「最初の殉教者」ステファノ(?~35年/36年頃没)に至る話…
ディアドッコイ(後継者)戦争(紀元前323年~紀元前281年)の最終局面では、セレウコス朝シリアこそがプトレオマイオス朝エジプト(紀元前305年~紀元前30年)を除く全てのヘレニズム国家を併呑しかねない勢いだったんです。しかし、まさかのタイミングでまさかの暗殺が成功してしまい…
セレウコス朝シリア(古希Αυτοκρατορία των Σελευκιδών、紀元前312年~紀元前63年)
アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)の一人、セレウコス1世ニカトルがシリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリアに跨る地域に築いた王国。プトレマイオス朝やアンティゴノス朝と共に、いわゆるヘレニズム国家の1つとされる。
セレウコス1世(古希Σέλευκος Α', 紀元前358年~紀元前281年)
ニカトール(古希Νικάτωρ, 勝利王)とも呼ばれたセレウコス朝の開闢者(在位紀元前312年~紀元前281年)
武将時代
マケドニア王国の貴族アンティオコスの息子で、アレクサンドロス大王の家臣として仕え、大王の東方遠征にも参加して活躍する。しかし他の大王の後継者(ディアドコイ)達比べれば当時は影が薄い存在で、アレクサンドロスの生涯に関する史料として最も重要視されるアッリアノス「アレクサンドロス大王東征記」でも、セレウコスが最初に登場するのは、紀元前326年のヒュダスペス河畔の戦いの場面である。当時、彼は重騎兵(ヘタイロイ)の一員で、王の近衛歩兵部隊の指揮官であった。
- 紀元前324年にスーサで行なわれたギリシア人と東方人の集団結婚式では、アレクサンドロスに敗れたソグディアナの実力者スピタメネスの娘アパメーを娶る。このとき王に強いられて東方人の妻を迎えた者たちのほとんどは、やがて相手と離別したが、セレウコスだけは生涯アパメーと連れ添った。ソグディアナ人のアパメーを妻としたことは、後に彼の東方支配に大いに利したとされる。
- アッリアノスによれば、アレクサンドロスがバビロンに帰還してから、彼の死の予兆となる不吉な事件が次々に起こったというが、そのなかのひとつにセレウコスが登場する。それによればアレクサンドロスが船団を率いてバビロン南方の沼沢地を進んでいたときに、彼のかぶっていた帽子とディアデマが風にさらわれて沼の芦に引っかかった。同時代人アリストブロスの記録では、一人の水夫がこのディアデマを王のもとに届けたとされるが、別伝によるとディアデマを王に手渡したのはセレウコスであり、彼が王の権威の象徴を手にしたことは、のちに彼が王位を獲得する前兆であったという。
- その後、アレクサンドロスの死の直前に、王の治癒祈願のためセラピス神殿に参篭した者たちの中にも、セレウコスの名が見える。
紀元前323年に大王が若くして世を去ると、当初は帝国摂政を称したペルディッカスに従い、紀元前321年に反ペルディッカス派を討伐するため共にエジプトへ遠征する。しかし、ナイル川の渡河すらままならないペルディッカスの実力に見切りをつけて同僚の将軍達、ペイトン及びアンティゲネスと共にペルディッカスをナイル川河畔で暗殺。これを受けて大王の重臣のひとりであったアンティゴノスが急遽諸将をシリアに召集し、事態収拾と総督領の再分配のためにトリパラディソスの軍会を開催する。ここでバビロニア太守位を獲得し、名実ともにディアドコイとしての地歩を確立した。
しかし早くも同年のうちに、帝国全軍総司令官となったアンティゴノスと、旧ペルディッカス派とされ追討を宣言されたカッパドキア太守エウメネス等とのあいだで争いが再開される。
紀元前319年に帝国摂政アンティパトロスが死去すると、その後継者争いも絡まって、大王の遺領をめぐるディアドコイの衝突が激化する。セレウコスはおおむねアンティゴノスの側に組して戦いつつ、自らの勢力を拡大していくことになる。
紀元前316年、イラン南部におけるパラエタケネの戦い、およびガビエネの戦いでアンティゴノスはついにエウメネスを敗死させた。しかし、この直後から、セレウコスはアンティゴノスに疎まれるようになり、更に事後の領土再配分をめぐってアンティゴノスと決裂する。
同じくアンティゴノスと決裂したメディア太守ペイトンが滅ぼされると、アンティゴノスの脅威から逃れるために紀元前315年にバビロンを脱出し、エジプトへ奔ってプトレマイオスと結んだ。両者は紀元前312年春にガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破った。
- この劣勢を挽回すべく、アンティゴノス自らがシリアに出陣してくると、セレウコスはその間隙を突き、東方への帰還を果たす。この時のセレウコスの率いる兵力はプトレマイオスから譲り受けた僅かなものだったが、セレウコスの善政を懐かしむバビロンの住民達はこぞってセレウコスに味方し、同年10月1日にセレウコスはバビロンを回復した。一般にこれをもってセレウコス朝の開始とするが、彼が正式に王を称したのは紀元前305年のことであると言われている。(アンティゴノス・デメトリオス父子がこの前年の紀元前306年に王を名乗ったため、セレウコスも対抗して王を称したという。)。その後アンティゴノスから攻撃を受けるが、アンティゴノス派の有力者であったニカノルをティグリス河畔で破ってバビロニアの支配を確立した(バビロニア戦争)。
更にアンティゴノスとセレウコスとが対峙する間に、プトレマイオスが東地中海に勢力を伸ばした。
そのためアンティゴノスはセレウコスの早期撃破を断念し、プトレマイオスとの戦いに注力せざるをえなくなり、一時ディアドコイ戦争が膠着化する展開を迎えたのだった。
- セレウコスは、これを機として紀元前305年に、中央アジア・インド方面に兵を進める。これは当時混沌たる状況にあった帝国の東部を安定させるとともに、高地アジアへの再征によって大王の後継者としての自らの権威を高める目的もあったのであろう。
- しかしセレウコスはインダス流域で、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の初代王、チャンドラグプタ(サンドロコットス)が率いる圧倒的な大軍と遭遇する。このとき両者のあいだに軍事衝突があったかどうかは定かでない。
いずれにせよ、ここで彼はチャンドラグプタと協定を結んだ。この協定でセレウコスはガンダーラやゲドロシアなど東部辺境地域を割譲し、自身の娘をチャンドラグプタの息子ビンドゥサーラ(アミトロカテス)の妃としてマウリヤ朝の後宮に入れるのと引き換えに、チャンドラグプタから500頭もの戦象を獲得した。これは地中海世界に戦象が本格的に姿を現すきっかけとなるとともに、後のイプソスの戦いで彼の勝利に大きな貢献をするものでもあった。
西方に戻ったセレウコスはプトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコス等が結んだ反アンティゴノス同盟に加わった。
紀元前301年春に中部アナトリアのイプソス近郊のシュンナダで、セレウコス・リュシマコス連合軍はアンティゴノス・デメトリオス父子を撃破する(イプソスの戦い)。チャンドラグプタに譲り受けた戦象の活躍もあって彼は圧倒的な勝利をおさめ、アンティゴノスは戦死し、デメトリオスは敗走した。ここにセレウコスはアジアにおける覇権を確立するが、勢力を伸張させたセレウコスは、リュシマコスやプトレマイオスに警戒されることになり、以降、彼等と対立するようになった。
- この戦いでアンティゴノス1世を敗死させたセレウコス1世は、紀元前281年にはリュシマコスの領土を狙ってアナトリア方面に軍を進め、リュディアの旧都サルディス西方のコルペディオンの戦いでリュシマコスを破った。この結果、アレクサンドロス3世の帝国のアジア部分のほぼ全域がセレウコス朝の支配するところとなり、今度は自分が「出過ぎた釘」と目される展開を迎えたのだった。
*ちなみにアンティパトロスの息子カッサンドロスは紀元前297年に浮腫で病死。
セレウコスはイプソスの戦いで敗走したデメトリオスと同盟することで、これに対抗。
イプソスの戦いの結果シリア北部とアナトリアの中部を獲得したセレウコスは、新しい王国の首都とすべく、翌年5月22日にシリアのオロンテス河畔で新たな都市の建設がはじまった。これがアンティオキアであり、セレウコスの父アンティオコスの名にちなむものである。彼はその他にも母の名を冠したラオディケイア、妻の名を取ったアパメイアなど多くの都市を建設した。とくにティグリス河畔に築かれたセレウキアは王国の第二の都としてかつてのバビロンにかわって繁栄を極めることになる。
またシリア、セリキアなどに及ぶ広大な支配圏を72の行政区に再編し、領域内における通貨の統一を進め、長子アンティオコスにデメトリオスの娘で一時自分の寵妃であったストラトニケを与えて副王に任じ、王国東部の支配を委ねた(紀元前294年)。彼はやがてヨーロッパにも版図を拡大し、黒海とアゾフ海、カスピ海を大運河で結ぶ構想を抱いていたともいう。
紀元前288年リュシマコスに敗れてマケドニアの王位を失ったデメトリオスが(この数年前にカッサンドロスの息子達を滅ぼしたデメトリオスはマケドニアで王位を得ていた)、再起を図ってセレウコスのアナトリアの領土を奪おうと攻め込んできたが、これを降した。セレウコスはデメトリオスを虜囚とし、紀元前283年に死ぬまで彼をシリアに監禁した。
紀元前281年、コルペディオンの戦いでセレウコスはリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征を開始するが、途上ヘレスポントス海峡の対岸リュシマキアの陣営で、マケドニア王にならんと野心を抱いた同行者のプトレマイオス・ケラウノス(プトレマイオスの息子)によって暗殺されてしまった。彼の遺骸はシリアのセレウキアに運ばれ、この地の墓廟ニカトレイオンに葬られる。
この戦いにおける勝利により、セレウコスはプトレマイオス1世の支配していたエジプトを除くアレクサンドロス帝国の大部分を勢力下に置いた。また、この前年の紀元前282年にプトレマイオスは死去していたため、リュシマコスを敗死させたセレウコスはディアドコイ第1世代における最後の生き残りとなった。
- かくしてリュシマコスを敗死させたセレウコスはリュシマコス朝の王都リュシマケイア、そしてリュシマコスが勢力圏としていた自身の故郷マケドニアに乗り込もうとした。
- しかし、この戦いから程なくセレウコスはプトレマイオスの子プトレマイオス・ケラウノスによって暗殺されてしまう。
セレウコスを暗殺したプトレマイオス・ケラウノスはそのままマケドニアに渡り、そこに自らの王朝を築かんとしたが、それから程なくしてマケドニアに侵攻してきたガリア人との戦いで戦死するのである。
セレウコス1世の時代、王朝はまさに全盛期だったが、その後は徐々に衰退してゆくこととなる。
リュシマケイア
ケルソネソス半島西岸の都市国家カルディアは、ミレトス人とクラゾメナイ人によって建設された植民市だったが、後にアテナイのミルティアデス(マラトンの戦いの指揮官ミルティアデスの祖先)によって大規模な植民団が入ってアテナイの植民市として発展する。
- 一時期ペルシアの支配下に置かれるものの、ペルシア戦争後にアテナイの名将キモンによって解放され、以後はデロス同盟に加えられた。そしてペロポネソス戦争でアテナイが敗北しデロス同盟が崩壊すると、カルディアはアテナイから独立した都市国家となり、マケドニアと同盟を結ぶことによってアテナイの干渉を退け続けた。
- パウサニアス『ギリシア案内記』によれば、アレクサンドロス大王死後に起きた後継者戦争の際にディアドコイ(後継者)の一人リュシマコスによって破壊され、替わってリュシマケイアという町が作られたという。『後継者戦争史(現存しない)』を書き残したカルディアのヒエロニュモスがリュシマコスを悪く書いているのもそのためであろう、とパウサニアスは推測している。
なおヒエロニュモスは 、岩明均『ヒストリエ(HISTORIĒ, 2003年~)』においてはエウメネスの義兄という設定になっている。
継承(Inheritance)
セレウコス1世が死亡する前、息子のアンティオコス1世(ソテル)は王の称号とともにセレウコス朝の東方領土(上部サトラペイア)の支配を委ねられていた。
- 父セレウコス1世と息子アンティオコス1世による分担統治の実態はよくわかっておらず、文献史料においてοι άνω τόποιと呼ばれる、また現存する唯一の碑文史料においてοι άνω σατραπείαιと呼ばれる上部サトラペイア地域の正確な範囲はわかっていない。
- 古代の歴史学者の記録はユーフラテス川の東の全てがアンティオコス1世の所管で、帝国の中枢部であったバビロニアをも含んでいたとするアッピアノスや、ティグリス川以東、主としてイラン高原地域をその領域として列挙するシケリアのディオドロスなどがある。
- いずれにせよ、セレウコス1世の存命中、アンティオコス1世はメディアやバクトリアで多くの時を費やしていた。
ペルシア帝国がアレクサンドロスによって滅ぼされた後は、ディアドコイの一人セレウコスがシリアと併せて支配しセレウコス朝シリアとなったが、紀元前3世紀には西端にペルガモンが独立してヘレニズム文化が繁栄した。小アジアには他にもポントス、カッパドキアなどヘレニズム諸国が分立した。
ギリシャ人がアナトリアの黒海地方に来住した時代は紀元前の古代ギリシア期まで遡り、その歴史は古い。
- キリスト教が伝えられて以来、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下でキリスト教文化が栄え、13世紀には東ローマ帝国の亡命政権であるトレビゾンド帝国(Empire of Trebizond, Trapezuntine Empire 1204年~1461年)が起こって周辺のムスリム(イスラム教徒)からの自立を保った。
- 15世紀にトレビゾンド帝国がオスマン帝国に滅ぼされると他のギリシャ人居住地域の大部分と同じく異教徒による支配を受けるようになった。ポントスの東方正教徒は20世紀初頭までムスリムやアルメニア正教徒と混じりあって居住していたが、19世紀以降ギリシャ独立に触発されて一部のポントス人はギリシャ民族運動を開始した。
- 第一次世界大戦中、オスマン帝国領の黒海沿岸を占領したロシアがロシア革命により混乱したのをきっかけに、ポントス共和国の建設が目指された。しかし、もともとこの地域でポントス人は人口的に多数派ではなかったため十分な勢力を築くことができず、アンカラのトルコ大国民議会政府(トルコ革命政権)の中央軍 (Central Army)に攻撃されると敗北して、一部の人々はソビエト連邦領に逃れた。
- 一方、同じ時期にアナトリア半島西南部のエーゲ海沿岸地方で戦っていたギリシャとトルコが休戦後に住民交換協定を結んだことによりトルコ領内に残った東方正教徒の人々は、ギリシャ人としてギリシャに追放された。
1965年の時点で、トラブゾン、リゼ、ギュムシュハーネなどの各県に合計4,535人のギリシア語ポントス方言話者が記録されている。
紀元前1世紀にミトリダテス王の時に強大となり、そのころ東地中海に及んできたローマに抵抗し、紀元前88年~紀元前64年に三次にわたるミトリダテス戦争を展開してローマを苦しめた。最終的にはポンペイウスの率いるローマ軍に制圧された。
紀元前281年のセレウコス1世の死を受けて帝国を継承したアンティオコス1世はただちに父の本拠地であったシリアでの反乱に直面した。
- 加えて、アナトリアへのガリア人(ケルト人)の侵攻(前278年~紀元前275年)、さらには南部シリア(コイレ・シリア)をめぐるプトレマイオス朝との戦争(第1次シリア戦争, 紀元前274年~紀元前271年頃)の勃発が重なり、アンティオコス1世の治世初期はこれら西方での諸紛争に忙殺されることとなったのである。
- それでも、アンティオコス1世は父親と同じように自分の息子セレウコスを上部サトラペイアの支配者として共同統治者に任命し、少なくとも彼の治世前半には東方領土はまだセレウコス朝の王権に十分服しており、第1次シリア戦争においては銀や象などがバビロン、さらにはバクトリアからシリアへと送付されている。しかし、このセレウコスは紀元前267年に反逆の嫌疑により処刑され、代わって別の息子アンティオコス(2世)が上部サトラペイアの支配者に任命された。
その後、アンティオコス1世はアナトリア方面におけるペルガモンへの遠征で敗死し、アンティオコス2世が跡を継いだ。
東部領土の喪失
セレウコス朝の国力と関心は西方に集中している間、そのための負担のみを求められた東部領土の有力者達は離反の動きを強めた。
- 紀元前250年頃ディオドトス1世は支配地域のバクトリアを独立させてグレコ・バクトリア王国を建てた。さらにアンドラゴラスが支配地域のパルティアナを独立させてパルティアを建てた。かくして中央アジア方面におけるセレウコス朝の領土は大幅に縮小した。
紀元前4世紀後半にアレクサンドロス大王は、東方遠征でアム川(現在のアムダリア川)流域を征服し、バクトリア、ソグディアナにギリシア人を入植させ、支配を行った。
紀元前308年からは大王の後継者(ディアドコイ)の一人のセレウコスがこの地を平定してヘレニズム三国のひとつであるセレウコス朝シリアの一州とした。
紀元前255年頃、セレウコス朝のギリシア人総督ディオドトスに率いられてバクトリア王国が独立した。都はバクトラにおかれた。
バクトリアは、紀元前255年頃~紀元前139年に現在のアフガニスタンの地域にを支配したギリシア人の支配するヘレニズム諸国の一つとして存続し、一時は北西インドに進出して、インドにギリシア風の文化を伝えるなど、重要な役割を果たした。
さらに紀元前246年に即位したセレウコス2世カリニコスは、プトレマイオス朝との戦争に加え、兄弟であるアンティオコス・ヒエラクスの反乱に直面しセレウコス朝の領土縮小に拍車をかけた。
アンティオコス3世の遠征とローマの介入開始
紀元前223年、アンティオコス3世は即位するとすぐに国内の反乱勢力の多くを鎮圧。セレウコス朝は再び拡大期に入った。
- プトレマイオス朝と戦った第4次シリア戦争(紀元前219年~紀元前217年)ではラフィアの戦い(紀元前217年)で一敗地にまみれたものの、紀元前212年に開始した東方遠征では著しい成功を収めた。
- パルティアへ向かうとアンドラゴラスの領土を征服して同地に王朝を築いていたアルサケス朝のアルサケス2世を破った。
- 続いてバクトリアへ向かい、アリエ川の戦いでバクトリア王エウテュデモス1世の軍勢を破り、更にバクトラを2年間に渡って包囲して有利な講和を結び、セレウコス朝の東方における影響力は飛躍的に増大した。
- さらに東方遠征から戻るとプトレマイオス朝と再戦して勝利(第5次シリア戦争)。
これらの業績によって彼は大王と呼ばれるが、間もなく共和政ローマと対立しローマ・シリア戦争が勃発。マグネシアの戦い(紀元前190年頃)で決戦に及んだが大敗に終わり、アパメイアの和約で領土割譲と膨大な賠償金を課せられるに到り、セレウコス朝の拡大は再び終了した。
アンティオコス3世の息子セレウコス4世フィロパトル、アンティオコス4世エピファネスの治世を通じて、ローマのセレウコス朝に対する影響力は増大を続け反比例してセレウコス朝の権威は失墜。
ここからはもう、坂を転げ落ちる様に…
そしてこの様にセレウコス朝シリアがローマに大敗を喫し始めると、エルサレムのユダヤ人は素早く独立を果たしました(マカバイ戦争)。
同時期(バビロニアのユダヤ人コミュニティを領する)パルティアもセレウコス朝シリアからの離脱して独立を果たします。
バビロニアにおける展開
バビロニアのディアスポラ社会は紀元前2世紀中旬にセレウコス朝からイランとメソポタミアを奪って成立したパルティア帝国の下で繁栄を極めていた。
- 特にローマの支配下に入って以降のパレスチナの惨状が耳に届く様になって以降は、特にローマに抗し得る勢力の一つたるパルティアに強い忠誠心を抱く様になり、パルティア側も期待に答えるべく好意的に扱い、ペルシャ人が認めていた様な自治権を与えた。
- こうしてパルティアのユダヤ人は栄え、生活を次第に農業から都市への商業に切り替えていったのだった。
- パルティアでのユダヤ人の自治組織は元々エギラザークと呼ばれる世襲制の統治者によって治められていた。彼らはダビデに始まるユダヤ王家の子孫であり、紀元前597年に国を逃れ晩年はバビロンで過ごしたヨヤキンの末裔でもあった。バビロンのディアスポラ社会は彼らによって統治される事にある種の満足と誇りを感じており、この組織はパルティアの時代からササン朝ペルシャの時代を経てイスラム統治下でも生き延び、紀元11世紀まで続く事になる。
文化的に多様で政治的に分権化していたパルティア人の帝国がササン朝ペルシャにとって代わったのは226年の事だった。
- ササン朝の新政権はゾロアスター教の布教を試み、文化的多様性を押さえようとしていたのでバビロニアのユダヤ人社会も当初は幾分か迫害を受けたり、自治を喪失したりして「これならローマ帝国の方がマシだ」とさえ考えていたくらいであった。
- しかしシャープール1世(241年〜272年)の時代に入るとそうした政策は弱められ、以前の関係が戻ってきた。すなわちペルシャ帝国の施政者は、ユダヤ人がエグザラークの下で自治活動を行う事を認め、さらには積年の宿敵たるローマ帝国に対抗する為に彼らに助力を願う様になったのである。
ところでバビロニアのユダヤ人はローマ軍団に直接苦しめられる事はなかったが、ユダヤの地のユダヤ人に同胞としての同情と歴史的同一性を強く感じていた。
- 3世紀初頭までにバビロニアのユダヤ人達はエグザラークの管轄を受け入れつつもパレスチナのラビを宗教的指導者として認め。パレスチナの総主教を最高権威と考える様になっていた。その現れの一つが総主教による宗教暦の決定である。宗教行事の日帝の決定は毎年総主教が決定し、ディアスポラのユダヤ人社会に伝えられていた。
バビロニアの地位は、ハドリアヌス帝の代にパレスチナから多くの学者が避難してきた時点から既に高まりはじめていたのだが、バビロニアが真の意味で宗教研究の中心となったのは3世紀に2人の高名なラビが活動した事に拠る。
- その1人はバビロニアの学者シェムエルで、資産に恵まれシャプール1世とも友誼を結んでいた。
- もう1人は元々はパレスチナのラビだったラヴで、総主教ラビ=ユダの弟子筋に当たり、219年にバビロニアへとやってきた。バビロニアのユダヤ人にミシュナーを紹介したのはラヴである。彼はスーラに自分の神学校を開き、シェムエルもナハルディアにそれを開いたが、この町が破壊されるとプムバディダに移り、以降はプムバディタ神学校の魔前で知られる様になる。
これらの神学校は衰退しつつあったパレスティナの神学校の重要なライバルとなり、お互い競争を重ねながら11世紀まで続いた。その過程でバビロンはユダヤ系知識人や宗教活動の中心地の一つと目されていったのである。
とりあえず、以下続報…