「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

後期ハイデガーいうところの「集-立(Ge-stell)システム」について

以下のブログ投稿においては主に以下を論じてきました。

https://1.bp.blogspot.com/-fyYoL91_tQo/Wp0Nn-VLocI/AAAAAAABKiI/3J2ywEvlbwIhjFNsmF8qpluPOg2it_HAQCLcBGAs/s450/ai_kanabou_buki.png

こうした全体像を俯瞰して「人類は次第に特定のアルゴリズムへの依存性を高めつつ、視野外のデータやアルゴリズムの発見、および既存のデータやアルゴリズムにおける間違いの発覚が引き起こすであろう大変動に向けられる実存不安に対する心理的耐性を高めてきた」と総括してきた訳です。

そして、後期ハイデガーいうところの「集-立Ge-stellシステム」概念は、こうした諸概念の均衡状態の推移を表す上で実に便利なのです。

後期ハイデガーいうところの「集-立Ge-stellシステム」とは、簡単に要約すると特定の意図に従って手持ちリソースを強制的に総動員しようとする逆に他の利用法も有用である事を否定したり、制限しようとする)体制を指す。

①「特定のプロトコルを通じて、特定の集団に対し、特定のイメージを喚起して特定の行動に駆り立てようとするシュテレン徴発、Stellenの総元締め的存在」と定義づけられる事が多い。しかし実際の集-立(Ge-stell)システムの大部分は既存のシュテレン(Stellen)の流用で出来ており、しかも稼働しながらその存在意図を変動させていく(例えば自己保全そのものが主目的となったりする)ので、その全体像はどの段階においても、どれだけ観察対象を細部に限定しても、そんなに明瞭に定まってる訳ではない。

  • こうした「集-立Ge-stellシステム」の存在論上の曖昧さに注目したのがば後期ウィントゲンシュタインの「言語ゲームSprachspiel」や、ベンヤミンいうところの「パサージュPassage」となる。ざっくりいって「下部構造世界全体をすっぽりと多重に覆い尽くすシュテレン(Stellen)のネットワーク内容と、それに立脚して来た集-立(Ge-stell)システム集合体の在り方の変遷史が上部構造その痕跡としての言語ゲーム(Sprachspiel)や、ベンヤミンいうところのパサージュ(Passage)の全体像を決定する」構造が想定される。

  • 一方「人体そのもの」や「社会そのもの」を一つの集-立(Ge-stell)システムと見做しつつ、ブラックボックス化された「特定意図」に迫るアプローチも存在したりする。

②こんな曖昧な状態のままでは技術体系や科学分野における記述手段として使い物にならないので、科学技術分野は「方程式Equation)」といった、より厳密な表現形式に軸足を移してきた。

16~17世紀のヨーロッパで文字を使った方程式がやっと表れます。+-=等の記号が表れたのもこの頃ですので、現在学習している形の方程式は歴史上は新しいですね。

最初は文字の方程式と図形を合わせて使って解をもとめていましたが、その後、等式の性質(等式の両辺に同じ数字を加減乗除しても等式は成立する)を使った解法や因数分解が表れて、方程式の解法は急速に簡単化されました。

  • 基本はあくまで「操作者言語ゲームとしてのコンピューター・アーキテクチャーや経済モデルの外側に仮想化された形で追い出された「人間そのもの」)」が「操作コンピューター・アーキテクチャーや経済モデルが受容可能な体裁を整えたフラットな操作者の「観想=イメージ操作体系」)」を通じて「操作対象操作者の「操作」に応じた影響を受容する「コンピューター・アーキテクチャーにとっての接続デバイス群」や「経済モデルにとっての経済そのもの」)」に介入する認知モデルなのである。大体は「様々な乗り物の運転席」を想像すれば事足りるだろう。集-立(Ge-stell)システムとしての設計意図は「世界そのもの」への介入方法のインターフェイスとしての自由度や精度や強度の増大辺り。

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    これまでこのサイトでは主に以下に注目してきました。f:id:ochimusha01:20181123154432j:plain

    • 言語神秘主義的発想からコンピューター実用化以前より洗練されてきた「(使いやすい様に効率的に整備された、あるいは雰囲気を盛り上げる為に独特の装飾を施されたインターフェイスプロトコルを操る操作者」が「(操作結果を正しく解釈して遂行する主体としてのCPU的な操作対象」を介して「(それぞれが適切な単位でコンピューターに接続されたデバイス群やネットワーク上の通信相手を束ねる操作単位の総体としての世界そのもの」に介入する時空間認識モデル。多くの伝統的宗教儀礼もこれに該当する側面を有する。

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    • 仏教の律宗キリスト教修道院やクエーカー教徒などが洗練させてきた「時間を厳守した規則正しい日常生活の維持」。ここでは「操作者=操作対象」の等式を成立させる事が呪術的に(神秘主義的に)「世界そのもの」への介入の自由度や強度の増大につながると想定されている。

      こちらはこちらで「近代的労働者の生活態度」の大源流となったが「日々の生活全てが祈祷」という言葉もある様に、後期ハイデガーも懸念している通りそれ自体が「完全に自己目的化した集-立Ge-stellシステム後期ハイデガーいうところの「特定の意図に従って手持ちリソースを強制的に総動員しようとする(逆に他の利用法も有用である事を否定したり、制限しようとする)体制」)」として「(マンハイムいうところの保守主義的というより伝統主義的な進歩主義的 反知性主義」特殊条件を満たしてもしまうのが問題。考えてみれば如何なるイデオロギーにも実際の権力奪取行動を制約する特権的立場を与えまいとする(それ故にブーランジェ事件(1886年)に際して右翼の軍国主義者とも平然と共闘した)ブランキズム(blanquisme)、さらにはその延長線上に現れたレーニンボルシェビキの組織論(1917年)もこれとも。

    • 赴任先の征服に失敗して全滅しようが、棄民としての役割はそれなりに果たす開拓団の悲哀。「捨て駒としての宣教師」なんて話にもつながってくる。欧州史における「ヴァイキング時代Viking Age、800年〜1050年)」から「大開拓時代10世紀〜13世紀)」にかけて、そして「パクス・ブリタニカPax Britannica=「大英帝国の平和」、狭義1850年頃〜1870年頃、広義19世紀中旬〜20世紀初頭)」の時代へ…こうした流れは、しばしば反動的に「過酷な環境を生き延びた事による選民意識の芽生え」を引き起こす。そしてそれが例えば欧州大開拓時代(10世紀〜13世紀)における「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の広まりに拍車を掛ける展開を迎えてきた。ロシアの農奴制や、南アフリカ奴隷制農業や、(伝統的家父長主義と奴隷制農業を墨守すべく、連邦主義者が推進する中央集権化に対抗したアメリカのジェファーソン流民主主義もほぼ同根で、ある意味後世におけるデフレ信仰の大源流とも。

      男性はキリスト教の宣教師で、布教活動のためにこの島で生活する先住民と接触しようとしたということです。しかし、外部との接触を拒む先住民らは男性に矢を放ったうえ、首にロープを掛けて引きずるなどして殺害しました。この島の先住民らは部外者に対して非常に敵対的であることで知られていて、島に上陸しようとする人を度々、攻撃してきました。インド政府も島の文化の保護や危険性の観点から、この島へ近付くことを禁止していました。

    後者2つは、もはや「言語Language)」の範疇にすら入りません。ならば何と呼ぶべきか。「文化Culture)」あるいは「システムSystem)」? というか、まさにこれこそが集-立(Ge-stell)システムそのもの?

     *この方面においては2010年代以降、さらに新たな展開が…

  • 形式論理学Informal logic)の発展形として登場したプログラミング言語programming language)に至っては、コンピュータ上で稼働する為にさらなる「数理そのもの」への純化が遂行された。その過程で「操作者」と「操作対象」の切り離しが徹底して行われ「操作対象」は独自発展の可能性を一旦完全に喪失してしまう。 例えばオブジェクト指向プログラミングにおいては、まず名前空間を設計してそれに従ってクラス群を定義し、それぞれが適切にカプセル化されたオブジェクトの生成/運用/破棄が為される様にするが、要するにその全過程が独自発展の可能性を否定し、操作者側のバージョン管理に全面依存する状況を生み出してしまう。

  • 公教育の原理」を著し「人間はすべて同じ権利を有するが、法律が永遠の正義たるこの第一原理を尊重して作られたとしていても精神的能力の不平等のために、大多数の人がこの権利を十分に享受できないとしたら、有名無実にすぎなくなる」とし「(権利の平等を実質化するのが本質である公教育は国民に対する社会の義務である」と主張したコンドルセMarie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)。

    そして「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」とする古典的自由主義の立場から男女の権利的平等を訴えたジョン・スチュアート・ミルJohn Stuart Mill、1806年〜1873年)。

    女性の解放The Subjection of Women=原題「女性の服従」、1869年)」

    近代社会は、生まれではなく功績によってその人の評価が決まるという原則に基づいている。この原則を実質化するためには、法律によって外的に規制するだけでなく、家庭で子供に男女の同権感覚を育ませる必要がある。これは彼が大人になったのち、他者を一個の人格として承認するために必要な素養だ。

    だから、実際に男女で真の権利的平等が実現するには相当の時間がかかるが、そうしたプロセスによってこそ、近代社会の正当性である「自由」は空文化せず、実質的なものとなるのだ。

    ただしこうした進歩主義者は数理で扱えない、すなわちデカルト象限に配置する形で平準化が目指せない格差については、まさしく前期ヴィントゲンシュタインが「論理哲学論考独Logisch-Philosophische Abhandlung、英Tractatus Logico-philosophicus、執筆1918年、初版1921年)」の中で「語りえないことについては、沈黙するほかないWovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.)」と述べた様に沈黙する道を選んだのだった(そのニュアンスにおいて彼らの進歩主義はある意味、集-立(Ge-stell)システムそのものといえる)。そして、こうした動きへの反動として「領主と領民、資本家と労働者、宗主国と植民地などの格差は本質的なもので克服し得ない」とする全体像の俯瞰から出発し、ある種のノブリスオブリージュの守り手として貴族主義や本国主義を再構成しようとする保守主義が台頭する。

    ゴビノー伯爵はこの様な貴族主義的立場から人類の多様性と多態性を有限資源と想定し、文明は「混血」によってしか推進し得ないが、それは次第にエントロピーを増大させていくプロセスでもあって、最終的には完全均質化によって恒久的不活性状態に陥ると考えた。これがニーチェレヴィ=ストロースが想定した「距離のパトスPathos der Distanz)」理論の大源流となる。

    一方、英国の貴族主義はヴァイキングのハスカール(食客)制から出発し、ジェントリー階層の形成に至ったがマンチェスターの新興産業階層にカリブ海における奴隷制砂糖農園の不在地主の座を脅かされる様になり、金融業界などへのシフトに着手する。

    いずれにせよフランスや英国の貴族階層は大半が庶民に没落し、本当の名家だけが残って新興産業階層に合流。一方、産業革命がもたらした大量生産・大量消費スタイルは消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層から新興産業階層(資本家や労働者)や自営業者といった庶民に推移させる。こうした経緯から「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の完全崩壊が始まる。新興ブルジョワ=政治的エリート階層が「搾取者」として庶民から嫌われる様になる一方で、その中からあえて自己批判に陶酔するインテリゲンチャ新興インテリ階層)が登場。第一次世界大戦が勃発すると「ハプスブルグ君主国」「帝政ロシア」「オスマントルコ」といったアンシャンレジーム最後の砦も消失。この時期を中立で乗り切ったスペインも第二次共和制(1931年〜1939年)がスペイン内戦(スペイン語Guerra Civil Española、英語Spanish Civil War、1936年〜1939年)で潰える激動の時代へと突入していく。とはいえ当時から既に「暴力論Réflexions sur la violence、1908年)」のジョルジュ・ソレルの様に当時のインテリゲンチャの動きを「伝統的党利至上主義の延長線上に現れた不毛な最新の悪足掻きに過ぎない」とする立場も存在した。

    一方英国はボーア戦争英Boer Wars、アフリカーンス語Anglo-Boereoorloë、1880年1881年、1899年〜1902年)泥沼化の影響でアジア方面においては大日本帝国に依存せざるを得なくなり、その大日本帝国が米国と衝突せざるを得なくなる状況が準備される種が撒かれたのである。

    ボーア戦争(英Boer Wars、アフリカーンス語Anglo-Boereoorloë、1880年〜1881年、1899年〜1902年) - Wikipedia

    かくして始まった「(国家間の競争が全てとなった総力戦体制時代1910年代後半〜1970年代)」においては「国家至上主義」と「産業至上主義」の2つの集-立(Ge-stell)システムが優勢となったが、かろうじて両者の利害の直接衝突は避けられてきた。

    ソレルの元来のビジョンは「議会制民主主義と資本主義を牛耳る新興インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「ニ百家」と呼ばれる人々による寡占支配体制)のフォルス(権力維持の為に設けられる様々な規制)に労働者がヴィオランス(そうした規制を破壊する様な創造的行為)で対抗する」図式だった。要するに規制打破(Liberty)の為の戦いであり、このケースにおいてはフォルスとヴィオランスの逆転はあり得ない。

    ところがイタリアやドイツやロシアといった後進国においては、そもそも国家至上主義や産業至上主義といった集-立(Ge-stell)システムを稼働させ得るだけの中央集権的権力の創出こそが最優先課題であり、それで(分断状態のルネサンス期イタリアで同様の課題に直面し「手段を選ばぬ統一事業」を推奨したマキャベリ政治学から出発したカール・シュミットの政治哲学は「砂糖大根の栽培農家や商店街小売商の代表の集まりに過ぎない現在の祖国の議会制民主主義や資本主義特定方向への発展に向けて社会を主導する可能性など皆無)」への嫌悪から、ソレルのビジョンを「仮想敵の想定によって内部に団結を強要し、かつ同化を進めて中央集権的権力の指揮下に置く」方向に編纂した。ブーランジェ事件(1886年)に際しては極左のブランキ派と軍国主義者が提携したし、ロシア革命におけるボルシェビキ派の覇権確定も帝政ロシア軍人接収によって達成されているから必ずしも真逆の転身とは言えない。そしてこうした流れの延長線上にロシアのスターリズムやイタリアのファシズムやドイツにおける社会民主党SPD)の大統領内閣やナチズムの様な独裁体制が出現した訳である。

    皮肉にもドイツや日本における集-立(Ge-stell)システムとしての効率追求、すなわち敗戦後に本格化した感がある。むしろ当時の政情不安はその足を引っ張っていたとさえいえるかも。

    経済の奇跡(Wirtschaftswunder)またはライン川とルール地方の経済の奇跡(Das Wirtschaftswunder an Rhein und Ruhr) - Wikipedia

    第二次世界大戦後の西ドイツとオーストリアにおける、社会的市場経済に基づくオルド自由主義を採用した経済の、急速な再建と成長を誇張した表現である。この現象を意味するドイツ語表現は1959年に『タイムズ』によって初めて英語圏で使われた。

    ライヒスマルクから、法定貨幣としてのドイツマルクへの貨幣改革(オーストリアでも同様にシリングが制定された)の始まりに際して、低度のインフレーションと急速な工業成長を一定期間継続させる政策は、西ドイツ首相コンラート・アデナウアーと経済大臣ルートヴィヒ・エアハルトによって指導された。1957年に欧州経済共同体市場が発足し、(非加盟国)イギリスの苦しい状況とは対照的に(原加盟国)西ドイツの経済成長は続いた。

    もっとも、ドイツのエネルギー産業は石炭・石油いずれにおいてもアメリカ合衆国との国際競争で圧倒されてしまった。1966年、テキサコがドイチェ・エルデールを買収するのをドイツ政府は資金難で黙認し、エアハルト政権は世論の矢面に立たされ凋落した。エルデールはドイツの基幹産業に外資が浸透してから戻ってきた。1988年RWEの子会社となり、2013年に国際コンソーシアムに買収された。コンソーシアムの参加者は、ドイツ資本だがフランスのペック・リン(PEC-Rhin)と協調したウィンターシャル、マイケル・ミルケンの上客だったコールバーグ・クラビス・ロバーツクウェートオイルマネー、そしてミハイル・フリードマンである。

    高度経済成長(日本) - Wikipedia

    日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間である。この間には「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。

    1968年には国内の郵便番号制度とユーロクリアができて、それから手形交換制度のオンライン化が急速に進んだ。また、第一次世界大戦における勝利以降、日本がイギリスやアメリカなどと並んで「五大国」の一国に数えられていた昭和前期の日中戦争の前後から、第二次世界大戦後期においてアメリカ軍による日本本土への空襲が激しくなり工業生産に影響が出てくる1944年前後までの期間も、軍需に支えられた統制経済下にあるとはいえ経済成長率自体は高度成長期に匹敵する。

    敗戦からの復興

    第二次世界大戦において、アメリカ・イギリス・中華民国の連合国に敗北し、朝鮮半島満州などの植民地を喪失した上に、敗北による経済活動の荒廃や混乱を経た上でも、日本は焼け野原の中から復興した。1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化するが、1950年の朝鮮戦争特需により1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。1956年には経済白書が もはや戦後ではないと宣言、1955年から1973年の18年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実行の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。

    この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。

    GNP第2位へ

    昭和35年頃から昭和45年までの1960年代から1970年代の高度経済成長期には1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックや1970年(昭和45年)に開催された大阪万博などによる特需などがあった。そして1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第2位となった。東海道新幹線東名高速道路といった大都市間の高速交通網も整備されていった。また、戦後、焼け野原で何もないところから世界第2位の経済大国まで上り詰めたというのは世界的に見ても例が無く、第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と言われた。この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から、日本を手本とする国が現れ始める(マレーシアにおけるルックイースト政策など)。現在では、「戦後昭和」の代名詞として1960年代の映像資料が使われる事が多い。

    この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は三種の神器と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。これら便利な家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を少しずつ促すことになった。この当時の風潮としては「大きいことは良いことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。「東洋の奇跡」と言う言葉が使われ始めた頃は日本人独特の「勤勉」「個より集団を重んじる=和の文化)」等が要因として挙げられた時期もあった。

    証券不況(昭和40年不況

    順調な経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。 しかし、1964年頃から経済は急速に縮小し事態は一変した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(大同特殊鋼)が倒産、1965年には山陽特殊製鋼倒産事件が発生した。さらに大手証券会社各社が軒並み赤字に陥った。一方個人消費は旺盛であり、主に個人消費者を対象とする製造業や流通業、サービス業はこの不況の影響をほとんど受けなかった。

    こうした事態を受け、不況拡大を防ぐために政府は、1965年5月に山一證券への日銀特融、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続していくこととなる。

    安定成長期(中成長期)へ移行

    日本が債権国となった1970年代直前には、外国人の日本株投資が活発化した。このころ株式投資基準が配当利回りから、株価を1株あたり純利益で割った値(PER)へ移行していった。外資に乗っ取られないよう金融機関をはじめ国内企業間で積極的に株式持ち合いをした結果、1973年度末の法人持株比率は66.9%にも達した。

    1971年のニクソン・ショックによる実質的な円の切り上げは国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇し、日本はオイルショック第1次オイルショック)に陥った。政府はインフレを抑制するために公定歩合を9%にまで引き上げた。第二次世界大戦後初めて実質マイナス成長を経験し高度経済成長時代は終焉を迎えた。この頃から財政政策による景気回復が主張されるようになった。

    その後は安定成長期(1973年12月よりバブル崩壊の1991年2月まで)へと移行する。第二次ベビーブームが終わり、第2次オイルショック時の1980年以後の日本は少子化の道を歩むこととなった。1980年代後半から1990年代初頭のバブル景気の崩壊以後も趨勢として実質経済成長は続いたものの、失われた20年で知られる低成長期に入ることとなる。

    弊害

    経済成長の陰で急速な工業化に伴い環境破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」「第二水俣病」といった各地の公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が高度経済成長期後半になると深刻化した。

    また、都市への人口集中による過密問題の発生と地方からの人口流出による過疎問題が発生した。高度経済成長時代も後半はその政策の見直しを迫られ、1967年の第2次佐藤内閣による公害対策基本法の制定や1972年の田中角栄による『日本列島改造論』の提唱につながることになる。

    この時期に高度成長期には、近代的なインフラが集中的に建設されたため、2020年代以降、一斉に寿命を迎えて利用に支障を来すなど社会問題化することが予見されている。このため政府は、2013年より「インフラ長寿命化基本計画」を立案して対策に乗り出している。

    総力戦体制時代が終焉に向かうにつれ、個人を集-立(Ge-stell)システム単位と考える考え方が広まって「(勢力均衡によってしか緩和し得ない究極の自由主義専制の徹底によってしか達成出来ない」ジレンマが、より身近なものとなる。1970年代にそうした文化的流れに米国や英国だけでなくドイツや日本も加わったのは、こうした経済力の高まりと無縁ではない。

③ところで2018年時点において突出が顕著な集-立(Ge-stell)システムは以下の2つ。

  • 科学的マルクス主義唯物論的(無神論ニヒリズムを継承し、「フォルス議会制民主主義と資本主義を牛耳るインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層を庇護する体制維持の為の規制網の矛盾をヴィオランス反体制側の創造的抵抗によって露呈させ打破する」ソレルや「屈強で悪辣な仮想敵の創造によって味方側に団結を強要し、呉越同舟状態が求める例外状態緊急措置としての専断を制度化して一般化しようとするカール・シュミットのの次段階として「もはや党争以外に地上の出来事に全く関心が持てなくなり、政敵と無関心層の地上からの抹殺のみが生き甲斐となってしまった」党争原理主義。元来はイデオロギー的に対立する筈の家父長制支持者と手を組んで「多様で多態的な生き方」を支持する第三世代フェミニズム層を包囲殲滅せんと画策し続けているウルトラ・フェミニズム層などがこれに該当する。

  • 人間はすべて同じ権利を有するので、精神的能力の不平等の為にこれを十分に享受出来ない自体があってはならない」とした「公教育の父コンドルセや「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化されるのは他人に実害を与える場合だけに限定される」とした「女性解放運動の父ジョン・スチュアート・ミルの延長線上において「数理的に語り得ないデカルト象限に配置しての比較が不可能な)」事象事については「領主と領民、資本家と労働者、宗主国と植民地などの格差は本質的なもので克服し得ない」と考え自民族優先主義や自国優先主義を貫く様になった折衷主義者。今や単なる政痴に成り果てたウルトラ・フェミニズムの主敵と目される様になった「多様性と多態性の庇護者」第三世代フェミニズム世代などこれに該当するが「何でも許す」文化的相対主義との距離感を問われている。

後期ハイデガー自身は集-立(Ge-stell)システムについて「すぐ自己目的化して本来の設立意図から離れてしまう為、かえって真理アレーティアの世界へのアプローチの妨げとなってしうまう」と悲観的な考え方をしています。しかし全体像を俯瞰すると 「この世界を創造した神は、良くも悪くもその運営を地上の生物に任せてきた」と考える理神論(Deism)と重なる部分が多く「良くも悪くもその概念が発生した時代や地域の拘束を大きく受ける起源論からすぐに離れてしまう」特徴は、必ずしもデメリットばかりではなさそうだったりもする様ですね。