コンスタンティノープル陥落(1453年)によって東ローマ帝国が滅んだ際、ローディの和(伊Pace di Lodi、1454年)を締結したルネサンス期イタリア五大国の内訳…
ローディの和―中世イタリアに40年和平をもたらした5ヵ国同盟
フィレンツェ共和国(Repubblica fiorentina, Repubblica di Firenze)- Wikipedia
欧州における毛織物流通業の繁栄を契機に台頭。13世紀頃に共和制となった。
- 当初は寡頭政治であったが、政争の末、メディチ家が台頭。15世紀にコジモ・デ・メディチが支配して以降はシニョリーア制(僭主=実質的な支配者)に基づいて君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となる。その過程でフィレンツェに近い要所イーモラを買収した教皇シクストゥス4世(在位1471年〜1484年)と組んだ政敵パッツィ家(Pazzi)の粛清に成功。
*シクストス4世はさらに(ヴェネツィアから借りた土地でヴェネツィアの伝統的産業たる塩産業に食い込んできたフェラーラに激怒したヴェネツィアを唆し)フェラーラ塩戦争(Guerra di Ferrara、1482年〜1484年)を起こしてもいる。
シクストゥス4世 ((Sixtus IV、1414年〜1484年、8月12日)) - Wikipedia
ルネサンス期のローマ教皇(在位1471年〜1484年)。本名はフランチェスコ・デッラ・ローヴェレ(Francesco della Rovere)。ルネサンス教皇の典型ともいえる存在で、自らの名前に因んだシスティーナ礼拝堂を建設し、そこへ幾多の芸術家を招聘して初期ルネサンス芸術の成果をローマに導入した(ミケランジェロの有名な天井画は後の時代に付け加えられたものである)。一方で、政治的には失政が多く、イタリアに無用の戦争と混乱をもたらした。
サヴォーナに近いチェッレ・リーグレに生まれ、自らすすんでという訳でもなかったがフランシスコ会に入会。哲学・神学を学ぶうちにその学識を称揚され、イタリア各地の大学で教鞭をとるようになった。1464年にフランシスコ会総長に選出され、教皇パウルス2世のもと1467年に枢機卿にあげられた。
1471年に教皇位についた頃にはスミュルナのオスマン帝国軍への攻撃がおこなわれていたが、成果を挙げることができなかった。それ以上にオスマン帝国攻撃のための資金集めのほうが熱心におこなわれていた。この頃には正教会との合同へ向けた動きもあったが、進展しなかった。やがて教皇は当面の外交問題の処理に向かわなければならなかった。まず、ブールジュの国本勅諚(1439年)を遵守しつづけるフランス王ルイ11世との交渉があった。教皇のフランスへの介入を排除しようとしたこの勅令は、後のガリカニスムの源泉とも言えるものであった。またフランス王がナポリ王国の継承権に食指を動かしていることも教皇には見過ごせない問題であった。
当時の教皇達の例に漏れず、シクストゥス4世もネポティズムから逃れることができなかった。シクストゥス2世を描いたメロッツォ・デ・フォルリが1477年に描いたフレスコ画で教皇の脇に描かれている枢機卿たちは親族のデッラ・ローヴェレ家とリアリオ家の人間たちである。決して全員がシクストゥス4世時代にその任務についたわけではないが、その親族からは教皇庁長官であったラファエロ・リアリオ、後にユリウス2世となる甥のジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ、ジロラモ・リアリオ、ジョバンニ・デッラ・ローヴェレなどが教皇の引き立てを受けている。これらの人物に加えて初めて教皇伝『歴代教皇伝』を書いた人文主義者でバチカンの図書館長であったプラティナもフォルリの絵に描かれている。
後にラファエロ・リアリオ枢機卿は1478年のパッツィ家の陰謀に加担してメディチ家の打倒をはかったが失敗した。これはロレンツォ・デ・メディチとその兄弟を暗殺してフィレンツェの支配者の地位にジロラモ・リアリオをつけようとした企てであった。計画の首謀者とされたピサ大司教はシニョリーア宮殿の壁に吊るされて殺されたため、教皇庁とフィレンツェは以後2年におよぶ戦争状態に突入する。同時にシクストゥス4世はヴェネツィア共和国に対してフェラーラを攻撃するようすすめた。これによって別の親族にフェラーラを治めさせる意図があったようだが、このような活動はイタリアの都市君主たちを怒らせ、同盟を結ばせる結果を生んだ。すなわち教皇の示唆によって1482年におこなわれたヴェネツィア軍のフェラーラ攻撃に対して、ミラノのスフォルツァ家、フィレンツェのメディチ家、ナポリ王国のみならず本来教皇の同盟者であった人々までが同盟を組んでこれを阻止にまわったのである。これほどの反発を予想していなかった教皇は1483年に逆にヴェネツィアを禁令下に置くことを宣言した。
またスペインにおいて教皇庁から独立した独自の異端審問(スペイン異端審問)を行う許可を与えているが、これはアラゴン王フェルナンド2世の求めに応じたものであった。同王のおさめるシチリア王国からの軍事援助がなくなればオスマン帝国の脅威に対してなすすべのない教皇にはこれを拒否することはできなかったのであるが、以降教皇のお墨付きを得たスペイン異端審問所は政治的な理由での告発を繰り返し、必要以上に過激な処罰を行っていく事になる。
この様に失政が多かったシクストゥス4世ではあるが、ローマの発展と美術・学問の振興に果たした業績の大きさは誰もが認めざるを得ない。システィーナ礼拝堂の建設だけでなく、シスト橋の建築、ローマの街の美化・補修などに大規模な投資をおこなった。さらにバチカン図書館の拡充もはかっている。またレギオモンタヌスにユリウス暦の不備の検討をおこなわせ、ジョスカン・デプレをローマに招いている。教皇はさらにサンドロ・ボッティチェッリ、ピントゥリッキオ、ドメニコ・ギルランダイオらのパトロンにもなっている。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たした。歴代の当主たちが集めた美術品などがウフィツィ美術館等に残され、かつピッティ宮殿などのメディチ家を称える建造物も多数フィレンツェに現存する(メディチ家最後の直系女性継承者アンナ・マリア・ルイーザの遺言に基いて公開)。メディチ家当主の弟ジョヴァンニ枢機卿は教皇レオ10世として即位し(在位1513年〜1521年)、ここにメディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となった。
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レオ10世は芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大がかりな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作ってもいる。
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また一族のマリー・ド・メディシスはブルボン朝の起源となった。
メディチ家 - Wikipedia
メディチ家時代第1期(1434年~1494年)はメディチ家のフィレンツェ追放により終わる。その後フィオレンティーナ共和国(Repubblica Fiorentina)が建国されたが、1512年にメディチ家が復帰し、1527年にフィレンツェ共和国が再興された。
1530年神聖ローマ皇帝カール5世はアレッサンドロ・デ・メディチを摂政に任命し、1532年にアレッサンドロはフィレンツェ公となった。その為国名をフィレンツェ公国に改めた。
コジモ1世が1537年にトスカーナ公となるとイタリア戦争に関わっていき、カール5世のスペイン軍と共にフランスと結んだシエーナ共和国を攻撃し1555年にシエーナを占領。そしてカトー・カンブレジ条約(1559年)によりスペインに貸していた膨大な債権と引き換えにシエーナ共和国とシエーナ公の地位を手に入れ、併合した。
1569年にはローマ教皇ピウス5世により初代トスカーナ大公に叙され、トスカーナ大公国が成立した。コジモ1世からフェルディナンド1世までがメディチ家の絶頂期であった。その後メディチ家はジャン・ガストーネ(在位1723年~1737年)まで続いたが、地中海貿易の衰退などによってイタリア自体国際的地位が低下し、トスカーナ大公国も衰退の一途を辿った。ジャン・ガストーネが没すると、後継者がなくメディチ家は断絶した。ジャン・ガストーネの遺言によってトスカーナ大公国はハプスブルク=ロートリンゲン家に継承された。ただし、神聖ローマ帝国にもハプスブルク家の本領にも含まれず、大公国とメディチ家の財産は公国政府によって管理されることとなった。
ハプスブルク=ロートリンゲン家の最初の大公はフランチェスコ2世(在位1737年 - 1765年)である。ドイツ名をフランツ・シュテファンといい、元はロレーヌ公であったが、神聖ローマ皇帝カール6世の女子相続人マリア・テレジアとの婚姻にあたり、ロレーヌの隣国であるフランスが異議を唱えた。外交交渉とポーランド継承戦争の結果、フランスが婚姻を承認する代わりにロレーヌの割譲を受け(ルイ15世の岳父スタニスワフ・レシチニスキがロレーヌ公となり、その死後はフランス王国に併合された)、フランツには代償として後継者のいなかったトスカーナ大公の継承権が与えられたのである。
フランツは父方と母方の双方から、メディチ家の大公フランチェスコ1世の血を引いており1747年に皇帝に選出されてフランツ1世となる(トスカーナ大公位はそのまま兼ねた)。大公国はフランツの死後に次男のレオポルド1世(在位1765年 - 1790年)が継いだ。レオポルドは皇帝レオポルト2世として即位するとすぐに次男フェルディナンド3世(1790年~1824年)に大公位を譲るが、フェルディナンド3世はフランス革命戦争とナポレオンの時代に遭遇することになる。
リュネヴィル条約(1801年2月9日)が締結されると、トスカーナはハプスブルク家からフランスに渡った。トスカーナ大公国は廃止され、エトルリア王国が建国された。ブルボン=パルマ家のルドヴィーコ1世(1801年~1803年)とカルロ・ルドヴィーコ(1803年~1807年)が相次いで即位したが、1807年12月にエトルリア王国は廃止され、フランス帝国に併合された。その後ナポレオンが妹エリーズ(エリザ)を大公に即位させることでトスカーナ大公国は復活した(在位1809年~1814年)。
1814年にナポレオン1世が失脚すると、フェルディナンド3世がフィレンツェに復帰した。ナポレオンはトスカーナ大公国領であるエルバ島に配流されたが、後に脱出して百日天下の動乱を起こしている。フェルディナンド3世に次いでレオポルド2世(1824年 - 1859年)が即位したが1859年4月27日、トスカーナ臨時政府の圧力に屈して退位し、フェルディナンド4世が登位するものの国民投票の結果1860年3月にサルデーニャ王国へ併合された。
以下続報…