そういう考え方もあるかもと思っての試論。
まぁ「英国流」である事だけは確か。
個人的メモ。ジェーン・オスティンは「ノーサンガー僧院(1798年~1799年執筆,1817年刊行。処女作にして遺作)」の中で「意中の殿方に相手から告白させるのは淑女にとって出来て当たり前の嗜み」と述べています。この作品の刊行を遅らせた「過激思想」の一つ。https://t.co/BPe5ElJc8O
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
ここでいう「過激思想」とは「男女平等理念から程遠い」辺りを指します。まぁそもそも「英国口語文学の祖」ジェーン・オスティン文学の根幹は「郷紳階層の壮絶な婿取り合戦」だったりする訳で。
そう、この作品はまさしくある種の過激思想の宝庫で「フランス革命戦争からナポレオン戦争にかけての期間、郷紳が狩猟と舞踏会に明け暮れたのは相互コミュニケーションを密にして(密かに大陸から渡ってくる)危険思想への感染者を炙り出す為だった」なんて指摘も。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
この辺りの「秘密の精神的検疫体制」を率直に認めた作品は当時他になく、おそらくこの事がこの作品がナポレオン戦争終結まで刊行不可能だった主要理由。ある意味「ゾンビの炙り出し体制」に似てると思いませんか? そこに注目したのが「高慢と偏見とゾンビ」。https://t.co/jyRvP0exJN
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
日本ではこの「高慢と偏見とゾンビ」を原作に対する侮辱と指摘する声が大半を占めましたが飛んでもない。原文の記述の端々を跳梁する「視野外ギリギリのゾンビ達」やダーウィンの性淘汰論を炙り出すある意味「正統派拡張巨編」だったのです。https://t.co/SNt7Ew8gNn
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
「拡張」されたのはそれだけではありません。カール・ポランニーが「大転換(1944年)」の中で取り上げた二つの歴史事象、すなわち「第二次囲い込みに垣間見られる現実主義」と「スピーナムランド法が示した資本主義の挽臼性」もちゃんと視野内に捉えてます。https://t.co/8Zmz48WzNk
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
「第二次囲い込みに垣間見られる現実主義」はこう要約できましょう。「この運動については賛成側と反対側のどちらが正しかったかなど問題とならない。その衝突が必要な措置を必要な速度で達成した事だけが重要で、これが英国の現実主義なのだ」。https://t.co/XJJzNvL2Xr
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
一方「スピーナムランド法が示した資本主義の挽臼性」こそ、ある意味「高慢と偏見とゾンビ」の着想の原点。実際原作の端々に当時の現実だった「ナポレオン戦争に動員されていく人々」や「(プロレタリアート思想流入への対抗策としてのこの法律が生み出した)亡者の群れ」が…https://t.co/zpW2IbOimj
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
そもそもジェーン・オスティンが作家となる事を志した契機自体が「フランス革命戦争とナポレオン戦争のせいで大陸からゴシック小説の供給が途絶えた事」という時代感覚。しかも彼女の作品「(監獄との共通性を指摘する)日本の学園物」の大源流でもあるという…https://t.co/qSGdKY2s0a
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
「え?そんなの日本にいつ伝わってきたの?」。東京大学に英文学講座が開設され、小泉八雲と夏目漱石が教鞭を取った最初から。しかも歴史のその時点では英国本土にはまだ英口語文学を大学で教える慣習はなかったとされるので世界初の「感染例」とも。https://t.co/W0B6MDqzxB
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
そう「近代日本エロティズム中興の祖」小泉八雲と夏目漱石は、こういう場面にも揃って顔を出すのでした。https://t.co/5WPfXQ1ak2
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
こうした文学史を踏まえれば「意中の殿方に相手から告白させるのは淑女にとって出来て当たり前の嗜み」なるジェーン・オスティン定理の表現が日本で一番こなれているのは、むしろ当然の様に思えてきます。要するに「月曜日のたわわ」でも普通に登場するこの場面…これにそれだけの歴史的重みが… pic.twitter.com/KKS5bEisBc
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
というかこれぞ暴走Jリベや暴走Jフェミが誤用する「権力勾配」概念の本来の姿、すなわち「本来の意味での性暴力=ダーウィンの性淘汰理論に基づく女性から男性に対する淘汰威圧」に立脚する「権威勾配」だったりするという次第。https://t.co/59gzwaJrLR
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
それが幸福な事か不幸な事かは別として日本人男性はまさに「百年かけてそれを洗練させてきた」日本人女性のそれに日常的に直面し続けている次第。海外の第三世代フェミニストの方々の中にはそれを専門に研究してる人達もいて「観察対象」にされた事もあるので思い出した次第…https://t.co/yL0iwxaJjQ
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
そうか元来の形での「(性)権勢理論」の最も恐るべき部分、それはこの「真の意味で完成の域に到達した(性)暴力には、もはや被害者も加害者もいないんだ、いいね?」と言いくるめてくるディストピア性にあるんだ…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
要するに海外の第三世代フェミニストはこういう言説とか真面目に研究対象にしてる訳ですよ。「大事なのは相手が自分から動いてくれる様に仕向ける事だ。その為には相手に精神的満足感を与えなければならない。色々あるんだが、お前にも使えそうな手は期待だろ…」https://t.co/1E7boLYHsp
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
「相手に自分は期待されてると思わせるんだ。それが出来れば後は実に簡単に尽くしてくれる。ただし問題はあまり大きく見せない事だ。自分には些細な事だが相手にはそこそこ大事な事だくらいがいい。それともう一つ。出来れば人目につかないところで異性に頼むんだ。」…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
そう、これこそが(もはやそこに被害者も加害者も存在しない)完成された性暴力。この情景が本来の形でしっかりと把握出来たなら直木賞受賞も夢ではないという実に恐るべきアレなんですわ…https://t.co/0bGoo9NKlN
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
ネットで海外女子がアニメでも語られたこの文章を検分してる時、突如として「日本人男性は絶えずこんな攻撃に直面し続けてて平気なの?」と振られた時の私の気持ちを述べよ(10点)。今までそんな事を考えた事もなかったので実に勉強になり、そこから出発してこういう結論に… pic.twitter.com/MAoy1QIid4
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
とどのつまり「月曜日のたわわ」について「こういう形で男性が女性から元気をもらうなんて性暴力」と感じるのは真逆の誤読。むしろ作中で容赦無く展開するのは「真逆の性暴力(ただし加害者側は「完成された性暴力に被害者はいない」と供述)」案件という話… pic.twitter.com/s4rqPodj4e
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
まぁ「家父長制より家母長制の方が人類の自然な姿。これに回帰しよう」と主張するバーバラ・ウォーカー流のウルトラ・フェミニズム自体はアレ過ぎとしても、それから派生した系統の第三世代フェミニズムが主張する「男女平等」に…https://t.co/6kuMEfvhs7
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
裏設定として「カイジ」シリーズの帝愛会長の名台詞「本当に平等である必要はないが、不平等感を持つ機会を与えないのが統治の秘訣」的顕密体制が想定されてるのもまた動かない事実。「女をまだ自分と同じ人間と思ってるうちは男は駄目だ。女の側はそんなに甘くない…」
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
「…何しろある瞬間には完全に共犯者なのに、次の瞬間には被害者になりすましてる様な化物だぁ。最初からそういう想定で振る舞わないと、かえって相手に失礼というもの」。そういえば吉田秋生の漫画を読んでるうちに学んだ教訓もそんな感じだったのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
とはいえ彼女らの「性」暴力、別に異性対象でなく同性相手にも使うので「誰もがお互いを人間と意識しない事によって、やっと取れる人間的釣り合いも存在する」くらいで捉えておく必要もあるかと。実際、先に紹介した「女帝の手管」も、よくよ読み返すと「異性だとなお効く」という話に過ぎないという…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
直木賞受賞作「黒牢城」では、これのさらに高度なバージョンの撃ち合いが?実は今読んでる最中なので、そちらの感想もそのうち。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
もはや「性暴力」でないとするなら、それは「ただの暴力」なのである。それでは、ここでいう「暴力」とは?「元来無相関の筈の評価軸への任意の加力が、他の評価軸に与える影響」とか?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年4月15日
図式化はまた後ほど。