出発点は老荘思想における「神仙境」のイメージの起源。
- 前漢代(紀元前206年〜紀元後8年)の始元6年(紀元前81年)に当時の朝廷で繰り広げられた「塩鉄会議(塩や鉄の専売制などを巡る討論会)」を後日、桓寛が60篇の書物にまとめた「塩鉄論」においては中央政権側の立場を代弁する黄老思想家や法家と地方豪族の立場を代弁する儒家が対等に争っている。
- 後漢代(25年〜220年)は逆に儒教を地方分権の正当化に利用する在地豪族達の全盛期となったが、黄巾の乱(184年〜192年)や北方遊牧民の影響力増大といった国家レベルの危機に対応出来ず、かえって治安悪化に備えるべく各地豪族が軍閥化して群雄割拠の時代が始まる事になった。
- その一方で知識人を含む多くの民が難を避けて荊州・揚州・益州・交州といった江南や四川の辺境地域に移住。これらの地域の文化水準の向上と開発を促して南北朝時代(439年〜589年)が準備される展開となる。
ちなみに老子と荘子がまとめてあつかわれるようになったのは百科的思想書の「淮南子(紀元前139年頃成立)」以降。黄老思想から法家が現れた中央集権的流れとは明らかに異なる無政府主義的神仙思想の大源流NO一つとなる。
- 前漢代と後漢代の狭間(紀元後8年~紀元後25年)には僻地に周囲を壕で囲った「中央集権の支配に服さない」集落が数多く現れた(ここに1世紀から3世紀にかけて九州北部連合王国や纒向政権への服従を拒む人々が築造した環濠集落や高地性集落の原点を見る向きもある)。
- 政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのが非常に困難となった魏晋南北朝時代(184年〜589年)には世俗から身を引く事で保身を図る玄学(「易経」「老子」「荘子」を主要経典に掲げた神仙思想の一種)が広く高級官僚(貴族)層に受容される。加えて仏教の影響もあり、老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす清談が南朝貴族の間で流行した。
*清談は魏の正始の音に始まり、西晋から東晋の竹林の七賢(嵆康、阮籍、山濤、向秀、劉伶、阮咸、王戎)の名が筆頭にあがるが、これらの人々が集団として活動した記録はない。仏教とくに禅宗に接近し、これに対抗した儒教(朱子学)にも影響を与えた。
- 唐朝(618年〜907年)の皇室は、隋朝(581年〜618年)より三教主義(儒教・道教・仏教を平等に重んじる立場)を継承しつつ、漢人有識者達との対抗上、道教を自らの装飾に好んで用いた。
*とはいえ当時の状況は恐ろしく入り組んでいて、今日なお全てが解明されたとは言い難い状況が続いている。例えばヤマト王権時代の物部氏武器庫であったと推測されている奈良県天理市の石上神宮に伝わる鉄剣「七支刀」は早々に由来を紛失し、明治7年(1874年)に石上神宮大宮司となった菅政友(水戸藩出身で「大日本史」編纂に参加した経歴もある歴史研究者)が刀身の金象嵌銘文を「発見」して以降数多くの議論を呼んできた。
*例えば「369年に東晋(317年〜420年)の朝廷工房で造られた原七支刀があり(当時高句麗と軍事対立状態にあり、まず東晋と冊封関係を結び次いで倭国を冊封下に置こうと構想した)百済がまず372年正月に東晋に朝貢し、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると同年これを模造して倭王に贈った(山尾幸久・浜田耕策)」といった説が存在するが、これは東晋皇室が自らの正当化の為に道教を用いていた(あるいは道教を奉ずる冊封国に対しては道教宗主国として振る舞った)状況を前提とする。まずこれを証明するのが難しいのである。
*斉明天皇・天智天皇・天武天皇の時代の遺物(6世紀末〜7世紀)にも老荘思想の影響が色濃く認められるが、これも中央集権側からの統制意図が強く感じられる内容。新羅からの影響ともされるが、とにかく第8回遣唐使(702年〜704年)以降の唐朝文化への傾倒と排他的に存在したと目されている。
*逆に7世紀末から8世紀初旬にかけて日本の飛鳥地方に築造されたキトラ古墳や高松塚古墳、中国西域トルファンのアスターナ古墳群(942年築造)などで発見された「死によって分離した魄を過去の栄華を主題とする壁画で慰め、魂を天上の天体図で北辰に導く葬礼」には、上掲の様な政治的要素が一切見られない。
- そして科挙制度を通じて儒教が完全に中華王朝の統制下に入ったのは、五代十国時代(907年〜960年)を制した宋朝(960年〜1279年)以降となる。
*非常にややこしい事に天竺に経典を取りに向かう玄奘三蔵を前世9回殺して阻止してきたとされる沙悟浄は、この科挙に落第して揚子江に身を投げた受験生の怨霊(容姿は揚子江海豚)が起源とされる事がある。元代の朝鮮の資料「朴通事諺解」には悟空と八戒のみが紹介されているが、これは沙悟浄が登場する流沙河の段が現存していない為で、「大唐三蔵取経詩話(北宋末から南宋に成立したと推定される通俗小説話本)」に登場する「玄奘三蔵が流沙河という砂漠で幻想に見、励まされた深沙神」がモデルとすれば西遊記物語への登場は悟空や八戒よりも早い事になる。それ故か「西遊記」中でも(物語中では最後に弟子になったにも関わらず)三人の弟子の中で最も高位の存在として扱われている(雑劇でも水官大帝が四海竜王達へ差し向けた上使の役回り)。
フランスの中国学者アンリ・マスペロ(東洋文庫『道教』の著者)などは「老荘思想と道教は連続的性質を具える」とする。実際、道教は老荘思想から数多くの要素を吸収したが、日本の研究者の間では「哲学としての老荘思想と道教はあまり関係がない」という立場が一般的。そして、こういう雰囲気を背景に爛柯伝説などが編纂される。
囲碁の別称の一つ。中国の『述異記』などにある伝説に基づく。
- 爛柯山という山の名が浙江省衢州市、山西省武郷県、陝西省洛川県、広東省高要県に残されており、それぞれに爛柯伝説がある。また四川省達県の鳳凰山にも同様の伝説があり、欄柯邸が建てられている。
- 一般には衢州のものが本来の土地と考えられており、青霞洞という洞窟が王質の入った石室とされ、山門わきに中国囲棋協会の陳祖徳の書による「衢州爛柯 囲棋仙地」の石碑も建てられている。2006年からは囲碁棋戦衢州・爛柯杯中国囲棋冠軍戦が、衢州市で開催されている。
述異記などの伝説
- 南朝梁の任昉『述異記』上巻に以下の故事がある。「晋の時代(中山典之『囲碁の世界』では春秋時代の晋とされているが、中野謙二『中国囲碁三千年の知恵』では西晋または東晋とされている)、信安郡の石室山に王質という木こりがやってくると、そこで数人の童子が歌いながら碁を打っていた。王質は童子にもらった棗の種のようなものを口に入れてそれを見物していたが、童子に言われて気がつくと斧の柄(柯)がぼろぼろに爛れていた。山から里に帰ると、知っている人は誰一人いなくなっていた」。この話は『述異記』が著名だが、虞喜『志林』(太寧3年(325年)刊)に記されているものが最も古い。『晋書』にも同様の話が所載されている。
- 北魏の酈道元『水経注』には、やはり晋の時代の事としてこうある。「王質が木を伐りに行って石室に着くと、4人の童子が琴を弾いて歌っていた。王質はこれを聞いていたが、しばらくして童子が帰るように言われると、斧の柄が爛し尽くされており、家に帰ると数十年が過ぎていた」。
- 宋代の『太平寰宇記』巻九十七、江南東道の衢州信安県の条にこうある。「石室山は別名石橋山、空石山ともいい、王質が童子の碁を見ていると、童子が、汝の柯、爛せりと言う。家に帰ると100歳になっていた。この山は爛柯山とも名付けられた。同書の巻八十では、剣南道翆集嶲州越嶲県の条で、王質は二人の仙人が碁を打っているのを見て、碁が終わって見ると斧の柄が腐っており、二人が仙人であることを悟った」。
- 明の時代の王世貞『絵図列仙全伝』では、王質が童子の碁を見ていると、斧の柄が爛り、家に帰ると数百年が過ぎており、王質はふたたび山に入り仙人となる。
類似の伝説
- 唐の段成式の『酉陽雑俎』には「晋の太始年間、北海の蓬球、字は伯堅という者が、貝丘の玉女山の山奥で不思議な宮殿にたどり着くと、中では四人の婦人が碁を打っていた。そこに鶴に乗った女が現れ、球のいることに怒ったので、門を出て振り返ると宮殿は消え失せていて、家に帰ると建平年間になっていた」とある。
- 『幽明録』にある民話では、漢の明帝の永平5年(62年)に剡県で、劉晨と阮肇が天台山で女に出会い、村へ帰ると七代後の子孫が住んでいた。この変形で「仙女の洞窟」という民話では、劉晨と阮肇が山で迷い込んだ洞窟で仙女が碁を打っていた。村へ帰ると400年~500年が過ぎており、洞窟に戻ると扉が閉じていて、二人は頭を壁に打ちつけて死んでしまった。天はこれを哀れんで、二人を幸運の神と悪運の神に任命したとある。
- 南朝宋の劉敬叙『異苑』では「男が馬に乗って山中の洞窟を通りがかると、二人の老人が樗蒲をしていた。見物していて気がつくと、鞭は腐り馬は白骨化していた」とある。
- 同じく宋の頃、江西省黎川近くの蒙秦山の伝説では、木こりが牛にまたがって山中に入り、仙人の碁を見ていると斧が腐り牛は骨と皮ばかりに干涸びていた。
- 東晋の干宝『捜神記』の「北斗南斗桑下囲棋」には「占星家の管輅が南陽で趙顔という若者に若死にの相があると告げ、顔は言われた通りに、桑の木の下で碁を打っている二人の男に酒と肉をやると寿命を延ばしてくれた」とある。
爛柯への言及
- 唐代の孟郊による「爛柯山石橋」や、白居易、劉禹錫などが、爛柯山についての詩を詠んでいる。『西遊記』の第十回、太宗と魏徴が布陣した場面では「爛柯経に云わく」として戦術論が述べられている。
- 菅原道真の『菅家文草』に収められる「囲碁」と題する詩は「若得逢仙客 樵夫定爛柯(若し仙人に逢えば樵の斧は柄は腐るだろう)」と結ばれている。『古今集』には紀友則「故郷は 見しこともあらず 斧の柄の くちし所ぞ 恋しかりける」という、碁仲間を思う歌が収められている。
- 近松門左衛門『国性爺合戦(1715年)』の第四段「碁立軍法(九仙山)」では、明の幼太子を連れた呉三桂が放浪の末に江化府の九仙山に登ると、二人の老翁が碁を打っており、碁盤を世界に見立てた呉との会話に「軍は華の亂れ碁や、飛びかふ烏、群居る鷺と譬えしも、白き黒きに夜晝も、別で昔の斧の柄も、おのづからとや朽ちぬべし」とある。呉は翁に促されて、日本から来た国性爺が明の復興のために中国全土で戦を繰り広げる様を、山頂から一瞬で幻視する。
江戸時代の囲碁棋士林元美は、欄柯堂の筆名を用い、『爛柯堂棋話』などの著作を残した。日本棋院は1925年に、機関誌『棋道』の姉妹誌として『爛柯』を創刊し、後に『囲碁クラブ』に改名された。
実は爛柯伝説、近世(17世紀~18世紀)に世界中で砂糖農園を経営し、バタヴィアでは中国人労働者を使っていたオランダ人経由で米国植民地に伝わったとも。
- 近世には世界中で砂糖農園を経営…そこで生産された砂糖は日本に「唐三盆」として輸出され、和菓子の発展を支える事に。日本人は何故か今日なおこれを「中国からの輸入品だった」と信じ続けているが、それだと中国の伝統菓子が和菓子ほど多様な発展を遂げなかった理由が分からなくなってしまう。ちなみに江戸時代後期までに国産体制が整い、幕末期に活躍した西国大名達(特に薩摩藩)の重要財源の一つとなっている。
「リップ・ヴァン・ウィンクル(Rip van Winkle、1820年)」
アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングによる短編小説、および主人公の名前。1820年発表の短編集『スケッチ・ブック』中の一編として書き上げられた。
- アーヴィングがオランダ人移民の伝説を基にして書き上げたものであり、まさに「アメリカ版浦島太郎」と言うべきものである。
*司馬遼太郎もエッセイで書いてたけど、オランダ人はその大半が英語をネイティブ同然に使いこなし、経済圏的にもアングロ・サクソン文化圏に分類される事が多い。そもそも「レッドタートル」のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット(Michaël Dudok de Wit)監督の活動拠点もロンドン。
- 「主人公にとってはいくらも経っていないのに、世間ではいつの間にか長い時が過ぎ去っていた」という基本的な筋の類似性から、「西洋浦島」とも呼ばれている。森鴎外によって翻訳された時は、『新世界の浦島(『新浦島』)』という邦題がつけられた。また、当時アメリカの雑誌に『浦島太郎』の英訳を発表した片岡政行は、題名を「Urashima : A Japanese Rip van Winkle(浦島 日本のリップ・ヴァン・ウィンクル)」と題している。
- アメリカ英語では「時代遅れの人」「眠ってばかりいる人」を意味する慣用句にもなっている。
*おそらく岩井俊二監督作品「リップヴァンビンクルの花嫁」はこれに掛けてある。
- 1987年にアメリカ合衆国で放送された『フェアリーテール・シアター(Faerie Tale Theatre、1982年〜1987年)』では、フランシス・フォード・コッポラが監督を務め、ハリー・ディーン・スタントン主演で同ドラマの1エピソードとして映像化された。
アーヴィングが晩年を過ごしたニューヨーク州アーヴィントン(Irvington)には、リップ・ヴァン・ウィンクルのブロンズ像が飾られている。
物語
アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川とキャッツキル山地の自然を愛していた。ある日、愛犬と共に猟へと出て行くが、深い森の奥の方に入り込んでしまった。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であった。その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着いた。そこでは、不思議な男たちが九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じていた。ウィンクルは彼らにまじって愉快に酒盛りするが、酔っ払ってぐっすり眠り込んでしまう。
ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していた。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知る。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年が過ぎ去ってしまった。
*飢饉が長く続き、子捨てによる口減らしが日常化した大飢饉時代(1315年〜1317年)に由来し、グリム童話(1812年〜1857年)にも収録された「ヘンゼルとグレーテル(Hänsel und Gretel、KHM 15) 」も元話もまた「妻の要請により木樵の夫が子供達を森に捨ててくるが、子供達は自らの才覚で生き延びて生還。その間に妻は餓死してハッピーエンド」という展開を辿る。ドイツ民話は何故か「ガミガミ屋の悪妻が死んでハッピーエンド」のパターンが多くフランドル地方が主舞台となる「白雪姫」元話もこのケース。
こうした(米国史に殆ど足跡を残さなかった)オランダ移民についてのネガティブなイメージがさらに暴走したのが以下。
H.P.ラブクラフト「一枚の絵/家の中の絵(The Picture in the House、1919年頃)」
この物語の語り手は自転車での一人旅を続ける系統学者。まず最初「ニュー・イングランドを開拓したピューリタンやオランダ系移民達は何処に消えてしまったのだろうか? 今日ではその痕跡を探す事も困難である」という疑問が提示される。
- 主人公はニューイングランド農村部のミスカトニック谷に差し掛かったところで嵐に遭遇。雨宿りの為に恐ろしく時代がかった廃屋に逃げ込む。だがそこは無人ではなく「大昔の北部英語を話す、ボロボロの服を着た白髭の老人(ただし年齢の割に血色が良く皺も少ない)」の住処だった。
- 老人の奇妙なまでに熱情的な視線に耐えかねた主人公は、それから逃れる様に奥の部屋へと向かう。そしてそこにビクトリア朝風の家具、異国情緒あふれる装具、骨董品の様な希少古書が並ぶ書籍棚などを見出す。そのうち1冊を手に取ると少なくとも18世紀初頭から1896年にかけてカニバリズム(Cannibalism、人肉食)によって不自然な延命を続けてきた人物が目撃され続けている事が記録されていた。
- 主人公は天井から血が滴っている事に気付き、その原因を探りに二階へと向かう。突然主人公の視野が暗転し、物語は突如としてそこで終わりを告げる。
*「天井から血が滴ってくる」という 描写はトーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」を連想させる。またネット検索すると多くのアメリカ人がこの物語を「南部ゴシック文学」に分類される映画「悪魔のいけにえ(Texas Chainsaw Massacre、1974年, 2003年)」と重ねている事が分かる。当時の日本語題名といい、予告編のナレーションといいブードゥー教や悪魔崇拝みたいな邪教信仰に誘導しようという意図が感じられるのが興味深い。
コリン・ウィルソンはこの作品を「ラブクラフト作品にしては珍しくエロティシズム(Eroticism)が描かれる逸品。サディズム(Sadism)とカニバリズム(Cannibalism、人肉食)についての説得力に満ちたスケッチ」と高く評価する。その一方でジョアンナ・ラスは1986年の論評で「つまらない凡作」と切り捨てる。ピーター・H.キャノンは「ラブクラフト描く宇宙的恐怖(Cosmic Horror)の原風景が垣間見れる貴重な初期作品。それは故郷ニューイングランドを舞台に選び、実際のピューリタン的歴史心理(authentic Puritan psychohistory)から出発しながらカニバリズム(Cannibalism)に行き着く」とする。
*あとこれは「死体蘇生者ハーバート・ウェスト(Herbert West - The Reanimator、1921年〜1922年)」についてもいわれてる事だけど、第一次世界大戦を経験した作家が(それまで倫理的に許されていなかった様な)残酷描写で勝負する様になり、他の作家も対抗上そういう側面での対抗を余儀なくされたという側面も想定される。そういえば当時はホラー・オカルト小説、自然主義的犯罪小説、探偵小説などを扱う「ブラックマスク誌 (Black Mask Magazine、1920年〜1951年)」が創刊され、ダシール・ハメットの創始したハードボイルド文学が次第にイニチアシブを握っていく過渡期にあったのである。
*自然主義的犯罪小説(Natural Crime Novel)…エミール・ゾラ「居酒屋(L'assommoir、1877年)」「ナナ(Nana、1879年)」やトーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」の様な文学作品から英国ニューゲート小説(The Newgate novels or Old Bailey novels、1820年代〜1840年代)の如き実録物の体裁をとった作品まで「遺伝要因もしくは環境要因による犯罪者の発生」を扱った作品ジャンル。19世紀末には早くもフランスのタルドの模倣犯罪学によるイタリアのロンブローゾの遺伝犯罪学に対する反論があり、1920年代には次第に時代遅れとなっていたらしくブラックマスク誌も次第にこれを掲載しない様になっていく。
1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド|松岡正剛の千夜千冊*ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの「罪と罰(Преступление и наказание、1866年)」は、当時のロシア人がラスコーリニキ(分離派信徒)やナロードニキ(1860年代から1870年代にかけてツァーリズム打倒を目指した都市知識人の反政府運動)に対して向けた恐怖や憎悪と貧農格差拡大に伴う犯罪の横行を国際的大ヒット作となった。ここに自然主義的犯罪小説(Natural Crime Novel)の源流を見る向きもある。実際、1866年4月4日にはドミトリイ・カラコーゾフによる初の皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件が発生。「カラマーゾフの兄弟(1879年)」はこのカラコーゾフ事件をモデルとしている。そして1881年2月9日にドストエフスキーは死去したが、直後の3月13日にはナロードニキのイグナツィ・フリニェヴィエツキがアレクサンドル2世暗殺に成功するのである。農奴解放を皮切りに様々な解明的政策を次々と遂行した皇帝アレクサンドル2世が暗殺された事でロシア帝国の独自近代化路線は挫折。オーストリア帝国同様、第一次世界大戦に巻き込まれて破綻するまで抜本的改革の遂行を免れる事に。
ナロードニキ
ここで見逃していけないのは「 実際のピューリタン的歴史心理(authentic Puritan psychohistory)」なるキーワード。
- そもそも、所謂「ピルグリム・ファーザーズ(The Pilgrim Fathers=英国教会分離派 )」は英国を脱出して直接アメリカに向かった訳ではなく、一旦オランダのライデンを集結場所に選んで体制を立て直している。
-
「ボストン・ブラーミン(Boston Brahmin)」と揶揄される保守的で排他的で高慢な名門出身の知識人を輩出する一方では(最初にニューイングランドに入植した)ピューリタンやオランダ系移民のコミュニティは気づくと消滅しており、「セイラム魔女裁判事件(1692年〜1693年、200名近い村人が次々と告発され、そのうち19名が処刑され、1名が拷問死、5名が獄死を遂げた)」や「エセックス号漂流事件(1821年、漂流中の捕鯨船の乗組員達が人肉食によって生き延びる)」の様なおぞましい事件が次々と起こっては箝口令が敷かれてきた陰鬱な土地柄。
*米国ではサリンジャー作品以上の人気を誇るジョン・アップダイク(John Hoyer Updike) 「A&P(1961年)」の舞台となるのも、またこの陰鬱なる東海岸的心理空間。 -
ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年~1720年)」にもカニバリズム(Cannibalism、人肉食)の場面は登場し「それが資本主義の本質ではないか?」と指摘する向きも存在したりする。
どうして中華王朝の神仙伝説は欧米に伝わるとこういうおぞましい化け方をしてしまうのでしょう。一つ目のポイントはヘブライ人をバビロン捕囚から開放して民族自治を認め「寛容な多民族帝国」の太鼓判を押されたアケメネス朝ペルシャも、自らに楯突いたイオニア諸都市や副都バビロンは徹底破壊している二面性かと。
そもそも古代多民族帝国の伝統的統治指針だったとされる「クレメンツァ(Clemenza=寛容)」とは如何なる働きを期待されているイデオロギーだったのか?
- 中華王朝では「黄老刑名の学」に基づく「鼓腹撃攘」の故事において「それぞれ異なる価値観を有する無数の民族で構成されつつ、互いが衝突や妥協による不満鬱積を経験する事なく平穏に暮らせている状態」が称揚されている。
- かかる体制下において中央政権は直轄領からの収益、重要商品(青銅時代の青銅、鉄器時代の鉄、生活必需品たる塩など)の生産や交易の独占、遠征による略奪や戦争奴隷確保を通じて自活しつつ、諸民族間の利害調整や外国への対応などを担う。
-
そして古代多民族帝国の「寛容」には「叛乱を起こせば容赦無く破壊し尽くす」「帝国の安定的存続の為には手段を選ばない」なる限度が存在し、だからヘブライ民族は叛乱を起こした新アッシリア帝国、バビロニア王国、帝政ローマからは容赦ない討伐を受けている。
また「胃袋(常備軍を維持し、叛乱を押さえ込み続ける為の回転資金)」優先の立場から(「紀元前1200年のカタストロフ」で滅んだ)エジプト新王朝やヒッタイトは略奪遠征を継続出来なくなった時点で経済的に破綻し、新アッシリア帝国は冤罪を吹っかけてでも領内外の富貴な宝物庫の接収を続けなければならなかったと目されている。
前漢朝も全国に台頭する地方豪族の討伐を続けたが(史 記「 酷 吏 列 伝」にその残虐非道さが克明に記録されている)、最終的に生き延びたのはむしろ彼らの方で地方行政と中央政権の両方を担う立場に昇格し、後漢朝を開闢する展開を迎えている。
史 記「 酷 吏 列 伝」を読む。
この様な伝統的「寛容」イデオロギーに立脚するなら、中国共産党がチベットやウイグルで遂行している民族浄化作戦についても立派な大義名分が立つ。そうまさに(反抗的な朝鮮族全員を沿海州から中央アジアに強制移住させた)スターリンの民族政策において、それが可能な延長線上において。
ス ター リンの民族観は「マル クス主義と民族問題(1913年)」において明確に示されているが、そこでは民族とは「人々の一定の共同体」「人種的でも種族的でもな く、歴史的に人々が構成してきた共同体」「言語・地域・経済生活・文化の共通性の 中に現われる心理状態の共通性を基礎に生まれた、歴史的に構成された人々の強固な共同体」と定義されており「これらの特徴の一つでも欠けたならば、それだけで民族ではなくなる」とされている。
すなわちユダヤ人は最初からこの条件を満たしていないから最初から考慮の対象外だし、現時点でこの条件を満たしている民族も「強制移住による居住環境の変化」「国家共用語による正しい教育に基づく因循姑息で視野狭窄的な伝統的民族固有言語・歴史観・文化教養の放棄」「国民全てが享受する最新の経済生活への移行」などの進歩的政策によって最終的には跡形もなく完全に解消されるべきとする。
- 古代多民族帝国の「寛容」イデオロギーと異なり、スターリン(1878年~1953年)の国家主義ビジョンにおける民族は「民主集中制浸透に伴うよる進歩的国民の創造(すなわちあらゆる個人からの民族意識の払拭)」によって解消されるべき阻害要因としてネガティヴな語り口調でのみ語られる。スペインの「選挙に勝てる左翼政党」ポデモス(Podemos)がカタロニア独立運動に反対するのも、中国共産党がチベット人やウイグル人への民族浄化の道義的正当性を世界に訴え続けるのも、あくまでこの立場に立脚しての事である。
- また失敗に終わったドイツ革命(1918年~1919年)の最中に斃れたスパルタクス団のイデオローグ・ローザ・ルクセンブルク(1871年~1919年)も「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである」なるエンゲルスのテーゼを支持する立場からカウツキーの「民族融合論」に賛同し、レーニンらの唱える社会主義の下における戦略的民族自決権付与を否定しポーランド独立に反対している。
- 思想史的にはナチズムに傾斜していくドイツ人が掲げた粗雑な民族生物学(Ethnobiology)というより、米国POPアートの旗手アンディ・ウォーホル(1928年~1987年)も熱狂した大同主義(Datongism)の延長線上に現れた点が重要。ちなみに漢代以後の中国思想史上、大同主義は「神仙の世界=消極的で現実逃避的な理想郷に感情を投影する文学的理想主義」と表裏一体の関係を織り成してきたらしい。確かに公有地占有制限により平民中間層としての自営農民を再創出しようとしたグラックス兄弟の改革(紀元前133年~紀元前121年)を彷彿とさせる側面も。まさしく「バブーフの陰謀(1795年~1796年)」の系列に位置付けられる共産主義思想の大源流。ちなみに政治思想家ハンナ・アーレント(Hannah Arendt 1906-1975)は、そうした共産主義革命の側面を否定する立場から「国民の平等の実現を最優先課題に掲げた政権は、すべからず最終的には破綻した」と断言している。
- その一方でこの思想には「(これ以上、ローマ人やフィレンツェ人やヴェネツィア 人であり続ける事の停止を通じての)イタリアの統一」を求めたムッソリーニ(1883年~1945年)のファシズムばかりか、彼の最大の政敵だったイタリア共産党のイデオローグ・グラムシ(1891年~1937年)を大源流とするユーロ・コミュニズムにおいてすら同じ問題意識の共有が見て取れたりもするから厄介。
ならば版籍奉還(1869年)廃藩置県と藩債処分(1871年)秩禄処分(1876年)を一気に成功させて江戸幕藩体制を解体してフランス郡県制を模した近代的中央集権国家に移行しつつ共用語も創造した大日本帝国が、逆に(都心と田舎の格差問題といった即座の解決が困難な範囲まで含む)地域アイデンティティ問題についてはとりあえずほとんど踏み込まなかった事についてどう考えるべきか。
カール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」は、ある意味その立場は関心を「(外国での先例などがあって)独立(説明)変数のパラメーター操作が、従属(目的)変数に与える影響範囲がある程度まで可視化されてる領域」に集中させ、それ以外については前期ウィントゲンシュタイン流に「語りえないことについては、沈黙するほかない(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.)」立場を貫く進歩主義(Progressive)そのものであり、「すべての個人のうちに多かれ少なかれ働いていている形式的態度」にして「自らを決っして意識した事のない植物的特性」としての「盲目的に一切の変化を恐る感情」の顕現たる原始的伝統主義(Primitive Traditionalism)に「第三者の客観的視点(Objective perspective of a third party)」なる概念を導入し、その批判的検証に耐え得る(と、当人が考える)何かしらの形で「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者への畏怖」と伝統主義を結びつけた保守主義(Conservatism)への進歩を促するとした。
マンハイム「保守主義的思考」自体は「キリスト教的救済史観=中世から続いてきたドイツ人の伝統的時空間認識」を原始的伝統主義、フランス革命とナポレオン戦争に巻き込まれる形で伝わった啓蒙主義思想を(不完全ながら一応は)進歩主義と置き、その結果19世紀前半には「人間の幸福とは時代精神(Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)とも呼ばれる絶対精神(absoluter Geist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事である」とするヘーゲル哲学などが形成されたが、それは2月/3月革命(1948年〜1949年)以降欧州で広まった国際的パラダイムシフトには通用せず「完成してすぐ時代遅れになってしまった」とする。一方、ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」は同じく「原始的伝統主義=キリスト教的救済史観」と置きながら、ドイツ的進歩主義の展開が「イデオロギー懐疑(Ideologieverdacht)」と「信仰の世俗化(die religios Verweltlichung)」だった為に英国やフランスの様に相応の形での保守主義思想の形成が為されず「自然淘汰圧」だの「適者生存の宿命」だの「生存圏確保の為の総力戦(負けた側が滅び去るのは自然の理)」といった似非生物学理論に援用された民族生物学に行き着いてしまったとする。
啓蒙主義は進歩主義思想としては不完全…フランス思想史上における進歩主義思想は概ね、皇帝ナポレオンから不満げに「ニュートンは著書の中で神に言及している。貴殿の著作を熟読してみたが、一度も神の名前が出ないのは何故だ?」と問われ「私にはその様な仮説は必要ございませんので」と答えた数学者ラプラス(Pierre-Simon Laplace, 1749年~1827年)や「産業階級の教理問答(Catechisme des Industriels 1823年〜1824年)」において「フランス革命は破壊しか行わなかった。再建の主導権は(貴族や高位聖職者の様な)ランティエ(Rentier、地税生活者)ではなく産業階級(Industriels)が掌握しなければならない」と断言したフランスの社会主義思想家サン=シモン伯爵(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)を嚆矢とする。
ただし大日本帝国の場合も、あくまで(ドイツ思想の影響を色濃く受けた)石原莞爾の世界最終戦争論(1940年)に行き着いてしまった部分はドイツのそれと大差なかったりする。結局のところそれは、あらゆる全ての近代的装飾部分をフィルタリングしてしまうと「戦争によって戦争を養う」古代多民族帝国の伝統の残滓ともいうべき粗雑なナポレオン兵学が残るのみに過ぎないのである。
「近代国家としての発展段階によって起こすべき革命の姿は異なる(帝政ロシアの発展段階においてはロシア革命が必要だったが、独立後のイタリア王国に必要だったのは社会民主主義に立脚する市民革命だった)」なる立場に立つグラムシ辺りなら幾らでも上手い説明を捻り出せそうだが、21世紀に入ると「ええとこどり」精神から日本を模したとも思える「和諧社会」を理想に掲げる中国共産党は、それまで鬱積させてきた矛盾をどう払うべきなのか?
ただし、ここで比較対象に選ぶべきは欧米日の自由主義諸国でなく同じ共産主義イデオロギーを奉ずるベトナム社会主義共和国の「大同主義」や「和諧主義」への態度でなくてはならない。
また、こうした自らの普遍性を強調するイデオロギーは特殊な地政学的背景が生み出す例外的状況への対応力が恐ろしく低い事でも知られています。例えば中華王朝でいう「山寇・海寇」の概念。産物に恵まれぬ不毛の地に暮らす彼らは、飢えればたやすく山賊や海賊へと変貌してしまいますが、兵糧の現地調達もままならぬ貧弱な土地に大規模な討伐隊を送り込むのは現実的でなく、むしろ交易網に組み込んで生活が成り立つ様にしてやるのが慈悲であるとする(口当たりばかり良いだけのイデオロギー論議とは無縁の)伝統的リアリズムに立脚する政策だったのです。
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古墳国家時代のヤマト王権も、5世紀前後における交通インフラ整備期にはこの手口で(そのまま放置しておくと街道を往復する積荷を狙う山賊に変貌するのが確実視されていた)大和・近江・美濃・出雲・尾張・関東の在地有力者や播磨や日向に割拠する海上勢力を懐柔して警備隊とし、中山道、東海道、瀬戸内海沿岸、日本海沿岸のを制していったと考えられている(実際この 時期、これらの地域に沿って新たなタイプの古墳が次々と築造されている)。ただし、かかる地方勢力の活性化によって須恵器の製造や鉄器の流通をヤマト王権が独占する体制は崩壊した。
- 真逆の道を歩んだのが明朝(1368年~1644年)。皇帝の名を四夷に知らしめるべく遠征軍を派遣し続けた結果、あっという間に国庫は底を尽き滅亡への道を早める事になったとされている。明朝における「海禁」政策にも、江戸幕藩体制下における「鎖国」政策にも海外との交易を独占して国家運営資金に当てる古代多民族帝国の「寛容」体制の残滓という側面があったが、上手く機能したとは到底いえない側面があった。かかる体制下においても中国の景徳鎮、続いて日本の伊万里焼がオスマン帝国や欧州の宮廷人達を魅了し続けたとはそういう事なのである。
そういえば、最近何かとドバイの繁栄が話題となるアラブ首長国連邦(UAE: United Arab Emirates)も、この意味で「海寇」の雰囲気を漂わせる国家だったりします。
アラブ首長国連邦(UAE: United Arab Emirates)の歴史
現在のアラブ首長国連邦の基礎となる首長国は、オスマン帝国の直接統治下において17世紀~18世紀頃にアラビア半島南部から移住してきたアラブ系諸部族によって形成された。次第に北部のラスアルハイマやシャルジャを支配するカワーシム家と、アブダビやドバイを支配するバニヤース族とに2分されていく。
- 18世紀~19世紀にはペルシア湾を航行するヨーロッパ勢力の人々に対立する海上勢力『アラブ海賊』と呼ばれるようになり、その本拠地「海賊海岸(Pirate Coast、現ラアス・アル=ハイマ)」として恐れられた。
- 同じく海上勢力として競合関係にあったオマーン王国ならびにその同盟者であるイギリス東インド会社と激しく対立し、1809年にはイギリス艦船HMSミネルヴァを拿捕し(Persian Gulf campaign)、海賊団の旗艦とするに至る。イギリスはインドへの航路を守るために1819年に海賊退治に乗り出し、ボンベイ艦隊により海賊艦隊を破り、拿捕されていたミネルヴァを奪回の上に焼却。
- 1820年、イギリスは、ペルシア湾に面するこの地域の海上勢力(この時以来トルーシャル首長国となった)と休戦協定を結び、トルーシャル・オマーン(Trucial Oman:休戦オマーン)と呼ばれるようになる。 トルーシャル・コースト(Trucial Coast:休戦海岸)とも 。
- 1835年までイギリスは航海防衛を続け、1835年イギリスと首長国は「永続的な航海上の休戦」に関する条約を結んだ。その結果、イギリスによる支配権がこの地域に確立されることとなった。この休戦条約によりトルーシャル・コースト諸国とオマーン帝国(アラビア語: مسقط وعمان)との休戦も成立し、陸上の領土拡張の道を断たれたオマーン帝国は東アフリカへの勢力拡大を行い、ザンジバルを中心に一大海上帝国を築くこととなる。一方トルーシャル・コースト諸国においては、沿岸の中継交易と真珠採集を中心とした細々とした経済が維持されていくこととなったが、その後1892年までに全ての首長国がイギリスの保護下に置かれた。
- 1950年代中盤になると、この地域でも石油探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見された。ドバイはすぐさまその資金をもとにクリークの浚渫を行い、交易国家としての基盤固めを開始。一方アブダビにおいては、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的だったため、資金が死蔵されていたが、この状況に不満を持った弟のザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが宮廷クーデターを起こし政権を握ると一気に急速な開発路線をとるようになり、湾岸諸国中の有力国家へと成長した。
- 1968年にイギリスがスエズ以東撤退宣言を行うと、独立しての存続が困難な小規模の首長国を中心に、連邦国家結成の機運が高まった。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドであり、当初は北のカタールやバーレーンを合わせた9首長国からなるアラブ首長国連邦(Federation of Arab Emirates:FAE)の結成を目指していたが、カタールやバーレーンは単独独立を選び、一方アブダビとドバイは合意の締結に成功した。
- アブダビとドバイの合意により、残る首長国も連邦結成へと動いた。 1971年にアブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウンム・アル=カイワイン、フジャイラの各首長国が集合して、連邦を建国。 翌1972年、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていたラアス・アル=ハイマが加入して、現在の7首長国による連邦体制が確立。
実際「パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド(Pirates of the Caribbean: At World's End、2007年)」にも「東インド会社を倒す9人の伝説の海賊」のメンバーとして登場するが、その実態はむしろ「欧米世界のアラビア海派出所」という複雑な状況がこうして生まれる事に。第一次世界大戦(1914年〜1918年)敗戦によるオスマン帝国の解体を待たずして分離独立を果たしてるだけあって国家運営も比較的安定している。
この辺りの地域は最近、古代オリエント世界においてインダス文明(Indus Valley civilization, 全盛期紀元前2600年~紀元前1800年)とメソポタミア文明(Mesopotamia, 紀元前3000年頃~紀元前4世紀頃)を結んだ経路の一つとして注目を集めていたりもします(もう一つ著名なのがイラン高原のザクロス山脈を経由するエラム・ルート)。もはや21世紀は完全に「政治的イデオロギーや国家主義主導の時代」ではなくなってしまったのです。
そして中華王朝の神仙伝説が欧米に伝わるとおぞましい化け方をしてしまう二つ目のポイントがしばしは「何らかの禁忌の侵犯=神への反逆」なる連想が働いてしまうあたり。そもそも国際的には修道士や修行僧の修行、カバラー(Cabbala, ユダヤ神秘主義)、スーフィズム(Sufism, イスラム神秘主義), 密教(仏教神秘主義)といった「神に近づく為の神秘主義が」各宗教の枠組みを超えて相互に高い評価を与え合う傾向すら見られるのに対し、しばしば現世利益的目標しか掲げない事すらある仙道や修験道や陰陽道は真逆の「ニヒリズム=無神論の局地」のレッテルを貼られて忌み嫌われ、巷説やフィクションの世界ではすぐに麻薬や性的逸脱やカニバリズムと結び付けられて語られてしまうのも、さもありなん…
- ある意味、こうした「おぞましき怪物」概念と「山寇・海寇」概念の負のイメージが最悪の形でヒュージョンを起こしたのが15世紀頃スコットランドで起こったとされる「アレクサンダー・“ソニー”・ビーン(Alexander "Sawney" Bean(e))」事件とも。山賊稼業に人肉食に近親相姦とフルコース…
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南部ゴシック文学の伝統に従って映画「悪魔のいけにえ(Texas Chainsaw Massacre、1974年, 2003年)」が制作されたアメリカにも1930年代(すなわち「禁酒法と世界恐慌の時代」)を震撼させた強盗ファミリー「バーカー一家」の実話が存在し、ロジャー・コーマン監督の「血まみれギャングママ(Bloody Mama, 1970年)」を筆頭に幾度も映画化されている。
強烈なエスニックBeatに乗せて「怪僧ラスプーチン(Rasputin, 1978年)」を国際的にヒットさせたBoney Mが、それに先駆けて「異色偉人伝第一弾」として題材に選んだのも「Ma Baker(1977年)」だった。
ちなみにBBCによるとLady Gaga「 Poker Face(2008年)」におけるコーラス“Mum-mum-mum-mah”の部分はこの曲からのサンプリングらしい。
ロブ・ゾンビ監督の手になるバイオレンス・ホラー映画「マーダー・ライド・ショー(House of 1000 Corpses, 2003年)」「デビルズ・リジェクト マーダー・ライド・ショー2(The Devil's Rejects, 2005年)」に登場する「殺人一家」ファイアフライ家にも若干のオマージュ性を感じないでもない。
- さらに田舎で今日なお続く「(人身供儀を含む)異教秘儀」への恐怖を重ねたのが絶海の孤島に残るスコットランドの原始宗教に擬した「ウィッカーマン(The Wicker Man, 1973年)」や、スウェーデンの森に囲まれた草原で白夜に開催される夏至祭が実は異教秘儀だった「ミッドサマー(Midsommar, 2020年)」など。この辺りの系譜、意外にも古代多民族帝国時代の「寛容」体制の二面性と表裏一体の関係にある?
ここで興味深いのが、新海誠監督作品「君の名は(2016年)」が世界中で封切られていた 時期「田舎の人間は時間をかけて都会に出ないと観れない不満」もあって「海外版が制作されたらどんな設定に?」大喜利があって「(彗星の周期的襲来を伝える)口噛み酒を用いた(飛騨山中の)奇祭」の置き換え候補に挙げられたのが、圧倒的に「ケルトのドルイド」や「北欧のシャーマン」だった事。ハリウッドのリメイク版では「インディアンの密儀」に置き換えられると発表があったけど、迂闊にポリコレ配慮が入ってその秘儀にリスペクトされる要素しか残さないとスカスカになっちゃうかも? むしろ(生贄の動物の屠殺が必須の)ニューオリンズのブードゥー教司祭の娘くらいで丁度良い? あの独特の「現代の先進国社会に紛れてたらそれなりに納得してしまうが、違和感は絶対に抜けない感じ」は、それくらいの心理的距離感なのかもしれない。
あと個人的にイケそうと思ったのがメキシコの「グアダルーペの聖母(Nuestra Señora de Guadalupe)」。誰の目から見ても「インディオのヨーニ(女性器)信仰」起源なのは明らかなのに怖くてそれが切り出せないもどかしさが「口噛み酒」について触れるタブー性と重なってくる。
ここまでまとめるうちに岩明均「七夕の国(1996年~1999年)」が意外と要素被りしてる事に気付きました。「(エログロたっぷりの)南部ゴシック的田舎の秘祭」なる思いっきりローカルながら常に相応にグローバル市場に需要のある多様で多態的な不思議ジャンル…
逆に「邪淫の世界に落ちた求道者」の典型例としては英国神作家クライブ・バーカー「ヘル・レイザー(Clive Barker's Hellraiser, 1987年)」。(肉体の限界を超越する)究極の快楽を追求する過程で禁忌の秘法「ルマルシャンの箱」に手を出したら究極の快楽の伝道師たるセノバイト(魔道士/修道士)が現れて…ただし本作の主題「快楽の源となる苦痛、拘束と恐怖の下での道徳性」に関わるこの人物、第1作目のサイド・ストーリーに登場するに過ぎず、ベックフォード「ヴァセック(Vathek, 1786年)」の様に「地獄に落ちた当事者が次々と自分の墜落の過程を語る」濃厚さを期待してると肩透かしを食らう。
「(当人の合意の有無にも関わらず)巻き込まれた当事者が異質な価値観に否応なく巻き込まれ逃げられなくなっていく恐ろしさ」はむしろ、同作家の「Candy Man(1992年)」の方が描けていたとも。
かといって「修行不足で地面ズレスレしか飛べず、いつも子供に追いかけ回されてる蜻蛉仙人」とか「水浴中の若い娘の脛を目にして集中力が敗れ空から落ちてくるエロ仙人」みたいな日本の民間伝承の世界の半端仙人が世界に通じない訳ではなく、その一方で森見登美彦「有頂天家族(2007年~)」における「ある日突然拐われて天狗の妾にされるも、その境遇から脱して今は独立系仙女として復讐の機会を狙ってる」弁天みたいな尾崎紅葉「金色夜叉(1897年~1902年)」のサブヒロイン(実質上のメインヒロイン)赤樫満枝並のハードな設定もケロッと受容してしまいます。それどころか古株の和製コンテンツ・ファンに至っては「お嬢様笑いの祖」として赤樫満枝の名前すら知ってたりして…
この辺りの系譜は(中国人なら泣いて悔しがる場面だが)国際的に「日式」と認識されているらしく(関連漢字の読みまで国際的に日式発音で広まってる場合には、ラフカディオ・ハーンが噛んでる場合が多いという)、アイルランド神話の世界を「何時の時代にも、この世の何処かに秘かに存在し続けてきた仙郷」として描いてきた「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells, 2009年)」や「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた(Song of the Sea, 2014年)」のトム・ムーア監督もそう指摘していたし、彼に対する国際的認識も「ポスト・ジブリ」だったりする。
- 「日式仙郷」…ただしこれ、そうとでも釘を刺しておかないと、すかさず「イングランドのシェークスピアの妖精郷」の永経を指摘されてしまうのでポーズとしてそう言ってるだけの可能性もある。
ちなみに日本には「遣唐使が持ち帰った本場のポルノ(中国本土には残ってない)」が三冊現存していて、それぞれのジャンルは「人外ハレム物」「桃源郷訪問記」「武則天が若い燕を弄ぶ話」だったという(仙郷概念はそういう伝来の仕方もしていたのである)。一応「伊勢物語」に主人公のイケメン業平に老婆がグイグイ迫って思いを遂げてしまう話も掲載されているが、最後の系譜がジャンルとして定着す見込みは今日なお希薄といえる。流石の「変態」日本人も「本場」中国の多様性と多態性には敵わなかったという話…
- 一方、ドイツはゲーテの物語詩「コリントの花嫁(The Bride of Corinth、1797年)」における冥界の扱いといい、リヒャルト・ワーグナーのオペラ「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg, 1842年)におけるヴェーヌスベルクの扱いといい「肉欲で情夫を溺れさせて魂を堕落させるおぞましき悪の女王」アフロディテの扱いが酷い。
キリスト教的倫理観に拘束され過ぎてる(一方、英国人は宗教改革によりそれから脱して以降、大っぴらに妖精愛に耽溺する様になったという)? まぁ「(アテナイの商売敵だったコリントゥスの守護神)アフロディテの扱いが酷い(その代わり「純潔の守護神」が逆にむやみやたらと称揚される)」のは、アテナイ人が作ってアテナイ人が楽しんだギリシャ悲劇の時代まで遡るのでその影響を受け続けてるだけとも。まぁドイツ人そのものが「何でも魂で探そうとする。魂は別に感覚器官じゃないのに(ギュンター・グラス「ブリキの太鼓(Die Blechtrommel, 1959年)」)」という国民性なのも確実に影響している。
とりあえず中国神仙思想には以下の3系列があるという想定に到達。
- 黄老系…古代多民族帝国の「クレメンツァ(Clemenza=寛容)」概念の二面性(逆らわない限り高度の自治を許して放置する一方、叛逆を起こしたり運用資金が不足すると容赦無く殲滅)より出発しながら(全てを画一的律令の適用下に置こうとする)法家思想の大源流となり秦代と前漢代を主導した。儒家が台頭して以降は衰え(本土では抹殺され尽くし、日本にしか残らなかった文献も沢山ある)、一応は儒家出身の「性悪論」の荀子の牧民論が代替概念として広まる。
- 老荘系…「神仙の世界=消極的で現実逃避的な理想郷に感情を投影する文学的理想主義」と、グラックス兄弟の改革(紀元前133年~紀元前121年)やバブーフの陰謀(1795年~1796年)を彷彿とさせる平等至上主義が特徴の大同主義(Datongism)が表裏一体の関係を織り成してきた。共産主義体制への移行後はも「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである」とするエンゲルスのテーゼや「あらゆる民族は強制移住による居住環境の変化、国家共用語による正しい教育に基づく因循姑息で視野狭窄的な伝統的民族固有言語・歴史観・文化教養の放棄、国民全てが享受する最新の経済生活への移行といった進歩的政策によって最終的には跡形もなく完全に解消されるべきである」とするスターリン論文の援用を受け、チベットやウイグルで粛々と遂行され続けている民族浄化政策を正当化するイデオロギーに昇格した。「レーニンの愛弟子」ムッソリーニのファシズムとの共通項が少なくないが、ナチズムの粗雑な民族生物学(Ethnobiology)とは原則的に無関係と主張している。
- 日式仙郷…陰陽道や修験道の伝統を背景に、老荘系のうち「神仙の世界=消極的で現実逃避的な理想郷に感情を投影する文学的理想主義」概念のみを継承。国際的に「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」との接点を探るアプローチの一つとして普通に受容されている。
ところで「神仙の世界=消極的で現実逃避的な理想郷に感情を投影する文学的理想主義」にはこういう展開もあったのです。ある意味、ブルジョワ趣味の極み…
中国では宮城や離宮、陵墓あるいは私邸や仏教寺院や道観 文廊などあらゆる建築に庭園(ていえん)また園林(えんりん)が伴い、独自の環境文化を発展させてきた。その歴史は長く、以下のと五つの時期に分けている。
- 生成期(漢王朝、紀元220年の前)…古くは神仙思想に傾倒した秦始皇帝や漢武帝が営んだ。海浜風景をモチーフとして蓬莱山と証する中ノ島をおく神仙式庭園が流行。日本の浄土庭園もその影響を受けている。次世代以降tと比較して写意庭園と呼ばれる。
- 転換期(南北朝、紀元220年-589年)…士大夫らの隠遁思想を反映して自然のままの風趣を重視する林泉式庭園が営まれた。
- 全盛期(隋・唐・宋、589年-960年)…隋唐代になると池や運河を開削した船遊式庭園が、宋代になると文人らが禅宗思想の影響で詩画芸術を造園に組み込んだいわゆる文人庭園が盛行し、現在見る中国庭園の原型が形成される。
- 成熟期(元・明、960年-1736年)…現存する庭園や遺構が急増。
- 成熟後期(清、1736年-1911年)…所有者変更などに伴う増改築が頻繁となり工期も長大化していく。
一番目大きな特徴は、池・石・木・橋・亭、五つの要素を組み合わせて、世の中に存在しない仙土・桃源郷を現実化させることである。 この五つの要素のどれが欠けても中国庭園にならない。またその特徴のひとつに九曲橋、太鼓橋などがあげられる。
分類的には、皇家園林・私有園林・寺廟園林・衙署園林・祠堂園林・書院園林・仏教園林、美学的には、水墨画・漢詩・道教・仏教・儒教・紅楼夢の要素も取り込み、中国人独自の美学が表現して、日本の庭園と意匠共通の点もある。
一方、英国では18世紀に入ってから「美(beauty)」と「ピクチャレスク(picturesque)」を対比させる新たな庭園設計概念が登場してきます。
それにつけても、原則として「神へのアプローチとしての神秘主義」しか認めない国際世界において、その例外となる英国の妖精愛の歴史は凄まじ限り。例えばこの人とか。
マリ・ド・フランス (Marie de France, 12世紀後半~13世紀前半)
12世紀後半~13世紀前半の女流詩人。自作中で「私はフランス生まれのメアリー」と名乗ることから、フランス語でマリ・ド・フランスと言われているが、その生涯は定かではない。
彼女はフランス文学史上最初の女流作家だが、イギリスに移住して、プランタジネット朝の宮廷に仕えた。国王ヘンリー2世とその王妃アリエノールのブレーンとして働いた貴族階級の女性とも言われ、のちに尼僧院長となった。
その作品のスタイルはレー Laisと呼ばれる韻を踏む短詩で、もともとは口承による詩を書き記したもので、竪琴に合わせて旋律をつけて歌われた歌謡である。
とくに「マリ・ド・フランスのレー」The Lais de Marie de France は、ブルトン・レー Breton Lais (フランス語 Lais breton, Lais de Bretagne ブルターニュのレー)と呼ばれる。
12世紀に作られたというブルトン・レーは20篇ほどあるが、そのうちの12篇がマリ・ド・フランスの作品とされている。ブルトン・レーは中世フランス各地の方言に置き換えられ、13世紀~14世紀には中世英語によるレーも作られた
レーのテーマは恋愛や騎士道などで、ロマンティックかつ神秘的、幻想的な情趣に満ちている。おおむねその舞台は森か荒野で、騎士が人気のない城に住む「妖精のように美しい」女性と恋に落ちたり、動物が人間の言葉を話したり、漕ぎ手のない船が走ったりするというもので、この世ならぬ異界の小道具が多く用いられている。
マリの作品は当時のアングロ・ノルマン語(フランス中・北部の方言)で書かれているが、題材や韻律にはギリシア・ローマの古典文学やケルト神話の影響が強く、現世からあの世への飛翔願望が現われている。
マリ・ド・フランスの手になる作品は、『ギジュマール』『エキタン』『ヨネック』『ランヴァル』『とねりこ』『二人の恋人』『ミロン』『ナイチンゲール』『オオカミ男』『すいかずら』『不幸な男』『エリデュラック』の12篇である。
騎士の愛と結婚をめぐる話が多く、欲望の自由を謳歌している(月島辰雄訳 『十二の恋の物語』参照)。そのうち、『ランヴァル』と『すいかずら』の2篇はアーサー王物語に関連した物語である。
作品のひとつ『ギジュマール』の最後にはこのような一節がある。「皆さまお聞きのこの物語から/ギジュマールのレーは作られたが、/竪琴やロッタで弾き語られ/その調べは耳に心地よく響く」(前掲書より)。
E.メイソンは、「マリのブルトン・レイ(引用者注:レー)の本質は、ブルトン(引用者注:ブルターニュ)起源というよりケルトそのものと言えよう。ブルトンとケルトの想像力には特異な夢想や魔法、神秘がある」と指摘している。
またマリ自身、レーは「妖精(フェアリー)が問題(プロブレム)を課す物語」と言っている。また、ジャン・フラピエは、「レ(引用者注:レー)ではほとんど常に主人公が、日常生活の世界を去り、選ばれた人のみ出入りを許される仙界、もしくは感情的別世界に入ることになる」と解説している(松原秀一 『中世ヨーロッパの説話』参照)。
Lai du Bisclavret(ビスクラレッド/狼男)
ある領主に、美しい奥方がいた。領主はたびたび留守にしたが、実は狼男で、留守の間は野獣になっていたのだ。それを知った奥方は夫が人に戻れないよう仕組み、かねてから言い寄っていた別の騎士と結婚する。野獣となった領主は狩りにやってきた王に忠誠を示して宮廷にゆき、憎い騎士とかつての妻を襲う。恐れた妻の告白から領主への不義が発覚し、領主は人の姿に戻ることが出来る。追放された元の妻と領主は他国で沢山の子を成すが、子らにはすべて、狼男の呪いがかかっていたという。
そして、さらなる関連概念として語らざるを得なくなったイスラム文化圏のダルヴィーシュやインドのサドゥー…
辿り着いてみれば、要するにこれも「無限遠点(Infinity)を探す旅」の一つだった?