「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【人間の認識可能な範囲外に存在する絶対他者】「空ループ」状態に戻る為の問題対処行動の行方

涅槃のイラスト
出発点はあくまでこの考え方。

およそ我々が「人間らしい」と感じる意識のあり方は、何処かで必ずある種の「幼児的万能感」や「魔術的意識」と結びついているものだが、それが如何なる挑戦(試練)にも遭遇せずに済んでいる状態が、コンピュータ工学上の用語でいう「割り込みも処理中のタスクも存在しない実際には存在しても特定の観点からは無視可能な状態のイベント待ち空ループ」である。

 考えてみれば、後期ハイデガーいうところの「集-立Gestellシステム特定の意図に従って手持ちリソース全てを総動員しようとする体制)」は、大前提として「元来は始まりも終わりも存在せず、ただ多様で多態的な刺激への反応が無限に連鎖していくだけのとどのつまり元来は借方と貸方の釣り合いだけに注目する複式簿記の世界認識方法と重なる縁起世界」に主体がどう対処(Coping)してくかという問題に焦点を当てたのです。

つまり「解決Solving可能可能か不可能かに関わらず問題Problermを抽出して対処Copingする問題対処行動Problem-Coping Behavior)」そのもの。究極の目的は仏教でいう「涅槃あるいは三昧の境地」すなわち「割り込みも処理中のタスクも存在しない実際には存在しても特定の観点からは無視可能な状態のイベント待ち空ループ」への回帰といえそうなのです。

涅槃(サンスクリット語: निर्वाण、nirvāṇa(ニルヴァーナ)、パーリ語: निब्बान、nibbāna(ニッバーナ)) - Wikipedia

仏教において、煩悩を滅尽して悟りの智慧菩提)を完成した境地のこと。生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる。般涅槃(はつねはん)や大般涅槃ともいう。この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともある。

三昧(サマーディの音写。サンスクリット語: समाधि, ラテン文字転写: samādhi) - Wikipedia

仏教やヒンドゥー教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。三摩地(さんまぢ)、三摩提とも音訳され、等持、定と義訳される。「組み合わせ」という原義から「心を等しく持すること」の意に転じたもので、サマーパッティ (samāpatti, 等至) とも意味内容はほぼ同じとされる。仏教における三昧の同義語・類義語については定にて解説するが(定の定義に沿っているか否かにかかわらず)三昧と呼称されるものを本記事にて解説する。インドの瞑想の伝統の中で培われたものであり、仏教だけでなく、共通の背景を持つヒンドゥー教やヨーガの用語としても用いられている。インドでは聖者の入滅をサマーディと表現する。

漢訳における意訳

Samādhi を意訳したものとして、以下のような言葉がある。

  • …心を一処に定めて動くことがない、の意。
  • 正受…正しく所観の法を受ける、の意。
  • 調直定心…に暴を調え、心の曲がるのを直し、心が散るのを定める、の意。
  • 正心行処…心の動きを正して、法に合わせるための依処である、の意。
  • 息慮凝心…縁慮を止めて心念を凝結する、の意。

ちなみにこうした概念は朱熹朱子学以降、儒教にも導入されている。

 『摩訶止観』において

天台智顗(てんだいちぎ)による『摩訶止観』(まかしかん)では、四種三昧(ししゅざんまい)として四つに分けられている。

  • 常坐三昧一行三昧)… 90日間座り続ける。
  • 常行三昧仏立三昧)…『般舟三昧経』に基づき、90日間阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行う。
  • 半行半坐三昧 …本尊の周りを歩く行と、座る行を行う。「方等三昧『大方等陀羅尼経』に基づいて7日間行われる)」や「法華三昧法華経』に基づき37日間または21日間行われる)」など。
  • 非行非坐三昧随自意三昧)…毎日の生活そのものを修行と考える立場。

*非行非坐三昧(随自意三昧)はむしろ「戒律を守り抜くの仏僧」と考える律宗の立場へと回帰していくのかもしれない。こちらはこちらで欧州の修道士文化同様に資本主義導入の大前提となっていく。

ヨーガにおける三昧

ヨーガ・スートラでは、三昧とは静慮があたかも客体のみになって自体が空になったかのような状態であると定義される。そして以下のように、「有想うそう三昧」と「無想むそう三昧」(第1章17-18節)、「有種子うしゅし三昧」と「無種子むしゅし三昧」(第1章41-51節)の別が説かれている。

ヨーガ・スートラ(瑜伽経) - Wikipedia

インド哲学の1派であるヨーガ学派の教典。成立は紀元後4-5世紀頃。パタンジャリによって編纂されたとされる。『スートラ』は『』の意味であり、糸のようにパタンジャリが説いた短い言葉を連ねたものである。

ヨーガとは心の働きを抑制することである」の定義から始まり、三昧に至るまでの具体的方法としての8階梯と、その背景にある思想が述べられる。

歴史

国内外のヨーガ研究者や実践者のなかには、この『ヨーガ・スートラ』をヨーガの「基本教典」であるとするものがあるが、ヨーガの歴史を研究したマーク・シングルトンはこのような理解に注意を促している。『ヨーガ・スートラ』は当時数多くあった修行書のひとつに過ぎないのであって、かならずしもヨーガに関する「唯一」の「聖典」のような種類のものではないからである。佐保田鶴治は、サーンキヤ・ヨーガの思想を伝えるためのテキストや教典は、同じ時期に多くの支派の師家の手で作られており、そのなかでたまたま今日に伝えられているのが『ヨーガ・スートラ』であると述べている。いずれにせよその成立を紀元後3世紀以前に遡らせることは、文献学的な証拠から困難であるという。

その思想は仏教思想からも多大な影響や刺激を受けているが、その一方でヨーロッパ人研究者の知見に影響を受けながら、20世紀になって英語圏のヨーガ実践者たちによって、また、ヴィヴェーカーナンダやH・P・ブラヴァツキーなどの近代ヨーガの推進者たちによって、「基本教典」としての権威を与えられて現代のヨーガへの理解に大きな影響を与えている。

イスラーム世界への影響

インド誌1030年)』を著したアブー・ライハーン・ビールーニーによってはじめてイスラーム系言語に翻訳された。この書はあまり広く読まれなかったが、16世紀にアブル・ファズルがインド哲学諸派の解説で、忠実・簡潔に紹介し、同時代のヨーガ実践者たちの思弁と実践的に肉体と魂の鍛錬法はイスラームの知識人や修道者の関心を集め、14~17世紀の著名なスーフィー文人に帰せられる修道論や雑録などにまぎれこみ、18~19世紀のインド・ムスリムによるスーフィー文献にも色濃い影響を与えた。

  • 有想三昧サンプラジュニャータ・サマーディ)…尋(ヴィタルカ)、伺(ヴィチャーラ)、楽(アーナンダ)、我想(アスミタ)の意識対象が伴っている三昧。
  • 無想三昧アサンプラジュニャータ・サマーディ)…行(サンスカーラ)だけが残っている三昧。
  • 有種子三昧サビージャ・サマーディ)…心の対象が残っている三昧。
  • 無種子三昧ニルビージャ・サマーディ)…真智(直感智)さえも止まり、すべての心作用が止滅した時に生じる三昧。

ヨーガスートラに述べられる定(サマーパティ)の種類も有尋定(うじんじょう、サヴィタルカ・サマーパティ)、無尋定(むじんじょう、ニルヴィタルカ・サマーパティ)、有伺定(うしじょう、サヴィチャーラ・サマーパティ)、無伺定(むしじょう、ニルヴィチャーラ・サマーパティ)とこの区別に対応している。

俗用

他の名詞に付いて「ざんまい」と濁音化し、一心不乱に事をするさま(例:読書三昧)や、むやみやたらにしたがるさま(例:贅沢三昧)を表す。


平安時代以来、火葬場のことを三昧(さんまい)といった。これから転じて三昧場(さんまいば)は、墓地、火葬場、死者の冥福を祈るために墓地の近くに設けた堂を指す。

心理学の世界では、問題は人間にストレスを与えるものとして捉えられます。解決策の見つからない問題に対してはストレスを感じますし、もし手強い問題を解決できれば、解放されたような気分になれますよね。問題解決の方法とは、そのままストレス対処の方法と言えるのです。

そんな心理学の考え方に従えば、私たちがとるストレスへの対処の方法は大きく分けて二つあるんだとか。ひとつめが「問題焦点型コーピング」、ふたつめが「情動焦点型コーピング」です。

コーピングとは「coping」、日本語で「対処する」という意味の単語。私たちが問題に直面した時にどんな対処をするか、ということを指しています。

問題焦点型」は、読んで字のごとく、現在起こっている問題そのものに目を向けること。問題が何かを考え、それに対する方策を打ち出していくもの。私たちが普段「問題解決」と聞いて考えるのは、こちらかもしれません。

一方で、「情動焦点型」というのは、問題やストレスに直面したときの情動、気持ちや精神状態に目を向けたもの。親しい人の死や、取り返しのつかない失敗に直面した時は、「問題焦点型」の行動を起こすことはできません。そんな時、毎回ネガティブな感情に支配されて何もできなくなっては生活が成り立ちません。そんな時のために人類が獲得したのが「情動焦点型コーピング」です。

例えば、他の人に相談して慰めてもらったり、馬鹿騒ぎして忘れようとしたり。はたまた、一時的に問題から目をそらしてみたり「あんな問題大したことないさ」と切り替えたりすることも含まれます。

この「情動焦点型」、一見すると「なんだ、現実逃避じゃないか」とか、「意思の弱い人がすることだろ?」と考える人がいるかもしれません。ですが、考えてみてください。「具体的な行動を起こしても解決できないこと」なんて、たくさんありますよね。先ほどあげたのが、いい例です。一見現実逃避のように見えても「情動焦点型コーピング」は非常に合理的なのです。

しかし、「問題焦点型」の行動を起こせるにも関わらず、「情動焦点型」の対処法をとっている人が多いのも事実です。どうしようもない出来事、手の打ちようのない大事件、それは仕方ありません。しかし、分析すれば原因を特定できそうな問題、冷静になれば具体的な行動を起こせそうな問題だって、多いはずです。

そんな時に「あんなの、重要じゃないんだ」と目を背けてみたり、他人に頼ってばかりではいけません。このような「情動焦点型」の行動は、問題解決ではなく、ただの現実逃避にすぎないからです。

  • ここで重要なのが「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式の行動主義は「問題対処行動Problem-Coping Behaviorからの問題解決行動Problem-Solving Behaviorの抽出」を目的として遂行される事があるという辺り。
    *というか、これぞまさに統計学における仮説検定(hypothesis testing)あるいは統計的仮説検定(statistical hypothesis testing)の概念の立脚点でもある?

    仮説検定 - Wikipedia

    母集団分布の母数に関する仮説を標本から検証する統計学的方法のひとつ。仮説が正しいと仮定した上で、それに従う母集団から、実際に観察された標本が抽出される確率を求め、その値により判断を行う。その確率が十分に(予め決めておいた値より)小さければ、その仮説を棄却する(すなわち仮説は成り立ちそうもないと判断する)。日本工業規格では、仮説(statistical hypothesis)を「母数又は確率分布についての宣言。帰無仮説と対立仮説がある。」、検定(statistical test)を「帰無仮説を棄却し対立仮説を支持するか,又は帰無仮説を棄却しないかを観測値に基づいて決めるための統計的手続き。その手続きは,帰無仮説が成立しているにもかかわらず棄却する確率がα以下になるように決められる。このαを有意水準という。」と定義している。

    統計的仮説検定の方法論は、ネイマン=ピアソン流の頻度主義統計学に基づくものと、ベイズ主義統計学に基づくものとの二つに大きく分けられる。ただし「仮説検定」という場合、前者だけを指すことがある。

    ベイズ確率 - Wikipedia

    ベイズ主義による「確率」の考え方(およびその値)を指す。これら(およびベイズ統計学ベイズ推定)の「ベイズ)」の名は、元々はトーマス・ベイズおよび彼が示したベイズの定理に由来する。ロナルド・フィッシャー以降の推計統計学等で前提とされる「頻度主義(ランダムな事象が生起・発生する頻度をもって「確率」と定義する考え方)」、と対比されることが多い。

    統計学においてベイズ確率の考え方を採用する立場を、頻度主義に対比してベイズ主義(またベイズ主義的・ベイズ主義者という意味でベイジアン)という。さらにベイズ確率に関しては、ベイズの定理を利用してベイズ推定の方法が導かれ、これはベイズ統計学の基礎概念となっている。

    歴史

    ベイズ確率(およびベイズ統計学)は、ベイズの定理の特別な場合を証明したトーマス・ベイズにちなんだ命名実際の命名は1950年代)ではあるが、ベイズ自身が現在のようなベイズ確率やベイズ推定の考え方を持っていたかどうかは定かでない。

    ベイズ確率の考え方を積極的に用いたのはピエール=シモン・ラプラスベイズの定理の一般的な場合を証明した)で、それを「土星の質量を確率的に見積もる」というような問題に応用した。しかし彼以後は長らくこの考え方は顧みられなかった。土星の質量は推測値だからと言っても確率的に分布するわけではなく、観測誤差の方が確率的に分布するのであると頻度主義では考える。特に19世紀末以降に発展した数理統計学は専ら頻度主義に基づいて厳密な理論を構築した。

    確率の主観的解釈(のちにベイズ主義と呼ばれる)は1931年に哲学者・数学者のフランク・ラムゼイによって提唱され、彼は別の主観確率論理確率)の支持者だったケインズと論争をしているが、彼自身はこれを頻度主義的解釈の単なる補助としか考えなかった。これをさらに厳密に取り上げたのは1937年、統計学者ブルーノ・デ・フィネッティである。さらに初めて詳細な分析を加えたのは1954年、レオナード・ジミー・サヴェッジであって、彼の考え方にはベイズ確率・ベイズ主義という呼び名が適用された。そのほか初期の研究者にはバーナード・クープマン、エイブラハム・ウォールドらがいる。これらの研究は現在広く受け入れられるようになってきたが、頻度主義者とベイズ主義者の亀裂は現在でも尾を引いており、両主義の支持者の一部は互いに議論せず共通の学会に参加しないといった状況が続いている。

    ベイズ確率と頻度確率ベイズ主義の考え方は、観測された頻度分布あるいは想定された母集団の割合から導かれるのが確率であるとする頻度確率の概念とは対照的である。また統計学的方法が大きく異なる場合も多い。ただしベイズ主義と頻度主義とで同じ結論が得られる問題も多い。

    統計学的仮説検定について、ベイズ主義と頻度主義との差が現れやすい。頻度主義では推定したいパラメータは一つの真の値をとると考えるが、ベイズ主義においてはパラメータは確率変数であると考える。

    応用

    ベイズ確率は現在いろいろな方面で応用されている。一方で頻度主義に基づく統計学の理論体系に対しては、かえって実用性を犠牲にしているとのベイジアンからの批判がある。むしろベイズ主義のほうが人間の思考様式になじむというわけである。ベイズ推定は、まず複数の仮説について尤もらしさ(信念の度合)を考え、実験や観測により新しい情報(データ)を収集し、それらを組み合わせてベイズの定理によってその確率を改訂するという点で、科学的方法のモデルとしても提案されている。またベイズ因子(従来の統計学における尤度を用いる方法に似ている)を利用する方法はオッカムの剃刀に対応するものとされている。

    ベイズ推定を用いた方法は近年、スパムを見つける方法(ベイジアンフィルタ)として利用され成果を上げている。すでに分かっているスパムの選別法をフィルターに示し、次いで単語の頻度を用いてスパムと必要な電子メールとを識別するのである。

  • さらに鍵となってくるのが「抑圧が生んだルサンチマンは、その解放過程で著しい変貌を遂げる事もある」という辺り。

  • 特に20世紀末には「あらゆるルサンチマンを晴らす機会を与えられた主人公が冷酷な絶対君主段階を経て何の不満もない幼児的精神状態に回帰していく」オメガファンタジーの流行があった。全ての過程が終わった後でも歴史だけはそれを記憶しているのが、ある種の救済措置?…

ここまで全体像を俯瞰してやっと「問題対処行動Problem-Coping Behaviorの部分集合としての問題解決行動Problem-Solving Behavior)」の対応範囲が浮かび上がって来る訳ですね。

そして、かかる観点に立てば、あらゆる「問題解決行動Problem-Solving Behavior)」は「(解決可能な問題以外を視野外に追いやる事で成立した仮想世界Virtual world)」上で繰り広げられる壮大な自慰(Masturbation)にすぎず、実際には常に「それまで見落としてきたパラメーター」や「アルゴリズムの誤謬」によって社会が危機に見舞われるリスクに直面しているとも考えられる訳です。

まずはこうしたジレンマをしっかりイメージするのが出発点…