「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】信念としての自由意志の歴史。

 

そもそも実用主義とは何か?

誰しも人は、宗教や道徳など、何らかの「信念」を抱いて生きている。異なる「信念」同士が衝突し、それが深刻化すると、凄惨な争乱になることすらある。我が「信念」こそ、絶対に「正しい」と信じて疑わないからだ。そうした対立を超克し、互いの差異を肯定しながら、協働し共生するための哲学とは何か?パースジェイムズデューイクワインローティら、プラグマティズムの重要人物を取り上げ、その思想を概観しつつ、現代社会における連帯と共生の可能性を探る哲学の書である。

そもそも「実用主義」「道具主義」「実際主義」とも訳されるプラグマティズムpragmatism)の語源はドイツ語のpragmatisch。実はそれは「(人間が認識可能な情報の集大成としての独Ding、英Thing)の世界「(その外側に「原則として」人類に不可知な形で拡がる物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」を峻別したイマヌエル・カントImmanuelKant、1724年〜1804年の超越論上の語彙で、観念論哲学史的には「(南北戦争(American Civil War、1861年〜1865年)に至った米国人間の不和を内省し神はこの世界を人力だけでは手に負えないすなわち改めて創造主の再登場とデバッグを必要とする様な欠陥品としては設計されてない」なる強烈な楽観論に立脚する宗教的信念を導入した点に最大の特徴があるのです。

f:id:ochimusha01:20190906031559p:plain

ある意味、皇帝ナポレオンに対し「科学はその理論展開において神に言及する必要のない体系なのです」と説明したピエール=シモン・ラプラスPierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)と同じ立場に属するとも。

そして…

プラグマティズム (pragmatism) は、pragmatisch というドイツ語に由来する実用主義道具主義、実際主義、行為主義とも訳されることのある考え方。元々は、経験不可能な事柄の真理を考えることはできないという点でイギリス経験論を引き継ぎ、物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとするもので、神学や哲学上の諸問題を非哲学的な手法で探求する思想。

その創始者であるパースがカントの語彙から採した言葉で、さらなる原意はギリシャ語で行為・実行・実験・活動を表すプラグマπράγμα)。思想が行為と密接に関係する意が強調されたといえる。パースの友人は「ラクティカリズム実際主義)」という語を勧めたが、カント哲学に通じていたパースにとってpraktischという言葉は、「実践理性」の領野、つまり神・道徳・霊魂に関わるので、実験科学者にとってふさわしくないと判断された。こうして名前こそドイツ哲学由来だが、その合作者達はジョン・ロックジョージ・バークリなどのイギリス哲学に影響されており、さらにさかのぼれば、バールーフ・デ・スピノザアリストテレスプラトンに行き着く。

西部邁ゼミナールにおけるpragmatismへの触れ方。

目標を達成した者ほど自由意志を疑いこれまでの環境に感謝しなければならないし、未だ成しとげていない者ほど自由意志を信じることに意味がある。状況の違うこの2つには、1つの固い定義では当てはまらず、その“状況によって柔軟にスタンスを変える”ことがもとめられているのだと感じます。その振る舞いは“謙虚”な姿として写るんだろうなあと。

三島由紀夫は、「習慣という怪物」で継続を力に変え執筆活動を専念してきたという。コレには自由意志の否定の意味から環境や習慣という自動操縦的なものを応用していてなかなかウマい。また、偶然という余地を知り、自由意志を信じなければ(強靭な力)、環境や習慣という安定した状況をつくるきっかけは生みだせないし目標を達成するフラグにもなり得ない。

おっと、ただでさえ難しい話題なのに、あえて検討範囲を「自由意志問題」にまで飛び火させますか。実はこうした設問の持ち方の歴史は欧州近世思想以前、すなわち地中海沿岸地域の主役がイスラム諸王朝だった時代のアラビア哲学にまで遡流るのです。

イスラム教には「定命神の定めた道筋)」信仰がある。

  • この世界は全て創造主によって決定付けられ、用意されたものだから、あらゆる人間もまた神の定めた運命によって生きている。

ならばそれ以外の道、つまり人が自由意志によって決めることのできる範囲はあるのだろうか。この問題についての2つの答えが用意された。

  • 【ジャブル (al-jabr)人間に行為を選択する自由意志など存在せず、例えどのような振る舞いに及んだとしてもその行為の責任は全て神へと帰される。
    *ジャブル (al-jabr)…「(神の意志の)復元」を意味する宗教語で、代数を意味するアルジェブラ(algebra)の語源になった。

  • 【イフティヤール自由の能力】一見、人生には自由選択の余地が存在し”この自由には、限界はない、時には神の予定を退ける“と見える事もあるとする立場。
    *イフティヤール(自由)の能力…「一見そう見える事もある」という言い回しになるのは「それさえもその人に最初から与えられていた定命の一部」と看做すのが公式の立場だから。

この種の議論は特にスーフィズムイスラム神秘主義)の分野において担われてきが、その最終到達目標は「(一切の自由意志を認識論的に放棄して神に絶対帰依する忘我=法悦の境地」だったのである。


アラビア哲学者の多くはアリストテレスの様なギリシャ古典の注釈者でもあり、そのラテン語への翻訳を通じて欧州にこうした考え方が伝わります。

f:id:ochimusha01:20190906032334p:plain

  • 一般に欧州におけるこの種の議論は12世紀ルネサンス運動(イベリア半島におけるレコンキスタ運動の進行(特にキリスト教国側のトレノ奪還)とパレルノに首都を構えたシチリア王国イスラム文化吸収を背景とする第一次グレコローマン古典翻訳ブームに由来する)の延長線上に現れたラテン・アヴェロス主義を巡る諸議論を皮切りとする。

  • こうした論争はイタリア・ルネサンス14世紀〜16世紀)までにパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部で流行した新アリストテレス主義、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。その一方で実践知識の累積が引き起こす如何なるパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なる楽観的ドグマ(dogma、教義)にまで深められて科学実証主義の起源となった。

  • そして宗教戦争の時代を乗り越えた18世紀欧州においては「神義論Theodizee)」すなわち「神は無謬のはずなのに、どうしてこの世には悪が存在するのか?」についての議論が盛んに行われた。契機となったのはおそらく(大貴族連合に対する絶対王政の勝利を目の当たりにした事を受けて)オラトリオ会修道士のニコラ・ド・マルブランシュ(Nicolas de Malebranche,1638年~1715年、奇しくもルイ14世と生没年が一緒)の手になる「ガザーリーの流出論」の絶対王政下フランスへの紹介あたり。

    神は無謬の存在の筈なのに、どうしてこの世には悪や対立が存在するのか。スンニ派古典主義を完成させたイスラム神秘主義者(Sufi)にして法学者(ulama)のガザーリーAbū Ḥāmed Muḥammad ibn Muḥammad al-Ṭūsī al-Shāfi'ī al-Ghazālī 、1058年〜1111年)はこの問題をネオ・プラトミズムの流出論を援用してこう説明した。

    ①神の英知そのものは確かに疑うまでもなく無謬である。

    ②しかしながら神の英知は理念の世界から現実の世界へと全方向に向けて流出していく過程で数多くの誤謬を累積させていく。

    ③こうした誤謬の累積がやがては矛盾や対立、さらに究極的には悪をもこの地上に誕生させる。

    フランスにおいて中世より続いてきた「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制いわゆる封建体制)」に立脚する大貴族連合が国王を最高峰に頂く中央集権的官僚体制を掣肘するシステムは、(ブルゴーニュ猪突公シャルル(在位1467年〜1477年)の自滅に終わった公益同盟戦争1465年〜1477年)と(法服貴族と帯剣貴族の内ゲバに終始したフロンドの乱Fronde, 1648年〜1653年)によって自滅した。代わって「(主権国家として十分なだけの機動力と火力を保有する常備軍を中央集権的官僚制に基づく徴税によって養う絶対王政の掣肘手段として台頭してきたのが「現体制と理性に基づく理想的支配体制を比較する啓蒙主義Enlightenment, 仏Lumières, 独Aufklärung)である。そうした時代の黎明期にあってシャルル・ペローCharles Perrault, 1628年〜1703年)は新旧論争によって「人類の最盛期はグレコローマン時代であり、それ以降世界は衰退を続けている」としてきた欧風末世思想に反駁し、韻文童話集Histoires ou Contes du temps passe、1697年)や散文童話集Contes en vers、1694年)において「(法服貴族や帯剣貴族が立脚してきた伝統的権威との兼ね合いで出身階層によって自動的に個人の人生が定まる中世的身分制」を全面否定したのだった。

    一方「(ニュートンと並ぶ微積分の父の一人ゴットフリート・ライプニッツは「弁神論Essai de théodicée sur la bonté de Dieu,la liberté de l'homme et l'origine du mal、神の善性、人間の自由、悪の起源に関する弁神試論、1710年)」において「人間に認識不可能なだけで、おそらく悪にも存在理由がある」という立場を表明している。

    我々が現実に生きているこの世界は、その枠内において成立している事態の多くが矛盾しておらず、その範囲内においてなら概ね矛盾なく考えることが「可能」である。もちろんそうした組み合わせは他にも無数に考えられるが(Possible world group=可能世界群)、神が唯一選んだのがこの現実世界である以上、この世界こそが最善であると考えるべきであるとライプニッツは提言したのだった。

    しかしながらポルトガルにおけるリスボン地震1755年11月1日、推定マグネチュード8.5〜9.0、推定死者数5万5千人〜6万2千人、この数字は津波の犠牲者1万人を含む)がこうした楽観論や(この時代まで相応の評価を得てきた公正世界仮説Just-world hypothesis、人間の行いに対して公正な結果が返ってくると考える認知バイアス、もしくは思い込み)を吹き飛ばしてしまい、理神論Deism、一般に創造者としての神は認めるが、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する哲学・神学説)を台頭させる展開を迎える。

    それまで主流だった神義論theodizee

    それまでヨーロッパ思想の世界において主流だったのは「慈悲深い神が監督する我々の最善の可能世界le meilleur des mondes possibles)」ではすべての出来事は最善である悪は存在するにせよ、他のさまざまな善が存在するために必要なかぎりの悪である)」なる楽観主義に支えられた神義論theodizee)だった。

    当時のフランスを代表する有識者となったヴォルテールVoltaire=François-Marie Arouet、1694年〜1778年の反応

    当時のフランスを代表する有識者だったヴォルテールVoltaire=François-Marie Arouet、1694年〜1778年)は翌年3月「リスボンの災害についての詩Poème sur le désastre de Lisbonne、1756年)」を発表し、その序文で「〈すべては善であるという語を厳密な意味で、しかも未来の希望なしで把握すると、これはわれわれの人生の苦しみにたいする侮辱にほかならない」と述べ、こうした楽観主義に挑戦した。

     「すべては善である」と叫ぶ迷妄の哲学者たちよ、
     ここに駆け付け、この恐るべき廃墟をよく眺めるがよい。
     この瓦礫を、このずたずたの破片を、この不幸な屍を。
     たがいに重なりあったこの女たちを、この子供たちを。
     崩れ落ちた大理石の下に散らばっているこれらの手足を。
     大地が呑み込んだ数万の不幸な人々を。


    さらに「これは天罰だ」という声にも挑戦している。


     あなたがたはこの山のような犠牲者をみて、それでも言うのか、
     「神が復讐したのだ、彼らの死は犯した罪の報いなのだ」と。
     どのような罪を、どのような過誤を犯したと言うのか、
     母の乳房の上で、潰され、血まみれになっている
     これらの子供たちは。
     壊滅してもはや地上にはないリスボン
     それほどの悪徳の町だったのか、
     ロンドンよりもパリよりも悦楽にふけっていたと言うのか。

    テオドール・アドルノは「リスボン地震ライプニッツの弁神論慈悲深い神の存在と悪や苦痛の存在は矛盾しない、という議論からヴォルテールを救いだした」と述べている。

    当時のスイスを代表する有識者となったジュネーブ出身のルソーJean-Jacques Rousseau、1712年〜1778年の反応

    ヴォルテールの下した「地上には悪が実在する」なる結論と対立したのが同年「人間不平等起源論Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes、1755年)」を発表したジャン=ジャック・ルソーJean-Jacques Rousseau、1712年〜1778年)の内容だった。

    • 人間に悪をもたらしたのは神でなく人間そのものであり、もし人間がもし野生人のように素朴な生活のままだったら、こんな災害に遭う事もなかっただろう。
    • 火災や地震などのために、さまざまな都市が崩壊し、あるいは全滅していること、そのために何千もの人々が死亡していることも考えてほしい。

    さらには都市の放棄とより自然な人間らしい生活様式への回帰を訴え、ヴォルテールとの関係は完全なる断絶を迎える事になる。こうしたルソーの理想主義は結局、フランス革命期における大量虐殺を伴う産業インフラの徹底破壊という形で実践に移されたが、渾身の努力にも関わらずフランスへの産業革命の波及をわずか半世紀遅らせるのに成功しただけだった。

     当時のドイツを代表する有識者となったプロイセン王国出身のイマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年の反応

    また 当時のドイツを代表する有識者だったプロイセン王国出身のイマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)は、同時に(英国から伝わった)人間の力の及ばない自然の巨大さなどへ対する感情たる「崇高」なる概念に強く惹かれ、それを自らの哲学において発展させて中核概念とした事で知られる。若き日の彼はこれを契機に地震に魅せられ、報道から地震被害や前兆現象など可能な限りの情報を集め、それらを使って地震の起こる原因に関する理論を構築し、3冊の薄い書物を出版。そこで「熱いガスに満たされた地底の巨大空洞が震動して地震が起こる」と主張した。これは後に誤りであることが分かったが、とにかく「地震は超自然的な原因ではなく自然の原因から起こる」という仮定に従って地震のメカニズムを説明しようとした近代最も初期の試みだった事実は揺るがない。ヴァルター・ベンヤミンはカントが出版した地震に関する書物について「おそらくドイツにおける科学的地理学の始まりを代表するものであり、そして確実に地震学の始まりである」と述べている。

    哲学用語としての大地=揺るぎなき存在なる概念の崩壊

    ドイツの哲学者ヴェルナー・ハーマッハーによれば、地震の結果は哲学用語にも及び、硬い根拠を大地に例えてgroundと呼ぶ比喩がぐらつき、不安定なものとなったという。「リスボン地震により起こされた印象は、ヨーロッパの最も神経質な時代の精神に触れたため大地震動の比喩はその明らかな無垢さを失い、もはや単なる修辞には過ぎなくなってしまった」。ハーマッハーはルネ・デカルトの哲学のうち「確実性」に関する部分がリスボン地震後の時代に揺らぎ始めたとする。

     当時のスコットランドを代表する有識者となったエドマンド・バークEdmund Burke、1729年〜1797年の反応

    若かりし頃のエドマンド・バークEdmund Burke、1729年〜1797年)は「崇高と美の観念の起原A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful、1757年)」の中でこう述べている。原初のイメージの源泉はスコットランドあたりの峻険な山岳地帯あたり。
    https://66.media.tumblr.com/0ef7a54d8ffc5eea7be629a6913ef711/tumblr_o5hzb2rNRN1sv5krro1_540.gif

    f:id:ochimusha01:20190906142457p:plain

    • 崇高Sublimeには美と戦慄が同居する。

    実は同時代に併行進化的に成立したピクチャレスクPicturesque)の概念は、この理念の影響を濃厚に受けつつも、それそのものではなかったりするからややこしい。

     当時のドイツを代表する有識者となったプロイセン王国出身のイマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年の反応

    イマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)は 「美と崇高の感情に関する観察Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen、1764年)」の中でエドマンド・バークの著作について触れている。

    f:id:ochimusha01:20190906144825p:plain

    • 当時のドイツは、英国と同君統治状態にあったハノーファー王国1714年〜1837年)」経由で英国思想が際限なく流入してくる状態にあったので、強い違和感を惹起する代物が流れてくるとたちまち激しい論争が巻き起こった。

    • エドマンド・バークが「フランス革命省察Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中で示した「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない時効の憲法prescriptive Constitution)」概念についても激論が交わされており、ヘーゲル哲学流に「それが民族精神Volksgeistと合致するなら誰にも変更は許されないが、たまたま時代精神Zeitgeistと合致しただけならその変遷に従って変わっていくだろう」と結論付けられている。

    • ラッサールが「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」 の中で示した「正しい私的所有の範囲は時代によって変遷してきた」とする態度や、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年~1905年)」の中で示した鋼鉄の檻Gehäuse)理論にまで影響を与えた可能性が指摘されている。

      マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」における鉄の檻Gehäuse)」言及箇所の要約

      実は今日でこそ我々の間で普通に通用しているが、実はその意味が思う程自明でない「職業義務Berufspflicht)」という独特の思考様式が存在する。

      その具体的活動内容如何に関わらず、またそれに囚われない俯瞰的立場からすれば、労働力や(資本回転を継続する原資としての)物的財産を用いた単なる営利行為の追求に過ぎない筈の事に対し、各人が自らの「職業」活動の内容を義務と意識すべきと考え、実際に意識して振る舞っているのである。

      資本主義文化の「社会倫理」はこうした義務の観念によって支えられているが、既に完成した資本主義をのみ土台として発生したとは到底言えない。すなわちさらに過去まで遡って考えなければその起源は分からないし、資本主義社会の企業家や労働者ならそうした倫理的原則を必ず主体的に内在的に獲得しているとは限らない。今日の個々人は「既成の巨大な秩序界コスモス)」としての資本主義的経済組織の成員としてその枠内に生まれつき、その枠内で生きる事を強いられ、その枠内で死んでいく。(少なくともばらばらな個人の寄せ集めとしての)個々人の眼にはそれは「(改変の余地なき鋼鉄の檻Gehäuse)」として映る。誰であれこの秩序界(コスモス)は市場との関連が存在する限り彼の経済的営為に対して一定の規範を押し付けてくるものなのである。製造業者は長期官この規範に反する行動を続ければ必ず経済的淘汰を余儀なくされるし、この規範に適応出来ない、あるいは適応しようとしない労働者もまた、最期には必ず失業者として街頭に投げ出される羽目に陥る。

      この様に秩序界(コスモス)そのものが経済的淘汰による教育的再生産を通じて自らが必要とする経済主体(企業と労働者)の生活態度や職業観念を獲得していく反復的営為の起源は、果たして本当に素朴な唯物史観が提唱する様に特定の経済の段階的発展の反映が生み出す上部構造として規定可能なのだろうか?

      資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が淘汰によって反復的に強化され続けていく社会が出現する為には、あらかじめそうした生活態度や職業観念が特定の人間集団共通の見解として共有されていなければならない。だからこそ、そうした職業観念の成立史が重要課題となってくる訳だが、これが全てを上部構造の一言で片付け、その超克を目指す素朴な唯物史観からは導出不可能なほど複雑怪奇な茨の道だったりする訳である。

      我々が想定する様な資本主義精神は、少なくともすでにベンジャミン・フランクリンの生地たる17世紀マサチューセッチュには存在していた(1632年のニューイングランドにおいて既に「アメリカの他の地方に比べて人々が特に利益計算に長けている悪徳」が弾劾されている)。その一方で隣接する植民地(後の合衆国南部諸州)においては、そこが営利を目的として大資本家によって開拓された地域だったにも関わらず、同様の概念が(当時カリブ海沿岸に多数建存在した砂糖や綿花の奴隷制プランテーションや、同時期に穀物輸出を担った東欧の再版農奴制の様に)恐ろしいまでに未成熟な段階にあった。

      そもそも前近代段階における資本主義精神は、当時の一般の人々に喜んで受容された一方で、古代や中世の通念に照会すれば「汚らわしい吝嗇」「およそ低劣な心情の発露」に他ならなかった。それどころか今日なお国際的資本主義社会との関連が極めて薄いか、あるいはそれへの適応を免れている社会集団にあっては今日なおこの理念が生々しい形で通用しているが、それは決して「営利への志向」が未知ないし未発達な「無垢なる幸福状態」にあるからでも、近代浪漫主義者が夢想した様に「呪われた黄金への飢餓Auri sacra fames)」から免れていたせいでもない。むしろそれは属州におけるコロナートゥス(colonatus)制履行によって私服を肥やした古代ローマ貴族、領民を人間と思わない中華王朝の科挙官僚(マンダリン)の搾取、再版農奴制度に胡座をかいた近代農場主達や奴隷制プランテーションの経営者達に見受けられる際限なき貪欲への当然の反応に過ぎず、同様の金銭欲と厚顔無恥は経験した人なら誰でも知っている様にナポリの馬車屋や船乗り、及び同様の仕事に就いている南欧アジア諸国の職人達の間に遙かに徹底した形でより深く根付いている。

      実際には如何なる内面的規範にも服しようとしない、訓練なき「自由意思liberrm arbitrium)」は、それが実業家の物であれ、労働者の物であれ、必ず健全な資本主義社会発展の妨げとなってきた。当然その出発点は「金儲けの為には地獄にへも船を乗り入れて帆が焼け焦げても構わない」冒険商人達による向こう見ずな営利活動でも、戦争や海賊や山賊を正当化してきた「共同体内部unter Brudernでは禁じられた規範からの逸脱も、対外道徳Aussenmmoralでは許される」伝統でも有り得ない。むしろそれらに寛容(Clemenza)過ぎた伝統が、合理的経営による資本増殖と合理的労働組織によって克服された事こそが、市民的資本主義経済成立の前提となった事は疑う余地もないといえよう。

      f:id:ochimusha01:20190906153619p:plain

    要するに彼は、こうした当時の最新概念を認識可能な「独Ding、英Thingの世界」の外側に茫漠と広がる認識不可能な「物自体独Ding an sich、英Thing-in-itselfの世界」を峻別する試みの最初の踏み台として利用したのである。

     20世紀前半のパルプマガジン文化を代表する一人たる恐怖小説作家H.P.ラヴクラフトHoward Phillips Lovecraft、1890年〜1937年の反応

    H.P.ラヴクラフトHoward Phillips Lovecraft、1890年〜1937年)は、自らの開拓した「宇宙的恐怖Cosmic Horror)」の極意について「ピクチャレスクPicturesqueだ。普段は視野外だが、意識し出すと途端に決っして目が離せなくなる様な何か」と端的に述べている。この時点で初めて現代的な形で「崇高Sublime=戦慄Shudder=ピクチャレスクPicturesque)」の等式が成立したといえよう。
    http://1.bp.blogspot.com/-bH8v4Tiufhs/U8UbufaBKiI/AAAAAAAAXVE/OwIxLQAhaCQ/s1600/picturesque+landscape.jpg

    こちらは「(百鬼夜行型怪異の目撃譚を誘発する暗闇とそれに対する恐怖」「古塚や丘に何か棲んでそうな感じ」「家に何か憑いてる感じ」「人里離れた森や湖に何か集まってる感じ」「場違いの場所にある祭祀施設の違和感」「不気味の谷の境界線上を彷徨う人形達が引き起こす不安」といった異化作用をトリガーに発動する。

    ここで「イマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年の反応」が2系列存在する点が重要。彼の存在は近代哲学史上において「先験=アプリオリa priori)」論の提唱者でもあ ったという点において直交座標系Rectangular coordinate system/Orthogonal coordinate system)を提唱して機械的宇宙論Mechanistic Universe)を展開しつつ、心身二元論ただしここでいう「魂」は脳の最奥部に位置する松果腺や動物精気、血液などを介して身体と相互作用を行う物理的実体に過ぎないかもしれない)を説いたルネ・デカルトRené Descartes、1596〜1650年)の後継者であり、かつ数学者コンドルセMarie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)の学問体系論を継承しつつ「全てを統括するのは数理でなく実証主義哲学Philosophie Positiveを習得した科学者でなければならない」としたオーギュスト・コントIsidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)の先駆者にも位置付けられるのである。

こうした経緯を経て「(人間が認識可能な情報の集大成としての独Ding、英Thing)の世界「(その外側に「原則として」人類に不可知な形で拡がる物自体(独Ding an sich、英thing-in-itself)の世界」を峻別したイマヌエル・カントImmanuelKant、1724年〜1804年の超越論が一旦はメインストリームに躍り出した訳です。