「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「ルネサンス期イタリア五大国」フィレンツェ共和国

コンスタンティノープル陥落1453年)によって東ローマ帝国が滅んだ際、ローディの和伊Pace di Lodi、1454年)を締結したルネサンス期イタリア五大国の内訳…

ローディの和―中世イタリアに40年和平をもたらした5ヵ国同盟

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フィレンツェ共和国(Repubblica fiorentina, Repubblica di Firenze)- Wikipedia

欧州における毛織物流通業の繁栄を契機に台頭。13世紀頃に共和制となった。

フィレンツェ公国 - Wikipedia

メディチ家時代第1期1434年~1494年)はメディチ家フィレンツェ追放により終わる。その後フィオレンティーナ共和国Repubblica Fiorentina)が建国されたが、1512年メディチ家が復帰し、1527年フィレンツェ共和国が再興された。

1530年神聖ローマ皇帝カール5世アレッサンドロ・デ・メディチを摂政に任命し、1532年アレッサンドロフィレンツェ公となった。その為国名をフィレンツェ公国に改めた。

コジモ1世1537年トスカーナ公となるとイタリア戦争に関わっていき、カール5世のスペイン軍と共にフランスと結んだシエーナ共和国を攻撃し1555年にシエーナを占領。そしてカトー・カンブレジ条約(1559年)によりスペインに貸していた膨大な債権と引き換えにシエーナ共和国とシエーナ公の地位を手に入れ、併合した。

1569年にはローマ教皇ピウス5世により初代トスカーナ大公に叙され、トスカーナ大公国が成立した。コジモ1世からフェルディナンド1世までがメディチ家の絶頂期であった。その後メディチ家ジャン・ガストーネ在位1723年~1737年)まで続いたが、地中海貿易の衰退などによってイタリア自体国際的地位が低下し、トスカーナ大公国も衰退の一途を辿った。ジャン・ガストーネが没すると、後継者がなくメディチ家は断絶した。ジャン・ガストーネの遺言によってトスカーナ大公国ハプスブルク=ロートリンゲン家に継承された。ただし、神聖ローマ帝国にもハプスブルク家の本領にも含まれず、大公国とメディチ家の財産は公国政府によって管理されることとなった。

ハプスブルク=ロートリンゲン家時代

ハプスブルク=ロートリンゲン家の最初の大公はフランチェスコ2世在位1737年 - 1765年)である。ドイツ名をフランツ・シュテファンといい、元はロレーヌ公であったが、神聖ローマ皇帝カール6世の女子相続人マリア・テレジアとの婚姻にあたり、ロレーヌの隣国であるフランスが異議を唱えた。外交交渉とポーランド継承戦争の結果、フランスが婚姻を承認する代わりにロレーヌの割譲を受け(ルイ15世の岳父スタニスワフ・レシチニスキがロレーヌ公となり、その死後はフランス王国に併合された)、フランツには代償として後継者のいなかったトスカーナ大公の継承権が与えられたのである。

フランツは父方と母方の双方から、メディチ家の大公フランチェスコ1世の血を引いており1747年に皇帝に選出されてフランツ1世となる(トスカーナ大公位はそのまま兼ねた)。大公国はフランツの死後に次男のレオポルド1世在位1765年 - 1790年)が継いだ。レオポルドは皇帝オポルト2世として即位するとすぐに次男フェルディナンド3世1790年~1824年)に大公位を譲るが、フェルディナンド3世フランス革命戦争とナポレオンの時代に遭遇することになる。

リュネヴィル条約(1801年2月9日)が締結されると、トスカーナハプスブルク家からフランスに渡った。トスカーナ大公国は廃止され、エトルリア王国が建国された。ブルボン=パルマ家のルドヴィーコ1世1801年~1803年)とカルロ・ルドヴィーコ1803年~1807年)が相次いで即位したが、1807年12月エトルリア王国は廃止され、フランス帝国に併合された。その後ナポレオンが妹エリーズエリザ)を大公に即位させることでトスカーナ大公国は復活した(在位1809年~1814年)。

1814年ナポレオン1世が失脚すると、フェルディナンド3世フィレンツェに復帰した。ナポレオンはトスカーナ大公国領であるエルバ島に配流されたが、後に脱出して百日天下の動乱を起こしている。フェルディナンド3世に次いでレオポルド2世1824年 - 1859年)が即位したが1859年4月27日トスカーナ臨時政府の圧力に屈して退位し、フェルディナンド4世が登位するものの国民投票の結果1860年3月サルデーニャ王国へ併合された。 

以下続報…