「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【2020年代式物語文法】米津玄師「M87」を「パリピ孔明」に重ねるとデュエット曲に?

そのうち「パリピ孔明」についても暴走Jフェミが「ヒロインの月見英子のシャワーシーンや着替えシーンが多過ぎ」と文句をつける日が訪れるかもしれません。それについてこの作品があらかじめ用意した答えが「孔明のそれもちゃんと用意します」。

2020年代にトレンドとなりつつある物語文法を明らかにすべく「SPYxFAMILY(2019年~)」「パリピ孔明(2019年~)」「シンウルトラマン(2020年)」のそれを重ねてみます。

まずその第一弾として「シンウルトラマン の世界観を高解像度で表現している」といわれる米津玄師M87」の歌詞に「パリピ孔明」の作品内容を射影してみましょう。

歌詞

❤︎遥か空の星がひどく輝いて見えたから

 僕は震えながらその光を追いかけた

そして

そして

そして

  • 京都在住の母親との葛藤の抱え方は河原礫SAO」シリーズ(Web連載2001年~,刊行2009年~)における(父方の実家が京都の)結城明日奈(アスナ)と重なる。「太腿剥き出し系女子(ただし自分を失っていた中高生時代は普通の丈)」で沖縄や博多や新潟・東北の様な地方出身だと、それだけでキャラに色がついてしまうので消去法による選択結果?

  • また「大都会の保守的な良家から出た歌姫」というと「レディ・ガガ」の場合も該当。そもそもこのキャラには彼女が面白半分に「こういうトンデモキャラを若い娘に演らせたら数年の大ヒットは間違いない(ただしそこまでだろう)」という前提で設計したら、音楽プレイヤーロブ・フサーリから「ゴメン、君しか演れる人間が思い当たらない」と説得されて始め、結果として想定を遥かに超えた規模と期間存続してしまったという複雑な経緯が存在する。

    現実世界の結城明日奈」は(物語シリーズ」の羽川翼千石撫子の様に)試行錯誤の末に「オンラインゲーム上のアスナ」との自我同一性再建を果たした。

    一方、レディ・ガガは「マスマーケット向けの営業用人格」の寿命が尽きると(インターネットの普及によってマスマーケットそのものが崩壊)「素の人格(あるいはそう見せ掛けた第二の営業用人格)」を掲げた再出発によって新たな人気を勝ち取ったとされる。しかしもちろん「ナチュラルメイクもメイクの1種」であり「パリピ孔明(2019年~)」は音楽ビジネス世界の背後で蠢くそうした虚虚実実の駆け引きを現実のトレンドに従って割とリアルに描きつつ、愚直に「天下統一は可能」と信じそれを実践しようと試み続ける「天才歌姫月見英子と「天才軍師諸葛孔明の姿を描く。こうして全体像を俯瞰すると、ある意味この二人の関係は「プレイヤーとしてのレディ・ガガ」と「プロデューサーとしてのレディ・ガガ」に対応しているといえよう。


    一方「シンウルトラマン」のディスクールでは「ウルトラマンリピアと「地球人神永新二の心境が終始ブラックボックスに置かれる一方「外星人」のザラブ星人メフィラス星人や「光の国の新代表ゾーフィの行動原理は比較的明瞭で惜しみなく披露される。この辺り「あくまで表面上は」(本当の殺し合いではなく「売上至上主義」が対立勢力間の呉越同舟状態をも一時的には発生させる)音楽ビジネスの世界に立脚する「パリピ孔明」とどう関係してくるのか? 実は現在の音楽ビジネス市場は「(マス・マーケッティング市場に対する)ザラブ星人=MIAによる破壊」からの復興途上にあり、「シンウルトラマン」のメフィラス星人が「パリピ孔明」から「音楽業界再統一のヒント」を掴んでしまいかねない辺りにある種の業の深さが。

♠︎割れた鏡の中いつかの自分を見つめていた。

 強くなりたかった 何もかもに憧れていた。

そして

  • そう、かかる「世界統一を志向する業の深さ」を論理的破綻から救済するのが数学における「無限遠点への収束」という考え方なのである。一次元的に考える限り無限遠は「発散の方向」としてしか現れ得ないが、それは「透視図法においては、あらゆるパースが消失点において交わる」と感じる我々の直感に逆らう。ここで登場するのがさらに高階の数理たる「多様体=部分直交座標系」概念におけるアトラスとチャートの考え方であり、そこにおいては「0と無限遠点を結ぶ対角線」の回転体として現れるN次元直交座標系(チャート=地図帳)が、まさにこれを回転軸として共有する「アトラス(地図帳)」として立ち現れてくる。

❤︎君は風に吹かれて翻る帽子見上げ

 長く短い旅をゆく

 遠い日の面影

そして

  • 月見英子ちゃんの観測点からは「孔明の抱える過去」が「孔明、実家へ帰れないんだ」の一言に要約されてしまう雑さが良い。というか、もはや「変えられない過去」への救済とも?

❤︎君が望むなら それは強く応えてくれるのだ

 今は全てに恐るな

 痛みを知るただ一人であれ

そして

  • 理想とはあくまで時空を超えた「無限遠点の彼方でだけ実現を待つ理想(Idea=イデア。アイディア(Concept)の語源)」として存在するのみであり、現実空間に時間と空間を超越して顕現する釈迦如来の化身「久遠の仏」それぞれはあくまで、これを限られた時間、限られた領域において不完全な形で、しかしながらしばしばかかる制約下においては「必要にして十分なだけは」現出するだけである。もはや魔術的リアリズムの世界。

  • しかしこの考え方では、剰余群を構成し得ない(割っても割っても割り切れない)「救済の対象としての民草」への救済はいつまで経っても終わらない。それで仏教の世界は「釈迦入滅後5億7600万年後(中国の伝承では56億7000万年後)この救済プロセスに漏れた人々を救う弥勒菩薩が、現在兜率天(レーニングを重ねながら)待機中である」という設定が追加されたのだった(後世には「進化キャンセル」の概念が追加されて、さらに話がややこしくなる)。

 ♠︎今に枯れる花が最後に僕へと語りかけた

姿見えなくても 遥か先で見守っている」と

そして

そして

  • システム全体において、自らが勝った結果として敗れた側が甘受する(破産や死を含む)不遇についてどう考えるか」は2020年代に入ってから益々その重要性が増している「物語文法上の重要課題」の一つ。逆を言えば「敗れても敗れても命さえあれば再挑戦可能」なる楽観論だけでは押し切れなくなってきており、これについて二ノ宮知子のだめカンタピーレ(2001年~2010年)」の様な音楽漫画や、南Q太ひらけ駒(2011年~)」の様な将棋漫画は現実に立脚するシビアな落ち着き先を提示する事で人気を博してきたといえる。

  • また吾峠呼世晴鬼滅の刃(2016年~2020年)」では「理想の真に正しい部分は敗北後も不適合箇所を修正されながら後代に継承されていく」なる考え方が前面に押し出された。それ自体がある意味、敵方のホムルンスクにも救済を用意した荒川弘鋼の錬金術師(FULLMETAL ALCHEMIST,2001年~2010年)」の延長線上に現れたともいえるが「継承の過程」も「鬼側に用意される救済」もよりシビアななっている。単なるトレンドの変化というより読者心理の大原流たる現実環境の変化の反映とも。

❤︎そうだ 君は打ちひしがれて 削れていく心根

 物語の始まりは

 微かな寂しさ

❤︎♠︎君の手が触れた それは引き合う孤独の力なら

  誰がどうして奪えるものか

  求めあえる 命はてるまで

♠︎輝く星は言う 木の葉の向こうから

 君はただ見つめる 未来を想いながら

 僕らは進む何も知らず彼方の方へ

そして

  • 同時代作品でいうと遠藤達哉SPYxFAMILY(2019年)」にも現れる「既存の伝統意識に一切拠らずしても、あるべき社会や家族の姿は再建され得る」なる信念、あるいは「ヘイズ・コード(Hays Code,The Motion Picture Production Code of 1930,起草1929年,履行1934年~1968年)」にまで遡るのかもしれない。

    イエズス会士が起草したそれは単なる表現禁止事例の列記ではなくカテシズモ(Catechismo=公教要理)の一種であり「遂行可能な犯罪手段や自殺手段をみだりに言い広める事」「犯罪者やその情婦を美化して描かず、幸福な結婚や家族を推奨する事」「社会正義を体現する人々(政治家、法律家、軍人、警察、医師など)を故なく悪く描かない事(むしろその立場からの不正の糾弾と社会正義の復活は奨励される)」といった確固とした勧善懲悪感がその背景に存在し、フランク・キャプラ或る夜の出来事(It Happened One Night,1934年)」「オペラハット(Mr. Deeds Goes to Town,1936年)」やウォルト・ディズニー白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs,1937年)」がこの理念を体現する事によって商業的成功を収めたとされる。要するに世界恐慌の余波に苦しめられる観衆は、スクリーンに「改めて世知辛い現実を突き付けてくる鏡」ではなく「現実を忘れられるほど壮大で完璧なメルヘン」を求めた訳である。

    こうした考え方が同時代日本では「現実の直視を余儀なくされた人民は、必ずや(自分たちの様な)極端主義の支持者にならざるを得ない」と期待に胸を膨らませていた右翼(国家主義)と左翼(マルクス主義)から「不謹慎」と徹底弾劾された現実を決して忘れてはならない。こうした歴史は必ず繰り返すものなのだから。

  • 坂口安吾が日本に持ち込んだフランス式行動主義肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが真の知性と倫理観念を育てる」も彷彿とさせる。

♠︎❤︎君が望むなら それは強く応えてくれるのだ

  今は全てに恐るな

  痛みを知るただ一人であれ

そして

そして

そして

そして

そして

  • 月見英子ちゃんにとって「過去」とは実家の事、「現在」とは仕事の事。彼女はそれを「痛みを知るただ一人(一切を否定せず受容してくれる理解者)」たらんとする諸葛孔明と一緒に乗り越えていこうとする。それにしても実家が「スパルタ派」周囲が「三国志」という過酷な環境下、英子ちゃんの「無垢」は常に危険と隣り合わせという…

♠︎❤︎微かに笑え あの星の様に

 痛みを知るただ一人であれ

ウルトラマン=菩薩」説自体については以前から多くの人が語っている。流石に「エマニュエル夫人」のあのポートレートを半跏思惟像と結びつけ「観音像=豊穣の女神」と考える発想的飛躍までには至らなかったものの…

まぁ米津玄師M87」における「(神永新二=米津玄師=視聴者)からのウルトラマンの一方的観測」を「パリピ孔明」における「英子ちゃんと孔明の相互観測」に変換するとこんな(互いを「痛みを癒せるただ一人」と認め合う二人の)デュエット形式に置き換わるという話。で、それがが現実の音楽シーンにおいては「プレイヤーとしてのレディ・ガガ」と「プロデューサーとしてのレディ・ガガ」に射影されるという事は…

  • ザラブ星人MIAは「(インターネット普及に伴う活感多様化後もステマなどに支えられる形で辛うじて形骸だけは存続してきた)虚構のマス・マーケティング市場」の破壊に成功。最後までその幻想存続の中核として機能してきたマドンナレディ・ガガの権威失墜に成功する(実際にはもっと複雑な展開を辿ったが、その話については稿を改めて)。

  •  しかしこの時葬り去られた「Lady Gaga」は、当人にとってはあくまで「過去の商業主義に適用した旧世代の仮面」に過ぎず、むしろこれを契機にそれを脱ぎ捨てより「自分らしさ」を打ち出した新展開に打って出る。ちなみにそのLady Gagaが主演したミュージカル映画アリー/ スター誕生(A Star Is Born,2018年)」挿入歌で、作中においてじっくり仕上げられていく「Shallow」は、もしかしたら「パリピ孔明」作中で月見英子が作曲する「Flower Crown」の元ネタなのかも。またこのエピソード自体がライバル「アザリエ(AZALEA)」と被ってくる訳で。

いずれにせよ「ザラブ星人の攻撃」を「インタネット普及による価値観多様化が進んだマスマーケティング的手法の形骸化の告発」と好意的に受け止めている辺りが興味深いところ。とはいえ、その歴史観なら歴史観で、そこに英子と孔明が目指す「世界再統一」路線が「時代の流れに逆行する」という考え方が現れてくる訳です。

まさしく「シンウルトラマン」においてメフィラス星人が試みて失敗した「上からの統一」を補完する「下からの統一」。

メフィラス星人がこれを覚えたら「民草の救済、私の好きな言葉です」などと言い出しかねません。もちろんこの手の話、結局は弱肉強食という側面もあったりする訳で…

そして幸村誠ヴィンランド・サガ(VINLAND SAGA,2005年)」にもある通り、この考え方には大きな抜け穴が…

  • 特にニンフェット(女児が男児を成長速度で抜かす小学校高学年頃から、再び抜き返される中学生頃)/ハイニンフェット(高校生)世代の小娘集団は機を見るに聡く、MIAを選んだのも真っ先に見放したのも彼女ら(下手をしたらBad GirlsでOut)。同時代にはLana Del ReyQueen of the Gas StationLollitaで選びながらVideo Gameで見限ったりしている。かなり気難しい層といえよう。

  • 日本だとこの路線は(定点観測の機会が持てなかったのでシミュレーション例としてしか示せないが)椎名林檎歌舞伎町の女王」やTokyo Gegegayさよならダーリン」辺りを経て現在はAdoあたりに対応する印象。

こうしたややこしい構造を扱う為に、数学における並行世界ハンドリングのフォーマット「多様体(局所直交座標系)におけるアトラスとチャート」の概念を導入した訳ですが、実際にはマジョリティはマジョリティであるが故に必ずしも「逃避行」ばかり選択する訳でもなく「売上最大化を前提としてのバランス重視」を心掛けてきたAVEXが音楽制作を手掛ける事によって生じた全体的安定感もあるかなぁという感じ。

そんな感じで以下続報…