「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「ヒッピー型思考」③そのイデオロギーと実際に残した足跡について。

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これは以下の投稿の続きです。

まず表面化したのはJ・D・サリンジャーライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye、1951年)」やジョン・アップダイクA&P(1963年)」といった「東海岸の閉鎖性を告発する文学」でした。

465夜『ライ麦畑でつかまえて』J.D.サリンジャー|松岡正剛の千夜千冊

1960年代アメリカで若者たちのバイブルになりかかっていた文芸作品が3つある。精神病院を舞台にしたケン・キージーカッコーの巣の上で』、戦争状態という管理と論理の悪夢を描いたジョーゼフ・ヘラーキャッチ=22』、そして、J.D.サリンジャーライ麦畑でつかまえて』。

いずれも管理社会や制度社会の欺瞞を暴くというよりも痛烈なスタイルで揶揄した作品であることが共通していて、折からのヒッピー・ムーブメントやカウンターカルチャー・ムーブメントに対応して圧倒的な人気を攫った。

まあ、簡単にいえば「やりきれない思い」をかれらが使いやすい言葉で綴ったところが、やたらに受けた。なかでも『ライ麦畑でつかまえて』だけが8年くらい早く書かれていながら、60年代に遅れて爆発したベストセラーであった。

日本での爆発はさらに10年ほど遅れて、村上龍村上春樹に飛び火する。ただし大江健三郎には、この作品が発表された1951年から数年後に、このアンチヒーローの言動が着弾していたようだ。説明するまでもないだろうが「ライ麦(日本ではこう俗称する)」の主人公はアメリカ青春文学を代表するアンチヒーローなのだ。

サリンジャーがこの作品で用意したキーワードは"phony"である。「インチキ」とか「インチキくさい」といった意味だ。しきりに出てくる。ただし、これはオモテのキーワード。

主人公はいわずとしれた16歳の高校生ホールデン・コールフィールドで、この名前からしてデイヴィッド・コパフィールドに挑んでいることがわかる。

冒頭からして、こうなのだ。翻訳がイマイチなのが気になるが「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に何をやってたとか、そういったデイヴィッド・コパフィールド式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな」というふうなのだ。

サリンジャーはこの冒頭において、旧社会の典型的なモデルの破壊をみずからすることを宣告し、その古い青春モデルに毒を盛ったわけなのだ。コパフィールドこそいい迷惑である。

物語や筋書は、ない、といってよい。ホールデン・コールフィールドがクリスマス直前にペンシルヴァニアの高校を退学させられた日から数日間のことを、映画のシナリオを書く兄貴や可愛い妹のことを含めて、あれこれの見解と批評をもとに一人称で語っているだけなのだ。

が、その、一人称で語っているだけ、というところがとんでもなく勝手な調子で、スタンダップトークショーのようで瑞々しかったのである。なんといっても日常描写の物事や出来事や人のやることが、主人公の鬱憤やるかたない価値観の断片そのままに会話調で叩きつけられていく感覚が、当時としては画期的だった。

あれこれの見解と批評のほうは、大人社会の"phony"な欺瞞と、その大人社会をまねるしかなくなっている高校生たちの欺瞞に向けられていて、それが徹底してというか、くどすぎるほどに吐露される。では本人のコールフィールドはどんな日々をおくっているのかというと、その欺瞞社会をすっかり覗き見たほどにスレているのだが、妹と送った少年の日々がやたらに懐かしいわけなのである。しかも人生のスケジュールは次の学期からはまたどこかの高校に通う予定になっているというだけで、ほとんど具体的には描かれない。そのうえ最後の最後になって、実はコールフィールドが精神病院に入っている状態だったことも明かされる。

サリンジャーがこのようなアンチヒーローをつくりあげたことについては、以前から「これは20世紀のハックルベリー・フィンだ」というアメリカ文学史の"お墨付き常識"があるのだが、これは当たってはいない。ハックは観察こそすれ、批評はしないし、だいいちビョーキじゃない。

大のサリンジャー派の村上春樹は、コールフィールドはメルヴィルの『白鯨』、フィッツジェラルドの『偉大なるギャツビー』の主人公たちに続くアンチヒーローで、そこには「志は高くて、行動は滑稽になる」という共通の特徴があると言っていたものだが、この大袈裟な指摘もまったく当たっていない。

むしろ村上が『ノルウェイの森』のレイコに「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ、‥・あの『ライ麦』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」と主人公に向けて言わせているのが、これがコールフィールドが日本に飛び火していた何よりの証拠だったのである。

 ジョン・アップダイク 『A&P』

初出は1962年ニューヨーカー』。アメリカでは数多くのアンソロジーにも収められ、アップダイクのほかの作品を読んだこともないような高校生たちにも親しまれているようだ。

新潮文庫の『自選短編集』には、アップダイク自身の手による前書き、「日本の読者に」という作品紹介が掲載されているのだが、そこには「これを書いた当時、この短編は少しJ.D.サリンジャー風すぎる、とわたしの妻が言っていた」とある(余談だけれど、ナボコフの『ヨーロッパ文学講義』の序文はアップダイクが書いていて、奥さんがコーネル大学ナボコフの講義を受けたことが記してある。ナボコフの薫陶を受けたこの奥さん、さぞかし厳しい読み手だったにちがいない。たぶん同じ奥さんだと思うんだけど)。

  • 米国文学においてナボコフロリータ(Lolita、1955年)」が「ロードムービー的文学を煌びやかな表象に満ちた新次元に高めた」事実を忘れてはいけない。多様で多元的なアメリカ文化は、既存の境界線を次々と乗り越えていく「」を通じてしかその全体像が浮かび上がってこないのである。

たしかに一人称の男の子の口語的な語り口で話は進んでいくし、彼のおとなの欺瞞性に対する怒りは『ライ麦』にも通底する。ただ、やはりアップダイクならではの特徴が、この作品にもいかんなく発揮されている。

まず、なんといっても視覚的なイメージに満ちあふれていること。

アップダイクはハーバードを卒業したあと、オックスフォードへ留学し、そこで美学を学んでいる。

おそらく色や形や質感に対する感覚は、もともと鋭かったのだろうし、それをことばに置き換えていく基礎的な訓練は、そういった過程で積んでいったにちがいない。

女の子の水着の描写から、日焼けしていないところ、はたまた一風変わった女の子の歩き方、カーラーを巻いたお客の反応から、中年女性の静脈瘤、わたしたちはまるでアップダイクによく見える目を与えてもらったかのように、世界のありとあらゆる「細部」を見ることになる。

そうした細部は、単に精緻に描かれるだけではない。

神は細部に宿る」ということばそのままに、女の子の歩き方をとおして、その子の境遇や性格までもが浮かび上がってくる。アップダイクの切り取る瞬間には、そこに登場人物たちのすべてが凝縮されているのだ。

重ねられていくことばは、視覚的な喚起力に満ちている。

ナボコフが講義のなかで『アンナ・カレーニン』に出てくるキャシーのドレスや『ボヴァリー夫人』の帽子のデッサンをやったように、女の子たちの水着(ところで背の高い、冴えない女の子はどんな水着を着ていたんだろう? 新潮文庫の表紙のイラストは、三人ともセパレーツになっていて、どうしたってこれはおかしい)を、イメージしてみてほしい。

ほんとうに筋を追いかけて読むだけではもったいない、ある種、とてもぜいたくな「ことばの悦楽」といったものがアップダイクの小説のなかにはある。

こうした起源を有するヒッピー文化はグノーシス主義(独Gnostizismus、英Gnosticism)的反宇宙的二元論に深く感染していくのです。

ダグラス・ラミスヒッピー論」(思想の科学」1971年6月号)

サンフランシスコには、1967年の秋に「ヒッピー」の概念の葬式が行われたという馬鹿話が伝わっている。確かに丁度その頃「ヒッピー」という概念自体がマスコミに絡めとられ、ファッション分野や音楽分野や書籍分野などに解体されて商品市場に組み込まれ始めたのは事実だ。「後に残されたのはプラスチック製のイミテーションだけでした」と、この馬鹿話は容赦なく断定して終わる。それが事実である証拠も、事実でない証拠も現時点では存在してない。

我々は何に支配されているのか?

もし我々が自らの解放を願うなら、まず我々自身が何に支配されているか見定めなければならない。その内容は誕生の瞬間から刻々と飽くことなく進化を遂げてきて、今日ではとんでもないレベルまで精緻化が進んでいる。

  • ヒッピー運動はフランク・ハーバートデューン/砂の惑星(Dune)シリーズ(1965年〜1985年)」の執筆が始まった時期と重なる。その世界観においては機械文明を発達させたイックス(IX)の「思考機械」が禁じられ、代わりにそれぞれの諸勢力が生身の人間の演算能力を引き上げた「メンタート」や、人間に予知能力を付加する「メランジ(スパイス=香辛料)」の力を借りて独自の精緻な精神世界を構築し、他勢力をその完全コントロール下に置こうと鎬を削り合っている。そしてヒッピーとは(少なくとも自意識的には)自らをこうした「愛なき闘争」の外側に置きたいなる願望の顕現だった様なのである。

マルクスフロイトは共に、意識及び行動が我々の必ずしも感得していない物理的・心理的諸条件から生じているかについて言及した。現代のテクノロジスト達はそれをさらに発展させ、これら諸条件の巧妙なる操作方法を編み出した訳だ。

  • カール・マルクスは言うまでもなく「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」で「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗うべし)」とし指摘した人物。そしてシグムント・フロイトは人間を実際に動かしているのは当人がそう信じたがってる様な「意識的決断の積み重ね」ではなく「無意識からの呼び声」であるとした。この両者を統合した「マルクス=フロイト主義」がドイツ社会学における「方法論的個人主義の伝統」の出発点となる。

あるTVコマーシャルが放送されると、数百万の視聴者達は「何と下らないCMだ」と呟きながら何故そうするか分からないまま出掛けていって、その商品を買ってしまう。これが「動機の研究(Motivational Research)」の成果であり、それによって我々の意識を出し抜いて無意識に直接訴えかけ、我々の行動様式を勝手に望むまま規定し続ける事が可能となった。

1957年9月12日、ニューヨークの某スタジオで市場調査員であるジェームズ・ヴィカリーが記者会見を開いた。その内容は驚くべきものだった。映像内に視聴者が知覚できないほどの一瞬だけ、「コーラを飲め」や「ポップコーンを食べろ」というフレーズを何度も流すことで、コーラとポップコーンの売上をそれぞれ57.7%および18.1%伸ばすことに成功したというのである。これは”サブリミナル広告”と命名された。

ヴィカリーの思惑では、煩わしいテレビCMに取って代わる可能性のあるこの発見は、アメリカ中からの喝采と賞賛を受けるはずだった。しかし、実際には洗脳に対する恐怖と反感を呼び起こすことになった。

そして1962年、とうとうヴィカリーは発表できるほど十分な調査は行われておらず、一切を悔いていると白状したのだ。

それでもサブリミナル広告の威力に対する懸念は収まることがなかった。1957年のパニック以来、イギリスではその使用が禁止されている。

また科学的管理法を用いれば我々人間をデータとして記録して調査分析し、そこから得られた情報をコンピューターにかける事で、最適なる技法が算出出来る。これが誰もが論じている情報化時代の正体であり、その実体は情報の巧妙な操作及び支配(Control)に基づく人間管理の具現化に他ならないのだ。

  • 確かにコンピューターなるもの、演算能力を全く備えていないタピュレーティング・マシン(パンチカード・システム)段階から既に軍事計画や都市計画の策定に不可欠な統計結果を得る為の集計手段として活用されてきた。

もし我々がそうした経営学的、都市計画的束縛から脱却して解放されたければ、これらの法則を侵犯する突然変異の変種になるしかない。かくしてヒッピーが好んで自らをそう呼ぶ「変わり種(Freaks)」が地上に生を受ける事になる訳だ。

それでは「経営学的拘束」とは何か。

資本主義経済の急激な成長は、惜しみなく労働力を供給してくれる一方、その生産物を次々と消費してくれる貴方に依存している。もし貴方が女性ならばさらに、貴方の為に惜しみなく働いてくれ、欲しくなった物を次々と買ってくれる男性しか恋人や結婚相手に選ばない事で、冷徹な督戦係としての役割まで演じさせられる事になる。かくして広告主は望む成果を手に入れ、貴方の家の中にガラクタの山が積み上がるという結末が待っている。

それでは「都市計画的拘束」とは何か。

公共の場にいる我々は都市工学的誘導に基づいて今どこにいるべきか一々細かく指図され続けている様なものだ。そしてそれに逆らって人々が立ち止まったり「想定外の行動(そもそもこの言葉自体に相手側を罪悪感で身動き出来なくさせようとする悪意が埋め込まれている)」を取り始める事ほど、政治家や官僚や警察を困らせる事はない。最も重要なポイントは流動性を保ち続ける事、すなわち誰もを絶えず忙しく移動し続けなければならない状況に置く事で淀みなき流れを生じさせ、それに逆らおうとする意図を未然に摘み取り続ける点にある、反体制デモでさえ、予め警察に届け出たコース通りに更新してる限りは統制下に置く事が出来るという訳だ。

こうした抑圧的状況下では市民は無数の部分に分断され、各部分が互いに争い続ける事を強要される。そうした動きに逆らおうとする内的衝動を恐れて自ら抑制する様に教育され、それぞれが完璧な自己搾取マシーンとして機能する事を求められるのだ。

それでは「完璧な自己搾取マシーン」とは何か。

自分は不完全で不的確で魅力も存在に過ぎない」「だからこそ、体制側の交通規制に従って自らの欠陥を補完してくれる商品を購入し続けり事で完全かつ適格な魅力ある存在となる事を目指し続けなければならない」と信じ込まされ、その目標を実現する為に働かされ続ける状態の事を言う。

丸一日裸で過ごしてごらんなさい。自分が如何に普段「自分達だけで放置されたら耐えがたい醜悪な動物に退化してしまう」という恐怖に突き動かされて暮らしているか否が応でも思い知らされる筈だ。そして、そうした裸の状態こそが、本来の自分も自然で生得的で本質的な核心部分なのだという現実が普通に受け容れられる様になる。こうして個々の人間が「再統合(Reassembled)」され科学的管理技法で「予期不可能(Anomary)」な状態を取り戻す事をこそ、体制側は心の底から恐れているといっても過言ではない。

しかしながら現実のヒッピー文化は「オルタモントの悲劇(1969年)」「シャロン・テート虐殺事件(1969年)」「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」といった悲劇的展開の積み重ねを通じて「誰かにとっての究極の自由は、それ以外に対する専制の徹底によってのみ完成する自由主義のジレンマを体現しただけに終わったのでした。