ファシズム(Facism)の起源は1861年にやっとリソルジメント(Risorgimento、イタリア統一運動)を達成したばかりのイタリア王国…当時イタリアが置かれていた政治的情況は現代日本人には想像もつかないくらい過酷なものだったのです。
第一次世界大戦(1914年〜1918年)後のイタリアの低迷は目を覆わんばかりでした。逆に「時はまさに共産主義躍進の時!!」と信じたサルデーニャ島出身のアントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci、1891年〜1937年)は、1921年イタリア共産党の結成に加わり中央委員会委員に選出され、イタリア共産党代表兼コミンテルン執行委員としてモスクワに滞在(1922〜1923年)し、この地でロシア人のユーリヤ・アポロニエヴナ・シュヒトと結婚。
その間にもイタリアでは予想外の事態が進行していました。1919年に自らの政治理論を実践すべく退役兵からなる政治団体「戦闘者ファッショ(後の「ファシスト党」)」を結成。1921年に議会選挙に出馬して35議席を獲得し政界入りを果たしたベニート・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini , 1883年〜1945年)が1922年にクーデターを決行(ローマ進軍)。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の支持を得て自由党政権を転覆させ、臨時政権を樹立したのです。
- 1913年にイタリア社会党トリノ支部に入党したグラムシは、傴僂だった為に第一次世界大戦で徴兵を免除され社会党機関紙「アヴァンティ !」トリノ支局に入る(1915年、同年大学は中退)。ところでこの頃の「アヴァンティ !」編集長は1911年に伊土戦争への反戦運動で政府に拘束され半年間の懲役刑を受け、1912年以降の党内抗争で改良主義者の粛清に辣腕を揮ったムッソリーニだった。
- 既に1914年時点で国際主義路線を放棄し、民族主義と社会主義を結合をした独自の政治理論(ファシズム)を着想していたムッソリーニは第一次世界大戦への参戦を支持し、英国の資金援助を受けて日刊紙「ポポロ・ディタリア」を創刊。反党行為としてイタリア社会党から除名されるも1915年のイタリア参戦に伴い、陸軍に志願入隊。1917年に手榴弾による負傷で後遺症を負って名誉退役を勧告された(最終階級は軍曹)。一方グラムシは1919年、トリアッティ、アンジェロ・タスカらとともに社会主義文化週刊紙「オルディネ=ヌオーヴォ(新しい秩序)」を発刊し、労働者による自主管理を軸とする工場評議会運動を展開。工場占拠闘争をはじめとするトリノの労働運動に積極的に参加。
*第一次世界大戦(1914年~1918年)開戦によって、戦争支持派がそれぞれの祖国を支持する「祖国擁護」論に走って第二インターナショナルが事実上崩壊した時代…
飛ぶ鳥を落とす勢いに乗ったムッソリーニでしたが、ただひたすらグラムシの頭脳のみを恐れましたと言われています。
- 1923年モスクワ滞在時にムッソリーニ政権が逮捕状を出した為、帰国不能となったグラムシはスイスに滞在。このころグリゴリー・ジノヴィエフの後押しでイタリア共産党書記長となる。
- 翌1924年下院議員に選出されると議員の不逮捕特権を利用してイタリアに帰国。ムッソリーニ政権との対立姿勢を鮮明に打ち出そうとしたがムッソリーニの勢いは止まらなかった。
- 1926年まさに亡命しかないと決断したタイミングで逮捕され、20年4か月の禁錮刑判決を受ける。だが絶対王政、革命政権、ナポレオン政権の三代に渡って危険視されたマルキ・ド・サド伯爵を文学者として完成させたのが30年以上に渡る刑務所と精神病院への幽閉生活だった様に1937年まで続く監獄生活こそが「思想家グラムシ」を完成させたのだった。
その間書き溜めたノートが33冊。有名な「覇権(hegemony)論」もそこでの重要な論題の一つでした。
なぜなのか? 1917年ロシアでは労働者の革命が実現したのに、他の国々へ波及することはなかった。じつに不思議なのは、20世紀初頭ヨーロッパ各国の革命運動がすべて敗北したことだ。当時革命情勢にあったドイツやハンガリーでも革命は成功しなかったし、イタリアでも例外ではなかった。1919年~1920年にイタリア北部では「トリーノ工場評議会」の労働者が数か月にわたって工場を占拠したが、革命に結びつかなかった。なぜなのか?
アントニオ・グラムシの有名な『獄中ノート』は、このような問題意識がもとになっている。若きグラムシの革命家としてのデビューは、トリーノでの工場自主管理闘争だった。20世紀を代表する政治学の『ノート』は、革命運動の後退期を経た数年後に書かれたもので、ヨーロッパ革命の失敗や1920~1930年代の労働運動の挫折を教訓に、根本的な原因を究明しようとするものであった。そして「来るべきもうひとつの世界」を信じ、そこに行き着く道を模索することをあきらめないすべての人々に、没後75年たった今日でも訴え続けている。
アントニオ・グラムシは20世紀イタリアの国民的思想家であるのみならず、コミンテルンの系譜で生き残った希有な世界的理論家であった。いまやアメリカの大学院生の学位論文で最も多く引用される一人であり、英語圏において20世紀に一番引用・参照されたイタリア人は、ムッソリーニでもクローチェでもなくグラムシであったという(エリック・ホブスボーム)。おそらく日本語でも、ベスト・スリーには入るであろう。
例えばグラムシは「知識人」概念を有機的・機能的カテゴリーとして拡延し、「すべての人々は知識人である。だがすべての人々が社会において機能的カテゴリーを果たすわけではない」と述べた。それによって「伝統的大知識人」や「大学アカデミズム」内の限定から「知識人」機能を解放し、ジャーナリズムや大衆文学・民間伝承にも「文化」の担い手を拡大した。これが特に重要なのは、ほかならぬ日本のグラムシ研究の重要な部分が、基調講演を行った石堂清倫、代表委員としてシンポジウムを成功させた片桐薫ら非アカデミズムの「在野知識人」により担われてきたからである。また、このシンポジウムを支えた多くのスタッフが、ボランティアの「市民」であり「有機的知識人」であった。そうしたかたちでの普及が、今後も期待できるのである。
ヘゲモニーの概念は、自国以外の国の指導(支配)者を意味するギリシャ語のヘゲモンから派生し、16世紀~19世紀には支配的原理や主導権を意味するようになった。20世紀になると、一方では国際秩序を樹立する大国の支配を意味し、他方ではグラムシによって倫理国家の指導的支配を意味するようになった(『獄中ノート』1929円~1935年)。
「覇権」とも訳されるが、しかし「覇」は仁義なき武力統治を意味し、倫理指導とは異なる。孟子の区別では、仁政を装って権力政治を行う覇者の統治を「覇道」、有徳の王者が仁徳によって治める統治を「王道」という。「覇権主義」とは、中国共産党が大国ソ連のアジア接近を批判するために米中共同声明(1972年)においてはじめて用いた造語であり、覇者の軍事力を背景に秩序を樹立する政治理念を意味する。hegemonismはその英訳。
ヘゲモニーは、一方におけるむきだしの軍事的な非正当的支配、他方における単なる文化・経済的な非政治的支配とは異なり、説得、報酬の供与、価値の指導といった非強制的影響力によって服従者の自発的同意・同調を調達するような、正当化の政治実践を用いる。ただし正当な支配といっても、M・ウェーバーが分類した合法的支配・伝統的支配・カリスマ的支配という三つの正当的支配とは異なる。
- 第一に、ウェーバーの「支配」は権威をもった命令権力と服従義務の関係であるが、ヘゲモニーはそのような支配を中心におきつつも、その周囲に無自覚的な影響、物質的利害関心、教育-学習関係をはりめぐらすことで、間接的だが構造的な(諸個人の動機や個々の状況によっては説明できないような)支配をする。
- 第二に、ヘゲモニーの正当性は、支配的と呼ばれる組織体が、価値の普遍化機能と秩序の安定化作用をもつことにあり、優れているから優れているという自己準拠的な性格をもつ。この自己準拠は、従うことの正当性よりもその利便性、強制力ではなく「~したい」と思わせる力(嗜好に対する影響力)によって、通常隠蔽されている。
- 第三に、ヘゲモニーは、例えば経済や文化の影響力の背後に政治実践(さらには軍事力)を読みとったり、政治実践の背後に倫理的指導や軍事力を読みとるなど、権力作用を領域複合的に帰属させる。これによって支配の全体性と象徴的な支配組織がイメージされる点にヘゲモニーの特徴がある。
この特徴は、法・行政に限定された合法的支配とは異なり、また正当性を神聖なものへ準拠させる伝統的支配やカリスマ的支配とも異なる。
国際秩序を樹立する大国の支配に注目するヘゲモニー研究は三種類ある。
- 帝国主義や植民地支配から支配をいっそう間接化し非公式化した点に、ヘゲモニー体制の特徴を確定しようとする議論。
- 16世紀以降の大国の興亡史から長期的な覇権循環のメカニズムを特定し、現在の世界秩序を評価する議論。
- ヘゲモニーが確立すれば世界システムは安定するという覇権安定論の是非をめぐる議論。
なお今後の世界秩序に関しては、先進諸国による共同覇権、米から中国への覇権代替、覇権なき世界秩序論などの仮説が提出されている。
これに対してグラムシのヘゲモニー論は、被支配階級の知的リーダーが進歩的諸分子を統合しつつ、大衆を政治的・文化的に教育するという陣地戦によって、新しい倫理社会(società civile)を構想している。
特定の人物または集団が長期にわたってほとんど不動とも思われる地位あるいは権力を掌握すること。それによる地域あるいは国家の統治を覇権統治という。それに成功した国や人物は、覇者と呼ばれる。
但し、覇権を得る過程はいわゆる既定路線や全体的同意によるものであってはならず、相対的に有利な立場にある者が武力、権力、財力などの力(power)の行使によってその敵対的立場にある者を制し、勝利あるいは事実上の最優位の立場を獲得することによってでなければそれは覇権とは称されない。
覇権や覇権主義にしても、組織を巨大化する方策として有効な手段であるため一概に悪とは言えない。
第二次大戦下、イタリアのマルクス主義者であるアントニオ・グラムシがこの用語を多用したことから一般に広まったとされる。
覇権は、被支配者の「同意に基く」支配を強調した統治体系という理解が一般的である。
覇権安定論(Hegemonic stability theory)…経済学者のチャールズ・キンドルバーガーによって発表され、ロバート・ギルピンによって確立された理論である。一国の覇権で世界が安定し、かつ経済的に発展するには以下の条件を要する。
- 一国が圧倒的な政治力及び経済力、すなわち覇権(Hegemony)を有していること。
- 覇権国が自由市場を理解しその実現する為に国際体制を構築しようとすること。
- 覇権国によって国際体制の中で利益を享受すること。
ある単一の国が圧倒的な覇権を掌握しておくことで国際社会は安定するというものではない。覇権国が諸国に利益を提供することができる国際体制を構築・維持する点が重要である。この体制が諸国にとって有益なものである限り、非覇権国は自ら国際体制を築くことなく円滑な経済活動を行うことができる。
覇権循環論(hegemonic cycle theory)…近現代の国際関係についてポーランド人の政治学者ジョージ・モデルスキー(George Modelski、Jerzy Modelski、1926年〜2014年)が提唱した理論。概ね16世紀以降、世界の政治・経済・軍事他覇権はある特定の大国によりその時代担われ、その地位の循環を繰り返すとする。この世界大国は歴代16世紀のポルトガル、17世紀のオランダ、18世紀~19世紀の大英帝国、20世紀のアメリカ合衆国といった具合に2世紀連続してその地位を務めた大英帝国を例外とし、大体1世紀で交代するものとされその覇権に異議を唱え対抗するのはスペイン、フランス、ドイツ、ソ連といった大陸国で、決まって勝利することは無い。
- 外界に対して開かれた島国もしくは半島国であること。
- 内政に競合がありながら政局が安定(例としては大英帝国の保守党と労働党、アメリカの共和党と民主党の二大政党制)していること。
- 世界中にその意思を知らしめ影響力を行使する暴力装置(例としては強力な海軍や情報機関)を持っていること。
新興大国が既存の世界大国に反旗を翻し世界の不安定性が増した際に決まって世界戦争が起こり、そこで新興大国は敗北し先代の世界大国の側に付き共に戦った国が新しい世界大国の地位を得るとする。上記が世界大国となる条件である。
どうやら 獄中のグラムシは「何故、共産主義はファシズムに敗れたのか?」と自問自答を繰り返し、その結果「不運に悩まされながら生きる人々は誰もが幸運にすがろうとする。本当に幸運である必要も、本当に人に幸運をもたらす能力を備えている必要さえない。人があやかりたいと思うほど幸運そうに見える人物がその期待を一身に集める」なる結論に到達したらしいのです。ムッソリーニの勝利をそういう形で認めた事が戦後イタリア共産党の出発点となり、こうしてソ連が崩壊しても微動だにしなかった「イタリア構造主義=ユーロコミュニズム」が産声を上げる展開を迎えたのでした。
それでは同時代イタリアにおける実際のファシズムはどんな感じだったのでしょうか。
どうだろう、実際のファシズムが世間の通念とはまったくちがうのがわか……ったりはしない。世間的なファシズム理解とそんなにちがうわけじゃない、というより世間的なイメージよりもっとひどいかも。
豆知識だが、本書の第1章を書いたのはムッソリーニではなく、ジョヴァンニ・ジェンティーレという哲学者かなんかとのこと。また、これを英訳したのがだれなのかは不明。ファシスト党の公式刊行物として出たもの。
内容的にはとても楽しい。短いしスラスラ読めるよ。いまの政治家の公式発言(だけでなく、評論家たちの駄文)でも、民主主義とか人権とかにリップサービスするのがアレだし、もっとモガモガ要領を得ない言い方をするのが基本なので、ここまで平然とすべて否定されるとかえって新鮮な面もある。たぶん、当時人気を博したのもそういう部分があるんじゃないかな。
まず本文に目を通す以前に、20世紀初頭の欧州においては以下の様な景色が日常的に展開していた事を念頭に置かねばなりません。
- イタリアでは、日増しに激化する共産主義者の革命運動に危機感を募らせた資本家や地主階級が「戦闘的ファッショ(ムッソリーニが1919年に設立)」に莫大な資金を提供し、軍部や警察もその運動を容認する様になった事が躍進の契機となった。
*ドイツでもナチスは(ワイマール政権と極左勢力の双方から「殲滅対象」に指定され風前の灯状態にあった)資本家階層や中小ブルジョワ階層の支持を取り付ける事で躍進を果たしている。 - ドイツでは「ブルジョワが独裁する資本主義社会」への失望ばかりか「第一次世界大戦(1914年〜1918年)を擁護した(1905年にベルンシュタインが始めた)修正主義運動」及び「ボルシェビキ独裁に決着したロシア革命」への失望感が漂っていた。
*実はワイマール政権中枢はドイツの第一次世界大戦参戦を支持した社会民主主義政党でソ連共産党やコミンテルンから「社会ファシズム(Sozialfaschismus)」の烙印を押され、抹殺命令まで出されていた。それでワイマール政権中枢側はフライコール(Freikorps:ドイツ義勇軍)を招聘して(ソ連やコミンテルンに協力者認定を受けた)極左勢力を徹底虐殺している。 - またドイツでは、どんなに経済環境が悪化しても「資本家とブルジョワ階層の殲滅にさえ成功したら全て良くなる」と繰り返すばかりの教条的共産主義者への嫌悪感が(彼らを狩る)在野の自警団への支援金を急増させていた。
*この恩恵はフライコール(Freikorps:ドイツ義勇軍)の様な右翼だけでなく、ドイツをレーテ(Räte/Rat、労兵評議会)の割拠する無政府状態に追いやろうとしていた極左勢力も受けていた。その結果、イタリア同様に両者の衝突は膨大な犠牲を出す事に。
ムッソリーニによるローマ進軍(1922年)も、正規軍の数倍の規模を誇る「義勇軍」の武力を背景としたヒトラーの政権奪取(1932年)も、こうした当時の状況の産物だったのですね。
ファシズム:そのドクトリンと制度(Fascism: Doctrine and Institutions、1935年)
ファシストのシンボルとしての「リクトルの杖」
ファシズムとは、ただの法律制定者でも制度創設者でもない。教育者であり精神的な生活のプロモーターなのだ。それは生の形のみならず、その内容までも作り替えようとする—人間、その人格、その運命を。この狙いを実現するため、ファシズムは規律を強制して権威を使い、魂に入り込んで圧倒的説得力で支配する。だからこそファシズムはそのエンブレムとしてリクトルの杖 (ファスケス) を選んだのだ。それは一体性と強さと正義のシンボルなのだから。
*リクトル(Lictor)…古代ローマにおける役職の1つ。インペリウム(Imperium、古代ローマにおいてローマ法によって承認された全面的な命令権)を有する要人の護衛を主な任務として、共和政ローマから帝政ローマまでの長きにわたり存在した。
- もともとは、エトルリアの伝統からローマに取り入れられたと考えられている。プレブス(plebs、平民。パトリキ(Patricii、貴族)の対語)階級の屈強な者から選ばれることになっていたが、ほとんどのローマの歴史において解放奴隷が勤めることが多かった。ローマ市民権を有しなければリクトルにはなれなかった。
- 特権として兵役が免除されるほか、給料は帝政初期において600セステルシスで、これはローマ軍兵士の給料の3分の2程度だった。「プリムス・リクトル(筆頭リクトル)」と呼ばれるリーダーを筆頭として、常に集団で行動した。通常は要人の個人的な選択で選ばれるが、たまにくじ引きで選ばれることもあった。
- インペリウムの行くところ全てにつき従った。武器の携帯が禁じられるポメリウム内ではファスケス(木の棒の束)を飾った杖を所持し、ポメリウム外ではそこに斧の装飾が追加された。この斧は処罰の権限の象徴である。また、独裁官のリクトルのみポメリウム内でも斧つきファスケスの携帯を許された。
- 要人の前で、一定の規則にしたがって隊列を作った。下命あるときにそなえ、要人本人のすぐ前に陣取るのが「プリムス・リクトル」である。人ごみの中では要人のために人を掻き分け、道を作った。要人は自由都市を訪れる際か、より高位の要人と会談する際にのみ、リクトルの随伴を免ずることができた。
公職によって従えるリクトルの数は、異なった。独裁官24人 (ただしポメリウム内では12人。スッラのみは内外構わず24人従えた)、執政官12人、前執政官 11人、騎兵長官6名、法務官6人(ただしポメリウム内では2人)、前法務官5人、上級按察官2人、ウェスタの巫女1人(式典を催す際にのみ)。
*ファスケス(fasces)…「束」を意味するラテン語の名詞ファスキス (fascis) の複数形。通常は斧の周りに木の束を結びつけたものを指す。古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトルが捧げ持った権威の標章。20世紀にファシズムの語源ともなった。日本語では儀鉞(ぎえつ)や権標、木の棒を束ねていることから束桿(そっかん)などと訳される。
- 斧の周囲に十数本から数十本の棒を配し、皮の紐で束ねたもの。王政後期にエトルリアからもたらされたものとされ、王の権威の象徴であった。共和政に移ると王の権限に由来するインペリウムの象徴とされ、インペリウムを保持する高位公職者である独裁官、執政官、法務官などの周囲にファスケスを持つリクトルは配された。
- ファスケスの意味するところは、権力と求心力の象徴としての斧、その周囲に団結する人々であるといわれる。刑罰のための斧と鞭が「懲罰権」を象徴するとの説もあるが、実際に戦闘や処刑に使うことを目的とするものではなく、専ら権威をあらわすために用いられた。共和政期に入ってからは原則として、ローマの市内 (市内と外部を隔てるポメリウムの内側) では斧は取り外され、棒の束として使用された。またコンスルの葬儀の際にはファスケスは逆さまで捧げ持たれた。
- ローマ以降、ファスケスのデザインは力や正義、結束や団結、共和制などの象徴として、各国の政府や団体に用いられた。特に20世紀にファシズムの語源ともなり、そのシンボルとしても使用された。
現在でもアメリカ合衆国下院本会議場、リンカーン記念館の装飾やリンカーン像、フランス領事団が用いる紋章、エクアドルの国章などに用いられている。
*欧州をファシズムやナチズムが席巻していく時代、アメリカ人だけはその種のプロパガンダに強度の耐性を発揮して見せた。それは南北戦争(American Civil War, 1861年〜1865年)の時代にリンカーン大統領(Abraham Lincoln、在位1861年〜1865年)が準備し、金鍍金時代(1865年〜1893年)における自由放任主義の弊害への反省が生んだ進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)における原動力として同種の熱狂を経験済みだったからかもしれない。
「国家こそ全ての根幹である」
国家の外にはどんな個人も集団(政党、文化協会、経済連合、社会階級)もない 。だからファシズムは、国家(これは階級を単一の経済的倫理的な現実へと融合させる)内部の一体性を認めず、歴史を階級闘争以外のものとしては見ない社会主義に反対する。またファシズムは階級の武器としての労働組合主義にも反対である。だが国家の軌道の中に収まる限り、ファシズムは社会主義や労働組合主義の台頭をもたらした真のニーズを認識するし、国家の一体性の中でバラバラの利害が調整され調和化される、ギルド制度や協調組合制度の中で、しかるべき配慮をそれらに与えるのだ。
いくつかの利害をもとにグループ化されることで、個人は階級を形成する。いくつかの経済活動によって組織化されると、個人は労働組合を形成する。だがまず何よりも、かれらは国家を形成する。これは単なる人数の問題ではなく、多数派を形成する個人の集合などではない。ファシズムはしたがって、国民をその多数派と同一視し、最大数の水準にまで引きずり下ろす形態の民主主義には反対である。だがそれは、国民というものを量より質の観点から—本来そうあるべきなのだ—観念として捉えた場合には最も純粋な民主主義形態となる。その観念は最も倫理的で一貫性を持ち、真実であるがために最強であり、それが少数派、いやそれどころか一人の意識と意志として人々の中に表現され、果ては大衆の意識と意志の中に自らを表現し、民族的に自然と歴史的条件により国民として融合された集団全体に表現され、まったく同じ発展と精神的陣形の路線に沿って、一つの意識と一つの意志として進むようになるのだ 。人種でもなく、地理的に規定された地域でもなく、歴史的に永続化する人々。観念で統合され、生きる意志、力への意志、自意識と人格を与えられたマルチチュードだ。
国家に体現される限り、この高次の人格は国民となる。国家を生み出すのは国民ではない。これは古びてしまった自然主義的な観念であり、国民政府を支持する19世紀的な宣伝の基盤となったものだ。むしろ国家のほうが国民を創り出し、自分たちの道徳的一体性に気がつかされた人々に対して意志力、つまりは真の生を与えるのだ。
- インテリ=ブルジョワ階層のエリート独裁志向(公私混同を通じて私欲を満たそうとする、公益に反しても既得権益を手放さない、人を犠牲にして自分だけ助かろうとする。しかもそういった悪行を巧みな弁舌と細工で隠そうとする)に対する一般大衆の嫌悪感に訴えかける立場ながら、それを主張する人間もインテリ=ブルジョワ階層出身で、目指しているのが衆愚政治という辺りが要注意。
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そして、もしかしたらこれって(大日本帝国末期の文部省プロパガンダ同様に)ヘーゲル思想が基調?? ヘーゲルの主題は復古王政期(1815年〜1848年)における絶対王政(すなわち「国王と教会の権威に担保された、領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」)の再評価、およびビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)的小市民(私的享楽を追求する一方で、外交の様な個人の手にあまる分野は軍人や官僚に丸投げし、彼らの指示には全人格的に従う)への迎合だったが…
その起源をさらに遡ると「国家こそが政治や経済の主体である」と断言した18世紀ナポリ政治経済学に行き着く。17世紀重商主義と官房学(mercantilism、貿易などを通じて貴金属や貨幣を蓄積することにより、国富を増すことを目指す経済思想や経済政策の総称。Sir Josiah Child, 1st Baronet (1630 – 22 June 1699) )の狭間で重要な役割を果たしたこういう理念もまた南イタリア起源だったのは極めて興味深い。
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まさしくヘルムート・プレスナー言うところの「遅れてきた国民」そのもの。とはいえ新興国家故に国民統合面で難を抱え、こうした極端な思想に走ったドイツやイタリアをアメリカは超越的に嗤える立場にはなかった。そうした国々からの移民や亡命者を大量に受容していたからである。
*そう、20世紀に入って「札付き」の南イタリア人が大量流入する様になってアメリカも巻き添えに…
移民(アメリカ) - ちなみにファシスト政権下のイタリアでは世界恐慌(1928年)を契機に財政出動を兼ねて国有企業の比率が急増。第二次世界大戦が勃発する1939年までにソ連に次いで最も高くなり、事実上ソ連の経済体制とほとんど変わらなくなってしまう。
そういえば以前からファシズムやナチズムが独特の「マチズモ(machismo、男性優位主義)」と不可分の関係に陥るのか疑問だったのですが、日本でいうと「源氏物語(11世紀成立)」に登場する「牛車を引く仕丁や随伴する舎人」や、後世における武家奉公人の様な「権威を笠に着た破落戸(ただし儀礼遂行に不可欠な実践教養があったり「男道実践者」として揺るぎない統率力を備えていたりして引っ張りだこ)」の様な前近代的身分制の実質上の立役者にスポットライトが当たる様です。
*日本においては反権力の立場から人前で平気で脛や太腿や尻を剥き出しにしたのは男性だったが、古代ギリシャ世界においては(支配階層の間では男女同園意識が強かった)スパルタの女性だったりする。
そして21世紀に入ると、マルクスの「上部構造論(我々が個人主義の拠り所としている自由意志は、その実社会的同調圧力に型抜きされた体制側にとって都合の良い既製品に過ぎない、とする立場)」を(本来はそれによって論破しようとした)ヘーゲルの論法で逆手にとったこうした論法を、さらに逆手にとった様な新たなマルチチュード(革命的大衆)理論が台頭してくるのです。
最も効果的なファシズム台頭対策?