「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】カッシート人とは一体何者だったのか?

アモリ人に続く「バビロニア文明に完全帰依してしまった人々」。

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カッシート人 (Kassites

紀元前2000年期中旬以降バビロニアで活動した民族、または集団の名称。アッカド語ではカッシュ (Kaššu)、カッシート語での自称はガルズ (Galzu) である。かつてはインド・ヨーロッパ語族に属するという説もあったが現在では支持されていない。

その言語

カッシート人の言語については殆ど分かっていない。彼ら自身がカッシート語ではなくアッカド語やシュメール語を行政や宗教の言語として選んだため、カッシート語で書かれた文章は1つも残っていないからである。

殆ど唯一の史料としてカッシート語とアッカド語の対訳辞書が発見されている。他に人名・神名などの固有名詞からも少数の単語を拾う事が可能である。しかしその人名、神名も時代が下るにつれアッカド語が用いられるようになった。カッシート語はこれらからわずかな数の単語が知られるのみである。

その起源

バビロニア統一以前のカッシート人故地については、ザグロス山脈周辺からメソポタミアに侵入したと言う説が有力ではあるが、確実ではない。

  • カッシート人の記録が最初に登場するのは紀元前18世紀頃バビロン第1王朝時代の事であり、傭兵農業労働者として記録されている他、カッシート人との戦闘の記録が残されている。しかし総じてカッシート人の初期の歴史は不明点が多く文書記録などがほとんど見つかっておらず、メソポタミアの歴史における空白期間となっている。
  • 彼らが歴史の主役として登場するのは紀元前16世紀以降の事である。紀元前18世紀頃以降はユーフラテス中流域のテルカ元来はアムル 人が建設した都市国家)に本拠を置く様になったが、紀元前1595年にバビロン第1王朝がヒッタイトの攻撃を受け崩壊し混乱状態にあったバビロニアにおいて次第に勢力を拡大したと見られる。

  • カッシート人バビロニアにおける支配をいつ頃確立したのか、正確な時期はわかっていない。ただ、紀元前1500年頃までにはバビロニアにある程度の勢力を築き上げていたと思われる。そして紀元前1475年頃、カッシート王ウラム・ブリアシュ海の国第1王朝バビロン第2王朝)を滅ぼしてバビロニアを統一した。

カッシート人は外来の勢力であったが、バビロニア文化を極めて好み、バビロニアの神々を祭る神殿を盛んに建築し、公文書その他はほとんどバビロニア語(アッカド語)を用いるなどし、早い段階で現地に同化した。

実はアモリ人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)を制したバビロン第一王朝(紀元前1900年頃〜紀元前1595年)は、それを達成した第6代ハンムラビ王(紀元前1792年~紀元前1750年)が最盛期という有様だったのです。

バビロン第1王朝第7代王サムス・イルナSamsu-Iluna, 在位紀元前1749年~紀元前1712年

名はサムスイルナSamsuiluna)とも表記される。父ハンムラビの後を継いで王となったが、その治世にバビロニアは多くの領土を失うこととなった。治世中に多くの戦争を行った。

  • まず、ラルサのリム・シン2世と戦った。彼が捕らえられ処刑されるまでは、戦闘のほとんどはエラム地方やシュメール地方との境界域で行われた。また戦争でウルやウルクの市街の一部を破壊した。
  • 反乱も起こり、イシン第1王朝最後の王ダミク・イリシュの後裔を名乗るイルマ・イルIluma-ilu)がシュメール地方で蜂起し、ニップル南部のシュメール地方の独立を勝ち取った。
  • エラムクティル・ナフンテ1世Kuturnahunte I)もバビロニアに攻め込み、サムス・イルナを破って、エラムはバビロンから再び独立した。

また治世中の紀元前1741年バビロニアに初めてカッシート人が侵入した。  

バビロン第1王朝第8代王アビ・エシェフAbi Eshuh、在位紀元前1711年~紀元前1684年

前王サムス・イルナの息子として生まれ、父王の跡を継いで王となった。彼もまた縮小し始めた領域保全の為、父と戦ったカッシート人や、南で自立していた海の国第1王朝との戦いを繰り広げた。

  • 一旦はカッシート人と敵対したが、後にはカッシート人との友好関係の維持に努力した。カッシート人はこの時期メソポタミア各地に移住しており、バビロン第1王朝の領域内でも労働者や傭兵となっていた他、旧マリ王国の地域ではテルカを拠点にカッシート人カシュティリアシュ王のハナ国が成立しており、バビロニアでのカッシート人の影響力が強まっていた。

アビ・エシェフが多くの努力を払ったことが記録から読み取れるが、彼の治世を通じてバビロンの勢力は一層弱まった。

バビロン第1王朝第9代王アンミ・ディタナAmmi-Ditana, 在位紀元前1683年~紀元前1640年

年名は治世の最初の37年分と、それに加えて幾つかの可能性のある追加の年の断片が残っているが、その治世は概ね平和なものであった。

主に神殿の充実と拡大に従事し、他にも幾つかの建築事業を行っていたが、37番目の治世の年には、イシンのダミーク・イリーシュが以前に建設したデルの城壁を破壊したことが記録されている。

バビロン第1王朝第10代王アンミ・サドゥカAmmi-Saduqa、Ammisaduqa、Ammizaduga, 在位紀元前1582年~紀元前1562年

年名は治世の最初の17年分を含む21の断片が残されているが、それらを見る限り非常に平和な統治期間であった様であり、主に神殿の充実と拡大に従事していた。

11年にはユーフラテス河口に壁を作るなど、幾つかの建築を行っている。

バビロン第1王朝第11代王サムス・ディターナSamsu-ditāna, 在位紀元前1582年~紀元前1562年

しもべの印鑑には楔形文字sa-am-su-di-ta-naと刻まれている。31年間の統治期間の末期にヒッタイトの手によってバビロンが突然陥落した事で知られる。

  • ハンムラビの曾孫であり、バビロニア王国はハンムラビの下で最盛期を迎えて以降かなり縮小していたが、それでもバビロンとユーフラテス川からマリテルカまで北上していた。
  • 年名には戦争をしたり、記念碑的な建造物を建てたことが記されていないため、ほとんど本拠地に留まっていたと思われる。その記述の大半は神々への敬虔な贈り物と自分自身に捧げられた像の建立についてである。また碑文はいずれも現存していない。
  • バビロン第二王朝海の国王朝)第6代王Gulkišarの王道叙事詩には、サムス・ディターナに対する敵対心が描かれている。サムス・ディターナは明らかに攻撃を恐れていたようで、現存するtamituのテキストや、神々シャマシュとアダドに宛てた神託の質問には、7人の「反逆者」である敵の名が記されている。しかしバビロニアが国家として衰退していた為に何ら手を打つ事ができなかった。

最終的破滅は予想外の形をとった。紀元前1595年ヒッタイト人の王ムルシリ1世の襲撃を受け、バビロンは略奪され、完全に荒廃したのである。

  • 初期の王の年代記』には次のように辛辣に報告されている。「サムス・ディターナの時、ヒッタイト人はアッカドに向かって進軍した」。ムルシリ1世は以前、ハルパ(古代アレッポ)に対する日和見的な反乱で採用した戦略で、永続的な占領を試みることなく、略奪品と捕虜を奪い取るためだけに征服した。ヒッタイト人の説明は、テレピヌの勅令に現れ、次のように述べている。「その後、彼はバビロンに進軍し、バビロンを滅ぼし、フーリアン軍を打ち破り、バビロンの捕虜と財産をハツサに運んだ。
  • ムルシリ1世は、バビロンの神マルドゥクとその従者サルパニットの像を押収し、Haniに移送したが、24年後のカッシート朝の王アグム2世の治世まで回収されることはなかった。

バビロンは廃墟と化したままで、カッシート朝の出現まで再占領されることはなかったが、Tell Muḥammadの文書によれば、Šipta'ulziの統治のために再定住してからの年数で年代が決定されている。

メソポタミア中流域の商業圏確保

メソポタミア南部(主にバビロニア文明の起源と縁深いキシュ)のシュメール諸都市とシリア北部の都市を結ぶ戦略的に重要な中継点として繁栄し、材木や石材といった建材のシリアの山岳部からの輸入に関与したシュメール人都市国家マリは、紀元前24世紀頃同じシュメール人の建設したエブラアッカドサルゴンが破壊。

アムル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)の混乱下、紀元前1900年頃アムル人が再建し、紀元前1850年より第二の繁栄期を迎え、紀元前1750年頃アララハの文献にも言及があるが紀元前1759年頃同じアラム人のバビロン第1王朝第6代の王ハンムラビが再度破壊した。

ちなみに当時のマリについてはバビロン文明やクレタ島ミノア文明(紀元前15世紀にミケーネ文明がクレタ島を占領する以前)との関係が指摘されている。

以降メソポタミア中流域の繁栄は近隣のテルカ(近隣の草原の民の拠点からカッシート人の本拠地へと成長)へと移った。バビロン第3王朝建設以前のカッシート人の動向の貴重な情報源。

バビロニア統一以後

彼らがバビロニアに作った王朝はバビロン第3王朝カッシート王国、カッシュ朝等とも, 紀元前1475年頃~紀元前1155年)と呼ばれ、バビロニアの歴史上最も長く続いた王朝であり、また当時エジプトヒッタイトミタンニ等と並ぶ強国として勢力を振るった。

  • カッシートエジプトの間でやり取りされた外交書簡(アマルナ文書)が現存しており、当時の外交関係を知る上で貴重である。
  • 紀元前1400年期中旬以降、強大化したアッシリアとの関係が悪化し、さらには東のエラムとも紛争が生じた。紀元前1345年に即位したクリガルズ2世エラムに侵攻し、スーサを陥落させるなどしたが、アッシリアとの戦いに敗れて領土の一部を失った。
  • その後も度重なる国境紛争が続き徐々にアッシリアが優位に立っていった。遂に紀元前1225年、カッシート王カシュティリアシュ4世アッシリアトゥクルティ・ニヌルタ1世に敗れアッシリアに連れ去られた。その後バビロニアアッシリア支配下に入るが、この時期のアッシリアの統治形態が直接的な物であったのか、間接的な物であったのかはよく分かっていない。やがてカシュ・ティリアシュ4世の息子アダド・シュマ・ウスルの下でバビロニアは再び自立する。アダド・シュマ・ウスルアッシリアの侵攻を食い止める事に成功したが、彼の死後もアッシリアと国境紛争が続いた。

  • 紀元前1160年ザババ・シュマ・イディナが即位し、アッシリアと戦ったが敗れて大きく領土を失った。ついでエラムシュトルク・ナフンテの攻撃を受けてバビロンが陥落し、バビロンに祀られていたマルドゥクの神像を始め、ハンムラビ法典等多くの財宝がスサに持ち去られた(この時持ち去られたハンムラビ法典碑が20世紀に入ってスサで発見される事になる)。

紀元前1157年エンリル・ナディン・アヘが即位し、王朝復活を目指しエラムと戦うも敗れて死亡し、紀元前1155年バビロン第3王朝は滅亡した。

その後のカッシート人

その後アムル人がエラムを撃退し、バビロニアを支配したイシン第2王朝(バビロン第4王朝, 紀元前1157年‐紀元前1026年)時代にはカッシート時代の制度の多くが踏襲された。その関係もあり、カッシート人バビロニアの主要な住民の一部であり続け、紀元前9世紀頃まで多くの高官等を出しており、アケメネス朝時代まで記録に残り続ける。

カッシート王朝の統治 

エジプトやアッシリアなど、他の有力国との政略結婚がしばしば行われ、またバビロニアは交易の中心として繁栄した。バビロニアの歴史上比較的安定した時代と言われる。この時代にバビロニアは完全に一体性を持った土地としてカルドニアシュと呼ばれるようになる。

バビロニア各地の都市で大規模な建設事業が行われ、クリガルズ1世の時代には新首都として自身の名を冠したドゥル・クリガルズバグダード県 アカル・グゥフ(アラビア語版)、アラビア語: عقرقوف - `Aqar-Qūf)が建設されている。

カッシート人のバビロニア統治の中でも最も特徴的なものがクドゥルと呼ばれる境界石の設置である。これは王族や官僚などへの土地授与を示した石碑であり、この石碑の存在を論拠としてかつては封建制的統治が行われていたと言う説が有力であったが現在では少数派である。実際には10以上の州が置かれて長官が中央政府から任命された。

王メリシパク2世のクドゥル

言葉は主にバビロニアアッカド語)が使用されたが、バビロニア文化を愛好するカッシート人達によって、バビロニア以前のシュメール文化も再興され、宗教文学にはシュメール語が使用される場合もあった。

 何かこう「ギリシャに戦争で勝って文化で負けたローマ人」とかそういう感じ? そして同じ歴史をカルディア人も繰り返す展開に?