ホブズボーム区分上の「革命の時代(1789年 - 1848年)」に該当。
ホブズボーム区分上の「革命の時代(1789年 - 1848年)」
1789年7月14日、バスティーユ牢獄の襲撃を発端とするフランス革命が起き、その影響はヨーロッパ各国へ波及した。その後、ナポレオン・ボナパルトの登場、ウィーン体制を経て、1848年革命へと到る。結果、西ヨーロッパでは国民国家が成立し、主権は国王や皇帝のものであるという観念が崩れることとなった。東ヨーロッパの国々も西に追随する形で改革を急ぐこととなる。
実は英国や日本の様にそれ以前の歴史において体制転覆の可能性が除去され「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」が商業利用の可能性を除いて完全に形骸化した国には存在しなかった歴史段階とも。ただスイスの「分離同盟戦争(1847年)」の様に「なまじ過去に方便によって誤魔化す事に成功した事案が後世、思わぬ形で爆発する」ケースもあるので要注意。
- オランダ絶対王政の樹立を狙うオランダ総督オラニエ=ナッサウ家の野望…良い意味でも悪い意味でも名誉革命(1688年〜1689年)によってオラニエ公ウィレム3世が一代限りとはいえグレートブリテン連合(イングランド、スコットランド)王も兼ねる同君連合が成立した事が最初の節目となった。従来オラニエ公は、連邦の7州の中心たるホラント州の他4~5の州の総督を兼ねるだけだったが、ウィレム4世以降は全州の総督を兼ね、その地位の世襲を公式に認められたのである(より正確には、オーストリア継承戦争(1740年〜1748年)に巻き込まれフランス軍の侵攻を受けた1747年になし崩し的に就任)。しかしウィレム5世は優柔不断な性格で従来の総督派(王党派)と都市門閥派(ブルジョワ貴族連合)の対立に加えパトリオッテン派(フランス啓蒙主義に傾倒して共和主義者となった愛国集団)が台頭し1785年に蜂起。それ自体は内政干渉の機会を手ぐすね引いて待っていたプロイセン軍が鎮圧・掃討。翌1788年、ウィレム5世はイギリスやプロイセンと同盟を結んで総督としての地位を安堵してもらう形でかろうじて復権を遂げたが、この一連の政変が「国王恐るに足らず」という感情をフランス人の間に広め、その事がフランス革命勃発の遠因の一つになったとされる事もある。革命軍は対外戦争の最初の標的にオランダを選び1795年より侵攻開始。ウィレム五世がイギリスに亡命すると入れ替わりに愛国派が帰国してフランスの力を借りバタヴィア共和国を建国した。ナポレオン戦争後のオランダはウィレム五世の息子ウィレム1世を国王として推戴する形で再出発。ベルギーも所領に加えられたがオランダへの経済的従属下では衰退する一方で(皮肉にも「低開発状態を強いられた周辺から中核への搾取」の実例)、フランス7月革命に連動した「ベルギー革命(1830年)」に連動する形で独立達成。
- フランス王統ブルボン家との王統交代を狙うオルレアン公の野望…スペイン継承戦争(1701年〜1714年)と外交革命(1756年)を経て16世紀よりの宿敵ハプスブルグ家と折り合いを付けつつも、次々とイングランドに海外植民地を奪われたフランス絶対王制。その水面下で「フランス最大の素封家」オルレアン家のブルボン王室への政権交代に向けての試みが始まる。バスティーユ襲撃(1789年)と同年の十月行進はどちらも彼が革命家を匿っていたパレ・ロワイヤルから進発した。宮廷金融家(日本でいう「大名貸し」)を巻き込んだ7月革命(1930年)によって王統交代そのものには成功したが、2月革命(1848年)で追放されフランス王制の歴史そのものが終焉。結局このゴタゴタはフランス第三共和政(Troisième République)初期まで続く。
- スイスの分離同盟戦争(1847年)…次第に自由化や民主化が進んできた結果、新教系カントンとカトリック系カントトンの対立が激化し武力衝突にまで発展。その影響がフランスやオーストリアにまで及んで二月/三月革命(1848年〜1849年)が勃発。ウィーン体制が完全に崩壊して盟主メテルリッヒが英国に亡命する事態となった。
- 惰眠を貪っていただけのドイツ語圏…この地域でだけは領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統が揺るぎ無く存在し続け、それが滅んだ後も余計な心配事は全て軍隊や官僚に任せ、彼らに従順に従う享楽的小市民が残っただけだった。無論インテリ層の中にはそういう状況に危惧感を持つ者もいたが、議論があるだけで具体的行動は伴わなかった。教育分野を中心にドイツ国民創出運動も起こったが、連邦国家の分立状態の継続を望む王権とドイツ・ブルジョワ階層に叩き潰されてしまった。
ある意味、こうした当時のドイツ守旧派思想の完成者がヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年〜1831年)だったのであり、プロイセン王国出身のカール・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年〜1883年)もデンマーク出身のキェルケゴール(1813年〜1855年)もその価値観への対抗者として自らを形成していったのだった。
カール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)は「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」の中で19世紀において進歩主義(すなわち数理モデルで扱える範囲の設問のみに注目する立場)は(自分達の方が世界がどうあるかについて熟知していると確信しているが、個々の知識を一つの全体像に統合しようとなど考えた事もない)伝統主義者からそれが成立する条件の細分化、すなわち「世界の全体像そのもの」に対するイメージの再構築を拒絶する姿勢について攻撃されたと指摘する。もちろんそれは我が身にも跳ね返ってくる問い掛けであり、ここから保守主義の形成が始まるが、手段を選ばず既存価値観の可能な限りの存続そのものを目的とする(逆をいえば攻撃された箇所に対してのみ個々に反撃する一方、かかる反論の全体的統合は試みない)その粗雑な態度ゆえに必ずしも思想や信仰の域まで高められる事はなかったという。
*そして「不条理こそが人間性の源泉」なる言い訳は、「いずれにせよ伝統は完全なる代替案が見つかるまで放棄すべきではない」なる主張と併せ、こうした論理上の綻びを誤魔化す免罪符としても機能してきたのである。
このサイトは革命そのものより西欧中心部で進行した「(産業革命受容の妨げとなる)国王と教会の権威に担保された農本主義的伝統の放棄過程」に注目。その後、時代の変遷についていけない革命家が次々と自滅していく渦中において、運動家から理論家に転身したマルクスが「ブルジョワ階層と労働者の対立」に軸を推移させた新たな革命理論を発表した事そのものを重要としています。
ただし同時に同時期あったパラダイムシフトを「マルクス主義=階級闘争論」に限定してはいなかったりもするのです。
①マルクス(Karl Heinrich Marx、1818年〜1883年)が「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と述べ、これが「上部構造論」の先例となった。それ自体が社会学の展開上、重要な画期となった事実は揺らがない。
②しかし当人は案外、前近代的社会認識から生涯脱却出来ずに終わっている。例えば「政敵」バクーニンが指摘している様に「国王や教会の威光に裏付けられた領主が領民と領土を全人格的に代表する権威主義的中央集権体制」については徹底抗戦を誓いつつ「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」については(自分が代わりに君臨するのに都合が良いので)黙認。ある意味、マルクスのこの態度こそがレーニンやスターリンが国体として採用した民主集中制(Democratic Centralism)/権力集中制(Concentration of Powers)の起源の一つとなったとも。
③ところで当時、政治的浪漫主義壊滅の怪我の功名として生まれた「新しい処方箋」はマルクスのこの「上部構造論」だけではなかった。ボードレールが(牢獄や精神病院に幽閉され続けたせいで「読者」と切り離され、その客観的イメージ樹立を余儀なくされた)マルキ・ド・サドや(雑誌の売上に責任を持つ編集者の立場から「読者」の攻略を狙い続けた)エドガー・アラン・ポーを研究し「人間の感情を動員するある種の象徴体系が実在する」という結論に到達した事から象徴主義の発展が始まり、世紀末には無意識の世界を探求したフロイトの夢分析技法との融合を果たしていくのである。そして発祥時期も処方箋としての機能も重なるマルクス主義との共有領域も次第に増えていく。
- フロイトの発想もまた「個人の夢や言い間違いを詳細に観察する事で、人をそういう方向に動かす内的圧力の源、すなわち無意識の実体が見えてくる」という立場に立脚していたのだから、マルクスの上部構造論との間に互換性が存在するのは当然だったとも。
- この「マルクス・フロイト主義」とでも呼ぶべき基本スタンスからマックス・ウェーバーの方法論的個人主義 (Methodological individualism) 、ゾンバルトの方法論的相対主義(Methodological relativism)、ジンメルの形式社会学(Formale Soziologie, Formal Sociology)、アルチュセールやプーランザスの構造主義的マルクス主義(Structural Marxism)、日常生活における社会的相互作用を取り扱うシンボリック相互作用(Symbolic Interactionism)論やドラマツルギー(dramaturgy)論が派生してきたとも考えられる。
今日なお「人間の感情を動員するある種の普遍的象徴体系が実在する」なるドグマをそのまま単純に盲信し続けている立場の人間自体は流石に少ない。とはいえこうした思考様式がマックス・ウェーバーいうところの「外骨格生物としての社会論(成長速度に合わせた脱皮の繰り返しが間に合わなくなると死ぬ)」、すなわち人間の基本的価値観の源泉として(バージョンアップの都度丸ごと差し替えられるOSのカーネルの如き)実時間の流れを超越したある種の無限ループが存在するという考え方の出発点となった事実もまた揺るがないのである。
この様に現代社会においては逆に「(現実には価値観の一斉全交換など不可能なので)その部分を運用でカバーしてきた。ではどうやって?」という設問が主流となっているのですね。
「(経済グローバル化の最初期に勃発した)1857年恐慌」を契機に、以下がまとめて発表された1859年前後より「全てが数値化されていく世界」の顕現がが加速。紆余曲折を経て現在に至るのです。
①「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」としたカール・マルクス「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie)」。
*ただし「神が人間を創造したのではなく、人間が神を創造したのだ」とするフォイエルバッハの人間解放神学に由来するこうした不遜な唯物論/無政府主義は科学的マルクス主義をイデオロギーとして報ずる共産主義圏はおろか(ジョルジュ・ソレル「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年初版)」経由でその精神を継承した)ファシズムやナチズムの世界においても政権奪取後は(なまじそのアプローチの恐ろしさを知ってるが故に)弾圧対象となっている。この意味合いにおけるマルクス主義の最新の継承者はアントニオ・ネグリとも。
②「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」としたジョン・スチュアート・ミル「自由論(On Liberty、1859年)」。
*まさしく「公共の自由は誰が何時、どんな理由があれば制限可能か」に悩まされるリベラリズム的ジレンマの大源流となる。さらなる大源流たる「(ミル同様に数学者でもあった)コンドルセ侯爵の啓蒙主義」にはまだこうした複雑さは備わっていなかったし、「オーギュスト・コントの実証哲学」は科学者独裁主義を掲げながら「科学者の叡智は数学的アルゴリズムを超越する」なる神秘主義/顕密思想から一歩も脱却出来なかった。③「進化は系統的に展開する」としたチャールズ・ダーウィン「種の起源(On the Origin of Species、初版1859年)」。
*ゴビノーやニーチェの信奉する貴族優位説を過去に追いやる一方、その「適者生存」論や「性淘汰」論はスペンサーの社会進化論(Social Darwinism)同様、主観的に積極的に「弱肉強食」論と誤読され、貧富格差を放置する資本主義的効率の追求や(最終的には「世界最終戦論」にまで行き着く)国家間競争が全てとなった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)を支えるイデオロギーとなった。(ホフスタッターによれば)米国流リベラリズムは、まさにこうした「怪物」の首に鎖をつける為に生まれてきたのだという。
確かに「どういう経緯で車が発明されたか知らなくても、それを乗り回す事は出来る」式の実用主義にも一理あるが、かかる「実用主義」思想自体も神学的論争から抜け出す為に発足当初は「この世界に神など存在しない」なるニヒリズムへの最後の砦として構想された「神は必ずや人間が自力で問題を解決する為の手段を我々の認識可能空間内に隠しておいて下さる」なる宗教的信念を必要とした事くらいは覚えておいて損はない。
ところで私は「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」については、著者であるカール・マルクス当人の階級史観そのものより、この著作が出版される事を可能としたパトロンたる「社会民主主義の父」ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)の「普遍精神(Allgemeine Geist)の法的勝利」を支持する立場。
豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。
法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の法源としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。
普遍精神(Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志(volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ)法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。
その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。
すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。
①神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
②農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。③ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
この考え方は「ハノーファー王国(1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツが受けてきた英国からの影響の総決算ともいわれています。