「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「科学的マルクス主義」から「経済人類学」へ

ロシア革命(1910年)の成功に乗じて彗星の如く現れ、かつ最終的にはほぼ痕跡一つ残す事なく消えていったのが「科学的マルクス主義」と呼ばれるムーブメントだったとも。

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それは一体何だったのか?

  • マルクス主義」と名乗ってはいるものの、それは実際にはフォイエルバッハ神学を継承したマルクスの人間解放論の丁寧な除去から出発した。従ってその延長線上において「労働者が自らの人間性を回復する戦い」を構想し「人々を実践的に導く神話の創造」を提唱したソレルの理論とも直接の関係は持たない。
    *「人々を革命に向かわせる理論」が、革命成功後に封印され弾圧対象となるのはどの時代のどの国でもあった事。

  • むしろ「科学的マルクス主義」の中核はロシア革命当時アメリカで大成功を収めつつあったタイラー主義だったとも目されている。
    *タイラー主義はそれ自体が革新的経営論に過ぎなかったが故に、過去の歴史や伝統、社会にとの連続性への配慮、および経済活動とそれ以外の社会の関係についての関心などが完全に欠落していた。こうした「科学的態度」を国家経営の礎に据えた科学的マルクス主義は、それ故に「科学主義(Scientism)」の弊害に終始苦しめられ続ける事になったのだった。
    科学主義 - Wikipedia

  • 1960年代を過ぎた頃から共産主義圏の人間すら「科学的マルクス主義」の根本的欠陥を認めざるを得なくなっていく。それ以降も共産主義国家は存続し続けるが、それを支える理論は他の諸概念に差し替えられていく。
    *そもそもタイラー主義自体、純粋に高評価が保たれていたのは世界恐慌(1929年)頃までで、それ以降は米国自体が社会民主主義的ハイブリッド経済への推移を始めている。

まさに「科学的マルクス主義」は自らを「資本主義的挽臼」にかけてしまった?

そして「経済人類学」なるジャンルが、上掲の様な流れから派生します。大源流は「方法論的集団主義」に拠るフランス系社会学から派生した文化人類学。ここからさらに「資本本主義化以前の前近代段階においても経済活動は社会に埋没する形で存在しておいる」という構想から分岐したもの。

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*こうしたムーブメントの盛り上がりの背景にはミッシェル・フーコー「監獄の誕生―監視と処罰(Naissance de la prison, Surveiller et punir、1975年)」の発表によってソレルの提唱した「人類を真の革命に導く神話」への関心が「体制を打倒する方法論」から「体制を安定させる方法論」に推移した事もあるかも。とにかく当時の「科学的マルクス主義学者」は 「科学的マルクス主義」の代替物を一刻も早く見つけ出さねばならない状況に追い込まれていたのである。

アイルランドプロテスタント出身の政治家エドマンド・バークは「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France,1790年)」の中でフランス革命指導者の軽率を攻撃し、英国人に慎重さを喚起する目的で「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法(prescriptive Constitution)」の概念を提唱した。

ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーは「大転換 (The Great Transformation1944年)」の中で英国の囲い込み運動を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘している。

私個人は「経済人類学の父」カール・ポランニーの理論を修正主義的立場から取り込んだだけですが、こうして全体像を俯瞰してみると日本においてそれが高評価を得ていく過程にはまた別の背景があった様に見受けられます。

栗本慎一郎「ポランニーの経済史諸概念と唯物史観の認識をめぐって : 人類学的歴史学の方法再論」

経済人類学とは「歴史学文化人類学の多重継承」である?

歴史研究も、研究者の依属するものとは空間論や時間観を事ならせる文化・経済の研究という意味では、異なる文化の解釈者たる文化人類学者との共通底を持たざるを得ない。またそうであるならば、身振りや仕草の意味も対象空間のコスモロジーからのみ理解しなければならない。

そして文書資料を用いる場合も記号としての文字や言語の「記号論」的解釈を媒介としてのみ有効な歴史資料となりうるのであって、即物的・経験的に研究者が自己文化中心主義的に解釈して歴史の記述に用いる事など出来ないなどという事は、何も今更経済人類学のみが改めて指摘することでも何でもなかっただろう。

それは人類学一般、言語学、哲学の進展の中で認められてきた事ではある。そこで当然、生活史や民衆史が民衆の生活を「洗い出す」時、当該共同体の空間論・時間論に浸潤したものでなければ、そこから「民衆の意識」へ到達するなどは不可能という事になる。だから「目を向け直そう」というだけの「新しい」試みなど失敗する事も目に見えている。その意味で新しい掛け声の中で可能性のあるものはどれくらいあるだろうか?

歴史観のない歴史観がよいのではないか」と経済人類学は主張する?

当該共同体のコスモロジーとシンボリズムを理解せんとする事は、全ての予測から自由な学知的研究者たる事を要求する。これまでであれば、そんな事は不可能だと一蹴された。しかしそうした異文化を解釈する方法とトゥールの開発と批判こそ、経済人類学だけでなく、むしろローマン・ヤコブソン以降の文化およびそれに直接・間接に触発された諸傾野の目標としてきたところではなかったのか。そして既にかなりの依拠すべき成果もある事もここで述べるまでもあるまい。

かかる意味で日本の経済史家において、より明確な歴史観を持っていたと自他共に許すマルクス主義歴史学の大部分は、その硬直した下部構造把握の故に、かなり以前から有効性を失っていたといわざるを得ない。「硬直化した」というのは、生産様式や労働・土地制度といった様な所謂「唯物史観」の基軸となる諸概念が、マルクス以降のマルキストによって単に物量的・経験的概念の中に閉じ込められてしまったという事である。マルクス主義が生存しているかどうかという問題が、このところ殊更に問われているけれど、そこにおける問題の要諦は実践運動の問題でもあるが、認識論なのでもある。

どちらかというとデュルケームの甥でもあったマルセル・モースが「人類に伝わる呪術的意味合いを備えた身振りや仕草、および各共同体が伝統的に備えてきたコスモロジーとシンボリズムの総覧」作成を計画していた流れの延長線上にある事を評価する立場。展開的には「マルクス主義歴史学への失望」がフランスにおけるアナール学派の民衆史研究の影響を受けて所謂「網野史観」が誕生する流れと重なります。
*「人類に伝わる呪術的意味合いを備えた身振りや仕草の総覧」…18世紀絶対王政下の有識者の間で盛り上がった百科全書的啓蒙主義を彷彿とさせる。実際「全てを記録に残す者だけが、全体像の俯瞰から新たな知見を得る」みたいな意図の継承を感じざるを得ない。

*そういえばこのサイトが立脚する「(大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移するまで海洋国家として繁栄した)ヴェネツィアこそ欧州近代化の起点」とする歴史観の主要供給源の一つたるウィリアム・H・マクニール「ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797(Venice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1974年)」が発表されたのもこの 時期。

まさしく「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」から「産業至上主義時代(1960年代〜2010年代?)」へと推移していく過程には、こんなパラダイムシフトもあったという話…