以下をまとめる過程で「単位円(Unit Circle、半径1の円弧)はある意味α(アルファ)であり、かつΩ(オメガ)であると呼ばれる条件を満たしている」なる知見に到達しました。
新約聖書に現れる語句。厳密に言えば聖書にこの形では現れていないが、しばしば「ΑΩ」もしくは、「アルファとオメガ」に相当する各国語(たとえば、ラテン語: Alpha et Omega、英語: Alpha and Omega)として言及される。
新約聖書「ヨハネの黙示録(1章8節、21章6節、22章13節)」に、主の言葉「私はアルファであり、オメガである(コイネーギリシャ語: τὸ α καὶ τὸ ω; 英語: I am the Alpha and the Omega)」として現れる。なお21:6と22:13ではこのフレーズの後に「最初であり、最後である」と続く。
意味ギリシャ文字の最初の文字Α(アルファ)と、最後の文字Ω(オメガ)が並べられており、最初と最後、すなわち、「全て」「永遠」という意味を持つ。
同じ意味で、「A to Z」「A-Z」「AZ」などと、表記されることがある。
もちろん「(ネイピア数eに拠る自然指数・対数関数、究極の幾何図形たる円の拠る円周率π、そしてそれぞれがある意味数の極限たる虚数と負の符号と1の)全部入り」と称されるオイラーの等式e^πi=-1を図形的にコンパクトに体現してるのがこの「単位円(Unit Circle)」なる概念の本質である以上、今更別に新しい考え方を提言してる訳でもない訳ですが…
*ちなみにオイラーの等式は同時に円がさらに「互いに直交する(位相が90度ズレた)正弦波(つまりSin波とCos波)」に分解可能である事を巧みに隠蔽している。広まった当時(つまり19世紀前半)の社会状況を観察するに、そこになんらかの宗教的意義が存在していたとしても不思議はない。まぁ、それくらい「糖衣」に包んでやらないと(保守的な数学者や物理学者をも含む)誰もが必死で嚥下を回避しそうな「それについて考えるだけで人間の自尊心を毀損する様な嫌らしい無理数の寄せ集めセット」でもあったという話…
「単位円(Unut Circle、半径1の円弧)」は「直交座標系(Rectangular coordinate system/Orthogonal coordinate system)」3Dヒストグラムにおいては「円周上に観測される出現頻度1の点の集合」、「極座標系(Polar coordinates system)」ヒストグラムにおいては「(観測単位に対応する数量の)長さ1の線の集合」と観測される。
この観点から「(正弦波の足し合わせだけであらゆる波形を再現する)フーリエ解析による波形合成過程」を観察する。
*周期2の円弧の半径は0.5である点に注意。また極座標系ヒストグラムに半径未満となる線分は存在しないので一番左端のバーは常に「(0-半径を含む)原点間近のグループ」を表示する。
三角波(Triangular wave)
その時の複素数空間(complex n-space)上のXZ(Cos)面…「偶数系」なので実数部を正面にすると確かに三角波が合成されている(周期2)。
その時の複素数空間(complex n-space)上のXY(円弧)面。
放物線(Parabola)
その時の複素数空間(complex n-space)上のXZ(Cos)面…「偶数系」なので実数部を正面にすると確かに放物線が合成されている(周期1)。
その時の複素数空間(complex n-space)上のXY(円弧)面。
ノコギリ波(Sawtooth wave)
その時の複素数空間(complex n-space)上のYZ(Sin)面…「奇数系」なので虚数部を正面に向けると確かにノコギリ波が合成されている(周期2)。
その時の複素数空間(complex n-space)上のXY(円弧)面。
矩形波(Square wave)
その時の複素数空間(complex n-space)上のYZ(Sin)面…「奇数系」なので虚数部を正面にすると確かに矩形波が合成されている(周期2)。
その時の複素数空間(complex n-space)上のXY(円弧)面。
とりあえず今回の考察の出発点はここ。
- ここでフーリエ変換が示唆する「事象の始まり方」…私が提唱し続けてきた「オイラーの原始量(Euler's primitive sweep)」概念は「有意味な観測結果の獲得が、これに立脚する時空間認識の構築を可能とする」点を重視する。そしてここでフーリエ変換は(いかなる有意味情報も観測し得ない)単位円に領域を限定した一時的干渉を積み重ねることで有意味な観測結果を発生させている。
- ここでフーリエ変換が示唆する「事象の終わり方」…とはいえ、こうして限定された領域にフーリエ変換が一時的に与えた影響など、所詮は砂浜に残した署名の様に多勢に無勢。次第に大数の法則や中心極限定理などの影響で最後には元の単位円状態に戻ってしまう。
ふと思いついたのが以下の概念との対比。
中心極限定理(CLT=Central Limit Theorem) - Wikipedia
確率論・統計学における極限定理の一つ。
大数の法則によると、ある母集団から無作為抽出した標本の平均は標本の大きさを大きくすると母平均に近づく。
これに対し中心極限定理は標本平均と母平均との誤差を論ずるものである。多くの場合、母集団の分布がどんな分布であっても、その誤差は標本の大きさを大きくしたとき近似的に正規分布に従う。
なお、標本の分布に分散が存在しないときには、極限が正規分布と異なる場合もある。
頻度主義者は伝統的に「(中心極限定理が示唆する)数を大きくしていく過程でのあらゆる確率分布の正規分布への合流(併呑)」を「福音=神が用意した不可避の救済計画」と布教してきた訳ですが、それは案外「人は誰だって最後には死ぬ(だから結果として個別的努力は全て最後に無駄になる)」なるペシミズムに満ちた全体主義的宿命論のトートロジーだったのかもしれません。国家間競争が全てだった「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の最後の落し子…
RADWIMPS - 愛にできることはまだあるかい 歌詞 MV
何もない僕たちに なぜ夢を見させたか
終わりある人生に なぜ希望を持たせたかなぜこの手をすり抜ける ものばかり与えたか
それでもなおしがみつく 僕らは醜いかい
それとも、きれいかい答えてよ
こうした話の積み上げこそが、現代社会の閉塞的状況からの脱却には欠かせない筈?