「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】ムガル帝国の滅亡過程

イギリスのインド侵略の歴史は英国東インド会社の歴史そのものとも。

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1600年 イギリスが東インド会社を設立。

1608年 インド亜大陸に最初に商船団を派遣。

  • 派遣先は西北インドの港スーラト。この時、ジャハーンギールから有利な条件で貿易を行う許可を獲得。

1639年 チェンナイの領主からスーラトを買収。マドラスと改称してインド貿易の橋頭堡を築いた。

  • 東インド会社は要塞の建設が認められると同時に、この地における貿易で関税が免除されると同時に、他の会社が貿易行った場合には、イギリス東インド会社にその会社に課せられる関税の半分が支払われるという条件だった。

18世紀後半 この頃までにイギリス勢力はまでにプラッシーの戦いカーナティック戦争南インドベンガル地方に浸透。

  • だが当時即位した皇帝シャー・アーラム2世はイギリスの支配に抵抗した唯一の君主であり、帝権の回復を狙った。

1761年 以降シャー・アーラム2世アワド太守ベンガル太守と結んでイギリスに戦いを挑んだが敗北(ブクサールの戦い、1764年10月23日)。

  • 1765年8月シャー・アーラム2世はアラーハーバード条約を締結。イギリスにベンガルビハールオリッサ三州のディーワーニー収租権)を授けなければならず、これによりこの三州は事実上イギリスの領有するところになった。
  • ディーワーニーとは、皇帝よりディーワーンと呼ばれる各州の財務長官に与えられる職務・権限を意味し、その権限は主に税の徴税・支出を含むものであった。
  • シャー・アーラム2世はその後、イギリスの保護のもとアラーハーバードで年金受給者として暮らした。1765年にデリーの宮廷で混乱が発生するとイギリスにデリー帰還を求めたが、その助力はあてにならなかった。

1769年末以降 マラーター北インド一帯のアフガン勢力を制圧。

  • 1771年2月10日にシンディア家の当主マハーダージー・シンディアがデリーを占領。同年、シャー・アーラム2世はデリー付近に勢力を持つマハーダージー・シンディアと協定を結ぶ。この結果、1772年1月にデリーへの帰還を果たした。
  • シャー・アーラム2世がデリーへ帰還したのち、軍総司令官ミールザー・ナジャフ・ハーンなる人物が台頭。かつてイランを支配したサファヴィー朝の末裔でもあり、1782年4月ミールザー・ナジャフ・ハーンが死ぬまでに、ムガル帝国の権威はパンジャーブサトレジ川からアーグラの南の密林に至る地域、ガンジス川からラージャスターンのジャイプル王国に至るまで回復。
  • ミールザー・ナジャフ・ハーンの死後、その副官4人によるその地位を引き継ごうとして争い、ムガル帝国の国力はふたたび衰退。その後、同年に第一次マラーター戦争終結したことにより、マハーダージー・シンディアもこの争いに介入し、ミールザー・ナジャフ・ハーンの副官4人の争いを制圧し、ムガル帝国の情勢を安定化させた。

  • シャー・アーラム2世マハーダージー・シンディアの功績を認め、1784年12月4日ムガル帝国の摂政と軍総司令官に命じ、マハーダージー・シンディアは事実上北インドの支配者となった。ただし、この地位は莫大な貢納と引き換えに与えられたものである。
  • マハーダージー・シンディアヒンドゥー教徒であるにもかかわらず、帝国の摂政と軍総司令官なったことは、宮廷のイスラーム教徒の怒りと不満を買った。
  • マハーダージー・シンディアは勢力拡大のために軍事活動を続けたが、ラージャスターンのラールソートでラージプート連合軍に敗北を喫する(ラールソートの戦い、1787年7月)。彼はその責任を追及されて権力が弱まり、ヒンドゥー教徒が摂政であることに対して憤慨していたイスラーム教徒がその排斥に集結することとなって、デリーから撤退した。

1788年7月 こうした混乱の隙を突いてローヒラー族の族長グラーム・カーディル・ハーンがデリーを占領、シャー・アーラム2世ら帝室の人々に暴行を加える事件が発生したが、グラーム・カーディルが食糧不足からデリーを離れると、再びマハーダージー・シンディアが舞い戻って、追撃をかけて殺害し、略奪された財宝が返却された。

1790年9月9日 マハーダージー・シンディアは皇帝シャー・アーラム2世に王国宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを皇帝代理人に任じさせ、自分が北インドにおける王国宰相の代理であることに認めさせる。

 

1794年2月12日 マハーダージー・シンディア死亡。

  • それまで常に北インドの有力者に左右され続けながらなんとか存続してきたムガル帝国は大いなる庇護者を失った。
  • マハーダージー・シンディアの死後、親族のダウラト・ラーオ・シンディアが後を継いだが、この頃からシンディア家はしだいに弱体化していった。

1799年 イギリスがマイソール戦争マイソール王国に勝利。以降内紛の多かったマラーター同盟に介入するようになる。

  • 1802年12月 バージー・ラーオ2世がマラーター諸侯に対抗するため、イギリス東インド会社軍事保護条約バセイン条約)を結び領土の一部を割譲し、シンディア家ホールカル家ボーンスレー家といった諸侯との対立が深まった。

  • 1803年8月8日にイギリス東インド会社との間に第二次マラーター戦争が勃発。無論、ムガル帝国もシンディア家の保護下にあったため巻き込まれ、イギリス東インド会社軍がデリー市内でシンディア家の軍と交戦(デリーの戦い、1803年9月11日)。両軍はデリー城下で激しく争ったが、決着は1日でつき、シンディア家は死傷者3,000人を出して敗北し、ムガル帝国はイギリスの保護下に入った。

  • 1805年5月23日ムガル帝国とイギリスとの間に条約が結ばれ、デリー周辺の地域の税収入と月額9万ルピーが支払われることとなった。

1806年11月10日 シャー・アーラム2世が死亡。息子のアクバル2世が帝位を継承。

  • その治世にはムガル帝国はもはやすっかり崩壊し、デリーとその周辺を支配するのみの小勢力となった。その一方でムガル帝国の名目的主権は守られ、帝国は藩王国としては扱われず、帝国の君主も藩王より上の皇帝として扱われた。
  • 当時首都デリーはイギリスの管理下に置かれたことで人口が集積し、商業取引の中心地となり繁栄につつまれた。
  • また、デリーでは年に何度か皇帝主催の大きな祝祭が開かれ、皇帝や皇子、宰相や大臣、イギリス人らが象に乗り、そのあとに楽士や歩兵、騎兵が続き、賑やかな行列が町をねり歩いた。
  • 他方、イギリスは第三次マラーター戦争などで帝国分裂後の地方政権に勝利し続け、従順なものは保護国藩王国)化するなどインド植民地化を急速に進めていく。

1837年9月28日 アクバル2世が帝都デリーで死亡。息子のバハードゥル・シャー2世が新たな皇帝となったが、この時既に62歳であった。

  • 2次にわたるシク戦争(1845年~1849年)で、イギリスはシク教徒のシク王国に勝利。パンジャーブなど北西インドを併合して、全インドの植民地化が完成。

  • 1854年にイギリスのインド総督ダルフージーバハードゥル・シャー2世の死後、その後継者は皇帝ではなく藩王として扱い、ムガル帝国藩王国とすることを決定。ただしこの計画は本国政府の反対で挫折してしまう。

  • 1856年2月にアワド藩王国を理不尽に併合。

  • このようにイギリスは反抗的な勢力をインドから一掃するとともに、ムガル帝国の名目的主権さえ奪おうとした。それに農民、商工業者、シパーヒーインド人の兵士)、宗教関係者、知識人、旧支配層らが憤慨し、鬱積していく。

1857年5月 大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱シパーヒーの乱、第一次インド独立戦争とも)が勃発。

  • このとき、ムガル帝国はまだ、82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世が反乱軍の最高指導者として担ぎだされるほどの威光を保っていた。皇帝自身は反乱にあまり乗り気ではなかったが、彼らに身を委ねるほか選択肢はなかった。
  • デリーの反乱政府では、皇帝バハードゥル・シャー2世を名目上の君主とし、執行機関として兵士6人と一般人4人からなる「行政会議」が結成され(なお、行政会議はヒンドゥームスリムそれぞれ5人ずつからなっていた)、反乱軍総大将をバフト・ハーンに決定。行政会議はザミーンダーリー制を廃止し、実際の土地耕作者にその土地の権利を認めるなど、民主制に似た体制を樹立。
  • しかしこの反乱の勃発自体が突発的であると同時に、統率が全くなされていなかったことから東インド会社の軍隊によって翌年までに鎮圧されてしまう。皇帝も同年9月にデリーが攻撃されると降伏してしまった。
  • その後、皇帝は1858年3月にイギリスによる裁判で有罪とされ、ビルマへと流刑に処されて廃位させられた。これにより、ティムール朝から数えて約500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国332年にわたるインドにおける歴史に幕を閉じたのである。

この反乱により、イギリス政府は、東インド会社によるインド統治の限界を思い知らされた。それでイギリス議会は、1858年8月2日インド統治改善法を可決。東インド会社保有する全ての権限をイギリス国王に委譲させる。250年以上にわたり、活動を展開したイギリス東インド会社の歴史はこの時点で終わりを告げたのだった。

とはいえ東インド会社はその後、1874年まで小さいながらも会社組織は継続。イギリス政府が株主に対し1874年までの配当の支払いを約束していたからで、正式に会社の歴史の幕を下ろしたのは残務整理が終了した1874年1月1日となった。そしてインドでは1877年、ヴィクトリアを皇帝として推戴するイギリス領インド帝国が成立。