イスラム世界を代表する14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーン(Ibn Khaldūn、1332年〜1406年)が「歴史序説(al‐Muqaddima)」や「イバルの書(Kitāb al‐‘ibar)」の中で、それまでの世界史を「歴史を動かす原動力=連帯意識の強い周辺集団(ユーラシア大陸の大半の地域では主に遊牧民族)による連帯意識の弱い中央集団の征服の繰り返し」とする王朝史に要約した時期には、既に「(十分な火力と機動量を有する常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって養う)主権国家(Civitas Sui Iuris)体制」への移行が始まっていたのです。
主権国家体制(Civitas Sui Iuris) - Wikipedia
16世紀から18世紀にかけての欧州において形成された国家のあり方と世界秩序。中世における普遍的世界の崩壊の産物。各国の個別性および領域支配を前提とし、それぞれがローマ教皇や神聖ローマ皇帝ではなく、君主ないし共和国の主権が最高で絶対な存在とされた。
英仏間で戦われた百年戦争およびドイツを舞台に繰り広げられた三十年戦争を通じて形成され、両戦争によって近代国家のかたちが整えられていった。これが1、2箇所で出現するのではなく、諸国家のシステムとしてヨーロッパ全域で成立した点が重要である。
18世紀 - 19世紀を通じて世界的に拡大し、現代も基本的には踏襲されている世界政治システムである。
そもそもこうした歴史に先行する形で、火器の発展があったのです。
①1250年代にはモンゴル帝国のイラン侵攻に際して中国人技術者が操作する投石機で、火薬弾が投げられた記録がある。
- 日本人が初めて火薬を用いた兵器に遭遇したのは13世紀後半の元寇において。当時の様子を描いた『蒙古襲来絵詞』写本には、元軍が用いた「てつはう」と呼ばれる兵器が描かれているが、この「てつはう」の文字(とモンゴル兵)は江戸時代の加筆とする説もある。
②1280年には、地中海東部のマルクス・グラエクスとシリアのハッサン・アッ・ラムマが中国の火器、火槍について記述。この時代までにイスラム文明圏のシリア、マムルーク朝も火薬に関する豊富な情報を有する様になっていた。
③モンゴル帝国の遺跡から1288年当時の青銅製の銃身が発掘されており、この時期から既に火槍から銃への進化が始まっていた事を推測させる。スウェーデンにおいて1326年当時の壷型の銃が発見されているが、これはモンゴル帝国に支配されていた南ロシアから伝わった銃が変形したものと考えられている。同1326年にはフィレンツェで大砲が開発され、以後、ヨーロッパでは大砲が発達。その一方でイベリア半島では1330年代までに銃だけでなく大砲も使用される様になっていた。
④一方、15世紀ドイツでは手銃の分野で火種(火縄など)を手で押し付けるタッチホール式から火縄式への進化が起こっている。
- ポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団の間で「タンネンベルクの戦い/グルンヴァルドの会戦(1410年)」が遂行された時点ではあくまで騎兵対騎兵の戦いだった。主にリプカ・タタール人で構成されるリトアニア軽騎兵を囮としてドイツ重装騎兵隊を囮に沼沢地に誘い込んで分断しポーランド重騎兵で各個撃破したのである。
- ところがフス戦争(1419年〜1439年)最中の1420年代初頭よりフス派側が手砲(Hand Cannon)と装甲馬車(Tabor、Wagenburg)を組み合わせた戦術を用いる様になって当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破る。チェコ人傭兵ヤン・ジシュカ(タンネンベルクの戦いにも義勇兵として参戦)が編成したフス派軍隊は貴族と庶民が団結した国民軍の原型というべき存在で、国王の私兵に過ぎないヨーロッパ諸国軍に対して無敵を誇った。さらには1431年に行われた対フス派十字軍ではポーランド王国から6000人のフス派義勇兵が駆け付けてボヘミアのフス派を支援したし,1431年から1435年にかけて行われた「ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争(Polish–Teutonic War)」では、フス派を中心にボヘミアから7000人の義勇兵がやってきてポーランド王国に味方している。
*ただし残念ながらこうした歴史上の画期そのものはフス派側の内部分裂によって潰えてしまうのである。⑤百年戦争(1337年/1339年〜1453年)もその末期には次第に火砲が重要な役割を果たしている。
- (ある意味英国常備軍の原型となる)乗馬長弓隊を主戦力とするイングランド軍に対し、フランス軍の最初の反撃はジャンヌ・ダルク率いる(領主が留守の所領を狙う)攻城砲隊とリッシモンド元帥率いるブルターニュ隊(フランス常備軍の原型)が担ったのである。
ただし当時の記録は(次第に将校供給改装へと変貌していく)貴族社会への配慮から、それを「常備軍の勝利」とはしていない。
- 特にフランス軍によるボルドー占領に続いてフランス王国・ブルターニュ公国連合軍とイングランド王国軍の間で遂行されて百年戦争の掉尾を飾ったカスティヨンの戦い(Bataille de Castillon,1453年)は有名である。この時フランス側は7000人〜10000人の兵士に陣地を塹壕と矢来で囲ませ300門の砲(おそらく石弓矢、臼砲、小火器を含む)を矢来の隙間に並べてイングランド騎兵隊を迎撃。たまたま司令官のシュルーズベリーの馬を殺し乗り手をその下敷きにして重傷を負わせる戦果が上がったものの、決定的打撃を与えるには到らず、その役割はブルターニュ公ピエール2世が派遣した騎兵隊の右側面からの攻撃が果たさざるを得なかった。また火砲はノルマンディーとボルドーからのイングランド軍撤退の支援にも役立ったとされている。
- 同時期、オスマン帝国のコンスタンティノポリス包囲戦(1453年)において有名なウルバン砲を筆頭に口径の大きな重砲が城壁破壊に際して決定的役割を果たしている。
- これを開発者したのは15世紀のマジャール人(ハンガリー人)ウルバン(トルコ語: Urban ハンガリー語: Orbán 1453年没)。当初東ローマ帝国側に売り込んだが、拒絶された(しかも牢獄に送られた)ためにオスマン帝国に与したと言われている。ちなみにこうした射石砲の爆発事故は当時珍しくなく、製作者のウルバンや助手達もそれに巻き込まれて死亡している。
⑥15世紀後半には、石の弾丸に替わる鉄製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬匹で運搬可能な強力な攻城砲も出現。それまでの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であったので(たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったウルバン砲は戦場から200km強離れた首都エディルネで鋳造されている)時代の画期となった。
- 史上最初に火砲の集中投入が決定打となったのは薔薇戦争の一環として行われたテュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury、1471年)かもしれない。ただしランカスター朝側が王弟グロスター公リチャード(後の国王リチャード3世)率いるヨーク朝側砲兵隊によって壊滅的打撃を受けたのは、むしろランカスター朝側指揮官のサマセット公が無能過ぎたせいとされる。
- これらの先例を研究してファルコン砲(車輪付きの砲身の長い砲)を開発し、近代軍の先駆けとなる騎兵と手銃兵と弓兵と槍兵を連動して動かす戦術を採用したブルゴーニュ公シャルル突進公(在位1467年〜1477年)である。しかしその軍隊規模は数万人単位での密集突撃を武器とするスイス槍兵を相手取るにはあまりにも小規模すぎた。頼りの野砲も毎射撃ごとに一人か二人殺すのが精一杯であり、1476年にはフランス国王に雇われたスイス傭兵にグランソン、ムルテンで破られ、さらにロレーヌ公ルネ2世の雇ったスイス傭兵と交戦したナンシーの戦いの渦中であえなく戦死。スイス傭兵達は偵察能力にも秀でており、火線が最も集中する方角からの突撃を避けたのが勝因となった。
- 1494年にナポリの王位継承権を争ってフランス王シャルル8世がイタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を牽引していた。この大砲が旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまう為に、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした新たな築城術が発明される。
*近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、1840年代までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われ続ける。火縄銃に関する最古の記録はオーストリア写本「Codex Vindobana 3069(1411年)」に記されたZ字型のサーペンタインロック式機構の記載である。また1430年代に描かれたサーペンタインの金具の図も現存する。マッチロック式に分類されるこれらの小火器の発射構造は、バネ仕掛けに火縄を挟んで保持しておき、発射時には火縄に火をつけ、引き金を引いてバネ仕掛けを作動させ、発射薬に点火するというものであった。15世紀半ばにはシア・ロック式(sear lock)とスナッピング式が発明され、ヨーロッパではシア・ロック式が主流になり、日本にはスナッピング式が伝わりさらに独自に改良されていく事になる。火縄銃の最古の分解図(1475年)はシア・ロック式だった。
火縄銃(Matchlock gun / Arquebus) - Wikipedia
- 火縄銃(Matchlock gun / Arquebus)の呼称ハックバス(独)アーキバス(英)アルケブス(西)は、はじめタッチホール式に反動を吸収するフックをつけたものを指したが後に火縄銃の意味になる。
- またマスケットという呼称が、初出の1499年には重量級の火縄銃を指したが後にありとあらゆる銃に使われる様になっていく。
こうした時代を背景に13世紀中旬には早くもレコンキスタ(Reconquista、イベリア半島におけるスペインやポルトガルの国土統一運動)を完了してしまった「十字軍国家」ポルトガル王国の騎士修道会が(リストラを恐れ、新たな戦略的展開を求め)アフリカ十字軍(1415年〜1440年)を敢行。ヴァスコ・ダ・ガマ(1469年〜1524年)率いる4隻の船(100t〜120tクラスのカラベル船3隻、小型輸送船1隻、乗組員170人)の派遣と、その艦隊のインド到達(1498年)を契機とする「大航海時代(15世紀中旬〜17世紀中旬)」が始まってしまう。
ポルトガルの繁栄は1530年代を境にして衰退し始める。それは、一方で広い海域で制海権を維持することができず、他方でポルトガル王室の交易独占が最初から名実を伴っていなかったからであった。そもそもインド洋の制海権を掌握する為に毎年インドに派遣する艦隊の艤装費用やインド洋からシナ海に張り巡らした商館や要塞を維持する費用は莫大なものであり、これを支え続けるだけの経済基盤をポルトガル王国は備えていなかったのだった。
①ポルトガルは、毎年6-7隻の艦隊をインド洋に送り込んだが、そうした編成による派遣は1538年以後なくなり、それに伴って制海権の維持が困難となった。
*かかる状況下現地政府たるインディア州が導入したのが、カルタス(航海許可証)と関税である。それらは、ポルトガルによる航行保護を受け入れ、ポルトガルによる課税を受け入れうることを条件として、現地の商人にも交易を認めることにしたものであり、インディア州にとって重要な収入源となったが16世紀半ばからポルトガル王室の海上交易権が譲渡される様になり、ポルトガル王室独占はますます有名無実なものとなって、インディア州からの収入も激減してしまう。②またポルトガルのインド洋の制海権の掌握には、最初からほころびがあった。アデンを攻略できなかったため、紅海交易ルートを閉鎖に追い込めなかったのである。そのルートを支配するマムルーク朝(1250年〜1517年)などに対抗するため、イランのサファヴィー朝(1501年〜1736年)のホルムズ経由のペルシア湾交易ルートを黙認さえしていた。1538年、オスマン帝国がアデンを征服すると、イスラーム教徒の紅海交易ルートは再開され、香辛料は地中海に再び流れ込むようになり、ポルトガルの独占が崩れる。
*その結果、1550年代、インド洋から西に向かう香辛料の海上交易のうち、ポルトガル人たちが支配していたシェアはせいぜい4分の1程度になり、アラブ半島経由の交易量は喜望峰経由に匹敵するまでに回復したとされる。③祖国防衛の観点からジェノヴァの主要投資先が1520年代から(火縄銃と堅牢な方陣で武装した)強力な常備軍を有するスペインに移行したのも影響皆無とはいえない。1528年にサン・ジョルジョ銀行が神聖ローマ皇帝カール5世に融資を行ったのを筆頭にスペインに遠征費用を融資する様になったのである。
かくしてポルトガルの香辛料交易が衰微し始めるなか、1556年にドン・セバスティアン(在位1557年〜1578年)が即位すると、ポルトガルの王室へのスペインの影響力が強まる。彼は、1578年無謀なモロッコ再征服をこころみて大敗、本人も戦死し、国の財政は大きく傾く。その後継として、ジョアン3世の孫に当たるスペイン王のフェリペ2世(在位1556年〜1598年)が、1580年ポルトガル国王(在位1580年〜1598年)を兼任することになる。かくして1580年から1640年にかけて「スペインによるポルトガル併合」あるいは「同君連合時代」が続く事になった。
こうした国際的展開を背景に、日本史における「種子島伝来(1543年)」なる歴史ベントは発生したのです。
火縄銃(Matchlock gun / Arquebus) - Wikipedia
1498年にインドへ到達したポルトガルは、1510年ゴア、1511年マラカといった胡椒の産地・集散地を攻略して要塞化する。1522年には、丁字や肉豆蒄の産地であるマルク(モルッカ)諸島のテルナテ島に進出。アデンの攻略には失敗するものの、1503年にはソコトラ島に要塞を構え、1515年にはホルムズを制圧。さらに東進して早くも1513年に中国に接触し、その30年後日本に到る。こうした一連の流れの中で香辛料などアジアの産品は紅海やペルシア湾―地中海経由ではなく、喜望峰―大西洋経由で輸入されるようになり、その担い手はイスラーム教徒やヴェネツィア人からポルトガル商人に取って替わったのだった。
*こうしたポルトガルのアジア進出は、海のシルクロードにある交易拠点を武力支配して制海権を握り、海のシルクロードにおける交易路を大西洋に引き込み、ヨーロッパ向けアジア交易を独占しようとしたものであった。ヴェネツィアがヨーロッパの香辛料交易を支配していた15世紀末には胡椒の価格が高騰して、1501には1キンタル(約50キログラム)が131ドゥカド(クルザド)まで跳ね上がっていたが、リスボンに胡椒が海路持ち込まれると、1503年40クルザド、20クルザドに暴落する。それでも、ポルトガル人は現地で1キンタルの胡椒を3クルザドで買い入れていたので、十分採算がとれたのである(16-17世紀の通貨換算率は、およそ、 クルサド、ドゥカド、スクードは同額、1タエル=1-2クルザド、日本の銀1貫=100ドゥカドとされる。)。①遅くとも16世紀初頭までには、複雑な発射機構の無い鉄砲自体は伝わっていた事が文献に残っている。伝来後に日本において引き金にバネを用いる改良がおこなわれ、それまでにはなかった瞬発式火縄銃となり命中率が向上した。
- 従来、『鉄炮記』の記述により日本への鉄砲伝来は1543年(天文12年)の種子島より始まるとされてきたが、近年では、東南アジアに広まっていた火器が1543年(天文12年)以前に倭寇勢力により日本の複数の地域に持ち込まれたとする説が有力である(宇田川説)。
②鉄砲伝来以降、日本では近江の国友、同じく日野、紀州の根来、和泉の堺などが鉄砲の主要生産地として栄え、多くの鉄砲鍛冶が軒を連ねた。根来のみは織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの影響で桃山期以降衰退したが、国友・日野・堺はその後も鉄砲の生産地として栄え、高い技術力を誇った。また城下町において、鉄砲足軽や鉄砲鍛冶が集中して居住した場所は「鉄砲町」と呼ばれ、現代でも地名に残っている。五葉山のような火縄の原料となるヒノキが豊富な山は藩直轄の「御用山」として保護されるようになった。
- 鉄砲が伝来した当初は、高価な武器であったため武士が用いたが、普及率が高まるにつれ足軽の主要武器の一つになっていったという説がある。
- 戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国となる。
- 文禄・慶長の役では日本軍は火縄銃の集団使用で明軍を手こずらせた。明軍は日本軍の瞬発式火縄銃は命中率が高く飛ぶ鳥を落とすくらいだとして特に鳥銃と呼んで恐れた。のち趙士禎が『神器譜』(1598年(慶長3年)から1603年(慶長8年)以降にかけて成立)を執筆する。
また、築城技術でも火縄銃の性能を活かした横矢掛かり(これ自体はすでに存在していた)などが発達し、赤穂城などに応用された。
そう、こうした時代にはまだまだ世界史は欧州中心に展開していませんでした…