「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】日本史における「使用人」達

以前からファシズムやナチズムが独特の「マチズモmachismo、男性優位主義)」と不可分の関係に陥るのか疑問だったのですが、日本でいうと「源氏物語11世紀成立)」に登場する「牛車を引く仕丁や随伴する舎人」や、後世における武家奉公人の様な「権威を笠に着た破落戸ただし儀礼遂行に不可欠な実践教養があったり「男道実践者」として揺るぎない統率力を備えていたりして引っ張りだこ)」の様な前近代的身分制の実質上の立役者にスポットライトが当たる様です。
*日本においては反権力の立場から人前で平気で脛や太腿や尻を剥き出しにしたのは男性だったが、古代ギリシャ世界においては(支配階層の間では男女同園意識が強かった)スパルタの女性だったりする。

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 【Wikipedia】舎人(とねり/しゃじん)

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皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。その役職。

  • ヤマト王権時代には既に存在した名代の一つであり、「トネ(刀禰、刀祢、利根、刀根、登根、戸根などとも)」に起源を同じくする。大王の身の回りの世話を受け持つ舎人は、古くは川や船など水運に関わる従事を指したと考えられ、このことは「トネ」に由来する地名が河川や港浦を中心に分布することから示唆される。これに「」を表す「」が付き「トネリ」として一般化し、靱負(ゆげい)、采女(うねめ)、膳夫(かしわで)と並んで、大王の側近を意味した。なおこの語の用法は『古事記』にしか見られない。本居宣長は『古事記伝』の中で、「とのはべり殿侍)」という語が変化して「とねり舎人)」という語が発生したと推測しているが、殿は平安期以降に一般化した貴人への敬称で、律令以前から存在していた舎人には当てはまらない。

  • やがて氏姓が始まると、東国を中心に国造などにこのトネを冠した「等禰直」「舎人直」などの人名としても見え始め、さらにはこうした大王の側近や有力な世襲豪族には御名入部(みないりべ)である「舎人部(舎人に近侍する下級役人)」を持ちはじめ、舎人直 ― 舎人 ― 舎人部 という階層関係がみられた。これらの舎人は天皇に貢進もされ、新たに舎人として近侍した。

  • 天武天皇代の673年白鳳2年)に大舎人寮に仕官希望者を配属させる制度を定めて本格的整備が始まるが、新たに八色の姓が置かれても天皇に近い有力貴族を表す「舎人」の語は残り、律令制の成立後、公的な舎人制度として内舎人定員90人)・大舎人同左右各800人、計1600人)・東宮舎人同600人)・中宮舎人同400人)などが設置された。原則的に三位以上の公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し、同様に五位以上の貴族の子弟は中務省での選考の上、容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、それ以外は大舎人・東宮舎人・中宮舎人となった。大舎人・東宮舎人・中宮舎人の不足分は六位以下の位子からも補われた。この他にも兵衛なども舎人と同じような性格を有した他、令外官的な舎人も存在した。この他に公的な舎人を支給されない皇族や貴族の私的な舎人として帳内・資人が設置され、その家政機関に従事した。

  • 舎人の職務そのものは宿直や護衛、その他の雑用などであったが、その中において官人として必要な知識や天皇への忠誠心などを学んだ。律令制の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われて官人として登用されることになっており、支配階層の再生産装置として機能した。また、地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた。朝廷にとって、国内支配階層の各層から舎人を集めることは、その影響力を各方面に及ぼす上で有利に働いた。こうした律令の支配が地方へも及んだことは、出雲国風土記で意宇郡に舎人郷現;島根県安来市)の地名が見られることからも類推される。

平安時代に入ると、舎人の志望者が減少して、本来舎人になれない外位や白丁の子弟からも不足分を補うようになった。また、舎人の身分を悪用して違法行為を行うものも現れ、制度そのものの衰退につながり、「舎人」は使われなくなっていったと考えられる。
*「源氏物語」では仲の悪い貴婦人の従者同士の同士の喧嘩で負けた側の牛車が破壊される。単純な男尊女卑問題に還元する訳にもいかない。

武家奉公人 - Wikipedia

【Wikipedia】口入屋/手配師

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日本では人材斡旋を業とする者を手配師と呼ぶ。古くは請負師ともいい、手段や業態が適法であるか否かに関わらず手数料を取って人材を周旋する者一般を指して用いられた。労働者派遣法や職業安定法による業法規制が一般化した現在では、労働者派遣法による規制に従って営業する者を労働者派遣事業者、職業安定法による規制に従って営業する者を人材紹介業者有料職業紹介事業者)といい、手配師の語は、無許可または非合法な手段を用いて人材を斡旋する者、人材斡旋を行うもののうち伝統的に手配師と呼ばれてきた特定の業態にて営業する者等に限られる傾向にある。請負師といった場合はより意味が限定的となり、一部の建築業等に見られるように、顧客から仕事を請け負い、自らは労働や作業をすることなく、必要な人材職人)や材料を手配し、かかった手間賃や材料費に利益を上乗せして稼ぐ者のことも指す。

  • 相互扶助や互助活動としての普請である「結い」は、無償の労働提供であるが、社会構造が多様化や拡大するにつれ物々交換が、金銭と言う労働対価の証によって行われるようになったことと相俟って、経済活動が活発になった。それとともに天下普請のような大規模公共工事は、不特定多数の一時的な相互扶助としての社会活動を生み、狭い地域の自普請ではないが故に人と人の繋がりが無いため、手配師という業態が形成された。

  • 戦国時代には「寄親寄子」という主従関係があり、武将と地方豪族の間で取り交わされ編成された軍事組織である。「徒手空拳である者」は誰かをより所とし、守り立てて貰う。「たよられた者」は組織を形成し磐石な基盤の上に立つという互助関係でもある。この主従関係は江戸時代には庶民にまで広がり、都市部に出稼ぎや職を求める者の身元引受人となり、人宿下宿、たこ部屋のような住まい)を提供し仕事を斡旋するといった口入屋と職を求める者の関係になり、同様に寄親寄子と呼ばれた。また徒弟制度における「親方子方兄弟弟子)」といった雇用関係や様々な職業などの互助組織の中でも主従関係が結ばれ「親分子分兄弟分)」といった。これらの主従関係では仕事の手配は習慣的であり親方・親分の中からも手配師となる者も表れた。

  • 経済活動の多様化や拡大により、貧富の格差が地域や環境により発生し、その均整化を計るのは自然の流れであり「雇用促進や困窮者救済」、「搾取や人身売買」といった両面性を持ち合わせている。

  • 沖仲仕を父に持つ作家火野葦平の著書『青春の岐路』には「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」とある。

手配師と呼ばれる人々や組織が多く出来始めたのは江戸時代に入ってからである。背景としては参勤交代や多くの武家屋敷が城下町に出来たことや天下普請としての社会基盤の整備が始まり、公共事業が生活困窮者の救済措置として機能していた。商業の発展による港湾荷役の増加や都市部に郊外や地方から家督を継げない者や仕事を求めて多数の人口流入があり、男性の比率が高かったことなどがある。

  • 参勤交代の大名行列の人員は全てがお抱えの奉公人では賄えず槍持ちなどを口入屋を通して臨時雇用していた。また、武家屋敷も参勤交代時、多数の奉公人が必要になり口入屋には高賃金と下士扱いの身分のステータスを求め町人や庶民が殺到した。

  • 町奉行管轄の町では火事と人口増加に伴い慢性的な家屋不足であり普請が盛んに行われ町鳶、町大工の権威が強くなっていった。そこで大工より自由な時間(雨天時とび職としても町火消しとしても暇であった)があるとび職が祭りの顔役としての外交的役割と相まって普請の営業をする様になり、手配師と呼ばれた。

  • 人口増加に伴う土地不足、都市部は扇状地に多くあり慢性的な河川の氾濫による治水の必要性や河川、港湾荷役の施設不足、これらをいっきに解決する手段が埋め立て(河川の護岸も含む)であった。そしてこの一大事業に伴う経済効果と人手不足が沖仲仕野帳場仕事の手配師の隆盛を手伝ったといえる。また埋立地はそのままでは利用できず、自重沈下を待つ必要があった。しかし幕府はただこれを待つのではなく桜を植え近隣での花火の打ち上げを奨励し遊郭を造り、人の流入を図りその土地の締め固めを行った。そして男性偏向の不安定な都市構造の治安維持を遊郭を造ることにより図り、その数は増加の一途をたどった。そのため多くの口入屋や置屋ができ、それが人買いや女衒という手配師が日本全国に暗躍する、きっかけとなった。

  • 近代、近年でも「ああ野麦峠」や「蟹工船」などに代表される悲劇(当時はそのような就労状況でも恵まれた方であり「悲劇」は無知による偏見もしくは階級闘争史観に基づくプロパガンダとの意見もある)や債務者の返済手段としての遠洋漁業の従事(現在では年収の低下により皆無)など人買い(人身売買)や手配師の存在が暗示される。歴史的な背景として日本による統治地域からの人の流入が継続的にあり生活基盤の無いことや言葉の不自由などからおのずと同胞の先人者にたより、仕事の斡旋を専業とする者多くいた。現在でも中国、韓国人出稼ぎ労働者や在日日系ブラジル人社会でも不法就労、犯罪等の関連によりその存在が知られる。(但し慈善活動として同胞を助けるため無償で行う者もいる)。

日本においては、こうした前近代的な就職斡旋状況(あるいは人材派遣業界)からの脱却こそが近代化であった。1872年10月東京府が雇用請宿規則を公布し、その他の府県にも類似の規則が広がっていく。その後、明治中期から公益職業紹介業が生まれ、大正初期には公立の公益職業紹介所が生まれていった。そして1921年に職業紹介法、1925年には営利職業紹介事業取締規則が制定される。

渡り中間」という言葉もあるくらい「忠義道」とは無縁の層が大半で、非合法社会との縁も浅からぬ感じでしたが、そえゆえにかえって「ファンタジーとしての忠義道」が大衆レベルで広まったとも。こうした展開は欧州騎士道の世界でも見受けられましたし、兵士供給階層としてフランス革命以降の時代に複雑怪奇な政治的影響力を発揮し続けた浮浪小作人にその最後の残滓を感じる事も出来ます。

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日本の場合は明治維新や文明開化があって「それ以前の時代」と「それ以降の時代」に相応の「意識上の障壁」が成立しましたが…あれ? 欧州の場合はどうなってるの?