「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【コンピューター化に至るまでの数理モデルの歴史】「計算を物理的に補助してきた道具」の歴史について②

産業革命黎明期におけるパンチカード・システム開発過程を巡る悲劇。しかし、それ自体は英国産業革命において決定的役割を果たしたばかりかコンピューター誕生期にも重要な役割を果たす事になったのです。

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  • それを最初に開発した自動人形(単数形Automaton、複数形Automata)技師ジャック・ド・ヴォーカンソン(Jacques de Vaucanson, 1709年~1782年)は、音楽を奏でる自動人形の「演奏曲入れ替え技術」を複雑な模様を扱う織機に応用しようとしたのだった。しかし職人から「オレ達が何を覚えるか指図するなんて何様だぁ?」「オレ達から職を奪うつもりか」と散々罵られ、石を投げつけられただけだった。せっかくの発明品も跡形もなく破壊されて現存してない。

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  • 実は英国でも1733年に飛び杼(どんな幅の物でも一人で織れる)を発明したランカシアの織工ジョン・ケイが、生産効率の飛躍的改善の代償として熟練工の大量失業を誘発したせいで残りの一生を貧困の中で襲撃を恐れながら送る羽目に陥っていたりする。

  • そして1745年には英国の産業発明家ジョゼフ・マリー・ジャカールがBasile Bouchon や Jean Falcon の先駆的成果を発展させて世界初の完全自動織機を開発した際、このパンチカード・システムを「データ入力」手段として採用。これが産業革命推進者達(Captains of industry)の手により爆発的に広まって英国繊維産業の産業革命において決定的役割を果たす事になった。

    http://cs-exhibitions.uni-klu.ac.at/uploads/pics/Basile_Bouchons_loom_01.jpg

さて、当時の問題は何処にあったのか?

第1次産業革命は技術革新により大量生産の実現やコスト削減、品質の安定等、社会全体としては輝かしい側面を生み出しました。その反面、一部の労働者たちにとって不利益となる影の側面もあり、それに起因した出来事の一つがラッダイト運動(ラダイト運動、Luddite)です。
*機械編み機を壊したネッド・ラッド(Ned Ludd)という少年の名前が由来と言われているが、実在したかも定かではない。


第1次産業革命以前の英国の織物工業地帯では手動の織機が導入されており、多くの労働者が職を得ていました。第1次産業革命により織機の機械化が進み、水力や蒸気機関を動力源とする紡績機が現れ、多くの労働者は職を失いました。技術革新による機械導入が高賃金の熟練労働者の失業と、不熟練の労働者の酷使や深夜までの労働等の労働環境の悪化を生んだと考えた労働者たちは、機械や工場建築物を打ち壊す行動に出ました。ラッダイト運動は単なる「打ち壊し」運動ではなく、労働環境の改善を求める労働者と経営者の集団交渉の形態の一つであったと言えます。

英国はこのような行動に対して最高刑を死刑とする法律を制定しましたが、ラッダイト運動は民衆の支持を受けていたため、打ち壊しは止められず、1811年から1817年の長期間にわたって続き、打ち壊しにより工場や機械破損の被害や、多数の死傷者や逮捕者が出る結果となりました。

  • コンシューマー市場側の問題…18世紀時点では消費の主体は王侯貴族や聖職者達であり、パンチカード・システム(というか、その原型)のこの分野への応用例は「音楽を演奏する自動人形や大型オルゴールの演奏曲交換の効率化」程度にとどまった。次第に大衆向け見世物の世界へも進出を果たすが、英国に比べフランスにおける市場展開はあくまで鈍かった。

  • 生産者側の問題…18世紀から19世紀前半にかけてはパンチカード・システム導入といった織機の生産効率向上努力は、それが自分達の大量解雇に結びつくという理由で職人達の直接暴力による反抗を誘発する事が多かった。

  • 需要と供給の問題…実際パンチカード・システム導入などによる生産規模拡大は、伝統的な需要と供給のバランスを破壊し大不況時代(1873年〜1896年)を到来させてしまう。しかしその過程で市場経済の担い手が王侯貴族や聖職者達からブルジョワ階層や一般庶民に拡大してコンシューマー市場の急拡大につながる。

  • 一方(鉱山や工場や流通のラインの一部から「万人の足」に発展した蒸気機関車や蒸気船などと異なり)そしてこうした過程すべてにおいてパンチカード・システムは証券取引所におけるティッカーテープTicker Tape)の利用同様、コンシューマーに直接恩恵を与える事はなかったのである。こうした不運はそれが国民投票国勢調査に不可欠となって以降も続く。

かくして、かかる「記憶媒体の歴史」は第二ステージへと突入するのです。

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①通信技術の発展により南北戦争後のニューヨークの証券会社で「ティッカー・テープTicker Tape)」の利用が始まる。

南北戦争後、ニューヨークの証券会社は業者間を走って回るメッセンジャーによって取引所の価格情報を得ていた。1867年になるとニューヨーク証券取引所が価格を電信網によって遠隔地に伝えるティッカーテープTicker Tape)を導入したが、初期の機械は動作が遅く「ニューヨーク・タイムズ」から「遅過ぎてメッセンジャー達の失笑を買っている」と揶揄されている。それでもこれが世界初の電子通信システムである事実は動かず「テクノロジーウォール街から始まる」重要な先例となった。これをまだ若い技師だった頃のトーマス・エジソンがゴールド&ストック・テレグラフ・カンパニーの為に改良したマシン(1867年)は、1929年夏に(ストック・テレグラフ・カンパニーを買収したウェスタン・ユニオンとニューヨーク証券取引所が四百万ドルを投じてシステム更新するまで現役であり続けた(それから数ヶ月後の大暴落によって大恐慌が引き起こされる事になる)。そもそも性能に大きな差のある新旧マシンの交代自体に10年近くの歳月が費やされた。「旧機種のトレーダーを出し抜こうとする目論見を予防し、公平を保つ為に」全てのマシンの入れ替えが完了するまで新機種は旧機種と同じ速度での稼働が義務付けられていた。

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一方、機種変更完了を契機にウェスタンユニオンが月25ドルに据え置かれてきた使用料を十年ぶりに値上げすると発表して以降「情報を得る為のコスト」が加速度的に上がり始める。

アメリカにおけるコンピューター利用史は、さらにタビュレーティングマシン(Tabulating machine、パンチカードシステム)を使った1890年における米国国勢調査のデータ処理にも由来する。

タビュレーティングマシンTabulating machine)…日本では「パンチカードシステム」の呼称で親しまれる。原理はオルゴールそのもの。紙や金属やセルロイド製の円盤やリボンの表面に穴を穿ったり突起を刻印したりして記憶媒体として利用する。
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  • チャールズ・バベッジは機械式の自動計算機としては非常に大規模なものを設計し制作。1833年には数表作成用の階差機関の開発からより汎用的な解析機関へと興味を移したが、この時にジャカールのパンチカードをプログラムの表現に使った(ジャカード織機では、カードの穴は経糸の上げ下げを直接示すだけだが、これはコード化である)。1835年に記されたその解析機関についての記述によれば汎用のプログラム可能なコンピュータであり、入力にはパンチカード、動力源には蒸気機関を採用し、歯車や軸の位置で数値を表すものとされている。元々は対数表を高精度で作成することを目的としていたが、すぐにそれ以外の用途にも使える汎用プログラム可能コンピュータとして構想を発展させたが、機械製作を担当した職人との不和など様々な要因が重なって頓挫。プロジェクトへのイギリス政府の出資も中止となった。ちなみにこの頃、ジョージ・ゴードン・バイロンの娘エイダ・ラブレスがFederico Luigi, Conte Menabrea の著した "Sketch of the Analytical Engine" を英訳し、大量の注釈を付記している。これが世界初のプログラミングについての出版物とされる。またダブリン出身の会計士 Percy Ludgate はバベッジの業績を知らなかったが、独自にプログラム可能なコンピュータを設計し、1909年に出版した著作にそれを記している。
    *階差機関の初期の限定的設計のものを再現する計画が1991年、サイエンス・ミュージアムで実施された。いくつかの瑣末な修正を施し、バベッジの設計通りに動くことが確認され、時代を遥かに先行していたバベッジの設計が正しかったことが証明された。部品製作にはコンピュータ制御の工作機械を使ったが、当時の職人のレベルに合わせて誤差を生じるようにしている。
  • 1880年代末、アメリカのハーマン・ホレリスは機械で読み取り可能な形で媒体にデータを記録する方法を発明。それまで機械が読み取り可能な形で媒体に記録されているのはあくまで(ピアノロールやジャカード織機の様な)制御情報であって、データではなかった。当初紙テープを試したが、最終的にパンチカードに到達。鉄道の車掌が切符に鋏を入れる様を見て思いついたという。パンチカードに穴を開けるキーパンチ機とそれを処理するタビュレーティングマシンを発明し、これが現代の情報処理発展の基盤となった。機械式カウンタとして、リレー(とソレノイド)を使っている。アメリカでの1890年の国勢調査に使われ、予定の数カ月前に集計を終え、予算も抑えることに貢献した。前回の国勢調査よりも数年短い期間で集計を終えている。このホレリスの創業した会社が後にIBMの中核となる。
    *Leslie Comrieのパンチカード技術に関する記事やウォーレス・ジョン・エッカートの著書 Punched Card Methods in Scientific Computation (1940) によれば、パンチカードシステムは微分方程式を解いたり、浮動小数点数の乗除算を行うことも 出来て第二次世界大戦中には暗号の統計処理にも使われた。またコロンビア大学の Thomas J. Watson Astronomical Computing Bureau(後のトーマス・J・ワトソン研究所)では、最先端のコンピューティングとしてパンチカードシステムを使った天文学の計算が行われていた。
  • IBMはパンチカード技術を発展させて一連の商用データ処理機器(パンチカードシステム)を開発。1950年ごろまでに産業界や政府で広く使われるようになっている。文書として一般人が手にするようになったカード(小切手や公共料金の明細など)には "Do not fold, spindle or mutilate"(折ったり穴を開けたり破いたりしないでください)という警告が印刷され、第二次世界大戦後の時代を表すキャッチフレーズとなった。*パンチカードは、初期のコンピュータでも入力メディアとして鑽孔テープとともに使われた。IBMなどパンチカードマシンのメーカーがコンピュータに乗り出してきて、コンピュータが設置された「計算センター」を設置。そこでは以下のような光景が見られた。ユーザーはプログラムをパンチカードの束の形で計算センターに提出する(プログラムの1行がパンチカード1枚に対応)。カードが読み取られて処理のキューに入れられ、順番がくるとコンパイルされて実行される。結果は提出者の何らかの識別と共にプリンターで印字され、計算センターのロビーなどに置かれる。多くの場合、その結果はコンパイルエラーや実行エラーの羅列であり、さらなるデバッグと再試行を必要とする。パンチカードは今でも使われており、その寸法(および80桁の容量)が様々な面で影響を及ぼしている。その寸法はホレリスのころのアメリカ合衆国の紙幣と同じで、紙幣を数える機械が流用できるためその寸法を採用した。

③こうした展開が音声記録技術として独自発展を遂げてきたレコード技術や磁気テープ技術と合流を果たしたのは、世界初の商用コンピューターUNIVAC I (Universal Automatic Computer=万能自動計算機,1951年)が金属テープを使用したタビュレーティングシステムを付属入出力装置として搭載し、これへの対抗策として翌年IBM社がイメーション社(現在の3M社)の開発したModel726磁気テープユニット(1952年)を発表して以降となる。

  • 磁気テープの原型事態は19世紀末には既にアメリカやデンマークに出現していたが、これを録音用メディアとして実用化したのは第2次世界大戦中のナチスドイツ。ノイズの少ない音楽や演説のラジオ放送に興味津々だった連合国側は終戦によって初めてその技術の実態を知り、一挙に世界中で広まったのだった。
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  • パンチカードシステムが1分間に80文字の情報を記録した100枚のカードを処理するのが精一杯だったのに対し、磁気テープユニットは最初から1秒間に 7500 文字を処理出来た。50倍以上の高速化でありまさしく不可逆的なイノベーション技術革新)だったのである。

ちなみに1931年にはニューヨークワール紙が「スーパーコンピューティング」という言葉を初めて使っています。IBMコロンビア大学に納入した大型特製タビュレーティングマシンを指しての事で、その意味ではスーパーコンピューターの歴史はまさしく「演算能力ゼロ」の状態から始まったといえるのです。

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IBM社( International Business Machines Corporation,1911年〜)…1914年から1956年にかけて率いたトーマス・ジョン・ワトソン・シニア(Thomas John Watson、 Sr.,1874年〜1956年)が最初の黄金期を現出させた。
*社長に選ばれた前年の従業員数は1300人で売り上げは年間900万ドル。1924年IBMへと社名変更して1952年までに全米のタビュレーティングマシンの実に90%を所有し顧客にリースする様になっており、連邦政府から独占禁止法違反で訴えられた。1956年に死去した際の従業員数は72,500人、年間売り上げは8億9700万ドル。

①「IBMのニューヨーク本社とCEOトーマス・J・ワトソンが海外子会社を通してナチス・ドイツにパンチカード機器を供給した事がホロコースト遂行を可能とした」発言。

  • エドウィン・ブラック(IBMOS/2販売方針をエンタープライズ向けに変更した結果、廃刊に追い込まれたコンシューマー向けパソコン雑誌『OS/2プロフェッショナル』『OS/2ウイーク』の編集発行人)はその著書「IBMホロコースト2001年)」の中でこの独自見解を述べている(ニューヨーク本社の協力下、IBMジュネーヴオフィスとドイツ内の子会社 Dehomag がナチスの残虐行為を積極的にサポート)。ブラックはそれらのマシンを使うことでナチスの行為が効率化されたとも述べている。

  • この問題はドキュメンタリー 「The Corporation2003年)」 でも掘り下げられ訴訟問題に発展したが、IBMは「それを裏付けるだけの当時の資料は現存しない」とし訴訟を退ける一方で、こうした一連の動きが提起した問題意識を真剣に受け止め「この件に関する適切な学問的評価を期待している」とコメントしている。

コンピュータは全世界で5台ぐらいしか売れないと思う」発言…IBMのワトソンが1943年にそうと言ったとされる(「50台」と言い換えられる事も多い)。しかし証拠は不十分。Author Kevin Maneyは引用元を探そうとしたがワトソンのどのスピーチや文書からもその文章は見つけられなかったし、当時のIBMに関する記事などを見てもそのような言葉は出てこない。
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  • 一般に間違った予言の例として挙げられるが、ワトソンが1943年にこれを言ったとすれば、ゴードン・ベルACMの50周年式典の基調講演で述べたとおり、少なくともその後10年間については正しかったと言える。

  • IBM Archives Frequently Asked Questionsは、この件についての疑問(ワトソンは1950年代にこれを言ったのか)にこう答えている。そもそも当時社長となっていたトーマス・J・ワトソン・ジュニアが1953年4月28日の株主会議で、IBM 701 について述べた言葉が元で、しこも答えは最初からイエスでなくノーだったというのである。IBM 701 は「IBM初のコンピュータ製品で、科学技術計算用に設計されている」。彼はその会議で「IBMはそのようなマシンの開発計画を策定し、そのようなマシンを使う可能性のある20ほどの場所に説明に回った。なお、このマシンは月額12,000ドルから18,000ドルでレンタルされるものであって、右から左へ売買されるようなものではない。我々はこの巡回で5台の注文を予定していたが、結果として18台の注文を得た」と述べたという。なおワトソン・ジュニアは後に自伝に若干異なる話を載せており、確実な注文は11台、他に見込みがありそうな顧客は10箇所だったと記している。

  • この話は既に1973年には伝説として語られており、エコノミスト紙に「よく引用される世界中で5台のコンピュータで十分という予言をワトソンが決してしなかったことは明らか」という Maney の言を引用している。

  • インターネット上で初めてこの言葉の引用が見られるのは1986年のネットニュースでのことで、発信元はコンベックス・コンピュータであり、"'I think there is a world market for about five computers' —Remark attributed to Thomas J. Watson (Chairman of the Board of International Business Machines)、 1943" と記されていた。別の引用は1985年5月15日、San Diego Evening Tribune 紙の記者 Neil Morgan のコラム。さらに初期の引用として Christopher Cerf と Victor S. Navasky の1984年の著書 The Experts Speak もあるが、これは Morgan と Langford の著書 Facts and Fallacies からの引用とされている。そして1985年の時点で既にAnnals of the History of Computing 誌の編集者 Eric Weiss はこれらの引用をいずれも疑わしいと記している。

  • 1985年にはこの話がネットニュース (net.misc) でワトソンの名は出さずに話題になった。議論の発端は不明だが、ケンブリッジ大学数学教授 ダグラス・ハートリー の1951年ごろの次の言葉がよく似ているという話が出ている。「私は、微分解析機をイギリスで初めて作り、誰よりもその特殊なコンピュータの利用経験のあるダグラス・ハートリー教授に会いに行った。彼は個人的意見として、この国で必要な計算は当時1つはケンブリッジで、1つはテディントンで、1つはマンチェスターで製作中だった3つのコンピュータでまかなえるだろうと言った。彼はまた、誰もそのようなマシンを所有する必要はないし、そもそも購入するには高すぎる、とも言っていた。」。ハワード・エイケンも1952年に似たような言葉を残した。「あちこちの研究所に半ダースほどの大規模コンピュータがあれば、この国のあらゆる計算の要求に対応できるだろう」。

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いずれにせよ当時のIBMは自ら「(逐次記録内容が更新され続けるマスタ(元帳)データを共有するリアルタイム処理」の世界に足を踏み入れ「(世界中に10台もいらない巨大な関数電卓」が支配する世界観を終わらせたリーディング・カンパニーだった事実は動かないのです。

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①第二次大戦後のIBMは企業や政府の計算需要に目をつけ、コンピュータの開発と販売に乗り出す。1950年代にはアメリカ空軍の自動化防衛システムの為にコンピュータを開発する契約を結び、SAGE対空システム開発に関わる事でMITで行われていた重要な研究(第二次世界大戦下、爆撃機乗組員の訓練用フライトシミュレータの制御部として研究が始まったWhirlwindプロジェクト。当初はアナログコンピューターとして開発されていたが,1945年にチームの一員がENIACのデモンストレーションに触れて以降デジタル式コンピュータに移行)へとアクセス。それは世界初のリアルタイム指向のデジタルコンピュータで、CRT表示、磁気コアメモリ、ライトガン、最初の実用的代数コンピュータ言語、デジタル・アナログ変換技術、電話回線でのデジタルデータ転送などの最新技術が含まれていた。IBMは56台のSAGE用コンピュータを製造し(1台3000万ドル)、最盛期には7,000人が従事していた(当時の全従業員の20%。プロジェクト関係者 Robert P. Crago は「プロジェクトがいつか完了したとき,2000人のプログラマIBM内で次に何をさせればいいか想像も出来なかった」と述べている)。直接的な利益よりも長期にわたるプロジェクトによる安定に意味があったが先端技術へのアクセスは軍によって制限されていた(ソフトウェア開発はランド研究所が独占的に担当)。それでもIBMはこの経験を生かし航空予約システムSABREを完成させている。

https://dome.mit.edu/bitstream/id/303497/?sequence=-1

「SAGE(Semi Automatic Ground Environment、半自動式防空管制組織,1958年〜1984年)」 …当時の米国防空体制は爆撃機が侵入してきたのを検知してから迎撃機を離陸させ、人力で迎撃地点を手動計算、それから無線で誘導を行っていた。しかしジェット機と核爆弾が実用化されると「ただでさえ検地の難しい低空からジェット爆撃機で進入されるとわずか数分で対応せねばならず、しかも対応失敗が核攻撃成功に直結する」という恐ろしい事態となる。またすべてのレーダー施設から検知の報告が殺到するとそれを捌くオペレーターが大量の報告で過負荷状態に陥るという問題も急浮上してきた。

  • これらの問題を解決するには全自動化しかなく、そのためにも全レーダー施設から検知を1つのコンピューターに集中させて処理、オペレーターは迎撃目標と迎撃方法をコンピューターに指示してすべての通信を高速化、リアルタイムに迎撃するシステムが必要になった訳である。実際に構築されたのは複数の大型コンピュータを使用してレーダー施設からのメッセージを集め要撃機に送るシステムで、世界各地のテレタイプ端末から集められた情報が戦闘機の基地のテレタイプ端末に送られる最初のオンラインシステムのひとつ。インターネットがまだ無かった頃に米国本土をすべてカバーするためにあちこちのレーダー施設とネットワーク接続べく世界で初めてモデムを搭載しネットワーク接続されたコンピューターになった。また初めてCRTモニターが搭載されたと同時にライトガンと呼ばれるライトペンでモニター上の標的をタッチすることによって情報を得たり攻撃の指示を与えられる仕様が採用され世界初のタッチスクリーンインターフェースの実用例ともなったのである。さらに世界で初めて磁気コアメモリーを使用し150人までのリアルタイム使用を可能とした。

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  •  システムは全部で27基のコンピューターによって構成され、各コンピューターは6万本の真空管・17万5000個のダイオード・1万2000個の最新式トランジスターを使っており、毎日数百本の真空管が交換されていた。真空管は実際には1時間に1本ずつしか故障しないものの診断プログラムによって危なそうな真空管を予防的措置として交換。各センターには真空管交換専門のスタッフがいて、交換部品を満載したショッピングカートを押してマシンの中を行ったり来たりしていた。しかもシステム全体が二重化されており、予備のシステムが常に電源が入って稼働しているホットスタンバイ状態であった為にシステムがダウンするのは年間わずか2時間か3時間程度だったという。

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  • 計画全体で80億ドル(約7545億円)から120億ドル(1兆1317億円)を使用。核爆弾を開発したマンハッタン計画を上回るコストで、底面積そのものは地球シミュレータに負けるが、単一プロセッサーのシステムとしては史上最大、今後も破られることはないと予想されている。

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「Sabre(SABRE、Semi-Automatic Business Research Environment,1960年〜)」システム…航空・鉄道・ホテルなどで使用されているコンピュータ予約システム(CRS)。2012年現在、Sabre Holdings の所有する Sabre Global Distribution System (GDS) として運営され65,000の旅行業者,400以上の航空会社,125,000以上のホテル、27のレンタカー業者、17のクルーズ会社、50以上の鉄道事業者などが利用している。

http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/images/icp/F603635Q09359L86/us__en_us__ibm100__sabre__american_airlines_reservation_diagram__925x610.jpg

  • 1950年代に深刻な問題に直面していたアメリカン航空(AA)のために開発された。当時のフライト予約システムは完全にマニュアル(手動)であり,1920年代に建設された米国アーカンソー州リトルロックにある予約センターが定めたものであったが、そのシステムはフライト毎のカード・ファイルを使ったもので、8人でソートしたカードが格納されている。ある座席が予約されると対応するカードに印が付けられ、その席が予約済みかどうかが示される。ここまでの処理は便数が今ほど多くないのでそれほど問題にはならない。ひとつのフライト予約が最終的に実施されるまでを見てみると、チケットを作成するには予約があってから最長三時間、平均でも90分かかっており限界に差し掛かっていたのである。ひとつのファイルに関われるオペレータは8人が限界であり、さらなる予約注文や問い合わせに対応するには階層構造を持たせて折り返し回答するようなシステムにせざるを得ない状況だった。

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  • アメリカン航空はいくつかの解決法を試しており、カード・ファイルを置き換える Magnetronic Reservisor という新たなマシンが 1952 年に試験導入された。これは、磁気ドラムメモリを持っていて、その中に各フライトの残り座席数を記録するものである。これを使うと同時に多数のオペレータが残り座席数を見ることができるため、旅行会社からの問い合わせにすぐに応えることができたが実際のチケットの発券などは依然として手作業であり、そのためにしばしば機械と手作業の食い違いによるミスが発生した。一説には予約12件に1件の割合でトラブルが発生したという。アメリカン航空はもっと根本的な自動化システムを必要としていた。

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  • 1953年にはIBMのセールスマンであるブレア・スミスがアメリカン航空の便に乗ってロスアンゼルスからニューヨークの本社に戻り途中でたまたまアメリカン航空の社長C・R・スミス(英語版)の臨席となり、同姓であることから話がはずんで互いの仕事について語り合った。当時のIBMアメリカ空軍のSAGEプロジェクトに参加しており、その考え方がかなりの部分でアメリカン航空の予約システムに当てはまると2人は気づいた。テレタイプ端末を発券オフィスに置き、予約や問い合わせの要求をセンターに送り、途中で人手を介することなく応答を返すのである。各フライトの残り座席数は自動的に更新され、座席があれば旅行業者に即座に知らせることが出来る。実際に予約するには再度要求を送り、データを更新すると共にチケットをプリントアウトすれば良い。わずか30日後、IBMアメリカン航空に調査報告書を送った。それはIBMが真剣に問題を考えたことを示すもので「電子頭脳」を使えば問題を解決する助けになることが示唆されていた。彼らはIBMの技術者とアメリカン航空の予約業務や発券業務に関わっている多くの人々を集めて、共同チームによるプロジェクトを開始。まず短期的対策としてIBMのパンチカードシステムを改良型 Reservisorと組合わせ予約業務の半自動化に着手した。

    http://www-03.ibm.com/ibm/history/ibm100/images/icp/T482097A41782S76/us__en_us__ibm100__sage__sabre_reservation_1960__620x350.jpg

  • 正式な開発契約は1957年に締結された。最初のシステムは2台の IBM 7090 メインフレームを使ったものでプログラム開発費は4千万ドルだったと言われている(2000年の価値に換算すると3億5千万ドル)。1960年に親しみやすい SABRE と名づけられ(キャンベル=ケリーによれば、ビュイックの1960年型 LeSabre の広告から思いついた名称で、後付けで "Semi-Automatic Business Research Environment" の頭字語とされたという)ニューヨーク州ブライアークリフ・メナーに設置されて大成功を収め1964年までに全ての予約関連業務がこのシステムに集約された。当時のSABREシステムは1日あたり83,000本の電話を受けつけ、黙々と大量のトランザクションを処理し続けたという。1972年にはオクラホマ州タルサに設置された System/360 上に移植され,1976年以降はアメリカン航空だけでなく旅行業者も使える様になった。IBMはこの経験を他の航空会社にも売り込んでデルタ航空の Deltamatic(IBM 7074)やパンアメリカン航空の Panamac(IBM 7080)を構築し,1968年にはそれらの機能をPARS (Programmed Airline Reservation System) システムに統合。これはSystem/360のどのマシンでも動作したので、いかなる規模の航空会社でも導入出来る様になり、やがてACP (Airline Control System)、TPF (Transaction Processing Facility) へと発展した。このソフトウェアは当初アセンブリ言語で書かれていたが、後にPL/Iの方言である SabreTalk で書き直され、現在 (TPF) はC言語で書かれている。

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②同時期IBMは米国政府の宇宙飛行計画への関与にも注力。コンピューターの活用はもはや宇宙船設計においても必要不可欠なものとなり、宇宙センターの建設、飛行計画のためのプログラミングなどにIBMのコンピューターとスタッフ達がその力を発揮したのである。

  • 1956年に「スペース・コンピューター・センター」をワシントンのペンシルバニア・アベニューにオープンさせたのを皮切りに、主要な宇宙センターを次々と開設。マーキュリー有人宇宙飛行(1959年〜1963年)においても1963年とその翌年に行われたミッションにおいてもIBMスタッフとコンピューターシステムがヒューストンのNASAコントロール・ネットワークから軌道修正を行い,1969年のアポロ11号の月飛行に際してもIBMのコンピューターが宇宙船から地球に送られてくる膨大なデータを着実に処理した。

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    アポロ計画はぎりぎりで「電卓以前」の世界の出来事
    それは「列強間における極地への到達合戦」の延長線上に起こった出来事だった。中央アジアを巡るロシア帝国大英帝国の所謂「グレート・ゲーム」、日露戦争(1905年)に到るまでのシベリア開拓史、北極、南極、ヒマラヤ山渓などへの到達合戦…

③1950年代末からIBMの製品は世界各国へと拡がり始める。
*1953年3月時点では地球上に存在した高速ランダムアクセス・メモリは合計五三キロバイトに過ぎなかった。1950年代後半にIBMが市場規模を急拡大させる。その流れを主導したのは500万6bit(3.75MB)もの「大容量」で世界を驚愕させたロッカーほどの大きさのHDDドライブユニットのJBMによる大量出荷だった。そのIBMは「ディスケット(diskette)」すなわちFDD(Floppy Disk Drive)ユニットの発明者としても歴史にその名を残している。

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  • 西ベルリンの工場で1,000台ものIBM分類機が生産され、フランスのエソンヌ工場、ドイツのジンデルフィンゲン工場ではそれぞれ、IBM705とRAMAC305が初出荷された。

  • ヨーロッパだけではなく中南米、東京、シドニーなどにも工場や研究所が作られ、アメリカ以外の87カ国で2万9000人以上の社員が誕生。

  • 各国の戦後経済の復興とともに勢いを増したIBMの躍進は「System/360」の発表によってさらに加速していく。1966年には世界で2万5000人もの社員を雇用して生産をスピードアップさせ、かつ、大規模な製造工場を建設。その工場の規模はアメリカとヨーロッパを合わせて、総面積300万平方フィートにも及んだ。

  • 数百名のプログラマーが300万以上の指示書を書いて、ソフトウェアを作り続けた結果、月に1000システム以上を生産する体制が出来上がる。

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そしてこうした「コンピューターの事務機器としての需要の莫大な増大」の背景には1959年における事務処理言語COBOLの発表という重要契機があったのでした。