ジョン・スチュアート・ミルは1865年にイギリスの有権者に対して女性参政権を政策のひとつとして打ち出し「女性の解放(The Subjection of Women=原題「女性の服従」、1869年)」ような女性の権利を訴える著作を発表。多数の男女がこの大義に賛同した。
近代社会は、生まれではなく功績によってその人の評価が決まるという原則に基づいている。この原則を実質化するためには、法律によって外的に規制するだけでなく、家庭で子供に男女の同権感覚を育ませる必要がある。これは彼が大人になったのち、他者を一個の人格として承認するために必要な素養だ。
だから、実際に男女で真の権利的平等が実現するには相当の時間がかかるが、そうしたプロセスによってこそ、近代社会の正当性である「自由」は空文化せず、実質的なものとなるのだ。
それは明らかにフランスの啓蒙思想家コンドルセの精神を継承する内容だった。
- アメリカ合衆国では21歳以上の白人女性は1869年からワイオミング州の西部で、1870年からはユタ州でも投票できるようになった。
*南北戦争(1861年〜1865年)に際し米国女性達はる指導者スーザン・B・アンソニーの反対にもかかわらず選挙権獲得運動を一時的にやめて、戦争のために助力。
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英領南オーストラリアの女性は1895年に平等な権利を獲得し、はじめて議会に立候補する権利を得るようになった。
最も早く恒常的に女性に参政権が付与されるようになったのは、1869年のアメリカ合衆国ワイオミング州での選挙でした。しかし、この時はまだ女性には被選挙権が与えられていませんでした。
その後1894年に、南オーストラリアで、初めて男女平等の普通選挙が実現しました。
- マン島では1881年に財産を持つ女性が議会選挙で投票する権利を獲得していた一方、ニュージーランドでは1893年に21歳以上の女性が議会選挙で投票できるようになり、全ての女性に選挙権を与えた初めての自治政府を持つ国となった。
移住・開拓を経験した土地では男女平等の精神が根付きやすかった様だ。
英国を構成するマン島では、1881年に未亡人と財産を所有する女性の参政権が認められた。が、ニュージーランドではこうした条件関係無しに参政権が認められた点に意義がある。
地方によっては1867年から、女性が地方政治へ参加する事が認められていたが、それは全国的に政治への参加を意味しなかった。
1869年、マリー・アン・ミュラー(Mary Ann Muller)が、南島北部の都市・ネルソンの地方紙、Nelson Examinerに、女性の全国的政治への参加について記事を寄せた。これが引き金となる形で、キリスト教婦人禁酒同盟(NZ The Women's Christian Temperance)が、運動を行う様になったのである。
同団体は1885年に設立。貧困とアルコールが原因となる家庭内暴力から女性を救済するのが設立の主旨で、つまり女性が禁酒を訴える事で自分達の権利を強めていった。また婦人参政権同盟も運動を行った。
10ドル札に描かれているケイト・シェパード(Kate Sheppard)は、これら運動の中心になった人物である。彼女はクライストチャーチの人物で、大規模な集会の開催、パンフレットを作成し大衆への啓蒙そしてメディアへの投書、国会議員への請願、署名運動を行ったりした。大規模な署名運動は1891,92,3年と3回行われた。1893年には、31872名の署名が集まったが、これはオセアニア地区では最大規模のものだった。
請願書の内の1つは、約3万人の署名で埋められていた。これら運動の結果、国会で女性参政権を認める法案の審議がされる様になる。
当時は比較的リベラルな自由党政権下であった事も助けとなった。この法案の最大の理解者は、ジョン・ホール(Sir John Hall)で、国会審議中に署名運動の成果を紹介した。そして1893年9月19日、わずか2票差というきわどい状況で同法案は可決したのである。
実際に、女性がその権利を行使したのは、同年11月28日の国会議員選挙だった。
*以下でも繰り返し現れるパターンだが「普通選挙実現」は戦争でいうと総力戦への移行みたいなもので、どうやってそれを遂行するだけの集団組織力を獲得するかが鍵となってくる。このケースでも、それの母体となった市民団体の大躍進があった模様。 - 日本では1880年から1884年にかけて限定的に認められて以降、GHQ統治下の1945年まで実現しなかった。
日本で普通選挙が実現したのは1925年でしたが、フランス革命後の状況と同じように、参政権は男性にしか与えられませんでした。大正デモクラシーという民主化運動の中で、女性の権利が主張され、女性でも裁判官になることができるような運動も展開されましたが、第二次世界対戦終了まで、女性が選挙権を手に入れることはできませんでした。
1945年10月10日幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされました。また、翌10月11日のマッカーサーによる五大改革の指令には、「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていました。一方、戦争終結の10日後8月25日には、市川房枝さんによって「戦後対策婦人委員会」が結成され、衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた5項目の決議を、政府及び主要政党に提出しています。そして11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動が再開されました。
その年の11月21日には、まず、勅令により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められました。次に、12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により、女性の国政参加が認められ(地方参政権は翌年9月27日の地方制度改正により実現)、そして1946年4月10日、戦後初の衆議院選挙の結果、日本初の女性議員39名が誕生しました。
*要するに土佐である。日本ではこういう時、案外土佐なのである。ジョルジュ・ビゴーの戯画でも明治政府が頭を抱えてるTosa民権運動の一環。
*鍵は現地の料亭文化?
1897年に女性参政権協会全国連盟(National Union of Women's Suffrage Societies、NUWSS)が各地の女性参政権協会をまとめて設立された。この連盟を率いていたのはミリセント・フォーセットであり、法にかなったキャンペーン、リーフレットの発行、大会の組織、請願の提出などを信じて実行したが、ほとんど効果はなかった。
- ミリセント・ギャレット・フォーセット(Millicent Garrett Fawcett、1847年〜1929年)…盲目の夫とともにジョン・スチュアート・ミルの忠実な信奉者だった。1925年にはナイト(デイム)の地位を授与されている。
1903年になってもイギリスの女性には参政権がなかった。そしてこの年、フェビアン協会に参加したエメリン・パンクハーストがマンチェスターに新組織女性政治社会連合(Women's Social and Political Union、 WSPU)を結成。当初は「会合によって政治家を説得して」労働党地方支部への入会を性別を理由に拒絶されたエメリンは効果が見込まれるのならば過激・戦闘的な運動を行おうと考えていた。戦闘的なWSPUと先行するNUWSSの会員は重なっており、相互にサポートをしていた。
- エメリンは当初「会合の繰り返しによって徐々に政治家を説得していく」穏便な展開を構想していたが、労働党地方支部への入会を性別を理由に拒絶されて相手側が一切聞く耳を持ってない現実を思い知らされたとも言われている。当初の参加者の多くは社会的・経済的状況に不満を抱いていた上流階級かミドルクラス出身の女性であったが「産業革命揺籃の地」マンチェスターが過激化の発端に。
- サフラジェット(suffragette)という言葉は、とくに「 暴徒の女王(Queen of the Mob)」と渾名されたエメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst、1858年〜1928年)とその長女クリスタベル・パンクハースト(Christabel Pankhurst、1880年〜1958年)に率いられたイギリスのWSPUの活動家を指す。
- サフラジェット(suffragette)という言葉自体はロンドンの『デイリー・メール』で働いていたジャーナリスト、チャールズ・E・ハンズが初めて用いた単語で、女性参政権運動の活動家、とくに女性政治社会連合(Women's Social and Political Union、 WSPU)のような人を嘲笑的に指す言葉であった。しかしながらハンズが馬鹿にしようとした女性たちはこの言葉を活用することにし、"suffraGETtes"とgを固く強い音で発音して、自分たちは投票をしたいだけではなく、それを勝ち取る("get")つもりだという意味をこめてこの言葉を用いた。
1900年代初頭における英国と米国のポスター
- 当時のイギリスで女性参政権運動が行き詰まってしまったのには、保守党のプリムローズリーグ運動が成功を収め過ぎて女性や労働者の参政権を認めると保守党有利となる為、自由党や労働党がこれに乗り気でなかった(労働党は冷笑するだけだったが、自由党は弾圧にまで走る)という党利問題も絡んでいた。
最初に収監されたサフラジェットは、1905年10月に逮捕されたエメリン・パンクハーストの娘クリスタベル・パンクハーストとアニー・ケニー。1905年10月。マンチェスターで開かれた自由党の集会に、クリスタベルとメンバーのアニー・ケニーが出席。女性参政権についての質問を行うも二人は無視され、あまつさえ会場から追い出される。会場の外でなおも声を上げ続ける二人に対し、警察官が止めに入ると、二人は乱暴なふるまいをした(クリスタベルは警察官を殴り、つばを吐きかけたようである)。二人は公務執行妨害で罰金刑となるが、支払いを拒否。このためケニーは3日間、クリスタベルは10日間投獄されたのである。このことが当時の新聞のかっこうのネタとなり、大きく取り上げられた。これ以降、WSPUのメンバーたちは選挙演説会場に行っては、候補者に女性参政権についての激しい詰問を行うようになる。
- 収監されている間、サフラジェットは政治犯として扱ってもらえるようロビー活動を行っている。政治犯の分類になれば、サフラジェットは監獄システムにおいて第二類・第三類ではなく第一類となり、頻繁な面会許可や本・記事の執筆など、他の分類の囚人に許されていない自由を得ることができたからである。さまざまな裁判所の間で扱いが一定しなかったため、サフラジェットは必ずしも第一類になるとは限らず、第二類や第三類となってあまり自由を得られないこともあった。こうした運動の盛り上がりによって大組織となったWSPUはキャンペーンやロビー活動を続けたがほとんど成功しなかった。サフラジェットが政治犯となると安易に殉教者を作り出してしまう恐れが存在したからである。 また、裁判所や内務省はサフラジェットが第一類の自由をWSPUのアジェンダを推し進めるために濫用していると考えていた。このため、サフラジェットは第二類、場合によっては第三類に分類され、結果的に何も特権は認められなかった。
一般的に、歴史家は1906年にパンクハースト母娘(エメリンと娘のクリスタベル及びシルヴィア)のもとでサフラジェット運動が戦闘的になった第一段階において、女性参政権運動に劇的な動員効果がもたらされたと論じている。女性は通りに出て実際に反逆を行うということに興奮をかきたてられ、これを支持した。しかしながらロバート・アンソールが論じている様に、さらに注目を集めるにはもっともっとメディアで高い注目を集め続ける必要があったのである。
- 1906年の国会ではWSPUのメンバーたちが下院に押しかけて演説をし、排除されそうになるとスクラムを組んで抵抗し、またもや警察沙汰となった。この時も罰金刑に処されるが、やはり支払いを拒否。投獄され、注目を集める。
- その一方で、この当時のサフラジストの多くが「戦闘的なサフラジェットが女性参政権の大義を傷つけている」と主張している。実際、この時期に女性参政権運動に反対していた人々は、サフラジェットの運動を見て、女性が感情的すぎて男性のように論理的に考えられないということの証拠とした。
この年、WSPUは活動拠点をマンチェスターから首都ロンドンに移す。この頃からエメリンの次女シルビアがWSPUの会員証、バッジ、ポスターなどのデザインを手がけるようになり、緑、白、紫がWSPUのシンボルーカラーとなった。
スローガンは「Deeds not words(言葉ではなく行動を)」。そのスローガンの通り、WSPUの活動は活発化。バザーを開いたり、寄付金を集めたりして活動資金を募り、会員数を増やしていった。
集会の知らせは歩道にチョークで書かれ、大規模な集会やデモを展開。支持を労働者階級から中産・上流階級にも広げ、WSPUの店を開店し「Votes for women」というブランドのチョコレートや紅茶を販売。しかし、このことが「労働者階級から目をそむけ、上流階級と親交を深めている」と、古くからのメンバーの反発を招くこととなる。
特に非難はエメリンとクリスタベル母娘の独裁的な体制に集中し、WSPUは分裂、一部のメンバーはWSPUから離れて新しい運動体を立ち上げた。しかしその後もWSPUは中産・上流階級を中心にメンバーを増やし続け、運動を大規模化させていく。
サフラジェットはハンガー・ストライキなど過激な手法を用いることがあったが、これはツァーリズム下のロシアからイングランドに亡命してきた人々から学んだとされる。
- 20世紀初頭から第一次世界大戦までの時期にイギリスでは1000人ほどのサフラジェットが収監された。 初期の収監理由のほとんどは治安妨害や罰金未払いなどを理由とするものであった。
- 1909年7月、器物損壊でホロウェイ刑務所に1ヶ月収監の刑を宣告されたマリオン・ウォレス・ダンロップ(Marion Wallace Dunlop)が最初に食事を拒否。パンクハーストのようなサフラジェットのリーダーに相談することなく、あくまで個人的に政治犯としての扱いを拒否する抵抗手段としてこれを行ったのだった。91時間のハンガー・ストライキの後、ダンロップが殉教者となるのを恐れた内務大臣ハーバート・グラッドストーンは健康上の理由による早期釈放を決定。ダンロップのこの戦術を他のサフラジェット収監者もさっそく模倣する様になる。
- 1909年9月、刑務所がチューブを用いてハンガー・ストライキ実施者に強制摂食させ始める。内務省は刑期をつとめあげる前にハンガー・ストライキを行うサフラジェットを釈放することを避けたいと考えていたが、収監中に死亡すると刑務所がその死の責任を負わねばならなくなる。こうした事情の妥協の産物であった。
The Sociological Cinema (Arrested on the official charge of “obstructing...)
- 多くの場合鼻チューブ、胃チューブ、胃洗浄器を使用したが、それ自体は食べ物を食べたり飲み下したりできないほど病状の悪い入院患者に対して以前よりイギリスで行われていた措置に過ぎなかった。医療従事者により「病人への適用は安全である」とされていたが、当事者の同意なしの実行となると話が変わってくる。ハンガー・ストライキ実行者は通常縛られ、しばしばかなりの力で押さえつけられて胃チューブか鼻チューブで強制摂食させられた。このプロセスは大きな苦痛を伴うもので、内科医による観察・研究の後、循環系、消化系、神経系への短期的ダメージと身体及び精神の健康への長期的ダメージの両方をサフラジェットに及ぼす可能性があると指摘される事になる。 強制摂食を受けたサフラジェットの中には、チューブの位置が間違っていた結果、胸膜炎や肺炎にかかるものもいた。そうするうちにサフラジェットの囚人分類について公衆も気に掛ける様になり、分類規則が修正される展開に。
- 1910年3月、243A規則が内務大臣ウィンストン・チャーチル(当時はジョゼフ・チェンバレンの保護貿易論に反発して自由党へ移籍中)により導入され、これにより重罪に問われていないという条件で第二類と第三類の囚人にも第一類の囚人が持つ特定の特権を付与できるという事になる。これによって2年にわたるハンガー・ストライキは一旦終了した。
*サフラジェットは1910年のロンドンを舞台とする「メリー・ポピンズ(Mary Poppins、1934年〜1988年、映画化1964年)の映画版にも登場。まさにこの件を祝っている?
Elesbian Bennet
- とはいえパンクハーストが第二類から第一類に移された際には、自分たちの囚人分類についても再考すべきだと考えたサフラジェットたちが抵抗をし、ハンガー・ストライキを再開している。
The arrest of the suffragette leader Emmeline Pankhurst - 1908.
1910年11月18日、ブラックフライデー事件。200名のサフラジェットが警察から暴行され、こうした事件を契機に戦闘的な女性達は男性の暴力から自衛する必要を痛感するようになっていく。
- 1912年はイギリスのサフラジェットにとっての転機となった。この年からサフラジェットたちは手すりに自分たちの体を鎖でつないだり、郵便ポストの中身に放火したり、窓を割ったり、時には爆弾を爆発させるといった具合にさらに戦闘的な手法に頼るようになったのである。イギリス中で手紙やそれが入った郵便ポストが燃やされたり酸を注ぎ込まれたりした。クリケット場や競馬場など、富裕な人々、とくに男性がいる場所も放火や破壊活動の対象になった。また体系的に自由党の会合を邪魔したりもした。
- ロンドン中で続いて放火が起こる中、キューガーデンにあるティーハウスがサフラジェットのオリヴィア・ワリーとリリアン・レントンに放火された。やはりキューガーデンにあるオーチャード・ハウスもサフラジェットが襲撃したのではないかと考えられてるが、確たる証拠は見つかっていない。
*映画では完全にクロとして描写されるが、証拠不十分で立件を免れている。
- またこの年以降、エメリン・パンクハーストと娘のクリスタベルは投獄を免れる為にパリに逃れた(第一次世界大戦が始まると帰国)。実働部隊は少数精鋭主義をとった。次第に男性の組織との協働を拒む様になり,性戦争の様相を深めていったとも。
1913年初頭、WSPUは「ボディガード」として知られる女性の一団を作った。この女性たちの役割は、エメリン・パンクハーストを筆頭とする著名なサフラジェットを逮捕や暴行から守ることであった。キャサリン・ウィロビー・マーシャルやガートルード・ハーディングなどがメンバーとして知られている。武道家のイーディス・マーガレット・ガラッドがこの女性たちの柔術師範をつとめた。「ボディガード」のメンバーはリーダーを守るため、警察と戦う暴力的な闘争にも参加した。
上西貞一 (1880年〜1908年以降)- Wikipedia
1900年、20歳になった上西は折衷的な武術であるバーティツの創始者であるエドワード・ウィリアム・バートン=ライトに招かれてロンドンに渡った。ロンドンに到着してすぐ、上西はシャフツベリー・アベニューにあるバートン=ライトのバーティツクラブで、同じく日本をあとにしてきた柔術家の谷幸雄に会っている。
谷と上西はバートン=ライトがプロモーションした試合で自分たちよりもかなり大柄な相手を巧妙に打ち負かすようになり、プロの武道家として名をあげ始めた。この頃の谷と上西はミュージックホールなどのイベントで賞金のかかった試合に出場することで生計を立てていたと考えられている。ミュージックホールなどで行われる試合には見世物的な側面が強くあり、上西は15分で6人の相手を打ち負かすなどという派手な試合も行っていたという。
バーティツクラブが1902年頃に閉鎖され、上西と谷はこの頃、おそらくは給与の問題でバートン=ライトと袂を分かった。この頃の谷と上西のマネージャーは、のちにJu-Jitsu: What It Really Isを著すウィリアム・バンキアーがつとめていた。上西はプロの武道家として活動を続ける一方、バーティツクラブでかつて同僚であったピエール・ヴィニーが作った護身術教室で柔術のクラスを教えるようになる。上西は評判の良い教師で、1903年までにはピカデリー・サーカスゴードン・スクエア31番地に自分の道場である「日本式護身術学校」(the School of Japanese Self Defence)をはじめることができた。
上西はエドワード朝ロンドンの社会に馴染んで暮らしていた。スタイリッシュなファッションセンスに紳士らしい振る舞いをするエキゾティックで個性的な人物であり、このためにメディアからも注目された。1905年に日本が日露戦争に勝利したことなどもあってエドワード朝の人々は日本の武術に興味を示すようになっており、こうしたこともあって上西のキャリアは上向きになった。
1905年に、弟子であるE・H・ネルソンの助けで、プロの武道家としての別名「ラク(Raku)」として『柔術の教科書』(Text-Book of Ju-Jutsu)を執筆した。この本は参考書として人気を集めた。3年後、副業として試合も続けつつ、上西はオールダーショット軍学校とショーンクリフ・アーミー・キャンプで近接格闘術の教師として働くことになった。
1908年末に日本へと帰国。ゴードン・スクエアの教室は弟子の中から熟達した柔術家であったウィリアム・ガラッドにまかせた。帰国以降の上西の暮らしぶりはよくわかっていない。しかしながら英国の柔術専門家であるパーシー・ロングハーストが第二次世界大戦直後に書いた『柔術の教科書』第9版用の上西の伝記によると、上西は「数年前に亡くなった」となっている。
上西の弟子として直接影響を受けた著名な人物としてはウィリアム・ガラッドがおり、1914年にガラッドが刊行したThe Complete Jujitsuanは柔術に関する標準的な参考書となった。上西は女性の弟子をとっており、中には武道家として後世に名を残した者もいる。上西の弟子でウィリアム・ガラッドの妻であったイーディス・マーガレット・ガラッドは、夫が上西から受け継いだ道場で女性や子どもを教え、戦闘的な女性参政権運動家たちに柔術を教えるクラスを作った。また別の弟子であるエミリー・ダイアナ・ワッツは1906年の著書 The Fine Art of Jujitsuで講道館柔道形を初めて英語で書き記した。小泉軍治は上西の教室で教えていたことがある。現在、イギリスで稼働している柔道や柔術のクラブには上西貞一の弟子まで素性をたどれるものもある。
- 「ボディガード」の起源はガラッドがWSPUの会合で発言したことにさかのぼる。公衆の面前で話すサフラジェットはどんどん暴力のターゲットにされ、暴行を受けやすくなっていたため、柔術を教えることは激怒した妨害者に対して女性が身を守る方策となった。
poehler bonham carter (THIS IS ACTUALLY THE BEST THING IN MY LIFE.)
1913年4月、内務省のレジナルド・マッケナは「1913年における健康悪化による囚人の一時釈放法(Prisoners(Temporary Discharge for Ill Health)Act 1913)、通称「猫とネズミ法(Cat and Mouse Act)」を通過させた。
- この法によりサフラジェットは健康状態が悪化すると一時的に釈放され、健康が回復すると刑期終了まで収監されることになり、これによりハンガー・ストライキは法制にとりこまれた。この法によりイギリス政府はハンガー・ストライキ実施者が飢えにより死んだり病気になったりすることからくる責任から解放され、さらに収監されていない時はサフラジェットは示威行動に参加できないほど病気で弱っているという言質をとることができるようになったのである。ほとんどのサフラジェットは、釈放後に再収監された際はハンガー・ストライキを継続した。この法が導入された後、大規模や強制摂食は停止され、重罪に問われていて釈放されると再犯すると考えられる女性のみが強制摂食を受けるようになった。
A shattered window following an explosion by Suffragettes, HM Prison Holloway, 1913
1913年6月4日、サフラジェットのひとりであったエミリー・デイヴィソン(Emily Davison)がエプソムダービーで国王ジョージ5世の馬であるアンマーの下敷きになって死亡した。馬に「女性に参政権を("Votes for Women")」のバナーをピンでつけようとしていたという説もあるが、これについては議論がある。仲間のサフラジェットが数多く収監されたが、政府を脅すため食事を拒否。アスキス率いる当時の自由党政府は「猫とねずみ法」でこれに対処した。
- この時期の他の傑出したイギリスのサフラジェットとしてはパンジャーブ地方の王女であったソフィア・ドゥリープ・シング(Sophia Duleep Singh)がいるが、その後70年にわたってその業績はほぼ忘れられていた。
NPR - 1913年のこの展開についていけない人々が何人もWSPUを離れたが、その中にはエメリン・パンクハーストの娘であるアデラ(Adela)とシルビア(Sylvia)の姿もあった。アデラはオーストラリアに移住し、シルビアは社会主義者になった。
ロンドン博物館でも女性参政権コーナーにすごく惹かれたがテートブリテンでは女性と仕事、そして切り離せない参政権についての展示がすごく刺さった。シルビア・パンクハーストの芸術活動と社会活動の匙加減の結果、芸術活動を止め参政権に尽くしたあたり彼女の秀でた芸術的才能を見ると胸を突く。
— なっち (@nachisan2) 2014年1月2日
1914年にもイギリス中で少なくとも7軒の教会が爆破・放火された。これには700年前に作られた即位の椅子の破壊を狙ったウェストミンスター寺院の爆破工作も含まれていたが、近くに爆弾があったにもかかわらず即位の椅子は軽い損傷だけですんだ。
- 同年のアメリカの状況の風刺画。大統領が共和党のルーズベルトから民主党のウイルソンに代わっても相変わらずだった。
Princeton University Archives (Tiger Tuesday: You might want to zoom in on this...)
最終的にこの問題を解決したのは第一次世界大戦(1914年~1918年)下での総力戦体制構築で、皮肉にもサフラジェット運動は暴力路線を放棄し、戦争協力を誓う事によって英国女性の参政権獲得に大きな役割を果たしたのだった。同時期ドイツでもSPD(ドイツ社会民主党)が戦争協力を誓って躍進。第一次世界大戦における敗戦を契機に勃発したドイツ革命(1918年)鎮圧を経てワイマール政権樹立に至っている。
まさにこの展開を描いたのが映画「未来を花束にして(Suffragette,2015年)」でしたが、新左翼思想家に企画を乗っ取られた様でとんでもないテロ礼賛映画に仕上がってしまいました。それで世界の穏当なフェミニスト達は作中にボディーガード役で登場するヘレナ・ボナム・カーターの名台詞「あなた達の正義が正しいか間違っているか、私には分からない。だが目の前に暴力に脅かされた女性がいる以上、身の守り方を教えよう」のみを礼賛したのです。
映画「サフラジェット」について言えば、サフラジェットの暴力的な活動が中心に描かれていて、テロ礼賛になりかねない危なっかしさがあまり好きでない。後に社会主義者になったパンクハーストの娘シルビアがやっていた、下層階級の労働女性達のための社会正義に基づく地道な活動とか、とても重要。
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2016年9月13日
サフラジェットは武装闘争では参政権を得られず、戦時中に徴兵忌避者等を卑怯者とラベリングをする白い羽根運動に協力、後に参政権を得た経緯がある。米国の女性運動家は選挙権を得る為にレイシストと共謀もした。日本の活動家にはこういうプラグマティズムがなかったのかも。@midoriSW19
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2016年9月14日
政府寄りの白い羽根運動を推進するパンクハーストと長女クリスタベルに対し、平和主義者の次女三女シルヴィアとアデラは資本主義の拡大に過ぎないとして戦争に反対。ワタシは後者が好みだけど、運動としては前者が有効だった。@midoriSW19https://t.co/0lSZIMxcHC
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2016年9月14日
息子によると、UKの歴史教育(狭く深く)ではサフラジェットは殆ど素通りらしいのだけど、この運動の二面性も関係してるのかもと思う。コレをしっかり学習すると、フェミニズム運動にも柔軟性が出るんではなかろうか、など。@midoriSW19 https://t.co/0lSZIMxcHC
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2016年9月14日
女性参政権百周年特集の一環で、今夜チャンネル4で映画「サフラジェット」を放送したのだけど、改めて見て感動の引き出し方が安っぽく、やっぱりダメだと思った。無駄にドラマチックで、史実の肝心な所を無視してるし、大バジェット映画の限界なのだろう。あるいはハリウッド的映画文法とでも言うか。
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2018年2月4日
「母親のエメリン、姉のクリスタベルとは異なり、シルビア・パンクハーストは社会主義者で、キア・ハーディ(英国初の独立労働党議員)とも近しかった。
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2018年2月6日
彼女は後にエチオピア皇帝ハイル・セラシエの顧問となり、1960年にアディスアベバで死去、国葬で送られた」
シルビアはサフラジスト。 pic.twitter.com/6TOafjqPlg
「たとえ殺されようとも、わたしは資本主義と戦い続ける。他の人々が飢えているというのに、自分は快適に暮らし、十分な食事に恵まれているのは当然だとする人々は間違っている」
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2018年2月6日
シルビア・パンクハースト(1882-1960)https://t.co/n5vJUixhA1
百年前の今日、選挙法が改定し、女性の参政権が認められた。コービンが「some」と述べているように30歳以上の女性のみが対象で(さらに教育とか有産者の妻とか条件付き)、21歳まで拡大したのは10年後。同法改定で21歳以上の労働者階級の男性は普通選挙権を得た。https://t.co/GAvy0MZRwt
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2018年2月7日
議事堂内の掃除道具入れの扉に装着された銘板。1911年の国勢調査の夜、サフラジェットのエミリー・ワイルディング・ディヴィソン(後に王の馬に蹴られて死んだ女性)が、現住所を議事堂にする為に身を潜めたのを記念し、故トニー・ベンとコービンが秘密で取り付けた。https://t.co/cZjKYeAHmD
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2018年2月7日
トニー・ベンとコービンが、どのように議事堂内道具入れにエミリー・ワイルディング・ディヴィソンの銘板を取り付けたか。夜11時に道具箱と電気ドリルを持ってチャペルに行くフリをした。無許可だからわーわー言われたけど、今では掃除係が磨き上げ、観光名所になってるヨ。https://t.co/rBjLcMuylP
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2018年2月7日
第一次大戦前に選挙権があったのは男性の6割→最前線で戦った男性労働者階級に選挙権を与えざるを得ず→追加の男性有権者4割で政治バランスが崩れるのを防ぐ為に→①自分か夫が不動産持ち②高学歴等の条件付き(すなわち中流以上)で、30歳以上の女性(約4割)に選挙権付与。https://t.co/bAEfljtyDv
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2018年2月7日
映画「サフラジェット(邦題「花束ナンチャラ」)で感動したみんな、夢を壊してゴメンな。武装闘争では権利拡張できないんだよ。
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2018年2月7日
10年後に女性が普通選挙権を得られたのは、戦前からの地道なロビー活動(中国系・インド系移民を含む)、組合や社会運動を通じての啓蒙による。https://t.co/q0jeuWbWwH
ロンドン中心部の交通をマヒさせてる環境活動家集団 #ExtinctionRebellion が自らをサフラジェットになぞらえ、高貴な目的達成の為の反社会的行動を正当化してるのだけど、サフラジェットの行動の効果に対する一種の歴史修正が背景にあり(映画のせいで広がった)、なんだかなーな気持ちになってる。
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2019年4月18日
英国女性の一部(30歳以上の中流階級)が投票権を得たのは、第一次大戦で多数の犠牲者を出した労働者階級男性に投票権を付与するにあたり、コレで労働者の影響力が増すのを防ぐ為。米国女性の参政権は、黒人男性への投票権授与とのバランス。賢明なプラグマティズムだと思う。https://t.co/0lSZIMxcHC
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2019年5月28日
細かいことを言うと、サフラジェットというのは女性参政権運動家のうち、戦闘的手法も用いた英国WSPUメンバーをさします。広い意味での女性参政権運動家はサフラジストと言い、米国の運動家もこっち。https://t.co/meqGCCCalg
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2020年8月22日
サフラジェットとは、狭義には女性参政権運動を戦闘的に展開した英国WSPUメンバーを差し、もっと穏当に運動した無数の活動家の事はサフラジストと言います。前者のドラマチックな活動の方が有名ですが、実際に効果があったのは後者の地道なロビー活動や社会運動との説も。https://t.co/XWqi2DWnpw
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2020年11月30日
サフラジェット・トリコロール(紫、白、緑の3色)のベルト。https://t.co/IuxMjsWABC
— Midori Fujisawa共訳『候補者ジェレミー・コービン』岩波書店 (@midoriSW19) 2021年5月9日
こうして全体像を俯瞰すると、最終的に「古典的自由主義」の理念は以下の様な構造に拡張される展開を迎えたとも考えられそうです。もはや単純なフェミニズムの枠内に留まらず「フェミニズム概念を内包する何か」に発展的に解消された印象。
- 伝統主義(Traditionalism)…何かと理屈を付けてあらゆる変化を拒む因循姑息な守旧派。黒人公民権運動において重要な役割を果たしたブラックモスレムが「女性も魂を持つ事を認めないのが黒人文化の伝統である」と言い出して黒人女性の離反を招いた様に、いわゆる民族左派にも現れるから要注意。
- 進歩主義(Progressivism)…改善が見込める評価軸を抽出し、その枠組みにおける評価向上に努める。線形代数的表現を用いるなら、あえて「行列式が0=次元が潰れた状態」に注目する立場とも。
- 保守主義(Conservatism)…全体像を俯瞰する立場から、進歩主義的立場に立脚する改善運動に懐疑の目を向け改訂箇所を必要最小限に留めようとする。エドモンド・バークが「フランス革命の省察(1790年)」の中で述べた「時効の憲法」概念の信奉者をその代表例とする。
実は進歩主義と表裏一体の関係にあり、ある方面における進歩主義者が別方面では保守主義者である可能性も十分に想定される点に注意。つまりカール・ポランニーが「大転換(The Great Transformation,1944年)」の中で述べた英国第二次囲い込み運動の総括「それなら運動推進側と反対側のどちらが正しかったのだろうか?越法行為自体は双方にあった。むしろ歴史的にはかかる対立構造が産業革命導入の準びに必要な社会改革を概ね社会的動揺を最小限に止める天秤として機能した事だけが重要とされる」と密接にかか関わってくる。二次元行列式ad-bcにおいて転置の影響を受けない対角成分adに該当。
- 急進主義(Radicalism)…一歩間違えば手段が目的化し、その不可知論的立場から「いかなる破壊も究極的には再生につながる」などと寝言を言い出し自らの盲目的破壊活動を正当化する。(当座さらに解決可能な問題が検出されなくなり)保守主義的掣肘から解放された進歩主義が辿る末路。ある意味二次元行列式ad-bcにおける非対角成分bcに該当(行列式を1にまとめるには正負の量が等しくなる様に調整しなければならない)。
かかる四大アプローチ概念の大源流はロジスティック方程式のとある解釈。
そんな感じで以下続報…