「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】「シリアの交易都市」カトナの興亡

遺跡に残された宮殿の建築様式にマリアララハといったシュメール=アモリ人王朝のそれと共通点が見出せるそうです。

カトナカトゥナ、Qatna、アラビア語:قطنا、現在のアル=マシュラファ al-Mashrafah المشرفة

f:id:ochimusha01:20200723153113p:plain

シリアにある古代の都市国家の遺跡。ホムスの北東18km、オロンテス川の支流ワジ・イル=アスワドWadi il-Aswad)にある遺丘テル=エル=ミシュリフェTell-el-Mishrife)にある。遺丘(テル)の面積は1平方kmで、西シリアでも最大級の青銅器時代の都市である。遺丘はシリア砂漠の石灰岩の台地のへりに位置し、肥沃なホムス盆地に面している。

その歴史

紀元前2千年紀には、メソポタミア地方キプロス島クレタ島エジプト地方を結ぶ貿易路が形成された。

  • カトナはユーフラテス川中流域(マリなど)からタドモルパルミラ)を経て地中海に至る道の半ばにあった。
  • ユーフラテス川沿いのエマルEmar)からヤムハドハラブ、アレッポ)、カトナハツォルTel Hazor)-メギドTel Megiddo)を経てエジプトへ行く道も通っていた。
  • カトナのあるホムス盆地の西には、南からのレバノン山脈が途切れ北へ続くシリア海岸部の山脈が始まる大きな谷間があり、地中海沿いの港ビブロストリポリへ向かう道が発していた。
  • こうした地理上の立場によりカトナは、マリからカトナを経て地中海に至るスズ貿易の中継地となり、一方キプロスからの銅はこの貿易路を逆にたどってメソポタミアに向かった。マリから発見された大量の粘土板文書の中では、布や服、ある種の弓、宝石、木材、ワイン、二輪の戦車などが、カトナを経てマリに届く品物として挙げられており、一部は更にバビロンへと運ばれた。

カトナが文献に最初にあらわれるのは、ウル第3王朝(紀元前2112年~2004年)の時代にまでさかのぼる。
*やはりシュメール人が建設し都市と考えるのが妥当らしい。

  • カトナでは青銅器時代後期の宮殿の瓦礫内から、エジプト第12王朝のアメンエムハト2世紀元前1875年~紀元前1840年)の娘・イターのスフィンクスが発見されており、エジプトからの影響の強さを物語るものの、このスフィンクスがいつカトナにもたらされたかははっきりしないため第12王朝とカトナとの関係も明確ではない。

マリから発見された文献により名前の分かっている最初のカトナ(カタヌム Qatanum)王は、イシ・アッドゥIshi-Addu、「アッダはわが助け」)で、上メソポタミアシャムシ・アッドゥShamshi-Addu)と同盟を組んでいた。

  • イシ・アドゥの跡を継いだのは息子のアムト・ピ・エルAmut-pî-el)で、王子の頃にナザラNazala)の知事だった人物である。彼の治世はバビロニアハンムラビ王紀元前1792年~紀元前1750年)と同時期だった。
  • アムト・ピ・エルの妹ベルトゥムBeltum)はマリの王ヤスマフ・アッドゥJasmah-Addu)と結婚している。彼女の母はおそらくアッシュールかエカラトゥムの出身のラムマシ・アッシュールLammassi-Ashur)とみられる。
  • マリの王ジムリ・リムもカトナ出身の姫ダム・フラシムDam-hurasim)を娶っている。

マリがハンムラビに征服され破壊された後は、カトナに関する文献は少なくなる。

  • ヤリム・リム3世の治めるヤムハドアレッポ)がカトナの最大のライバル都市となり、一時はヤムハドに支配された。

ミタンニ帝国が上メソポタミアで台頭するとミタンニと同盟を結ぶが、エジプトとミタンニの間の係争地となる。

  • カトナ宮殿の一部(宮殿C室、ニン・エガル(Nin-Egal)神殿と呼ばれる部屋)の銘文には、ミタンニ人がカトナに住んでいることが書かれている。
  • エジプト第18王朝のアメンホテプ1世紀元前1515年~紀元前1494年)とトトメス1世紀元前1494年~紀元前1482年)のシリア遠征はカトナにも達したとみられるが決定的な証拠は見つかっていない。
  • カルナックのアメン大神殿の第7塔門(パイロ)には、トトメス3世紀元前1479年~紀元前1425年)がその治世の33年目にカトナの地に滞在したことが書かれている。
  • アメンホテプ2世紀元前1427年~紀元前1401年)はオロンテス川を渡る途中にカトナに襲われたが、勝利をおさめ戦利品を奪った。その中にミタンニの戦車の装備もあったことが書かれている。

一方、カトナ宮殿の地下から見つかった楔形文字の粘土板からは、以前には知られていなかった紀元前1400年頃の王イダンダIdanda)の名が見つかっている。

  • ヒッタイトの王シュッピルリウマ1世紀元前1380年~紀元前1340年)のシリア遠征の際、カトナのアキジAkizzi)王子はエジプトのアメンホテプ4世に助けを求めた。
  • しかし彼は唯一神アテンを祀り新首都アマルナへ遷都する大改革に没頭しており、結局カトナは、ヒッタイトに征服・略奪され住民を連行されたシリアの都市国家の中に名を連ねることとなる。

  • この時期のエジプト内外の政策が記された粘土板・アマルナ文書の中にはアキジ王子がアメンホテプ4世に宛てた親書5通も含まれている。
  • カトナの名は、エジプト第20王朝のラムセス3世紀元前1180年)の時代までのエジプト地誌にも記載されていた。エマルから見つかった文献にも、青銅器時代末期(紀元前12世紀)にアラム人がカトナを襲った様が書かれていることから、少なくともこの時期にはまだカトナが存在したことがわかる。

遺丘には新バビロニア時代紀元前7世紀)にも人が住んでいたことが出土品からわかるが、すでに近隣のホムスエメサ)が交易路の中継点という役割を奪っていたため、取るに足らない町となっていた。

 

【「諸か概念の迷宮」用語集】「世界史初の天下分け目の戦い」カデシュの戦い(紀元前1286年頃)

f:id:ochimusha01:20200723153113p:plain

カデシュQadesh、Kadesh

古代のシリアにあった都市。オロンテス川に面していた。現在のシリア西部の大都市ホムスから24km南西にあるテル・ネビ・メンド(Tell Nebi Mend)という遺跡がカデシュの跡とされる。

エジプト第18王朝のファラオ・トトメス3世の遠征に対抗してレバントの都市国家群が連合を組んだ際、連合を指揮したカナン人の二つの都市国家のうちの一つとして歴史に登場する(もう一つはメギド)。エジプトに対抗する連合を組むにあたり、カデシュ(アッカド語のアマルナ文書では「Qidshu」の名で現れる)はおそらく、エジプトとレバントを争う北の大国ミタンニの王に指揮されていたと考えられる。

メギドの戦いでカナン連合軍が大敗すると、カデシュ含めシリア南部の都市国家群の上にエジプトの覇権が広がった。

続きを読む

【「諸か概念の迷宮」用語集】「ハルマゲドンの語源」メギドの戦い(紀元前1457年)

戦車部隊」をまともに運用出来たのはエジプトとヒッタイトくらいだった? 一応ミタンニ軍も戦車を装備していた記録がありますが「量産してメンテナンスを続けるシステム」は、相応の工業大国でないと維持出来ないのです…

メギドの戦い(紀元前1457年):古代エジプト軍VSカナン軍…エジプト軍は1000両強の戦車部隊で突撃し、弓矢を放ってカナン軍を圧倒→エジプト軍の勝利!

f:id:ochimusha01:20200724001316p:plain

メギドの戦い(紀元前1457年/紀元前1482年/紀元前1479年

古代エジプトアッシリアを結ぶ貿易ルート(狭い峠の西側)の帰趨を巡ってシリアでエジプトのファラオたるトトメス3世在位紀元前1479年頃~紀元前1425年頃)の軍勢とカナン連合カディシュ、メギド、ミタンニ)が激突。カナン連合軍は大敗を喫っし、カデシュを含めたシリア南部の都市国家群がエジプトの覇権下に入った。

  • 実はこの戦いこそハルマゲドン(希Ἁρμαγεδών, 英Armageddon, 最終戦)概念の起源とも。要するに世界の終わりには(ヘブライ人の重要拠点の一つだった)メギド でこの敗戦の屈辱を晴らす再戦が行われ、そして今度こそ正義の側(カナン連合軍)が勝つというのである。

  • ただ実際には、この時の敗戦でエジプトに降って以降の方がメギドは 繁栄したらしく、交易の利益で大規模で非常に精巧な宮殿が建設されたという。

    f:id:ochimusha01:20200717035729p:plain

  • 紀元前1200年のカタストロフ」期にはメギドウガリットカディシュ同様紀元前1150年頃に一旦破壊され尽くしたが、ヘブライ人達が再定住してアラム人襲撃者(Aramaean Raiders)に再破壊されるまで重要な都市であり続けた。

  • さらにメギドを再建したのはイスラエル王国(北王国)に対して「アッシリア捕囚(紀元前740年代頃~紀元前722年)」を遂行した新アッシリア帝国ティグラトピクセル3世(Tiglath Pileser III, 在位紀元前744年~紀元前727年)とされる。旧イスラエル王国首都サマリア占領を遂行する行政機関の拠点としてであったが、次第に維持が困難となり最終的に紀元前586年頃に放棄された。

ここで重要なのは「紀元前1200年のカタストロフ」後のヘブライ人によるメギド再建をどう考えるべきか。

そう「復讐する」とはいうけれど、如何なる対象に対して如何なる大義名分に基づいて復讐するの? そういう部分についてヨハネの黙示録はちゃんと語ってくれないのです。

【「諸概念の迷宮」用語集】「フェニキア人発祥の地」ビブロスの興亡

ウガリット同様、その繁栄がエジプト新王国時代紀元前1570年頃~紀元前1070年頃)はおろかヒクソス時代(紀元前17世紀~紀元前16世紀)より遡る古代交易都市。

f:id:ochimusha01:20200724001316p:plain

続きを読む

【「諸概念の迷宮」用語集】「青銅器時代の古代交易都市」ウガリットの興亡

一般に東方セム系集団アッカド人、南部バビロニア人、北部アッシリア人)でなく北西セム系集団カナン諸族、ウガリット人、アラム人)が建てた国といわれてます。

f:id:ochimusha01:20200723153113p:plain

ウガリットウガリット語: 𐎜𐎂𐎗𐎚 ugrt [ugaritu]、英: Ugarit

地中海東岸、現在のシリア・アラブ共和国西部の都市ラス・シャムラرأس شمرة、Ras Shamra、ラタキアの北数km)にあった古代都市国家。当時の国際的な港湾都市であり、西アジア地中海世界との接点として、文化的・政治的に重要な役割を果たしたと考えられている。

紀元前1450年頃~紀元前1200年頃にかけて都市国家としての全盛期を迎えた。この遺跡から見つかった重要な文化には、独自の表音文字ウガリット文字と、ユダヤ教の聖書へとつながるカナン神話の原型ともいえるウガリット神話集がある。旧約聖書と共通する言葉や地名が使われていたエブラと地理的にも文化的にも近かった。

続きを読む

【「諸概念の迷宮」用語集】アッシリアの興亡

初めてシュメールを統一したアッカド帝国(紀元前2334年~紀元前2154年)も、シュメール人が建てた後継のウル第3王朝(紀元前2112年~2004年)も滅ぶとアモル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)となり、北部アッシリアと南部バビロニアの地域対立が表面化してきました。

f:id:ochimusha01:20200723205702p:plain

南部バビロニアは概ね「アモリ人王朝カッシート人王朝アモリ人王朝カルディア人王朝」と推移。

それでは北部アッシリアは?

続きを読む

【「諸概念の迷宮」用語集】青銅時代の古代都市アララハ と鉄器時代の港湾都市アル・ミナ

アムル人王朝が乱立したイシン・ラルサ時代(紀元前2004年頃~紀元前1750年頃)にアムル人が建設したかシュメール人より乗っ取った古代都市。ヒッタイトによって紀元前17世紀終盤に一旦滅ぼされ、1世紀後に再建されるも紀元前14世紀に改めて併合された。「紀元前1200年のカタストロフ」以降は再建されず。

アララハAlalakh、Alalah

アムク川Amuq)の河谷にあった古代オリエント都市国家の遺跡。現在のトルコ南部、シリアとの国境に近いハタイ県のアンタキヤアンティオキア)の近くにある。テル・アトチャナTell Atchana)という大きな遺丘テル)が、古代のアララハの跡であると同定されている。 

f:id:ochimusha01:20200723153113p:plain

続きを読む