「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸か概念の迷宮」用語集】ヌビアは「黒人文明発祥の地」?

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スーダン

スーダンの語源は,古代エジプト人が「黒人の国」と呼んだことに由来する。古代ギリシアではスーダンのことを「太陽が昇り,また沈む国」と呼び,「スーダンに住む人々は,太陽の恵で肌が黒くなった。」という言い伝えがあったという。

ちなみに,首都ハルツームKhartoum)という名称は,白ナイルと青ナイルの間にある細長い地形をアラビア語で「象の鼻:アル=ハルツームal-Khurtum)」と呼んだことに由来する。

 古代史

古来,現在の南エジプトと北スーダン一帯のナイル側流域はヌビアと呼ばれ,北方の古代エジプト文明の影響を強く受けた。紀元前2,200年頃,南部から北上してきた黒人がこの地域にクシュ王国と呼ばれる王国を建国した。その後クシュ王国は一旦はエジプトによって滅亡させられたが,紀元前900年頃ナパタを都として再興すると,衰退したエジプトに攻め入って第25王朝を建国した。その後,第25王朝アッシリアに敗退したが,旧クシュ王国の残党はヌビアへ逃れ,紀元前600年中頃にメロエに移るとメロエ王国を建国した。

当時のメロエは世界有数の鉄の生産地であり,メロエ王国は鉄器の国際交易により繁栄した。現存するピラミッドの数はエジプトよりも多く,1,000近くにも及ぶ。またメロエ王国はエジプトの影響を脱してブラック・アフリカ的な独自の文化(メロエ文化)を生み出し,メロエ文化の影響は国際交易を通じてサハラ以南のアフリカに深く浸透した。

イスラム

イスラム教は7世紀アラビア半島で誕生すると,イスラム商人やスーフィーを介してアフリカ大陸に伝わった。7世紀中旬以降,イスラムのアフリカ侵入が本格化し,北アフリカに続き,ヌビア,サハラ地域,西アフリカ等が次々にイスラム化されていった。
現在のスーダンにあたる地域でも 14世紀頃からイスラム勢力の進出が加速し始め16世紀初頭には現スーダンにおける最初のイスラム国家であるフンジ王国が成立した。16世紀末にはダルフールでもダルフール・スルタン王国が建国され,ダルフール地方でもイスラム化が進んだ。

クシュKush)は現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明。クシテKushite)とも言う。最も早い時代にナイル川流域で発達した文明の一つである。クシュ人の国はエジプトの領域内への進入の時期の後で発展した。クシュの文化は、並存していた期間は短いが、エジプト新王国と相互に影響を与え合っていた。

なお、基本的にスーダンのあたりを本拠地とした王国だが、古い時代の文献ではエジプト以南を「エチオピアアイティオピア)」と呼んでいたので、クシュ人を「エチオピア」と呼んでいる場合もある(ユダヤ古代誌』第I巻第6章2節など)。

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紀元前4世紀頃のクシュ(エジプトはアケメネス朝ペルシャ支配下)

その歴史的起源

最初の発達した社会がエジプト第1王朝紀元前3100年頃 - 紀元前2890年頃)の時代ごろヌビアに現れた。クシュの国として知られている最初の国はケルマ王国で、紀元前2600年頃に興り、ヌビアの全てとエジプトの一部を支配した。文字資料が発見されていない上、エジプトの資料もめったに言及していないので、これらの人々についてはほとんど知られていない。

紀元前2500年頃、エジプトが南に移動し始めた。私たちの持つクシュに関する知識のほとんどはそれらを通してきている。しかしこの拡大は、エジプト中王国の凋落によって止まった。紀元前1500年頃エジプトの拡大は再び始まったが、このときは組織化された抵抗に遭遇した(歴史家たちはこの抵抗が多種多様な都市国家に由来するものなのか、一つの統一された帝国に由来するものなのか確信を持っていない。独立した国家という観念が土着のものなのかエジプト人から持ち込まれたものなのかということにも議論の余地がある)。エジプトは優勢で、この地域はは、古代エジプト第18王朝第3代ファラオトトメス1世Thutmose I、在位紀元前1524年~1518年、あるいは紀元前1506年~1493年)の支配下におかれ「植民地化」された。トトメス1世の軍隊はたくさんの堅固な要塞を築いた。クシュはエジプトに金や奴隷をはじめとする様々な資源を供給した。

紀元前11世紀にエジプトでの内部抗争により「植民地」支配が崩壊して、ヌビアのナパタに本拠地を置いた王国の独立運動が起こった。この王国は植民地の政権を転覆させた地元民によって支配された。エジプトの文化と技術の影響、例えば、ピラミッドの建築や、土着の神と同じようになされたエジプトの神の崇拝などにはっきりと見ることができる。

紀元前1千年紀上ヌビアにおけるクシュ王国の形成

第3中間期ヌビア(紀元前1069年~紀元前747年)における考古資料のヒラト・アル=アラブに着目。とりわけクシュ王国の直接的な発生地である上ヌビアを中心として、クシュ王国形成に伴う諸変動を考察した。

その結果、第3中間期を境として、ヒラト・アル=アラブと同種のシャフト墓と下降階段墓は、相互に排他的な分布域を占めることを明らかにした。この分析結果は、クシュ王国の形成前後で人間集団が一変した可能性を示唆している。

また一連の分析結果は、ヒラト・アル=アラブに造営されたシャフト墓が、ソレブやクバン、アニバ、ブヘンといった新王国時代エジプト紀元前1550年~紀元前1069年)のヌビア支配拠点の系譜を引く可能性を示唆している。しかし第3中間期に上ヌビアへと展開した遺跡が、その後いかなる過程を経てクシュ王国という1つの勢力へ統合されたかという更なる動態の解明は、今後の課題として残された。

歴史的ヌビア人

エジプト王国の歴史を通して、南方はヌビアからの移住者が多く流れ込んでいた。主に兵士や召使として、である。第四王朝のスネフェル王は「ヌビア遠征から7000人の捕虜と20万頭の家畜、またエジプト東部砂漠から多数のベドウィンを連れ帰って来た」という。
第四王朝つーと、でっかいピラミッド作ってたあの頃ですな。

さらに新王国時代になると、トトメス3世の時代には6000人アメンホテプ2世10万人の奴隷を連れ帰ったともされ、ラムセス2世の時代には神殿に仕える奴隷だけで113,433名が記録されているという。

<参考:古代エジプト 都市文明の誕生/古谷野 晃/古今書院>

奴隷としてつれてこられた人々の大半はエジプトに定住する道を選んだようで、エジプトに入ってきた形跡はあっても大規模に脱出したような記録はない。例外として残っているのが、旧約聖書にある「出エジプト」の話だ。

このように、エジプトの歴史には、エジプトに移住してきた様々な人種、民族を示す記録が多数ある。

たとえばラメセス時代のパピルスが伝えるところによると、「エジプトの軍隊構成 エジプト人1,900人 スーダンヌビアより南か520人、神官1,600人、軍人100人ヌビア人880人」…と、いった感じで。 

古代エジプト第4王朝 (紀元前2613年頃~紀元前2494年頃) 初代王(ファラオ)スネフェルSneferu、希: Soris, 在位紀元前2613年~紀元前2589年)の時代に遠征で捕えられ奴隷化された者たちは、傭兵・警察軍・保安隊といったポストでおもに用いられ、後世 とは異なって、主産業たる農業にはほとんど用いられなかった様であるが、シリアの銅山やヌビアの金山での苛酷な鉱山採掘作業には集団で大量に徴用された 。 

奴隷制が浸透した古代エジプト王朝最盛期

こうして新王国時代の周辺諸地域への拡張政策(遠征)によってもたらされた莫大な量の戦争捕虜が国有奴隷として国有地に集団で割り当てられ、或いは神殿に寄進され、更には高官・貴族・戦功者等に配分される過程でエジプト社会は大きな変貌を遂げる形となる。略奪によってもたらされる財宝も莫大な量となり古代エジプト第18王朝第9代王(ファラオアメンホテプ3世Amenhotep III, 在位紀元前1386年~紀元前1349年、または紀元前1388年~紀元前1351年)の時代には、空前の大規模建造物が建ち並び新王国期でも特に際立って華やかな文化が花開いた。もしこの時代の遣跡が今日に知られていな かったとしたなら、古代エジプト文明の栄華はもっと過小に評価されることになった筈だと述べる美術史家が居るほどである。彼の治世の有様を伝える絵画・彫刻類の数々は、当時の首都テーべがクレタ商人や黒人兵士、ミタンニ・バビロニアからの朝貢使節団、そしてシリア人奴隷などでごった返していた史上最古の一大コスモポリスであったことを教えてくれる。

それまで古代エジプト社会は自給自足の農業経済が基本で、商業・金融は本格的な発達を未だ遂げてはいなかった(金塊や銀塊による取引が見られた程度で、国家信用の裏付けを持った貨幣の制度が十分に発達していた訳ではない)。「商人」を表す エジプト語が現われるのは新王国後半期以後のことであり、しかもその「商人」とは、少数特権階級に囲われた一部外国人商人(シリア人)に限られていたので ある。 
*間違いなくウガリットやカディシュといった都市国家による交易独占を指している。

こうした社会には原則として債務奴隷は存在しない筈だが、貨幣の発達は不十分でも書面による取引は大々的に行われ、信用制度それ自体はかなり高度な発達を見せていた。その為に一 方で各種文書の作成を独占する書記の特権化、他方では庶民の債務奴隷化的な没落が着々と進行していき新王国末期には債務奴隷が激増する一方、(戦争奴隷の大量流入やそれを投じての下ナイル流域大規模開拓事業もあり75万エーカーの耕地(全耕地の1/7。1エーカーは約4047平方メートル)、50万頭の家畜、10万7千人の奴隷(全人口の13分の1に該当)を、ほんのひと握りの書記・僧侶が独占するに至った、といわれている 。私的な奴隷所有も一般化し、中王国期までは王族やそれと繋がりのある貴族・神官の間に限られていた奴隷 の保有・使役が、広く社会のあらゆる部面で見られるようになる。シュメールの場台と同様、一人の主人が所有する奴隷数は小規模で、一人ないしは二 人に限られることが多かった様であるが、奴隷は牛飼い・妾・理髪師・馬丁.兵士・歌手・商人・サンダル作り・機織り・農夫・庭師・家内雑役・屠殺人・鳥射ち・漁師・金銀細工師等々、あらゆる職種にわたって使役されることとなった。

忍び寄る紀元前1200年のカタストロフの靴音

エジプト第20王朝2代目王(ファラオ)ラムセス3世 (在位紀元前1198~紀元前1166年) は多数の戦争捕虜をネジェト人間家財としてファラオ・神殿に隷属した奴隷)としてナイル河口域のデルタ地帯に強制的に入植させ、下層労働民として各種の産業に従事させる一方「岸辺の砂の如き」数の奴隷を諸地方の神殿群として献納した。その実数は治世33年間で少なくとも11万3433人を超えたと言われ、内訳としてはテーベ神殿群に8万6486人(全体の80%)、ヘリオポリス神殿群に1万2963人、メンフィス神殿群に3079人、その他の地方 神殿群に5686人となっている。一般人への転化も比較的容易ではあった様だが、神殿奴隷は概して個人所有の奴隷よりも苛酷に取り扱われ、“ナーギルム”なる役人の監視下に置 かれていた。当初はその大部分は女奴隷(フムト)であったが時代が下るにつれて男奴隷(フム)の比重が大きくなっていったともいわれており、これは労働奴隷制の重要度の高まりを傍証する史実として、留意しておくべきものと思われる 。

古代エジプト第20王朝2代目ファラオ (在位紀元前1198~紀元前1166年) 。ラメッセス3世とも呼ばれる。王朝開闢者セトナクトの子。内戦後まもない国政を継承。治世5年目リビアのナイルデルタ侵略を防ぎ,その2年後「海の民」の海陸からの攻撃を撃退したが,パレスチナの地をペレセ人 (聖書のペリシテ人) に奪われた。治世 11年目再びリビアの攻撃にあったが,それを撃退。貿易にも力を注ぎ,シナイの銅山,ヌビアの金山も採掘。また不正を働いた下エジプト総督を罷免したり,神殿建築に従事する者たちの反乱が起こるなど政治不安が続いたが,治世の後半は平和裏に過ぎ,神殿の建立や装飾に力を注いだ。

間違いなく 古代エジプト王朝が「紀元前1200年のカタストロフ」以降衰退したのは、この辺りの社会変化に理由がありそうなのである。

ナパタとエジプト第25王朝紀元前747年~紀元前656年

カシュタ王Kashta)とその次のピイ王の下で王国の本拠地ナパタはとても有力になった。ピイ王はエジプトを征服しエジプト第25王朝紀元前747年~紀元前656年)を建国。紀元前671年アッシリアが侵攻するとエジプトから撤退した。

古代世界に人種差別はなかったようだ。ピイがエジプトを征服した時代には、肌の色は問題にされなかった。古代のエジプト、ギリシャ、ローマの彫刻や壁画には、人種的な特徴や肌の色がはっきりと表現されているが、黒い肌が蔑視されていた様子はほとんどない。肌の色を気にするようになったのは、19世紀に欧州列強がアフリカを植民地化してからだった。

かつてヌビアのあったナイル川中流域に足を踏み入れた欧州の探検家たちは、優美な神殿やピラミッドを見つけたことを興奮ぎみに書き残している。これは、クシュと呼ばれている古代文明の遺跡だ。

ハーバード大学の著名なエジプト学者ジョージ・レイズナーは、1916~1919年の発掘調査で、ヌビア人の王によるエジプト支配を裏づける考古学的な証拠を初めて発見した。だが、遺跡の建設者は肌の黒いアフリカ人であるはずがないと主張し、自身の業績に汚点をつけた。

クシュの王たちは白人だったのか、それとも黒人だったのか。歴史家たちの見解が二転三転する時期が何十年も続いた。権威あるエジプト学者、キース・シーレとジョージ・ステインドーフは1942年の共著書の中で、ヌビア人の王朝とピイ王の征服についてわずか3行ほどしか触れておらず、「だが、彼の支配は長く続かなかった」とあっさり片づけている。

エジプト第26王朝紀元前664年 - 紀元前525年

エジプト第26王朝紀元前664年 - 紀元前525年)時代に入った紀元前591年プサメティクPsammetik2世治世下のエジプトがクシュに侵攻。おそらくクシュの支配者アスペルタAspelta)がエジプトに侵攻する準備をしていたためで、エジプトはすぐに撤退した。

 メロエへの遷都

アスペルタの後継者が彼らの首都をナパタよりずっとかなり南のメロエに持っていたのは記録から明らかだ。遷都の正確な日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応してアスペルタの統治期間中だと信じている。

他の歴史家達は王国を南にやったのは、鉄の鉱山の魅力だと信じている。メロエ周辺にはナパタと違って、溶鉱炉を燃やすことが出来る大きな森がある。地域のいたるところにギリシャ人商人が到達したことはまたクシュがもはやナイル沿いの交易に依存しているのではなく、むしろ製品を東の紅海へ輸出し、そしてギリシャ人が植民都市と交易していたことを意味する。
*地中海沿岸部では紀元前8世紀頃~紀元前1世紀頃にかけて、すなわち地中海沿岸部への植民市建設活動活発からヘレニズム諸王朝滅亡までの期間、ギリシャ人の活動が活発化する。ヘレニズム時代に至ってはさらに首長墓にネグロイド系DNAの保有者が埋葬されている事ともあるという(ただし情報源未確認)。 

他の学説によると、クシュナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。

紀元前300年頃、王がナパタの代わりにメロエに埋葬され始めてから、メロエへの遷都はより完璧になった。ある学説はこのことは王がナパタに本拠地を置いた神官たちの権力から離れたことを表しているとする。紀元前1世紀頃の歴史家であるシケリアのディオドロスは、神官達によって自分自身を殺すよう命ぜられたが、伝統を破って神官達を代わりに死刑にさせたエルガメネスErgamenes)という名前のメロエの支配者について物語を語っている。ある歴史家達はエルガメネスアラカマーニArrakkamani)というメロエに埋葬された最初の支配者の事を言っているのだと考えている。しかしながらもっとありそうなことに、エルガメネスの音訳はアラカマニArqamani)だ。彼は、長年統治した後王室の埋葬地をメロエに開いた人物だ。他の学説に首都は常にメロエだったというものもある。

クシュは数世紀続いたが、私達はそれに関してほとんど情報を持っていない。初期のクシュはエジプトのヒエログリフを使っていたのだが、メロエは新しい文字を発達させ、メロエ文字で文章を書き始めた。メロエ文字はいまだに完全な判読はなされていない。国は近隣国との交易や、遺跡や墓を作り続けながら繁栄し続けていたようだ。紀元前23年ローマ帝国のアエギュプトゥス総督、ガイウス・ペトロニウス・ポンティウス・ニグリナスGaius Petronius Pontius Nigrinus)がヌビアの南部エジプトへの攻撃に対してヌビアに侵攻した。侵攻はその地域の北部を略奪しながら、北へ帰還する前紀元前22年ナパタを負かした。

【2018年4月26日 AFP】スーダンメロエMeroe)にあるピラミッドから人骨や副葬品が発掘され、DNA検査などの詳しい調査が進められている。

人骨などは、メロエの第9ピラミッドにある埋葬室3室のうちの1室から発見された。スーダンの首都ハルツームKhartoum)から北に250キロ離れたバグラウィアBagrawiyah)にあるクシュ王国メロエ時代の考古遺跡群は、国連教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)の世界遺産World Heritage)に登録されており、ヌビア人の王の時代のものだと考えられている。

発掘チームを率いる考古学者ムハンマド・スレイマンMahmoud Suleiman)氏は報道陣に対し24日、「第9ピラミッドは、紀元前207~186年に統治していたハルマニKhalmani王のものだ」と説明した。

上エジプトのミイラの統計分析結果

上エジプトのドゥーシュ村カルガ・オアシスの南にある)廃墟から得られたローマ統治時代の700体のミイラを統計分析したデータを挙げてみる。

ミイラとして見つかったのはおよそ2/5、その他は保存状態の悪さから白骨化していたが、ミイラ化の跡は認められる。

人種としては、『ほっそりとした地中海沿岸人タイプで、中背男は1.65m、女は1.55m白い肌。長頭または中頭で、髪はカールしていることが分かった。黒人の特徴はほとんどないが、ヌビアに近いことを考えれば当然である。顔の特徴はナイル流域の住人とほぼ同じと考えて良い。

<参考:ミイラの謎/フランソワーズ・デュナン、ロジェ・リシタンベール著/創元社>

ドゥーシュはナイルから離れた内陸の村で、エジプトの南端に近い場所にあるが、それでもミイラ化などの文化は共通していた。また、700体に及ぶミイラから、その村の住人は黒人ではなく、白人でもなかったことが分かっている。

衰退期

クシュの衰退は物議をかもしている。ネロ帝の治世下で外交使節がメロエを旅している (プリニウス、 N.H. 6.35)。 紀元2世紀後、王室の墓は規模と豪華さに関して縮小し始めていて、そして大きな遺跡の建築は取りやめられた様である。王室のピラミッドの埋葬もまた紀元4世紀中旬には終わった。考古学上の記録は未知の集団あるいはバラナBallana)文化として知られている新しい社会への文化的変化を示している。

このことは西暦350年頃エチオピアアクスムからのエザナ王の侵攻によって王国が破壊されたという伝統的な学説とほとんど一致する。しかしながらエチオピアの文書では彼らがすでに支配していた土地の反乱を鎮圧したことを描写しているが、ヌバNuba)の事を述べているのみで、メロエの支配者については何も言及していない。

したがって多くの歴史家の学説はこれらのヌバはローマが呼ぶところのノバタエNobatae)と同じ住民であるとする。ストラボンはローマ帝国西暦272年に北部ヌビアを引き倒したときかれらはノバタエを権力の空白を埋めるために招待したと報告している。他の重要な要素はビジャー人の祖先であると考えられているビリミー人達である。彼らは砂漠の戦士でローマの領地を脅かしてそのためにもっと防御できるような境界へのローマの撤退を引き起こした。紀元4世紀終盤に彼らは何とかヌビア王国南部のカラダシャー地域のあたりのナイル川流域の一部を支配していた。

6世紀までにかつてメロエによって支配されていた地域に新しい国が作られた。それはほとんど確かにノバタエという国がノバティアNobatia)と言う国に進化したもののようで、そしてまたバラナ文化の影響下にあって、他に二つの新しい国がその地域に興った、すなわちマクリアMakuria)とロディアAlodia)で非常に似ていた。一方で西暦450年頃ヌビア王国の王によってベジャBeja)は砂漠に追放された。これらの新しいヌビア王国はクシュから多くのものを受け継いでいたが、また非常に異なってもいた。彼らは古ヌビア語を話し、コプト語の基になった文字を使っていた。つまりメロエ語とメロエ文字は完全に失われたようである。

メロエに置き換えられたヌビア王国の起源は不確かである。それらは西から来て彼らの文化と言語を入植した人々たちに征服と威圧した遊牧民の侵入者かもしれない。ノバタエは実のところ土着の人たちで、そして数世紀の間メロエの指導者に支配されていた地域であるナパタの現地人であると。そしてノバタエという言葉は直接にナパタという語を指すのだとP.L.シーニーは推測している。

聖書中でのクシュ王国

初めてクシュの名前が出てくるのは『創世記』第2章13節第二の注:川の名前ははギホンといい、クシュ全土をめぐる。」だが、時系列的にはさかのぼっての使用という形で、名前の由来としては第10章6節のハムの息子たちの名前を上げる中に「クシュ」という息子がいて、彼が植民した土地が開祖の名前を取ってクシュと呼ばれるようになったとされる(ただし「クシュの息子」とされる者のうちニムロドは明確にメソポタミア地方の王として扱われている)。

これ以後の地名としては基本的にエジプトの隣国として出てくるが、モーセの妻にクシュ人の女性がいたと民数記』第12章1節にあるが、ここまでの説明でモーセの妻に該当するのがミデヤン人アラビア半島西部にいた民族)のチッポラしかいないことから、こういった地域もクシュの範囲に入っていたという説もある。 

物語の中でのクシュ王国

考古学者オギュスト・マリエット原案を元にジュゼッペ・ヴェルディが作曲したオペラ、アイーダに登場し、エジプトと敵対する国として描かれているエチオピアの、実際のモデルになっているのはクシュ王国である。主人公アイーダの父でエチオピア王のアモナスロは紀元前三世紀のクシュ王アマニスロがモデルとなっている。

そして以降は北上してくるネグロイド遊牧民族との混血が進んでいくのです。所謂「ブラック・ファラオ」については旧モンゴロイド説もありますが(そういえば新王国時代エジプトのファラオ達もアジア系だったと目されている)、いずれにせよ彼らの血統はこの勢力に併合されて行ったのでした。

アフリカ、スーダンナイル川流域のヌビア地方に住む東スーダン語を話す人々の総称。人口は60~100万推定)。ヌビア地方とは、ナイル川のワディ・ハルファの第二急流からハルトゥーム付近の青ナイルと白ナイルの合流点までの一帯をさす。ヌビアの南のコルドファン語を話すヌバとは異なるが、ヌバ丘陵に住むヌビア人の一部はヌバとみなされることがある。

ヌバとヌビアは語源が同一であり、古代エジプト語で「(きん)」を意味する「ヌブ」にさかのぼると思われる。金はアスワンの南の地方で産出され、そのためこの地方は古代エジプト人によってヌビアとよばれ、住民はヌビア人として知られていた。古代からヌビア人は肌の色によって北部の「赤いノバ」と南部の「黒いノバ」に区別されていた。「黒いノバ」は今日のヌバの祖先と考えられ、彼らの社会組織、慣習、信仰などはアフリカ的要素が強い。「赤いノバ」が今日のヌビア人の祖先と考えられる。強いコーカソイド白色人種)の身体的特徴を示しており、起源的にはネグロイド黒色人種)であるが、古代エジプトアラブ人、またトルコなどのアジア人との長い混血の歴史の結果と考えられる。ヌビアには古代からエジプトの影響を受けた国家、続いてキリスト教国家、イスラム国家などが勃興(ぼっこう)した。現在、彼らはバラブラ、ビルケド、ディリングなどいくつかの集団に分かれている。

おもに農耕を行うが、牧畜を重視する集団もある。おもな作物は雑穀のミレットやソルガム、スイカヒョウタン、オクラ、ゴマなど。出自はどの集団でも父系をたどる。居住様式はだいたい夫方居住であるが、結婚後の婚姻奉仕(ブライド・サービス)の時期に、妻方居住をとる集団もある。割礼は男女とも広く行われている。すべての集団で最近まで奴隷制が残されていた。[加藤 泰]