「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】ローマ法研究から科学実証主義へ

f:id:ochimusha01:20220220021510p:plain

まず注目すべきは「教皇庁が自らを正当化する根拠としての教学研究の為に設立したボローニャ大学における研究主題の変遷。

しかし実際にはボローニャ大学は創立以前から「ローマ法研究の権威」として国内外に知れ渡っていたのです。それがまさに当時世間の注目を集める最先端の研究分野だったからですね。

1070年頃、イタリアで「学説彙纂」の写本(いわゆるフィレンツェ写本)が再発見されローマ法が見返される契機となる。

  • 東ローマ帝国では、古代ローマ帝国最後の皇帝たるユスティニアヌス帝(在位527年〜 565年)が民法大全を創造。
  • ユスティニアヌス1世は法務長官トリボニアヌスをはじめとする10名に、古代ローマ時代からの自然法および人定法(執政官や法務官の告示、帝政以降の勅法)を編纂させ、完成した「旧勅法彙纂」を529年に公布・施行。ついでトリボニアヌスを長とする委員に法学者の学説を集大成させた。これが533年に公布された「学説彙纂」である。これと同時に、初学者のための簡単な教科書「法学提要」も編纂させ、これまた533年に公布・施行。このあと新しい勅法が公布され、かつ「学説彙纂」や「法学提要」の編纂によって「旧勅法彙纂」を改定する必要が生じたのでトリボニアヌスをして新たに勅法の集成を命じた。これで生まれたのが「勅法彙纂」であり、534年に公布・施行。東ローマ帝国においてはこれが法実務の基礎となった。
  • ウマイヤ朝イスラム兵を撃退した皇帝レオーン3世(在位717年〜741年)は、8世紀前半エクロゲー (Ecloga) という新たな法典を公布。
  • 9世紀には、アルメニア農民から一代で成り上がった皇帝バシレイオス1世(在位867年〜886年)とその息子たる皇帝レオーン6世(在位886年〜912年)がユスティニアヌス法典中の勅法彙纂と学説彙纂を総合的にギリシャ語に翻訳させ、シリカ法典として知られるようになった。ユスティニアヌス法典シリカ法典に記録されたローマ法は、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国による征服の後でさえ、ギリシャ正教の法廷やギリシャにおいては法実務の基礎であり続ける。
    西ヨーロッパでは、ユスティニアヌスの権威はイタリア半島イベリア半島の一部までしか及ばなかった。
  • 東ローマ帝国東ゴート王国を滅ぼし、わずかな間ながらイタリア半島を制圧したことから、ローマ・カトリック教会ユスティニアヌス法典の保存者となった。そして教会法に影響を与える事により細々と生き続ける。
  • その他の地域では、ゲルマン諸王が独自に法典を公布し、多くの事案で、かなり長い間、ゲルマン諸部族には彼ら独自の法が適用され続けた。その一方でローマ市民の末裔には卑属法が適用され続ける。それらの中にも東ローマの法典の先行影響が見て取れなくもないが、中世初期における法実務への影響力はわずかであった。
  • 西ヨーロッパでもユスティニアヌス法典のうち勅法彙纂と法学提要は知られていたが、勅法彙纂は雑多な法の集合にすぎず、法学堤要は初心者向けの内容にすぎなかった(それさえも当時のゲルマンの法律家にとっては難解で十分に理解できるものではなかった)。学説彙纂も何世紀もの間おおむね無視されていたが、それもやはりあまりに大部で理論的に難解だったせいだった。
    十字軍派兵(1096年〜1272年)を契機としてヘレニズム文化がイスラムを通じて伝播してきた為、ようやく学説彙纂の真の価値が再発見される下準備が整う。
  • この頃から古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めたが、そうした研究の中心となったのがボローニャだった。そしてボローニャの法学校は次第にヨーロッパ最初の大学の一つへと発展していく。
  • 中世ローマ法学の祖となったのはイルネリウス(Irnerius)であり、難解な用語を研究し、写本の行間に注釈を書いたり(glossa interlinearis) 、欄外に注釈を書いたり(glossa marginalis)したことから註釈学派と呼ばれた。ボローニャ大学でローマ法を教えられた学生達は、皆ラテン語を共通言語に、後にパリ大学オクスフォード大学ケンブリッジ大学などでローマ法を広め、西欧諸国に共通する法実務の基礎を築いていく。

こうして欧州へのヘレニズム文化の流入が始まった。

そしてイタリア・ルネサンス(14世紀~16世紀)にはボローニャ大学パドヴァ大学の解剖学科や天文学科に「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突する。しかしながらかかる実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトは、長期的には相応の拾捨選択を経た後に伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なる信念を共有するアリストテレス主義(Neo Aristotelianism)が流行します。

ここから科学実証主義(Scientific Positivism)が派生して「大航海時代(15世紀中旬~17世紀中旬)」における航海術や(経済学成立を含む)主権国家間の戦争の遂行技術の発展を下支えしていった訳ですが、残念ながら教会はその前提となる天動説から地動説へのパラダイムシフトに乗り遅れ「欧州文明最先端」の看板を下さざるを得なくなるのです。

image.gif

image.gif

この様に欧州史においては、そもそも実際の歴史の中に「(ローマ教会を正当化する)教学(~10世紀)→(ローマ法を研究する)法学(11世紀~14世紀)→(教学と科学研究の分裂を防ぐ方便としての)アリストテレス主義(14世紀~16世紀)→(教会の護持する地動説と決別して天文学大航海時代の航海能力発展に寄与した)科学実証主義(15世紀中旬~17世紀中旬)/(主権国家の形成と戦争維持に貢献した)経済実証主義(17世紀~18世紀)」なる段階的発展が埋め込まれている様にも見えます。

  • ただしあくまで「見掛け上の展開」であって、実際の欧州における実証主義(すなわち既存知識の外側に新知識が次々と積み上げられていく)展開はもっと入り組んでいる。最初にあったのはイタリア・ルネサンス(14世紀~16世紀)におけるアラビア数字複式簿記の受容、数学の数秘術からの脱却の開始。そして虚数の存在の周知。

    ただしフランス絶対王政が樹立していく過程で重要な役割を果たした14世紀パリ大学ニコル・オレーム(Nicole Oresme または Nicolas d'Oresme、1323年頃~1382年)も中世から近世への橋渡し役の一人として見逃せないものあがある。

  • この流れがオランダ独立戦争の立役者の一人シモン・ステヴィン(Simon Stevin,1548年〜1620年)による少数概念の整備ジョン・ネイピア(John Napier, 1550年~1617年)とヘンリー・ブリッグス(Henry Briggs, 1561年~1630年)の手になる最初の常用対数表(Table of Common Logarithms,1624年)が刊行されてその原理に基づく計算尺歯車式計算機(コンピューターの大源流)が広まり天文学や測量術や航海術の分野の発展が加速。その延長線上に世界地図の記法として著名なメルカトル図法(Mercator Projection)や正距方位図法(Azimuthal Equidistant Projection)が現れる。

    同時代にはイエズス会の軍隊式教育で育てられ、オランダ軍に入隊してその合理主義精神を学んだフランス人数学者ルネ・デカルト(René Descartes、1596年~1650年)が「方法序説(Discours de la méthode, 1637年)」の中で直行座標系の概念を紹介。後世ナポリ出身の「近代歴史哲学の創始者ジャンバッティスタ・ヴィーコが主著「新しい学(Principi di scienza nuova,1725年)」の中で「数学が無から仮説を積み上げた結果である様に、歴史は無から人間の行為事業を積み上げたものである」なる考え方を発表。要するにこれが近代的歴史学の概念の出発点となる。

    その一方で清教徒革命(狭義1642年~1649年、広義1639年の主教戦争から1660年の王政復古ままで)当時の絶え間ざる政権交代が引き起こした混乱の反省からトマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年~1679年)が実証主義概念提唱を開始。最終的には「功利主義の提唱者」としても著名なジェレミ・ベンサム(Jeremy Bentham、1748年~1832年)がそれをまとめて発表するに至る。ちなみにデカルトホッブスガリレオの宗教裁判を目の当たりにして地動説発表を諦め天文学以外の分野に活路を見出した点が共通していたりする。

  • 大陸では、それまでの宗教戦争を終わらせたヴェストファーレン条約(1648年)締結以降、主権国家間の国際協調体制が成立して華やかな宮廷文化が栄えが、むしろ英国人数学者アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton、1642年~1727年)が微積分や万有引力のアイディアをまとめたのはペスト流行に伴うケンブリッジ大学閉鎖期(1665年~1666年)、ドイツ人数学者ゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年~1716年)が並行して微積分の概念を発展させたのが主にパリ出張中に最初の主君だったマインツ選帝侯が亡くなり、カレンベルク侯ヨハン・フリードリヒにより顧問官兼図書館長へと任ぜられハノーファーに移住するまでの失職期間(1668年~1668年)だったりする。

    そしてスコットランドの様な僻地で特に誰からもパトロネージュを受ける事なくジェームズ・グレゴリー(James Gregory,1638年~1675年)がグレゴリー級数を、コリン・マクローリン(Colin Maclaurin,1698~1746年)がテイラー級数の応用例たるマクローリン級数を研究し「ただの計算マシーンに過ぎない」と啓蒙君主に嫌われ「僻地の新興国帝政ロシアに就職先を求めたスイス人数学者レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler,1707年~1783年)がこれにさらに複素数の概念を追加して対数概念と三角関数概念を統合するオイラーの公式(Eulerian Formula)e^{iθ}=cos(θ)+sin(θ)iを完成させるのである。
    image.gif

    当時のスコットランドはフランス絶対王政の影響下、同時期のナポリ同様に啓蒙主義運動(The Scottish Enlightenment1740年代~1790年代)が盛んに振興していたので単なる僻地扱いは失礼かもしれない。しかしこの流れはフランス革命勃発によつて呆気なく潰えてしまう。

    当時のフランスで全盛期を謳歌していたのは重農主義者達だったが、後世経済学の基盤となる効用主義が発見されたのはナポリにおいてだったのである。

  • 当時のこの方面の数学の発展速度は歯痒いほど緩慢に見えるが「数聖ガウス(Johann Carl Friedrich Gauß,1777年~1855年)が複素平面(Complex Plane)概念を本格的に提唱するのはフランス革命(1789年~1795年)に続いたナポレオン戦争(1799年~1815年)の1811年であり(ただし同概念について1797年にCaspar Wesselが書簡で言及しており、Jean-Robert Argandも1806年に同様の手法を用いている)、それなしの研究だったと考えると十分納得がいく。そしてこのガウスが「誤差函数=後世統計学の基礎を為す正規分布」の概念に到達する訳である。

    この展開ではピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)も無視出来ない重要な役割を担ったが、当時の政治の現場を遊泳した「妖怪」の一人であり、敵も多くて一時期その功績が忘れられかけていた。

    英国ではケンブリッジ大学などの学閥や「研究家肌の名族」が重要役割を果たすのに対し、近代フランスにおいては次第に(良い意味でも悪い意味でも)工学校エコール・ポリテクニーク(École polytechnique,通称X,1794年~)が影響力を強めていく。

こうして全体像を俯瞰してみると欧州における近代の準備は到底、単純な「社会段階発展説」に帰せられる様な内容ではない様にも映りますが、それまで「国王と教会の権威の絶対視」を強要されてきたのに、いきなりそれから解放されたばかりの人々がそれについて直接語れる様になるまでには相応の時間を必要としたのでした。