「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「ステップ地帯とメソポタミア古代都市の接点」テルカの興亡

大学時代(1980年代)、台湾からの留学生に「ある日突然、日本が滅びたらどう思う?」と尋ねたら「嬉しい。だって我々台湾人が日本文化の継承者として急浮上する事になる訳だから」と答えられた事があります。衰退期にあったバビロン第一王朝(紀元前1900年頃~紀元前1595年)をヒッタイトが滅ぼすのに手を貸しつつ、バビロン第3王朝(1595年~1157年)を開闢してその後継者となったカッシート人の心理もまたそういうものだったのかもしれません。

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テルカTerqa、現在のテル・アシャラ Tell Ashara

ユーフラテス川中流の右岸にあった古代青銅器時代中期、紀元前2千年紀)の都市国家。現在のシリア領内のアシャラAshara)の町の地下にあり、古代遺跡マリからは北西へ約80kmはなれた上流にある。

青銅器時代中期に栄えたハナ王国Khana)の主要都市で、当初は隣接するマリの大きな影響下にあったが、後にはカッシート人の中心となった。

テル・アシャラ遺跡

シリアで最初に楔形文字の書かれた粘土板が見つかった場所である。最初の発掘調査は、1923年にフランスの考古学調査隊が行い、その重要性が見出された。

  • 本格的な発掘は1970年代以降である。1976年~1986年にかけてカリフォルニア大学ロサンゼルス校UCLA)の考古学者ジョルジオ・ブチェラッティGiorgio Buccellati)とマリリン・ケリー=ブチェラッティMarilyn Kelly-Buccellati)の共同の指揮の下で発掘が行われた。
  • 20エーカーに及ぶ都市遺跡のうち、3分の1は現代の町であるアシャラの下にあったため発掘はできなかったが、住宅や役所、工房、市壁、健康の女神ニンカラクに捧げられた神殿などが発見されている。1987年からはルオーO. Rouault)率いるフランスの調査隊も発掘を行っている。

  • 焼けた厨房の床と見られる炭化した物体の中から、香料として使われたモルッカ諸島原産の植物・クローブが見つかっており、西アジアと東南アジアの間の交易おそらくインドを介した交易)が既に始まっていたことを物語っている。紀元前二千年期(青銅器時代中期)にはインダス文明エラム人の交易が盛んだった トランス=エラム文明期(およそ紀元前2400年頃~紀元前1800年)との重なりもある。

  • アムル王朝が乱立したイシン・ラルサ時代紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)にその一環として紀元前1900年頃にアムル人が再建した隣国マリはバビロニア文明やクレタ島のミノア文明の影響を受けた巨大宮殿を建造。アレッポヤムハド)やウガリットといった近隣の都市国家や王国で評判となっている。当時のメソポタミア中流域は間違いなく「オリエント世界の中心」だったのである。

この遺跡は、ほとんど史料のないカッシート王朝時代前期のメソポタミアの様子を伝える数少ない遺跡として重要である。またその発掘結果は、人間と都市共同体とユーフラテス渓谷の周囲にあるステップ地帯の自然との関係に、新たな光を当てるものである。テルカの文書からは、社会や文化の構造や進化、その本来の性格、シュメールやバビロニアアッシリアなどの巨大文明への抵抗と同化などをうかがうことができる。

その歴史

紀元前3千年紀の居住跡も見つかっているが、周囲の荒野の遊牧民らが定住を始めたとみられる。

  • 隣接するマリの政治的影響下にあったが、マリやバビロンと並ぶ宗教的中心地であり、ユーフラテス中流域の神ダゴンに捧げられた当時の神殿も残っている。

  • また周囲の遊牧民達の政治や交易の中心でもあった。マリで発見された大量の楔形文字文書の中には、テルカから送られた宗教や行政に関する文書もある。

紀元前1700年代中旬バビロニアのハンムラビがマリを破壊すると取って代わる。

紀元前1720年頃カッシート人に征服されユーフラテス中流の主要都市国家となった。

この時期に大きな建設事業がなされ、多くの楔形文字文書が書かれている。以後、青銅器時代の終わりまでテルカはユーフラテス中流の中心都市でありテルカを中心とするハナ王国の首都であり続けた。

  • 紀元前1594年頃、ハナ王国の王(おそらくティプタズキ Tiptazki という人物)はヒッタイトのバビロン征服を助けている。バビロンが倒れた後、カッシートはバビロニアに中心を移し、後に(最終的に紀元前1155年エラム人に滅ぼされる)バビロン第3王朝(1595年~1157年)を築いた。

  • 青銅器時代から鉄器時代に移行する時期、メソポタミア全体が危機に陥ったが、その混乱の中で忘れ去られた。

紀元前9世紀頃、ユーフラテス中流の地方中心都市として再び登場した。「シルクSirqu)」の名でアッシリア帝国の文書内に現れている。この時期のテルカについてはいくつかの墳墓や粘土板文書(不動産取引の契約などの文書)のみが様子を伝えている。

エラム同様に草原文化から出ながら、インダス文明衰退後は(アムル人が育てた)バビロン文化を簒奪した上でそれに同化。最後は「紀元前1200年のカタストロフ」後の混乱下(インダス文明衰退後も独自に草原文化を育ててきたエラムに滅ぼされる(この時にマルドゥク神像が簒奪され、イシン第2王朝が奪還)。その後、アムル人が改めて復興したイシン第2王朝バビロン第4王朝, 紀元前1157年~紀元前1026年)もまたアッシリア中王国台頭とアラム人侵入によって衰退し、改めてエラム人に滅ぼされる(この時にハンムラビ法典が簒奪され、エラム人王朝の首都スサで発見される)。何と因果な話…

 

【「諸概念の迷宮」用語集】「風神の都」エシュヌンナの興亡

それまで「アモリ人はシュメール文化に完全に帰依した」と思ってたら、実は信仰のある側面だけは絶対に譲らなかったんですね。 

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エシュヌンナEshnunna

アムル 人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)には大国の一つとして繁栄した古代メソポタミアの都市、またはそこに起こった王国。バビロン第1王朝の王ハンムラビによって破壊され、その歴史を終えた。

遺跡は現代のイラク共和国ディヤーラー県バアクーバ近郊のテル・アスマル遺跡に同定されている。バグダード北西約80kmの所にある。

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【「諸概念の迷宮」用語集】カナン人とは一体何者だったのか?

旧約聖書におけるカナン人についての記述については、まさにそれを編纂する動機となった「バビロン捕囚(紀元前586年~紀元前538年)」のあったオリエント4分割時代(紀元前612年~紀元前550年)からアケメネス朝ペルシャ時代(紀元前550年~紀元前330年)の認識以上遡れないのではという話もあります。

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カナン、あるいはカナアンヘブライ語: כנען Kənā‘an クナーアン、英語:Canaanケイナン)とは、地中海とヨルダン川死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。

現代のカナンに関する知識の多くは、1928年に再発見された都市ウガリットの発掘調査によってもたらされた。

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【「諸概念の迷宮」用語集】「古代中継交易拠点」マリの興亡

それにつけても、古代メソポタミア都市国家における宗教と経済の重なり具合って本当に日本の門前町みたいですね。

これぞカール・ポランニーいうところの「経済も宗教も社会システムに埋め込まれてる状態」なんですかね?

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【「諸概念の迷宮」用語集】古代交易都市エマルの興亡

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エマルEmar

シリア北東部のユーフラテス川中流にある古代の都市国家アレッポラッカの中間、南へ流れるユーフラテス川が東へ向きを変えるあたりの南岸にあるテル・メスケネTell Meskene)の遺跡が古代のエマルだとされている。高台にある遺跡の範囲は 1000m × 700m におよび、現在はユーフラテスを堰き止めた人工湖アサド湖の湖畔に位置する。

  • 楔形文字の書かれた粘土板多数が発見された事でウガリット・マリ・エブラと並ぶ古代シリアの重要な考古学遺跡となった。紀元前2500年にまでさかのぼるこれらの文書や、1970年代以来の遺丘(テル)の発掘結果からメソポタミアアナトリアシリアの勢力圏の境界にある青銅器時代の重要な交易拠点であったとみられる。

他の都市遺跡と違い、エマルから見つかった粘土板は宮廷や政府のものではなく、民間同士の取引、裁判記録、不動産取引、婚姻、遺言、養子縁組など、民間の営みに関するものだった。神官の家からは、メソポタミアの伝統に関する文学や語彙集などの文書、地元の信仰に関わる儀式の文書などが発見されている。

 

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【「諸概念の迷宮」用語集】「シリアの交易都市」カトナの興亡

遺跡に残された宮殿の建築様式にマリアララハといったシュメール=アモリ人王朝のそれと共通点が見出せるそうです。

カトナカトゥナ、Qatna、アラビア語:قطنا、現在のアル=マシュラファ al-Mashrafah المشرفة

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シリアにある古代の都市国家の遺跡。ホムスの北東18km、オロンテス川の支流ワジ・イル=アスワドWadi il-Aswad)にある遺丘テル=エル=ミシュリフェTell-el-Mishrife)にある。遺丘(テル)の面積は1平方kmで、西シリアでも最大級の青銅器時代の都市である。遺丘はシリア砂漠の石灰岩の台地のへりに位置し、肥沃なホムス盆地に面している。

その歴史

紀元前2千年紀には、メソポタミア地方キプロス島クレタ島エジプト地方を結ぶ貿易路が形成された。

  • カトナはユーフラテス川中流域(マリなど)からタドモルパルミラ)を経て地中海に至る道の半ばにあった。
  • ユーフラテス川沿いのエマルEmar)からヤムハドハラブ、アレッポ)、カトナハツォルTel Hazor)-メギドTel Megiddo)を経てエジプトへ行く道も通っていた。
  • カトナのあるホムス盆地の西には、南からのレバノン山脈が途切れ北へ続くシリア海岸部の山脈が始まる大きな谷間があり、地中海沿いの港ビブロストリポリへ向かう道が発していた。
  • こうした地理上の立場によりカトナは、マリからカトナを経て地中海に至るスズ貿易の中継地となり、一方キプロスからの銅はこの貿易路を逆にたどってメソポタミアに向かった。マリから発見された大量の粘土板文書の中では、布や服、ある種の弓、宝石、木材、ワイン、二輪の戦車などが、カトナを経てマリに届く品物として挙げられており、一部は更にバビロンへと運ばれた。

カトナが文献に最初にあらわれるのは、ウル第3王朝(紀元前2112年~2004年)の時代にまでさかのぼる。
*やはりシュメール人が建設し都市と考えるのが妥当らしい。

  • カトナでは青銅器時代後期の宮殿の瓦礫内から、エジプト第12王朝のアメンエムハト2世紀元前1875年~紀元前1840年)の娘・イターのスフィンクスが発見されており、エジプトからの影響の強さを物語るものの、このスフィンクスがいつカトナにもたらされたかははっきりしないため第12王朝とカトナとの関係も明確ではない。

マリから発見された文献により名前の分かっている最初のカトナ(カタヌム Qatanum)王は、イシ・アッドゥIshi-Addu、「アッダはわが助け」)で、上メソポタミアシャムシ・アッドゥShamshi-Addu)と同盟を組んでいた。

  • イシ・アドゥの跡を継いだのは息子のアムト・ピ・エルAmut-pî-el)で、王子の頃にナザラNazala)の知事だった人物である。彼の治世はバビロニアハンムラビ王紀元前1792年~紀元前1750年)と同時期だった。
  • アムト・ピ・エルの妹ベルトゥムBeltum)はマリの王ヤスマフ・アッドゥJasmah-Addu)と結婚している。彼女の母はおそらくアッシュールかエカラトゥムの出身のラムマシ・アッシュールLammassi-Ashur)とみられる。
  • マリの王ジムリ・リムもカトナ出身の姫ダム・フラシムDam-hurasim)を娶っている。

マリがハンムラビに征服され破壊された後は、カトナに関する文献は少なくなる。

  • ヤリム・リム3世の治めるヤムハドアレッポ)がカトナの最大のライバル都市となり、一時はヤムハドに支配された。

ミタンニ帝国が上メソポタミアで台頭するとミタンニと同盟を結ぶが、エジプトとミタンニの間の係争地となる。

  • カトナ宮殿の一部(宮殿C室、ニン・エガル(Nin-Egal)神殿と呼ばれる部屋)の銘文には、ミタンニ人がカトナに住んでいることが書かれている。
  • エジプト第18王朝のアメンホテプ1世紀元前1515年~紀元前1494年)とトトメス1世紀元前1494年~紀元前1482年)のシリア遠征はカトナにも達したとみられるが決定的な証拠は見つかっていない。
  • カルナックのアメン大神殿の第7塔門(パイロ)には、トトメス3世紀元前1479年~紀元前1425年)がその治世の33年目にカトナの地に滞在したことが書かれている。
  • アメンホテプ2世紀元前1427年~紀元前1401年)はオロンテス川を渡る途中にカトナに襲われたが、勝利をおさめ戦利品を奪った。その中にミタンニの戦車の装備もあったことが書かれている。

一方、カトナ宮殿の地下から見つかった楔形文字の粘土板からは、以前には知られていなかった紀元前1400年頃の王イダンダIdanda)の名が見つかっている。

  • ヒッタイトの王シュッピルリウマ1世紀元前1380年~紀元前1340年)のシリア遠征の際、カトナのアキジAkizzi)王子はエジプトのアメンホテプ4世に助けを求めた。
  • しかし彼は唯一神アテンを祀り新首都アマルナへ遷都する大改革に没頭しており、結局カトナは、ヒッタイトに征服・略奪され住民を連行されたシリアの都市国家の中に名を連ねることとなる。

  • この時期のエジプト内外の政策が記された粘土板・アマルナ文書の中にはアキジ王子がアメンホテプ4世に宛てた親書5通も含まれている。
  • カトナの名は、エジプト第20王朝のラムセス3世紀元前1180年)の時代までのエジプト地誌にも記載されていた。エマルから見つかった文献にも、青銅器時代末期(紀元前12世紀)にアラム人がカトナを襲った様が書かれていることから、少なくともこの時期にはまだカトナが存在したことがわかる。

遺丘には新バビロニア時代紀元前7世紀)にも人が住んでいたことが出土品からわかるが、すでに近隣のホムスエメサ)が交易路の中継点という役割を奪っていたため、取るに足らない町となっていた。