残念ながら「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」がより濃厚に根付いた地域においては、かかるサン=シモン主義的処方箋すら救済とは成り得ず、現在の政治的経済的国際協調秩序への合流に先立って、帝政ロシアや東欧諸王朝は共産主義国化、中東諸国はアラブ社会主義の段階を経るしかなかった。あえてこうした動きを総称するなら「社会主義瘡蓋(かさぶた)論」となる。
とはいえ「アラブ社会主義」なる瘡蓋(かさぶた)が剥がれ落ちてその下から現れたのはイスラム原理主義だったし、「世俗化」を志向したオスマン帝国とソビエト連邦の関係に至っては、もっと複雑怪奇だったのです。
19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国において、アブデュルハミト2世の専制政治を打倒し、オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)に基づく憲政の復活を目指して運動した活動家達の総称。その呼称は、この運動の活動家たちが英語でYoung Turks、フランス語で Jeunes Turcsと呼ばれたことに由来している。トルコ語ではGenç TürklerあるいはJöntürklerといい、いずれも同様の意味である。もともと他称で、彼らの多くが亡命していたフランスで、マッツィーニの青年イタリアなどに準えて呼ばれるようになった。
この場合の「トルコ人」は現在の西アジア・ヨーロッパに分布する民族の「トルコ人」とは違い、その中にはアルバニア人やクルド人、アラブ人などの非トルコ系も数多く参加していた。当時のオスマン帝国はヨーロッパではトルコ帝国と呼ばれており、その支配層であるエリートたちは出身のエスニシティにかかわらずトルコ人と漠然と呼称されていたためであるが、こうした事実はオスマン帝国の持つ多民族性の反映でもある。
- その多くはオスマン帝国の近代化改革によって誕生し、アブデュルハミト2世期の国策によって拡充されていた西洋式の近代学校で学んだり、官僚、将校、医師など近代化によって誕生した新しい階層に属した青年達であった。
- 1908年の青年トルコ人革命によってアブデュルハミト2世の専制政治が打倒されてから後には、かつての青年トルコ人の活動家たちがオスマン帝国の政治活動の表舞台で活躍。
- また、1923年にトルコ共和国が成立した後も、初代大統領ケマル・アタテュルクを初めとしてトルコの政治を主導したエリートの多くはかつての青年トルコ人活動家であった。
近年のトルコ近代史研究では、政治史の分野からトルコ革命を挟む帝国末期、共和国初期を一括して「青年トルコ時代」ととらえる見方が提出され、一定の支持を受けているが、「青年トルコ人」あるいは「青年トルコ党」という言葉を青年トルコ人革命の主体となった「統一と進歩委員会」を指す言葉として使うのは、厳密には誤りである。彼らの中には幾つもの政治的グループが存在し、「青年トルコ人」という名称の組織があったわけではなく、また「青年トルコ人」の中の「統一と進歩委員会」が「青年トルコ人」を組織名として称したこともない。
その歴史
1878年2月13日、アブデュルハミト2世はオスマン帝国憲法を停止し、下院を閉鎖した。このような皇帝による専制の復活に対し、憲政を復活させようという動きそのものは憲法の停止直後から存在しており、タンズィマート期に西洋式の教育を受け、かつて立憲制の樹立に奔走した「新オスマン人」と呼ばれた人たちが憲政復活の運動を担っていた。しかし、アブデュルハミト2世によるスパイ網を用いた厳しい取り締まりもあってその動きは低調であり、また国内での活動が難しい以上、パリなどに逃れた亡命者による国外での活動が主とならざるを得ない状況であった。
- 「青年トルコ人」と呼ばれる新しい世代による憲政復活の運動は、1889年にイスタンブールにおいて軍医学校の学生ら4人によって秘密結社「オスマンの統一」が組織されたことに始まる。「オスマンの統一」の創設者であるイブラヒム・テモはアルバニア人で、他の3人もクルド人やチェルケス人といった非トルコ系の人々であった。
「オスマンの統一」には政府の官僚や軍の将校らも参加するようになっていたが、彼らの運動は結成当初からたびたびスパイ網にかかり、抑圧された。国外に逃亡した活動家の一部は、1894年にパリでアフメト・ルザを中心に糾合して「統一と進歩委員会」を名乗り、イスタンブールのグループとは別に海外活動を行うようになった。この他にも、活動家のイスタンブールから地方への追放や逃亡などを契機に、帝国内外の各地に組織が設けられ、運動は拡張を続けていく。しかし、1896年にイスタンブール支部によるクーデター計画の失敗で多数の逮捕者を出し、国内の組織はほとんど壊滅、このため、その後しばらくの間は再び国外の亡命者による運動が主体となっていった。
- しかも国外でもアフメト・ルザの中央集権派とプレンス・サバハッティンの地方分権派をはじめ、様々な路線対立があって運動の統一などはかれない状況で、1900年代初頭には分裂し運動は停滞していた。
1902年、アブデュルハミト2世と対立して国外に逃れていた皇族プレンス・サバハッティンは各地の組織が分裂して活動していた青年トルコ人運動の再統一を提唱し、パリで第一回青年トルコ人会議を開催した。この会議は青年トルコ人の間の様々な意見を集約し、運動の統一を図ることを目指したが、専制打倒後の体制を巡って、オスマン帝国を緩やかな連邦的な政体へ変革することを目指すプレンス・サバハッティンらの分権派と、強力な中央政府によって国家を統一することを目指すアフメト・ルザらの集権派の意見が最後まで一致せずに終わった。
1905年頃から、青年トルコ人運動は元「統一と進歩委員会」参加者の郵便局員タラートがサロニカで結成した「オスマン自由委員会」を中心にオスマン帝国領内のバルカンで再び活性化した。
- 1905年に憲政を導入した日本が日露戦争で勝利したこと、その影響で1906年以降隣国ペルシアのガージャール朝で立憲革命が起こって国王の専制体制が終わりを告げようとしていた事などに刺激されての動きだった。
- 1907年にはオスマン自由委員会はパリのアフメト・ルザのグループと接触して合同し、「統一と進歩委員会」のサロニカ本部となった。
サロニカの組織には、マケドニアに駐留するオスマン帝国陸軍第三軍における士官学校出身の青年将校もまた様々な不満から数多く参加していた。
- 1903年にマケドニアの自治を求める内部マケドニア革命組織によってイリンデン蜂起が起こり、この結果オスマン帝国はベルリン条約に基づくマケドニアでの内政改革の実施を諸外国に対して改めて約束させられたが、まずこのような内政干渉に対する不満があった。
- また自治や独立を目指す勢力との戦いの最前線に配備されているにもかかわらず、給料の遅配や兵器の不足が常態化していることへの不満もあった。
- さらに、アブデュルハミト2世が兵卒からの叩き上げの将校を重用し、士官学校出の将校を冷遇していることも大きな不満となっていた。
- 第3軍団の青年将校たちはこれらの不満や現状への危機感から、オスマン帝国の進歩のためには憲政復活の必要性があるという思いを強め、サロニカの郵便局員タラートが組織した秘密組織「オスマン自由委員会」に参加するようになったのである。
- 「オスマン自由委員会」は第2軍団の所在地であるエディルネにも支部を作り軍内部の支持者を増やす一方、パリの「統一と進歩委員会」のアフメト・ルザのグループと接触し、1907年には名前を改称して統一と進歩委員会のサロニカ本部という位置づけを得た。こうして「統一と進歩委員会」は国内に再び大きな基盤と組織網を有することになり、憲政復活の運動を進めていくこととなる。
こうして国内外の「統一と進歩委員会」の組織力を背景とした彼らは、翌1908年に武装蜂起を起こし、青年トルコ人革命を成功させたのである。
革命の経過
1908年7月3日、統一と進歩委員会のサロニカ本部に属する軍人のアフメト・ニヤーズィやエンヴェル・パシャが率いる部隊がサロニカなどのバルカン半島諸都市で武装蜂起した。
- この時期に蜂起した理由の一つに、同年イギリスのエドワード7世とロシアのニコライ2世が会談した際にマケドニア問題について話し合われたことが挙げられる。この会談の真の目的がオスマン帝国の分割であると考えた青年将校達は、このまま専制が続けば両国主導の帝国解体が起こりうるという危機感を募らせ蜂起に至ったとも。
- また、一説には蜂起計画がアブデュルハミト2世のスパイに察知されたことを知り、処分が下る前に先手を打つべくなし崩し的に蜂起につながったとも。
アブデュルハミト2世は即座に鎮圧を命じ、アナトリアから鎮圧部隊を向かわせたが、鎮圧部隊が反乱部隊側に寝返るという事態が発生する。これによってアブデュルハミト2世は武力による鎮圧を諦め、騒乱の沈静化のために7月23日に一転して反乱部隊の要求をのみ、憲法の復活を宣言した。下院選挙の結果、同年12月17日には下院も再開されて武装蜂起の目的であった憲政の復活が果たされた。この、武装蜂起から憲政の復活までの一連の流れを「青年トルコ人革命」と呼び、これ以降のオスマン帝国の時代を第二次立憲制期と呼ぶ。
集権派と分権派の対立
青年トルコ人革命の結果、オスマン帝国では憲政が復活し、専制政治が否定された。憲政の復活という出来事は国内外で大いに歓迎され、きっかけを作ったニヤーズィとエンヴェルは「英雄」としてもてはやされた。その一方で専制打倒後の新体制をどのようなものにするのかという問題が再浮上してきた。
- もともと「青年トルコ人」の中には専制打倒後の体制を巡る対立があり、プレンス・サバハッティンに代表される地方分権派と、アフメト・ルザに代表される中央集権派が存在していた。1902年には運動方針の統一を図るべくパリで第一回青年トルコ人会議が開催されたが、これが物別れに終わったこともあって、遂に専制を打倒する瞬間まで両者は専制の打倒という一点以外は共通の運動方針を定めることが出来なかった。このような運動方針の違いに個人的な対立も絡まって、両者の間には深い溝が出来ていた。
- 専制打倒後のキャスティング・ボートを握ったサロニカの青年将校達は集権派に属していたが、一方で憲政復活運動全体を見渡せば多数派であったのは分権派の方であって、サロニカの青年将校たちのグループはあくまでも少数派に過ぎないというねじれが生じていた。
革命後の下院選挙においてプレンス・サバハッティンらの分権派は「自由党」を結成したが、政党化した「統一と進歩委員会」のネームバリューに押されて選挙で惨敗し、かつての多数派でありながら新体制から排除されていることを認めざるを得なかった。
3月31日事件
こうして1909年に「3月31日事件」と呼ばれる反革命事件が起きた。これは世俗的な新体制に不満を持つイスタンブールのメドレセ(神学校)の学生や、専制時代の優遇から一転して冷遇されるようになった兵卒からの叩き上げの将校、「青年トルコ人」の中でも分権派を支持する将校、待遇の悪さに不満を持つ一般の兵士などの諸勢力の思惑が入り交じったクーデターであった。騒乱の中で統一と進歩委員会に属する議員の多くがイスタンブールから逃亡し、クーデターは成功したかに見えたが、実態は諸勢力の間の思惑に調整がつかずにイスタンブールが無秩序な騒乱状態に陥っただけであった。
- 【捕捉】ああ、ここでやっとイングランドにおける薔薇戦争(1455年~1485年/1487年)、フランスにおける公益同盟戦争(1465年~1477年)やフロンドの乱(1648年~1653年)のあった段階まで差し掛かるのである。
- 一時はイスタンブールから追い出された格好となった統一と進歩委員会は、第3軍団の軍団長マフムート・シェヴケト・パシャを頼る。シェヴケト・パシャはサロニカからイスタンブールへと進軍し、ムスタファ・ケマルとエンヴェルを参謀に据えた鎮圧部隊はクーデターを鎮圧した。これをオスマン反抗 (1909年)と呼ぶ。
事件へのスルタンの関与については諸説あったが、4月27日、事件への関与を理由にアブデュルハミト2世は退位させられることになった。議会でスルタンの廃位決議が可決されると、後継のスルタンにはアブデュルハミト2世の弟であるメフメト・レシャトがメフメト5世として即位した。
その後の混乱とトルコ独立戦争
「3月31日事件」を鎮圧した統一と進歩委員会ではあったが、中央政界に直接その影響力を及ぼすようになるにはなお時間がかかった。
- 統一と進歩委員会は下院第一党ではあったが、議院内閣制ではなかったことや政治経験のない比較的若い人物が多いこともあって、自派の人物を大宰相とすることが出来なかったのである。
- アブデュルハミト2世を廃位した後も状況は変わらず、やむをえず自派の主張に比較的近い政治家や軍人を大宰相に据えるという方法をとった。しかし、このような間接的に影響力を行使しようとする方法はうまくいかず、政治の混乱を招いた。
- 政治の混乱は、かつての青年トルコ人革命の指導者であったタラート、エンヴェル、ジェマルらがクーデターを起こし、統一と進歩委員会が自派から大宰相を擁立して実権を掌握する1913年まで続いた。
1911年~1912年、伊土(イタリア=トルコ)戦争 。北アフリカのオスマン帝国領獲得のためイタリアがおこした侵略戦争。勝利したイタリアが、トリポリ・キレナイカを獲得した。
第一次世界大戦直前に起きた諸戦争の一つとして扱われる場合が多いが、それらの中でもこの戦争は非常に大きな意味を持った。イタリア王国軍が陸海戦でオスマン帝国軍を圧倒する様子は、オスマン帝国の支配下から脱したばかりのバルカン半島諸国に大きな勇気を与えた。バルカンが結束すればオスマンに勝てるかも知れないという希望は、バルカン同盟(1912年~1913年)の結成と第一次バルカン戦争(1912年~1913年)を促すことになる。
軍事的にも伊土戦争は非常に大きな意味を持つ戦いとなった。1911年10月23日、イタリア陸軍航空隊は飛行船による前線偵察を行わせており、11月1日に捕捉したオスマン軍部隊に爆弾を投下した。これは世界で最初の「空軍による地上攻撃」として記録されている。
ちなみに1911年にはイタリア社会党時代のベニート・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini , 1883年〜1945年)が伊土戦争への反戦運動で政府に拘束され半年間の懲役刑を受けている。
この政治の混乱期にはさまざまな対立軸が生まれ、対外的には親英か親独か、国内的には中央集権か地方分権か、などといった問題が争点となった。これには「統一と進歩委員会」内部のかつて国外で活動していたグループとサロニカなどの国内で活動していたグループの派閥対立や「統一と進歩委員会」に反対する野党の結成などの政治的要素が複雑に絡み合っていた。
- 実権を握ったタラートらは「三頭政治」による統一と進歩委員会政権を組織し、中央集権化政策を推進していったが、その政権運営は反対派にとっては「専制政治への逆行」「革命の反動化」を思わせる強権的なものであった。
- また革命直後の混乱に乗じてオーストリア・ハンガリー帝国がボスニアとヘルツェゴヴィナを併合したほか(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合)、オスマン帝国の宗主権下にあったブルガリア自治公国が独立を宣言し、やはりオスマン帝国宗主権下の自治領であったクレタ島がギリシャへの編入を宣言するなど、青年トルコ人革命はベルリン会議で取り決められたバルカン半島体制完全崩壊の契機ともなった。
東方問題の1つでセルビア人の多く居住するバルカン問題の一部地方の帰属をめぐる国際紛争。1878年ベルリン会議の結果,オスマン帝国領からオーストリアの支配下に移されたが,1908年オーストリアが条約に違反して同地方の併合を強行。これが大セルビア主義をかかげるセルビア人の民族感情を刺激して(オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺される)サラエボ事件(1914年6月28日)を誘発し,第1次大戦の導火線となった。
さらに帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ、第一次世界大戦(1914年~1918年)に参戦して敗北。英仏伊、ギリシャなどの占領下に置かれ、完全に解体された。中でもギリシャは、自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻。また東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。
こうした動きに対してトルコ人ら(旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人)は1919年5月、国土・国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした(トルコ独立戦争)。1920年4月、アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して戦い、1922年9月、現在のトルコ共和国の領土を勝ち取った。
- ケマル=パシャの「パシャ」は、文武の高官に与えられる称号とされる。「アタテュルク」は後の創姓法履行に際して賜った姓で「トルコの父」を意味する。
1923年、アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。翌1924年にはオスマン王家のカリフをイスタンブールから追放し、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国。シャリーアは国法としての地位を喪失した。トルコは大陸法だけでなく、アメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。
ソ連に南接するトルコは、反共の防波堤として西側世界に迎えられ、1952年にはNATOに、また1961年にはOECDに加盟した。NATOとOECD加盟の間は西陣営内で経済戦争が起こっていた(セカンダリー・バンキング)。1956年頃、トルコはユーロバンクの資金調達先となったため外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連がすでに1944年から輸出量を世界でもっとも急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するトルコは、機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。
- ブラジル同様、モノカルチャー経済ゆえの脆弱さ…
国父アタテュルク以来、トルコはイスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ、西洋化に邁進してきた(ヨーロッパ評議会への加盟、死刑制度の廃止、経済市場の開放と機関化)。その最終目標であるEUへの加盟にはクルド問題やキプロス問題、ヨーロッパ諸国の反トルコ・イスラム感情などが障害となっている。
また、キリスト教(正教会)を国教とするアルメニア共和国とも緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派はトルコ東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。ナブッコ・パイプラインの拡張に関わる国際問題となっている。
トルコ独立戦争
1918年11月13日、イスタンブールのハイダルパシャ駅に着いたムスタファ・ケマルは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。
1919年4月、シェヴケト・トゥルグート・パシャ、ジェヴァート・パシャ、ムスタファ・フェヴズィ・パシャは秘密裏に会談を持ち「三人の誓約(Üçler Misâkı) 」と呼ばれる報告書を作って国土防衛のため軍監察官区の創設を決定。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに報告書を提出し、4月30日、国防省とスルタン・メフメト6世は、参謀総長の承諾を受けた決定を承認した。そして、イスタンブールに第1軍監察官としてムスタファ・フェヴズィ・パシャが、コンヤにユルドゥルム軍監察官(後に第2軍監察官)としてメルスィンリ・ジェマル・パシャが、エルズルムに第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてムスタファ・ケマル・パシャが、ルーメリ軍監察官としてヌーレッディン・パシャが派遣され、第13軍団が国防省直属となる計画であった。この計画に従い、ムスタファ・ケマル・パシャは、東部アナトリアに派遣されることになった。
5月15日、ムスタファ・ケマル・パシャは、ユルドゥズ宮殿に伺候し、メフメト6世との最後の会見の後、5月16日、貨客船「バンドゥルマ」で出航し、5月19日、サムスンに上陸した。後にトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。
ムスタファ・ケマルはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。
抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブールを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、アンカラで大国民議会を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国にかわって国家を代表する資格をもつ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。
- ムスタファ・ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。
- また、モスクワ条約を結んで政敵エンヴェル・ベイを支援していたソビエト連邦の同盟国になる一方、政権内に傀儡の公式トルコ共産党をつくり、共産主義者の勢力伸長を警戒した。
- スルタンは占領抵抗運動の呼び掛けに激怒して逮捕を命じたが、ギリシア軍によるエーゲ海沿岸部への侵攻があって多くのトルコ兵の復員取り下げを招き、各地に占領抵抗組織が結成されていった。その一方で連合国から1920年に突きつけられたセーブル条約がトルコ領の大幅縮小や多額の賠償金などの盛り込まれた内容で「スルタンは自らの財産や地位の保全のため承諾した」と考える兵士や民衆が次第にケマル・パシャのもとに集まってきたのだった。
こうしてアンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からギリシャ軍がアンカラに迫ってきたので、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir. İleri!"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。
反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせる事に成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブールのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」の聖俗一致を改めさせ、世俗権力である「スルタン」の地位を廃し、11月19日に大国民議会にアブデュルメジト2世を象徴的なカリフに選出させた後、インドのムスリムから届いた手紙の内容の発表を「政治行為」としてオスマン皇族を全て国外退去させた。
- 当時カリフであったアブデュルメジトがインドのイスラム教の分派であるイスマイル派の首長アガ・カーンが、カリフの威厳を尊重していないムスタファ・ケマルを非難していると発表。ムスタファ・ケマルはこれを逆手に取って「インドの背後にはイギリスがついていて、これは彼らの陰謀だ」と主張。解放戦争の記憶もまだ新しくイギリスにあまりいい印象をもっていなかった国民は、もはやカリフの言うことに耳をかさなかった。
翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任。
生き残った王子が再び王国を再建し、現在のサウジアラビアは英国の後援を受けて1931年に国王がに即位して誕生した第三次サウード王国である。
映画「アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia、1962年)」に描かれたトーマス・エドワード・ロレンスが所属するイギリスのカイロ領事は「預言者ムハマンドの末裔」ハーシム家を支援していたが、ジョン・フィルビーの所属したイギリスのインド総督府はワッハーブ派のサウード家を支援していた。アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードはイギリスとの戦力差をわきまえ反抗する事はなく、1920年にそのイギリスの支援を背景にして中部アラビアのリヤド周辺一帯のナジュドを支配下に置く。そしてハーシム家のフサインがカリフを称してイスラム教指導者層の反発を招いた隙を突いてロレンスが建国に助力したヒジャーズ王国領土を手中に収めた。
- ハーシム家のフサインの三男ファイサル1世が1920年3月8日に即位してシリア・アラブ王国が独立すると、それに呼応したかの様に3月16日、アタテュルク率いるアンカラ政府とソ連が電撃的な単独講和条約となったモスクワ条約を締結。英仏はサン・レモ会議(1920年4月19日 - 4月26日)開催を余儀なくされ、アラブ地域におけるフランス及びイギリスの委任統治範囲が決定され、8月10日に旧連合国とオスマン帝国(イスタンブール政府)とのセーブル条約締結をもってイギリスの援助が途絶えた。
- そもそもそれ以前から1920年7月28日のファイサル1世のシリア・アラブ王国からの追放、1922年から1924年にかけてのイギリス=イラク条約への反対、1922年10月11日のムダニヤ休戦協定締結によりオスマン帝国の脅威が消滅したことなどで、ハーシム家の利用価値は英仏において大幅に低下していたのである。
- 1924年3月3日にオスマン家のアブデュルメジト2世がアタテュルク率いるアンカラ政府によってカリフ位を廃位させられると、ハーシム家のフサインは、起死回生を賭してその2日後にイスラーム世界における権威を求めてカリフ即位を宣言した。しかし、殆どのイスラム世界に広く受け入れられず、オスマン帝国最後の皇帝メフメト6世が支持を表明したぐらいで、カリフ位を理由として重税を課したためにヒジャーズ内部からも広範な反対を招くことになり、在地勢力からも見捨てられた。
その後ワッハーブ派サウード家によるナジュド及びヒジャーズ王国 (1926年〜1932年)を経て、メッカと「ヒジュラ(聖遷)が生んだ光の街」メディナという二大観光拠点を押さえたサウジアラビア (「サウード家によるアラビアの王国」の意味)が1932年に成立する事になったのだった。その一方でハーシム家は十字軍国家再来ともいうべきアレッポ国と、当時ですら手中に収められなかったダマスカス獲得に燃えるフランスにシリアから追い出されつつ、英国後援下イラク国王とヨルダン国王の座を獲得する。
大統領時代
1924年、ムスタファ・ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。
- 当初、ムスタファ・ケマルは穏健野党の育成をはかる試みも行っていたが、1925年前後、野党進歩共和党による改革への抵抗、東アナトリアにおける宗教指導者シェイフ・サイードの反乱など、反ムスタファ・ケマル改革の動きが起こったことを受けて方針を改め、1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。
- 翌日、ムスタファ・ケマルは議会で6時間にも及ぶ大演説を行い、その最後に「私がトルコだ!」と言い放った。これにより、ムスタファ・ケマルは自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立、改革への絶対的な主導権を確立した。
- 正確な演説の内容は以下。「私は数えきれないほど戦場で死と直面したし、必要とあらば明日にでも再び命を戦場でさらすつもりでいる。だが、それはすべて、祖国を強力な独立国家にしたいがためである。
私は、私の生きがいである唯一のもの、すなわちトルコ国民を、進歩に向かって導かねばならない。我が国民が進歩への道をしっかりと、そして方向を間違えることなく歩めるようになった時、私はすべての権力を手放すつもりでいる。だが、我が国民の歩みはまだ始まった
ばかりなのだ。すなわち、私を殺すことはトルコ国民の未来を奪うことなのだ。もっとはっきり言おう!現在の時点においては、私がトルコだ!」これ以降、独裁的な指導力を握ったムスタファ・ケマルは、大胆な欧化政策を断行した。
1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。
文化面では、1931年、私財を投じてトルコ歴史協会、その後トルコ言語協会をアンカラに設立。
経済面では世界恐慌後、ソ連のヨシフ・スターリンが1932年に巨額の融資と経済顧問団を派遣、1934年5月からトルコも五カ年計画を導入する。
- また、男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやフェズ は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され(簡潔を基本としながら内容・形式共によく完備し、世界の民法典中の最高傑作と評されている)スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。
- 1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
1938年11月10日、イスタンブール滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。
ケマル・アタテュルクは死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。
- 彼の死後にはケマル・アタテュルクの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。
ケマル・アタテュルクの死後、大統領に就任したイスメト・イノニュは強引さとカリスマ性こそアタテュルクに劣るものの、第二次世界大戦を終戦直前まで中立を保ちトルコを戦火に巻き込まずに乗り切った手腕と功績が高く評価されている。しかし国内の改革を並行して推し進めることは叶わず、内政面の改革と再発展は大戦後まで持ち越された。
その後
アンティオキアは第一次世界大戦後フランス委任統治領シリアに編入されたが、トルコ系住民がシリアからの分離運動を起こし1939年にトルコ共和国に編入された。
ケマル主義
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュも他国の独裁政権と比較すれば、政変なく政権を守り通すことに成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」としてその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。
- ムスタファ・ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義(ケマリズム)」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ムスタファ・ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。
- もっとも、ケマル主義の信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマル主義の名のもとに多様な主義主張が語られている。
彼ら「ケマル主義」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部である軍部の上層部は「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。1960年と1980年の二度に渡る軍部の武力政変も政治家のケマル主義からの逸脱是正、あるいはケマル主義の擁護を名目として実行されている。
どちらかというと独裁者というより「法実証主義に基づいて十分な火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制の徴税で養う」主権国家樹立の際に精神的支柱となる絶対君主、すなわちフランスにおける太陽王ルイ14世(Roi-Soleil, 在位1643年~1715年)や、ドイツにおけるフィードリッヒ大王(Friedrich der Große , 在位:1740年~1786年)の様な歴史的立場にある人に思える。興味深いのはソ連との関係…
- 2020年3月16日、アタテュルク率いるアンカラ政府とソ連が電撃的な単独講和条約となったモスクワ条約を締結。政敵エンヴェル・ベイを支援していたソビエト連邦の同盟国となった。英仏はサン・レモ会議(1920年4月19日 - 4月26日)開催を余儀なくされ、アラブ地域におけるフランス及びイギリスの委任統治範囲が決定され、8月10日に旧連合国とオスマン帝国(イスタンブール政府)とセーブル条約を締結。トルコ領の大幅な縮小や多額の賠償金などの内容を盛り込んだこの条約をスルタンは自らの財産や地位の保全のため承諾したと考えられ、臣民の心証を著しく損ねた。
- 世界恐慌後の1932年にソ連のヨシフ・スターリンから巨額の融資と経済顧問団派遣を受け、1934年5月から五カ年計画を導入。
何処でこんな政治手腕を身に着けたのだろう? 一方、第二次世界大戦後はユーロバンクの資金調達先となった為に外貨準備を著しく減らし、これを輸出で補うべく単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたが、ソ連がすでに1944年から輸出量を世界でもっとも急ピッチに増産しており、1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争する羽目に陥った。そして機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかったのである。
*ただしこういう側面もポテンシャル自体は決して低くない。
ちなみにモノカルチャー経済志向はブラジルの経済発展の阻害要因ともなっている(それからの脱却を果たしたメキシコとしばしば対比される)。