そもそもラブストーリーなどで主人公とヒロインの関係の変化が「状態周期」と「その前後におけるパラメーター変化」で表現される様になったのは、ルネサンス期出版革命を契機に天文観測関連知識が一般社会へも浸透し始めた近世以降と想定されよう。まさしく「天動説」が「地動説」へと置き換えられていった時代…
そういやきゃぷつば血液型海外くんはO型のオンパレードだけど男性ってあんまり占いに興味ない方多そう…
— 藤原しばらく日常ツイ貴子 (@TF_poppin) 2019年10月3日
ドラえもんも占いネタほとんどなかったもんな。手相ぐらいか。
確か魚座のスネ夫の方が獅子座ののび太より牡牛座のしずかちゃんと一般的に相性がいいからそこを自慢されて、ドラえも〜ん😭何とかして〜ってネタはなかったな。
— 藤原しばらく日常ツイ貴子 (@TF_poppin) 2019年10月3日
逆に高橋留美子先生のうる星やつらではラムちゃんがホロスコープで牡羊座のあたるくんと虎縞一角獣座の自分との相性を確かめるネタがあったな。
— 藤原しばらく日常ツイ貴子 (@TF_poppin) 2019年10月3日
そういえば夜空の星座の形も地球から見てるからあの形な訳で🌏、
— 藤原しばらく日常ツイ貴子 (@TF_poppin) 2019年10月3日
地球から遠く離れたラムちゃんの星から見たら星座はまた違う形なので、
「虎縞一角獣座」てのは十分あり得るんだよなああ🐏🌟🦄
こんにちは!
— 梢shuquarheinz🤐 (@zyabagn127) 2019年10月3日
初期の頃のお話でありましたね。オチが、あたるも終太郎も中身は同じでラムちゃんはあたるを選びましたねー😁🎶
そうそう面堂くんは外見はきちんと着飾ってるけど内面はあたるくんとあんまり変わんない(シークレットシューズとか😂)ってオチでしたね。
— 藤原しばらく日常ツイ貴子 (@TF_poppin) 2019年10月3日
そして一途なラムちゃん😊
具体的には例えばウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1564年〜1616年)」がその嚆矢と仮冒される「英米N枚羽進行管理」が挙げられる。名前から推察される通り数名の男女を「プロペラの羽」として配し、ピッチ(1回転辺りの推進距離、もちろん「サンボ進んで、二歩下がる」とかもある)毎にスッタモンダを繰り返しつつ人間関係を変化させていくという連続テレビドラマめいた進行管理。
- ただしこのうち「二枚羽構成」の典型に該当しそうな「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet, 初演1595年前後)」のパターンについては「バルコニー進行」の別名があり、むしろオイラーの多面体定理の如く「二人が最終的に全ての障害を突破して結ばれるハッピーエンドから逆算し、それぞれの障害がどう現れては克服されていくか管理する」複式簿記さながらの内容だった。ハリウッド脚本界におけるその横溢を嘆いたジェームズ・M・ケイン(James Mallahan Cain, 1892年〜1977年)が、それをあえて逆手に取った「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice、1934年)」を発表したのが1930年代。その一方で1990年代に入ってなお現役で、シナリオ学校の視聴覚室のコンピューターにインストールされていた専用アプリがシナリオ・チェッカーとして相応に活用されていた。まぁある意味、この観点からのチェックも潜り抜けられない粗悪な脚本を最初期段階で揮(ふるい)落とすには有効だったとも。
*何かもう統計学における誤差関数みたいな役割? 多因子解析の前処理として全因子の相関関係を一応調べておく、みたいな… - シェークスピアはむしろ「異種2組の男女がスッタモンダの末にちゃんとした2組のカップルに収まって御床入りの直前で終わる」英国田園喜劇にインスパイアされた「真夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream,初演1594年~1596年)」「お気に召すまま(As You Like It,初演1600年)」の様な「4枚羽構成」の創始者とされ、そこに既に見受けられた「身分差のもたらす緊張感」がトーマス・ハーディ(Thomas Hardy OM, 1840年〜1928年)「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles, 1891年)」、E.M.フォースター(Edward Morgan Forster OM, 1879年〜1970年)「眺めのいい部屋(A Room With A View, 1908年)」D.H.ローレンス(David Herbert Richards Lawrence, 1885年~1930年)「チャタレイ夫人の恋人(Lady Chatterley's Lover, 1928年)」といった英国文学独特の「女性主人公の心が貴族階層の男と労働階層の男の間を揺れ動く」「三枚羽構成」に継承されたと考えられている。ちなみにこの「男二人と女一人の恋模様」は世界最終戦争で死滅しつつあるオーストラリアを舞台にしたネビル・シュート(Nevil Shute Norway 、1899年~1960年)「渚にて(On the Beach, 1957年)でも採用されたものの「こんな緊迫したドラマでも物語文法優先か」と、あまり評判がよろしくなかった模様。ただ本当に冷戦の緊張が高まった 時期の発表で「不謹慎狩り」もあっただろうし(製作費が安く抑えられるし、安く制作しようとすればする程陳腐なメロドラマ化する)B級模倣作品が量産されてオリジナルの評価まで巻き添えにした側面もあった様であくまで詳細は不明。そもそも当時の映画「麗しのサブリナ(Sabrina, 1954年)」でもオードリー・ヘップバーン演じるヒロインはプレイボーイの弟を捨てて仕事人間の兄を選んでいる。まだまだアメリカは「お堅い」時代だったのである。
*現在ではむしろ著者のネビル・シュートは「英国トンデモ兵器代表」パンジャドラム開発陣の一人としてその名を知られている模様(兵器命名者でもある)。
- その一方でブラム・ストーカー(Abraham "Bram" Stoker、エイブラハム・ストーカー、1847年〜1912年)「ドラキュラ(1897年)」が発表時「ドラキュラ城に拉致された新人弁理士ジョナサン・ハーカーの婚約者「貞女」ウィルヘルミナ・“ミナ”・ハーカーが生き延びて「尻軽女」ルーシー・ウェステンラが助からない」物語文法を「古臭い」と集中非難されたというエピソードもある。強引に「4枚羽構成」に押し込むと「尻軽女」ルーシーの復讐名義で大量に集まってきてドラキュラ伯爵を袋叩きにする「(アメリカ人ら)ヒャッハーな男達」がこれに該当する辺りが微妙だが、もしかしたらここで叩かれた「古臭さ」とは「英国口語分隊の祖」ジェーン・オスティンも叩いた「最初から敵味方がはっきりして居て容赦無く勧善懲悪が遂行されるフレンチ・ゴシック」的物語文法の世界だったかもしれない(おそらくは最近「なろう小説」でトレンドとなってる「悪役令嬢」の大源流でもある)。オリジナルは既に市場から駆逐され尽くし、各国の閉架図書に死蔵されるばかりとなってるが(フランス貴族文化の影響を色濃く受けた)ホレス・ウォルポール(Horace Walpole, 4th Earl of Orford, 1717年〜1797年)「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto, 1764年)」でもヴィクトル・ユーゴー(Victor-Marie Hugo、1802年〜1885年)「レ・ミゼラブル(Les Misérables, 1862年)」でも「善人の娘」と「悪党の娘」の末路格差が著しく、そういうのに苛立ってた層から攻撃されたとも推察される。
- 米国ではエレナ・ポーター(Eleanor Emily Hodgman Porter、1868年〜1920年)「ポリアンナの青春(Pollyanna Grows Up, 1915年)」が「地元で「いいとこ探し」で人気者になったヒロインが都会では若い男女カップルに翻弄されるばかりで失意のあまり帰郷し幼なじみと結婚する」切ない展開に終わり、「当初はメラニーとアシュレーの善女善女カップルを主人公に執筆を開始したが、時代遅れな感じがして、興も乗らないのでその時点までは「当て馬」扱いだった(禁酒法時代の酒の密売人だった前夫をモデルとした悪漢)レッド・バトラーと(淑女に反面教師として参照される軽薄系ヒロイン代表として設定された)スカーレット・オハラの夫婦を主役に据えたら驚くほど筆が進んで国際的大ヒットとなった」マーガレット・ミッチェル(Margaret Munnerlyn Mitchell、1900年~1949年)「風と共に去りぬ(Gone With the Wind, 1936年)」の「四枚羽根構造」コンビの成功が著名。ちなみに当時の日本は大隈重信(1838年〜1922年)が一旦は完全に在野に降りながら地道に不景気の停滞感を吹き飛ばす「豪放磊落な大平民」「既存道徳に囚われず、次々と破天荒な振る舞いと大博打に打って出て成功を収める大悪党」と自分をイメージさせる戦略で返り咲き、第2次大隈内閣(1914年〜1916年)を組閣した上に1922年の葬儀も約30万人の一般市民が参列する事実上の国民葬となった時代と重なる。アメリカでトランプ大統領が選ばれたのも恐らく…
ちなみに「大隈重信の実質上国民葬」の背後には第一次憲政擁護運動(1913年)同様、英国保守党のプリムローズ運動にあやかろうという意図があったと考えられている(当時の報道写真に胸に花をつけた人々が沢山映り込んでいる)。
ディズレーリはプリムローズ(サクラソウ)の花を愛したといわれる。ヴィクトリア女王もディズレーリの葬儀の際にプリムローズを葬儀に送っている。
ディズレーリの二度目の命日である1883年4月19日に行われたディズレーリ像の除幕式がきっかけで、毎年4月19日にプリムローズを飾ったり、着用したりする「プリムローズ・デイ」の習慣がイギリス各地で広まった。この習慣は第一次世界大戦中にディズレーリ像へのプリムローズの飾り付けが一時中止されたことで衰退するまで国民的イベントであり続けた。
この文化を通じてディズレーリは死後、党派を超えた国民的英雄に昇華した。これについて『タイムズ』紙は「支持者だけでなく政治的敵対者からも彼が追慕されるのはわが国の政治闘争が憎悪とは無縁であることを証明している」と論評している。
1883年11月には「ディズレーリの後継者」を自任するランドルフ・チャーチル卿らによって「プリムローズ・リーグ」が結成された。これはディズレーリが目指した「宗教、国制、大英帝国の護持」を目的とする団体だった。この団体は、党派や宗派、性別を超えてメンバーを広く募集した結果、ヴィクトリア朝最大の大衆組織となり、保守党が労働者票を確保する上で大きな礎となり、世紀転換期の保守党長期政権を支えた。
またアンドレ・モロワの『ディズレーリ伝』によるとディズレーリは全ての階級の女性に人気であったという。同書の中で紹介される逸話によると、売春婦たちの晩餐の席上の会話で「グラッドストンとディズレーリ、どちらと結婚したい?」という話題になった時、彼女たちのほとんどがディズレーリと答えたが、一人だけグラッドストンと答えた者がいたという。他のみんながびっくりして理由を問うと、彼女は「まずグラッドストンと結婚して、その後ディズレーリと一緒になるの。グラッドストンがどんな顔をするか見たいから」と答えたという。
ブレイク男爵も「もし婦人参政権が認められたらディズレーリほど婦人票を集められる政治家はいなかっただろう」と評している。そのためディズレーリ自身も保守党の政治家ながら婦人参政権に反対ではなかったという。ただ彼は現実主義者だったので婦人参政権を議会で通すのは現状では無理と理解しており、ジョン・スチュアート・ミルが婦人参政権を求める動議を提出した時にも助力することはなかった。
日本のリベラル層は映画「未来を花束にして(Suffragette, 2015年)」を鑑賞して女性選挙権運動を弾圧した主体が(元来はリベラル陣営側の筈の)英国自由党だった事、および英国労働党が全く登場しない事に何の疑問も抱かなかったのだろうか? 当時の自由党が選挙権拡大運動に反対し、労働党が黙殺を決め込んだのはまさにその結果として選挙権を獲得する人々が英国保守党の熱狂的支持層だったからなのである。そこには人道的配慮どころか冷徹な政治判断があるばかりだった。一方、当時コンドルセ伯爵の衣鉢を継いで女性解放運動や黒人解放運動を支持したジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年)の側も、恐らく「大数の法則から引き出せる人間の可能性を最大限にしたい」以上のビジョンは備えていなかった。何しろまだ「分散(Variance)概念に立脚する多様性・多態性の担保」なる概念自体が発明されてなかった時代だった事を決して忘れてはいけない。
*国際SNS上の関心空間に集う匿名女性アカウントは「未来を花束にして(Suffragette, 2015年)」についてほとんど「長めのいい部屋」ではベートーべンを少々情熱的に弾き過ぎだけで「尻軽女」のレッテルを貼られるヒロインを演じたヘレナ・ボナム・カーターが柔術を教える女性師範として登場してくる場面だけが集中して褒められていた。「いずれにせよ女性は自らの身を守る術くらいマスターしておくべきであり、それがさらなる行動と精神の自由に繋がる」。どういう人達がどういう判断を下した結果そういう結論に至ったかまでは、リアルタイムでその盛り上がりに立ち会った私にすらわからない。
その一方で日本において「大正デモクラシーには戦争が止められなかった」という悔悟が存在する様に、英国にも「プリムローズ運動には第二次ボーア戦争(1899年~1902年)泥沼化による国力疲弊が防げなかった」という悔悟が存在する。
あれ、20世紀後半の代表作というと? とりあえず以下続報…