「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【人間の認識可能な範囲外に存在する絶対他者】出発点は「悟りの境地」としての空ループ

仏師のイラスト
我々の認識可能な範囲外に存在する絶対他者について一切触れることなく、コンピュータ工学上の用語を用いて宗教上の悟りについて説明しようとしたら思い浮かぶ表現は一つしかない。「割り込みも処理中のタスクも存在しない実際には存在しても特定の観点からは無視可能な状態のイベント待ち空ループ」である。

*仏教の縁起論、キェルケゴールの「久遠のキリスト」、宮沢賢治の「石炭袋」…

そもそも、カンブリア時代になってやっと「目」を獲得した生物は、そのまま「現実そのもの」を認識している訳ではないのです。

しかも、それ以前の時代に遡っても別に「現実そのもの」を認識する手段を備えていた訳でもないのです。

  • 例えば警備計画に従って立哨や動哨や巡回や入退場管理といったルーチンワークを実践中の警備員は、如何なる異常も検知しておらず発生した事案に対応中でない場合には「(クマのプーさん言うところの何もしないを実践中」という状態にある。これを「」の状態と見做し、何らかの異常を検知して対応中の状態を「」とするなら、全ては警備計画に従っての表裏一体の行動なのだからある意味「空即是色、色即是空」の境地が成立する。
    *全ての動作があらかじめプログラムに定められているコンピューターの動作もまさにこれで、その状態は外部からの介入可能性を(プリンタやモニターといった)出力デバイスや(キーボードやマウスといった)入力デバイス、さらには両者を兼ねるタッチパネルの「外側」に追い出す事によって成立したのである。
  • この空きループ自体は絶対時間の経過そのものを認識する手段を内包しておらず、その点においてイスラム世界やデカルトの原子論的時間論に対応する。すなわち常に突如認識外の未知の誰かの手によって、しかもその誰かの都合で内容を勝手に書き換えられたり、強制的に終了させられてしまう可能性を内包しており、そういう形で「外部の絶対者」と繋がっていると推測されているのである。
    イスラム世界における神と世界の関係がしばしば「プログラマーとプログラム」「映画製作者と完成品としての映画」に例えられるのも、このイメージに拠る。アラビア哲学者イブン=ルシュドアヴェロエスは、こうした立場から「(ユークリッド幾何学のバージョン違いとしての)非ユークリッド幾何学」の登場を予言したのだった。

ところで後期ハイデガーいうところの集-立(Gestell)システム(特定の意図に従って手持ちリソース全てを総動員しようとする体制)は、原義においては「シュテレンstellen、動員)」に導かれる形で「科学や技術の発展」や「戦争や開発の遂行」が実現されていく過程を意味する概念なので、こうした静的構造それ自体は「何もしてない」と見做す。
*実際にそれに集-立(Gestell)性を持たせるのは、あくまで「システム全体を適宜差し替える」絶対神的存在、すなわち「警備計画やプログラムの更新者」と考える訳である。

  • その上で後期ハイデガーはさらに「全ての集-立Gestellシステムは革新、すなわちアレーティアそれまで隠されてきた真理の世界への到達を目指して始まるにも関わらず、やがて自己目的化して当事者を本来の目的から逸らす役割しか果たさなくなっていく」とする。そしてこの限界を超越するには芸術家の天才が必要となると結論付ける。
    *要するにヘーゲル同様に「絶対他者性善説」を採択した訳である。

    *ある種の新グノーシス主義とも。要するに既存システムは全て「あくまで想定の範囲内でしか動作しない」制約を甘受してる限り「終焉段階を迎え、さらなる発展の可能性を喪失してしまった集-立(Gestell)システム」の扱いをされ続ける事になるが、この限界がどうすれば突破可能かについては、ここではあえて検討しない。

  • 一方「魔術的リアリズム文学」の創始者として知られるエルンスト・ユンガー(Ernst Jünger, 1895年〜1998年)はむしろ逆に考えた。「絶対他者としての災害をもたらす自然や人間間の闘争が必然的に引き起こす戦争」は冷酷無比に人間を打ちのめし、不愉快な結果を残すだけだが、そうした試練を乗り越える過程で人間を進化させるとしたのである。
    *ある種の「絶対他者性悪説」ともいえる。神を信じる必要も疑う必要もない。ただ黙々と与えられる状況に対応し続ける事が「空の境地」という立場。

確かに既存システムは概ね、状況を始める事も終わらせる事も出来ない(そして最初からあらゆる状況への対応を想定した、あるいは未知の状況への対応も想定された警備計画やプログラムの作成は理論上不可能)。

そして「だがとにかく、それ以上絶対他者の介入がないと想定するなら、我々は結構自由にやれる」 と楽観的に考えるのが「理神論deism)」となる。

理神論(deism) - Wikipedia

一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説。18世紀イギリスで始まり、フランス・ドイツの啓蒙思想家に受け継がれた。

神は世界を超越する創造主であるが,それが実在するか否かは人間には認識できない。またその活動範囲は宇宙の創造に限られ、それ以後の宇宙は自己発展してきたし、これからも発展し続ける。

人間理性の存在をその説の前提とし、奇跡・予言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。

  • 米国プラグマティズムpragmatism実用主義)もまた「神は答えのない問いなど用意されない」なる強い信念から出発している。こうした立脚点の存在しない懐疑主義は必ずといって良いほど神秘主義や文化相対主義の迷路に陥ってしまうといってよい。
    *これも「絶対他者性善説」の一種といえよう。

  • その一方で「真理は最終的に一つたるべき」という大前提に執着し過ぎると、今度は(イタリア・ルネサンス期にイタリア統一を夢見た政治哲学者マキャベリの延長線上に現れた)「全体的統合こそ我々が手段も選ばず到達すべき最終的悲願」としたカール・シュミッツの政治哲学などに引き寄せられてしまう。

    *よく考えてみればこれは絶対他者を「内なる善」と「外なる悪」に峻別する二元論の一種。そしてかかるダブルスタンダードが「絶対善が顕現した姿としての全体主義と独裁」を肯定し「外部全て=一刻も早く打ちはらうべき絶対悪の闇」に対する攻撃性を先鋭化させていく。

  • この辺りについては「神は無謬のはずなのに、どうしてこの世には悪が存在するのか?」なる神義論(theodizee)について「神の英知そのものは確かに無謬であるが、神の英知は理念の世界から現実の世界へと全方向に向けて流出していく過程で数多くの誤謬を累積させていき、やがては矛盾や対立、さらには悪をも誕生させる」とした「 ガザーリーAbū Ḥāmed Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī 、1058年〜1111年の流出論」」をとりあえずの最終結論としておくのが無難と考える。

  • この問題、個人心理学や政治学レベルでは「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが勢力拮抗によってしか緩和し得ない問題として表面化してくる。アメリカの社会学者・歴史学者イマニュエル・ウォーラステインいうところの「世界システムWorld-Systems Theory)」が立脚する「欧州における世界帝国化の回避成功が現代における世界経済の起源となった」という前提もこの問題と重なって来る。

大雑把にまとめると、およそ我々が「人間らしい」と感じる意識のあり方は、何処かで必ずある種の「幼児的万能感」や「魔術的意識」と結びついているものですが、それが如何なる挑戦(試練)にも遭遇せずに済んでいる状態が「空ループ」という訳ですね。