相当寛大な面も見受けられたことが指摘さ れている。「補因」は、バビロンを当代随一の世界都市に仕立て上げる為の強制的な人材確保策といった性格のもので、必ずしも鞭や鎖による暴虐が続けられた のではない、という訳である。もっともアメリカ・インディアンの不毛地への強制移住や日本への中国人・朝鮮人労働者の強制移住の事例などを思い起こすまでも なく、父祖伝来の地を強権的な圧力によって追われるということが或る民族にとってどのような心理的影響と文化的破壊とを派生させるかについて史家は特別に留意しておかねばならない。
新バビロニア時代の「ルネサンス」の舞台裏として、貨幣経済の発達があった。鋳貨が前代とは比較にならない程の規模で大量に流通し、例えば貸付利率20~30%という、現代の悪徳サラ金にも劣らぬ高率を示して多くの自由民の没落をもたらしたのである。商業活動の複雑化に伴っ て負債奴隷を禁ずる法律の強制力も弛緩し、高利貸しが富を独占して行く一方で債務奴隷に転落する者が激増した。奴隷となった者は数十人単位で取引・遺贈さ れる様になり、エギビー族(=ムラシュー族と共に当時の経済を午耳っていた)の或る商人の様に、財産の一部分割に際して百人もの奴隷を譲り受ける者も現わ れた。
ネブカドネザル2世(在位紀元前604年~紀元前562年)の死後、ナボニドス王(在位紀元前555年~紀元前539年)の時代には、100タラント21ミナ(3040kg)の銀、5タラント17ミナ (160kg)の金と共に、実に2万8500人もの奴隷がマルドウク神殿に献納された。奴隷一人当たりの値段が銀50ゼーケル(420g)と言わ れていたことを考えるなら、この「奴隷2万8500人」という数値が意味する価値は、まさに途方もないものであったと言うことが出来るだろう。
尚、余談ではあるが、新バビロニアの栄華は、ナボニドスの時代にペルシアのキュロス2世がバビロンに攻め入るに及んで終りを告げ、バビロン 市中に捕われていた多くの幽閉民族はキュロスの手によって「解放」された。宗教や風俗に「自由」を与えたキュロスは異民族からも「寛容大王」と呼ばれて敬 愛され1971年には大王即位2500年を記念してイランで盛大に式典が催される程であったが、無論、大王自身がペルシア帝国最大の奴隷保有者 であった。
ペルシア軍侵攻後もバビロン市そのものの栄華は永く続き、いわゆる四都のひとつとして「古代世界帝国の要(かなめ)」となった。マケドニアのアレクサンダー大王も東征の途次この地に逗留し、かつてネブカドネザルが造り上げた大神殿で勝利の凱歌をあげた。この若き大王がその神殿で勝利の大酒を呷 (あお)り、その挙句に不治の熱病に冒されてそのまま33歳の波瀾の生涯を閉じることになったのは、ナボニドスが世を去ってからちょうど二百年後のことで ある。
まずは近代以前の西洋の状況について。
- 近代(19世紀)以前の西洋において「(紀元前4世紀~紀元前3世紀のそれを中心とする)ギリシャ古典の世界においては占星術やそれにまつわる天文学の起源はカルデア人とされている」「旧約聖書ではカルデア人のウルの羊飼いアブラハムがイスラエルの民を連れてエジプトに移住した」といった知識から「羊飼いのアブラハムがカルデア人の天文学をエジプトに伝えた」なる伝説が生まれた。おそらくこれに尾ひれがついてキリスト教の国でカルデア人羊飼いの星座起源伝説(Chaldean Shepherds)が生まれた。
- 後にバビロニアの発掘や楔形文字の解読により紀元前三千年期より都市文明が発達した事が明らかになると(元来は紀元前5世紀頃に成立した)黄道12星座や高度な天文知識も当時から存在したと信じられる様になった(バビロニアの楔形文字が最初に解読されたのは1857年,本来の星座の起源であるシュメール人のシュメール語が解読されるのは1940年代なので, この間にかかる俗信が広まったとも)。
日本にもこの説は伝播し学説として常識となった。例えば明治時代の旧制中学教科書(1904年版)にこうある。
- 紀元前3800年頃統一されたカルデア国はシュメール・アッカド・古バビロニアの三国を合わせた呼び名である。
- カルデア人は天文数理に精通し、日月の食を前知し、黄道を十二に分け星宮に命名していた(黄道12星座)。
以降昭和初期にかけてこの説は教科書をはじめ学者や作家も本や雑誌に書き大衆にも広まったが、何故か昭和5年(1930年)頃を境に古代カルデア王国は学術書から消えた。そしてギリシャ人が元々呼んでいた紀元前7世紀に新バビロニア王国(カルデア王国)を建国した人々のみがカルデア人となった。
既にRobert Brown「Primitive Constellations(1899年)」において「星座の起源羊飼い説」に準拠するのは「無知な作家」の証と指摘されている事が戦後明らかとなった。
- さらにO.Neugebauerの「The exact sciences in Antiqyity(1957年初版, 1969年版p.101-102)」などによると、1957年(昭和32年)にはもうバビロニアで数理天文学が発達したのは紀元前三千年期~紀元前二千年期の古代ではなく、ギリシャ人がカルデア人と呼んでいた新バビロニア王朝(カルディア王国)より新しい紀元前5世紀頃(19年7回の閏月の発見)からであり、さらに発達したのがアレキサンダーのメソポタミア征服後のセレウコス朝時代(紀元前312年~紀元前63年)であった事まで判明していた。
- ところが、冥王星の和訳命名者として知られる日本の天文民俗学者野尻抱影(1885年~1977年)および彼の支持者達はこうした知識のアップデートを怠ってしまったのである。
1903年に旧制中学を卒業した野尻抱影は、戦後になってもシュメル人東方侵入説を吸収しつつ古代カルデア説の伝承を続ける。星座本は学術書ではないのでそれが許されてしまってきた。現在ではそれが間違いであることさえ誰も分からなくなった。かくして処女作「星座巡礼(初版1925年, 新版1940年)」において「空を斯く初めて星座に区画したのは、天文学者では無くて、紀元前三千年にも遡る古代カルデアの羊飼いです」と断言し、戦後も「星の神話・伝説(白鳥社1948年, 縄書房1949年, 講談社学術文庫1977年)」以降「紀元前三千年期に東方からバビロニアに侵入した牧羊の民カルデア人(羊飼い)の天文起源説」を主張し続けた野尻抱影の著作は平成に入っても「校閲」もかからずに重版再版が繰り返され続けている。
ちなみに現在の私の立場は以下となります。
- シュメール都市文明の成立期、すなわちウバイド期(紀元前5500年頃~紀元前3800年)の主要都市エリドゥからウルク期(紀元前3500年~紀元前3100年)の主要都市ウルクへ「メー(文化の恵み)」の移転事件があり、それが前者の衰退による終焉と後者の発展の開始を決定付けたとする伝承が存在する。
メソポタミア神話において、イナンナは知識の神エンキの誘惑をふりきり、酔っ払ったエンキから、文明生活の恵み「メー(水神であるエンキの持っている神の権力を象徴する紋章)」をすべて奪い、エンキの差し向けたガラの悪魔の追跡から逃がれ、ウルクに無事たどりついた。エンキはだまされたことを悟り、最終的にウルクとの永遠の講和を受け入れた。この神話は、太初において、政治的権威がエンキの都市エリドゥ(紀元前4900年頃に建設された都市)からイナンナの都市ウルクに移行するという事件(同時に、最高神の地位がエンキからイナンナに移ったこと)を示唆していると考えられる。
- 「啓典の民」としてこれから距離を置こうとしたヘブライ民族の士師や預言者達は、かかる「メー(文化の恵み)」の実態が「天体観測結果に基づいて農業暦を管理する神殿宗教を中心に人がまとまる政教一致体制」であり、例えば(カナン諸族的異教信仰に継承された)豊穣神信仰が農耕民の生活と完全一体化していたりする事実を発見し衝撃を受ける。旧約聖書の内容はまさしくこれとの戦いの歴史だったが、結論からいえば現代イスラエルのユダヤ暦にも四月の呼称として穀物神Tammūzの名前は残った。
- ちなみにシュメール文明においては、ここでいう「天体観測結果に基づいて農業暦を管理する神殿宗教を中心に人がまとまる政教一致体制」が少なくともとウルク期とそうやって成立したウルク型都市国家が次々と複製されて政争を始める初期王朝時代(紀元前2900年~紀元前2350年)の狭間に現れたジェムデト・ナスル期(紀元前3100年頃~紀元前2900年頃)に確立。後世、世界中で時間単位の標準となる60進法などもこの時期から使用され始めている。実際(起源としては山岳信仰に由来すると考えられ、紀元前三千年期より築造が始まった)ジグラート(英Ziggurat, アッカド語:ziqqurat, 古代メソポタミアで盛んに建築された日乾煉瓦を数階層組み上げて建てられる巨大な聖塔)も神官達の天体観測に利用されていたと考えられている。
所謂「メソポタミア天文学」は、数理天文学とは別にこうした歴史的側面も備えているのです。実はかかる恐るべき文化面での硬直化こそが「紀元前1200年のカタストロフ」の遠因の一つとなったとする説もあります。その一方で、少なくともヘレニズム時代(紀元前323年~紀元前30年)までは完全にこれ式で運用されてきた都市国家が確認されています(ただしその多くが後に気候変動か環境破壊の影響で砂漠に消えていく)。そして古代神殿信仰が完全に歴史上からその痕跡を断つのはさらに時代を降って西ローマ帝国滅亡(476年)後の紀元後6世紀に入ってからだったりします(東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世によるエレファンテネ のフィラエ神殿閉鎖, 550年)。
最近は紀元後250年頃~800年頃に「古代末期(英: Late Antiquity, 独: Spätantike, 仏: Antiquité tardive)」なる新しい歴史区分を導入しようという国際的動きがあって、その流れとも関わってくる歴史事象だったりもしますね。果たして「古代が終焉した」とは如何なる概念を指す言葉なのでしょう?
むしろその一方で「バビロニアにおいて数理天文学が発達し始めたたのはアケメネス朝ペルシャ時代(紀元前550年~紀元前330年)に入った紀元前5世紀頃(19年7回の閏月の発見)からで、それがセレウコス朝シリア時代(紀元前312年~紀元前63年)に加速し、最終的にはプトレマイオス朝エジプト(紀元前323年~紀元前30年)故地に残存したアレキサンドリア図書館で完成する」歴史的流れも動かないのが厄介なのです。
まさしく山本義隆「小数と対数の発見(2018年)」が描いた「数理の神学や形而上学からの脱却過程としての」技術史観へと繋がっていく訳ですね。
*出発点はやはり中国古典「易経」と同じく「天人相関説」だったっぽい。
*ただ古代エジプトや古代メソポタミアの灌漑農業では「洪水の毎の再測量問題」が存在し、この辺りが数理導入の萌芽となるっぽい。
果てされ、背後に如何なる時代を超越していく精神解放史を想定すれば良いのやら…