「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「実証主義的(反形而上学的)神秘主義」は何処からくるのか?

まずは確率論的にしかアプローチ出来ない(出目mのサイコロをn回振った結果としてしか定義不可能な)「適者生存過程そのもの」や「微笑変化の累積が全体構造の再定義につながる進化論的過程」なる諸概念をある種の極限、すなわち形而上学概念(Metaphysical Concept)と置きます。要するに「ブラックボックス」すなわち代数的処理の適用例外対象(Parts without algebraically handling)として抽出し除外してしまう訳ですね。

  • (確率論的にしかアプローチ出来ない)進化論的生存バイアス(Survival Bias of Darwinism)」…興味深い事にチャールズ・ダーウィン種の起源(On the Origin of Species,1859年)」が刊行された時点で人類はまだまだ「中心からの分散で分布全体を捉える統計学パラダイムに到達しておらず、そのせいで「地球が球面であるという事実がパラダイム化する以前の世界地図」的な「(後世目線からすると) 奇怪極まりない思考様式」が次々と量産される運びに。

    すべての生物に微小変異があり,自然選択の結果そのうち比較的生存に有利な変異をもつ個体を中心とする抽出が遂行されて子孫を残し,世代を重ねるうち有利な変異の集積が新しい種を確立させるという考え方。ハーバード・スペンサーの社会進化論はこの概念を人間社会に適用し「適者生存(Survical of the Fittest=環境に適した者が生き残る)」理論を打ち立て様と試みた。

まぁ奇怪といえば「正規分布概念そのもの」も随分と奇怪な訳ですが…

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形而上学神秘主義(Metaphysical Mysticism)

こうして一旦は除外に成功した形而上学的概念をあえてある種の極限として再受容した上で何処までこれに合理(Rationality)で迫れるか試み続ける立場。

  • ヘルムート・プレスナー遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes,1959年)」は、デカルト機械的宇宙論やカントの「(観測結果の総体としての)(独Ding/英Thing/仏Chose)」と「(観測対象としての)物自体(独Ding an sich/英Thing in itself/仏Chose en so)」を峻別する観念論は元来その考案者が「信念の人」だからこそ到達し得た結論とする。確かに前者はマテオ・リッチ天主実義(1604年)」にも登場するイエズス会お得意の「機械は動力供給なしに動かなしには動かず、まさに究極の動力源こそが神なのである」論法のバリエーション、後者は「良心からの命令がさらにその外側から超越的に現れるのは自明である」と続く。彼ら自身は「究極の形而上概念=神秘主義の源泉としての神や良心の命令」自信を肯定した訳でも否定した訳でもなく、ただ「合理主義の構築する世界の内側にしか置けない」事を証明したに過ぎないのである。

  • この線引き自体は龍樹中論(2世紀)」における二諦論、すなわち「真諦(縁起の世界)=原則として次元を抽出して直行基底の一時結合として表現する事が不可能なこの世界そのもの」と「第一義諦(三昧の世界)=かかる縁起の世界についてのそれまでの観測結果から無矛盾に構築し得る仮象の範囲」の峻別にも現れる。そこで「仏法=御釈迦様の真の言葉」は丁寧に敬遠された上で前者に分類されている。

  • ここで興味深いのが元物理学者にして戦前日本最大のマルクス主義理論家なる異例の経歴の持ち主たる戸坂潤の「イデオロギー概論(1932年)」の論旨展開からそれとなく浮かび上がってくる「科学的パラダイム」論。①「線形代数=観察対象を次元分解して直交基底の一時結合で表して代数操作する演算パラダイム」は自明の場合として「(平行移動操作や拡大縮小操作では起こらず、剪断操作の極限として現れる)行列式=0の次元が潰れた状態」を視野外とし「(因子分析や主因子分析が演算結果として示す様な、次元抽出の順番に因果関係が存在しても黙殺する)非可換演算を強引に可換演算として扱う操作」について正しい答えを保証しない(というか実際に試して見ると符号がひっくり返りまくる。この場合、それ以前に無理矢理次元が潰されてる可能性も疑うべきである)。またこうして顕現する直交次元に直積性(各次元の1が揃っている=増分が一致している)を与える為の加重操作も必要に応じて見直す必要が出てくる。②ただしこの考え方はハミルトンが四元数(Quaternion)w+xi+yj+zk概念を1843年に発見して以降19世紀後半~20世紀初頭にかけてじわじわと形成され普及してきたので、同時代に確立した社会学理論の多くに完全な形では反映されていない。その弱点を突けば無双状態が達成出来る(その実践例が戸坂潤「イデオロギー概論」という次第)。③つまり「マルクス主義弁証法線形代数ならそれは(従来のあらゆる既存社会学理論に対して)無敵である」。ただしかかる戸坂潤が到達したであろう結論(文中に実際の発言はない)は「そもそも線形代数(その概念の導入が不完全な従来のあらゆる既存社会学理論に対して)無敵なのである」「そして実際にはマルクスもまた同じ時代的制約を受けた思想家の一人に過ぎなかったので、ここで無理矢理その例外としてピックアップするのは恣意的過ぎる」なる指摘に対して反論の余地がない。

  • そうこれは「パラダイムなるもの、一旦創始されると創始者がその成立の前提とした諸条件が忘却され、そのパラダイムそのものだけがドグマ的に継承される様になる」という「パラダイム論の枠組み」の話なのである。ヘルムート・プレスナー遅れてきた国民」は「デカルト機械的宇宙論もカントの観念論時世代以降には単なる無神論として継承される展開を迎えた」と指摘。龍樹中論」も「なまじ(とりあえず無矛盾で考えられる仮象としての)第一義諦に到達した者ほど、さらにその奥に(もはやその考え方が通用しなくなる)真義諦を凝視し続ける事は難しい(それを平然とやってのけたのが釈迦牟尼なる化物。大抵の人間はそこまで到達出来ない)」と繰り返し述べる。

②米国流実証主義(American Positivism)

形而上学的概念を一切含まない、すなわちそれを構成する合理的諸概念(Rational Concepts)の全体集合(Universal Set)の補集合(Complement Set)を空集合(Empty Set)と置く閉世界仮説(Closed World Assumption)を採用した立場。

  • 禁じられてないものは原則として許されている英米法、および「適者生存過程やそれがもたらす進化論的変化が原則として合理性の枠内に留まるという信念から出発し(条件付自由放任主義)、それだけでは手に負えない事案について超越的に例外処理せんと考える古典的自由主義の流儀に対応。まさしくジョン・スチュワート・ミル自由論(1859年)」における「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならず、これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」はまさにその宣言といえよう。

  • ただしここに含まれる「(形而上学的思考様式に復活を許す)超越性概念への言及」は大いなる瑕疵となり、実際自称「社会自由主義」達は上掲の「不完全な形での線形代数運用」を駆使してジョン・スチュワート・ミル自らが「文明が発展する為にはあらゆる権力の自由が無条件で保証されねばならず、個人の自由が正当化されるのは他人に実害を与えない場合だけに限定される(ただし自明の場合として、権力はあらゆる他人への実害代弁権を備えるものとする(笑))」と言ったと謀り「古典的自由主義は必然的に社会進化論に堕落し、その克服の為に社会自由主義への到達を余儀なくされる(笑)」と嘯くのである(おそらく後者は独ソ不可侵条約締結に激怒してアメリ共産党を脱退してニューディール政策を擁護したリチャード・ホフスタッターの1940年代頃の原説のマルクス主義的歴史段階説への射影だが、当然ホフスタッター自身も「こんな事自体は言ってない」)。ちなみにこれはプーチン・ロシアが「ウクライナにおける特殊作戦」の正当化に用いている論法そのものなので、彼らはこのアプローチに対して「見事、見事、そういうのでいいんだよ!!(涙)」と賛同の拍手を送る事しか出来ない。「あえて次元を潰す選択肢を選んだ」とはそういう事なのである。

  • この瑕疵は「黄金の50年代」に陶酔した米国における(開拓者精神を起源とした)超越主義(Transcendentalism=時代や社会を超越した普遍原理を認め、全てはそれに従うと考える立場)イデオロギーの暴走という事態を招いた事でも知られる。
    その反動として起こったのが御存知ヒッピー運動黒人公民権運動だった訳だが、その結果「政権交代」に成功した自称「社会自由主義者」達の振り翳す(各個人が自らの良心が発する命令などを勝手に神秘主義の源泉とする)実証主義(形而上学)神秘主義(Positivic Mysticism)もまた、同じくらいロクでもない代物だった。何度だって恣意的に繰り返される価値観の逆転。この問題は「線形代数を正しく用いて次元の潰れた状態から脱脚する」という選択肢に気付くまで無限に続くしかないのだった。

③フランス流実証主義(French  Positivism)

むしろ全体集合の補集合には「(微笑変異の累積による)新要素追加が絶えない」と考え、むしろそれらをアイデンティティ(Identity=自我同一性)を保ちつつ捌く一貫した流儀で保全(Maintenance)し続ける事に意義を求める立場。実はこれこそが実証主義(Positivism)のオリジナルという…

  • フランスにおける王権は最初脆弱でじわじわ「周囲の異邦人」を併呑し続ける事で大国に成長した。その過程で法学や宮廷料理もこうした伝統的戦略に特化する形で整えられてきたとも。
  • 許可されていないものは原則として禁じられてる大陸法の精神とも密接な関係がある。その弊害が最悪の形で顕現したのが「(プロテスタントをそれまで現れた異端の様に気軽に皆殺しにしようとしたら、殺しても殺しても全然勢いが衰えないまま他の問題にまで延焼し、結局仕掛けた側がボロボロになって終わった)宗教戦争」と「(アンシャン・レジーム存続の生贄とされ、それまでその存在すら黙殺されてきた「サン=キュロット(浮浪小作人)階層」のルサンチマンが次第に革命そのものを乗っ取って暴走させた)フランス革命」だったとも。

④マックス・ウェーバー鋼鉄の檻(Gehäuse)」

社会は微小変化の累積を精算する為に「定期的脱皮」を必要とし、それが間に合わなくなった時に概念的死を迎えるという考え方。ある意味フランス流実証主義アメリカ流実証主義の「ええとこどり」を狙ったとも考えられる。

  • 常に「脱皮に失敗した社会は死ぬ」恐怖が実存する事自体がこのモデルの一番秀逸な箇所で、それを回避せんとして国民統合が進行し様々な「痛みも伴う改革」が容認されていくのである。

どうやら専門の科学者すら「継承してきた全パラダイムの再検証」なんて滅多に行わない。ましてや素人おや、で「実証主義(形而上学)神秘主義」なんて奇妙なバグが発生してしまうという事らしいです、それが明らかに出来た時点で以下続報。