「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「国粋日本画」から「白樺派」へ。

f:id:ochimusha01:20220411222932p:plain

欧州においてポルノグラフィ派がそれから逸脱する事で「表現の自由」を勝ち取った「(聖書や神話にかこつけたエロしか許さない)欧州の文化的仮面」。その毒を「白樺派」に先行する形で「日本画」が大日本帝国に輸入。

明治43年(1910年)に刊行された雑誌『白樺』には画家の中川一政梅原龍三郎岸田劉生も参加しており、文壇を超えて、洋画・日本画壇をも大いに活気づかせました。

f:id:ochimusha01:20220107092117p:plain

f:id:ochimusha01:20220107092330p:plain

f:id:ochimusha01:20220107092711p:plain

そして戦前の「日本画」や「白樺派」は、揃って第日本帝国末期の軍国化過程において、仏教界真俗二諦を方便に戦時協力を遂行し、日本画が国民画として「国家神話の視覚面における強化」を担った挙国一致体制に抵抗しなかった黒歴史を抱える。

日本画

明治時代に西洋絵画に相対するジャンルとして開発された近代絵画。おもに和紙や絹を支持体として、岩絵具などの顔料を膠で定着させることで着色するほか、墨汁を用いて描かれる。こうした伝統的な技法にもとづく諸流派を総括しながらも、西洋絵画をある程度摂取しつつ、しかし「洋画」とも「書画」とも異なる、日本独自の絵画として「日本画」はつくられた。「日本絵画」という場合は、「日本画」以前の平面表現全般を指す。その名称が端的に示しているように、「日本画」は国民国家の形成と深く関わっていた。「日本画」を創始した当事者はアーネスト・フェノロサ岡倉天心だが、彼らの背景には西洋社会に対抗しうる日本を打ち立てようとする国粋主義があった。1887年、両者の尽力で開校した東京美術学校現在の東京藝術大学美術学部)も、日本画部門が設けられた反面、西洋画部門はなかった(その後、1896年に開設)。こうした国粋主義の傾向は、第二次世界大戦まで続いたが、戦後になると深刻な反省を迫られ、旧来の「日本画」に対して「日本画滅亡論」が唱えられたこともあった。

名前を挙げればきりがないほどですが、先日山種美術館で展示されていた、高山辰雄奥田元宋東山魁夷杉山寧など、後の日展画壇の重鎮となる人達だけでなく、数えきれない戦後の日本画壇を支えた俊才がキラ星のごとくおられました。

f:id:ochimusha01:20220107054533p:plain

f:id:ochimusha01:20220107054839p:plain

f:id:ochimusha01:20220107055249p:plain

f:id:ochimusha01:20220107055658p:plain

1980年代には「日本画」のニューウェイヴともいうべき、諏訪直樹間島秀徳、山本直彰らが台頭し「日本画」の現代美術化が押し進められた。

f:id:ochimusha01:20220107060333p:plain

f:id:ochimusha01:20220107060647p:plain

f:id:ochimusha01:20220107060932p:plain

日本画」と「現代美術」の境界が溶融する傾向は、ゼロ年代に入るとよりいっそう拍車がかかり、たとえば「日本画』から/『日本画』へ」展(東京都現代美術館、2006)では、ポップや古典回帰など、さまざまな「日本画」が現われた。画題のうえでも技法のうえでも、現在の「日本画」はかつてないほど多様化しており、その名称の妥当性が議論の的となっている。

日本画』から/『日本画』へ」展

2006年東京都現代美術館で催された「MOTアニュアル2006 No Border 『日本画』から/『日本画』へ」展。企画は加藤弘子と山本雅美。参加作家は篠塚聖哉天明屋尚長沢明町田久美松井冬子三瀬夏之介、吉田有紀の7名で、いずれも当時30代の若手画家たち。ゼロ年代の新しい日本画の登場を告げたエポック・メイキングな展覧会である。天明屋尚のポップな婆沙羅から松井冬子のグロテスクな幽霊、あるいは三瀬夏之介のダイナミックな富士から町田久美のストイックな童子というように、本展はゼロ年代日本画の多様性を的確に踏まえた構成だったが、そこにはひとつの共通項が見出せた。それは視覚的な図像の明らかな前面化である。天明屋や松井、三瀬、町田の具象性はもちろん、長沢明は虎をモチーフにしているし、比較的抽象度が高い篠塚聖哉や吉田有紀にしても、それぞれ火山と星の光が再現されていることがわかる。このようにキマイラ的菊屋吉生)なイメージを錯綜乱舞させた日本画の登場は、ジャンルとしての「日本画」を新たな位置に転位させたと考えられる。なぜなら、この点は日本画の物質性を手がかりにしながらイメージを禁欲することで同時代を表現した80年代以来の現代美術系の日本画とは切断されている一方、表現主義を契機として物質性とイメージ性を両立させた岡村桂三郎と連続していたからだ。それゆえ、本展は「岡村以後の状況を示す企て」(北澤憲昭)として評価されている。とはいえ、強烈なイメージを打ち出すゼロ年代日本画を、現実と虚構の境界をなし崩しにしながら、すべての記号が自由に等価交換されうる現代社会の特徴を反映した絵画として肯定的にとらえるのか、それともそのイメージ性の無邪気な発露を、神話や民族といった事大主義的な主題によって国民絵画という象徴性を担うことを余儀なくされた歴史への回帰として批判的にとらえるのかで、見解は分かれている。いずれにせよ、日本画の現在のありようを改めて世に問うた画期的な展覧会だったことはまちがいない。

f:id:ochimusha01:20220107061602p:plain

f:id:ochimusha01:20220107062036p:plain

f:id:ochimusha01:20220107062259p:plain

f:id:ochimusha01:20220107062635p:plain

f:id:ochimusha01:20220107062936p:plain

f:id:ochimusha01:20220107063325p:plain

f:id:ochimusha01:20220107064052p:plain

f:id:ochimusha01:20220107064356p:plain

まず議論の出発点として、著者は日本画クレオールだという。クレオールとはクリオーリョというスペイン語に由来する言葉で、本来は植民地に生まれたネイティブ以外の白人移民を指したが、やがては混血、更には白人の血が混じった黒人を指すのが一般的となった。

クレオールとは、何らかの植民的環境が生じたことにより、否応なくその環境に順応するためにネイティブが変化することを言う。

著者によれば、中国からの強い影響によって古代から変化を遂げてきた近世までの日本絵画は、中国絵画に対するクレオール絵画であった。そして、19世紀後半、近代化=西洋化という文明開化の波の中で、西洋絵画の圧倒的な影響を受けた日本絵画は、「日本画」と「洋画」という二つのクレオール絵画を生み出したと言うのである。

つまり、日本画の前身である日本絵画が西洋画と出会い、フェノロサ岡倉天心らの努力によって、明治維新以降、近代ナショナリズムの勃興と共に「日本画」として成立したのである。国家主義を揺籃とした明治期、皇国感情の中で成熟を迎えた大正期から昭和初期、そして大平洋戦争の終結と近代天皇制の終焉と共に、その体制下で同質化された国民に支えられてきた日本画が終焉を迎えた。

ところが、戦後、「日本画滅亡論」と言う逆説的な危機感によって盛り返し、1960年代いざなぎ景気1980年代のバブル景気に乗じて、そのスタイルを変えつつも、敗戦の心の傷を癒す国民的メディアとして国民絵画としての存在感を保ち続け、平山郁夫東山魁夷加山又造らを頂点とする形で一時の繁栄を謳歌したということである。

f:id:ochimusha01:20220107093908p:plain

f:id:ochimusha01:20220107094236p:plain

ここに新たに確立した国民絵画は、飽くまでもその前提となる日本社会においてのみ生産され、消費される国内絵画だった。戦後の官僚主義護送船団方式が維持されていた日本では、バブル景気時代を経てクライマックスを迎えた後でも、国内的日本画が再生産され続けたのである。

しかしながら、こうした国内向けの日本画は、新たな日本社会、即ち、合理化とIT化、そしてグローバル化していく社会構造の変化の中で、存在の場を失っていった。

そもそも、近代の日本画とは北斎暁斎を切り捨てたところに成立した絵画であった。皮肉なことに、日本画は国際的にも通用するような国の絵画を創出する狙いのもとに創られたにもかかわらず、日本らしさを持つ絵画として国際的な評価を得たのは、あくまでも葛飾北斎河鍋暁斎であり、今日ではそれに代わってマンガやアニメなのである。

私は「古事記」「日本書紀」に中高生時代、家にあったカラー挿絵で一杯の百科事典的物語全集を通じて最初に触れたのですが、今から思えばそこに山ほど掲載されていたエロティズム全開の絵画の数々こそ「(聖書や神話にかこつけたエロしか許さない)欧州の文化的仮面」の輸入を試みた戦前国粋日本画の野望の痕跡だったのです。

f:id:ochimusha01:20220411223533p:plain

また「白樺派」そのものについてもこういう批判が。

彫刻家ロダンと日本における近代の形成

哲学者三木清(敗戦直前の1945年検挙され釈放を待たずに獄死)は「読書遍歴(昭和16年/1941年)」の中で大正期の日本近代史の流れを透徹したまなざしでとらえ、時代の空気をこう斬っている。「あの第一次世界大戦といふ大事件に会ひながら、私たちは政治に対しても全く無関心であつた。或ひは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却つてあの『教養』といふ思想である。そしてそれは政治といふものを軽蔑して文化を重んじるといふ、反政治的乃至非政治的傾向を持つていた、それは文化主義的な考へ方のものであつた。あの『教養』といふ思想は文学的・哲学的であつた。それは文学や哲学を特別に重んじ、科学とか技術とかいふものは『文化』には属しないで、『文明』に属するものと見られて軽んじられていた。言ひ換へると、大正時代における教養思想は明治時代における啓蒙思想――福沢諭吉などによつて代表される――に対する反動として起こつたものである。それが我が国において『教養』といふ言葉のもつている歴史的含蓄であつて、言葉といふものが歴史を脱することのできないものである限り、今日においても注意すべき事実である。」

まさしく地獄から戻ってきた懐かしのアライさん教養で文明と戦わなくなったインテリなんて、ネズミを獲らなくなったイエネコと同じなのだ。人類に可愛いと思われなくなった途端、このアライさんと同じで駆除指定生物の仲間入りなのだ(You,Intelligentsia…are house cats no longer catch mice, if you no longer fight civilization with your cultivation. And you will join vermin lank like us, if they  are no longer considered you Kawaii.)」の世界。