「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【指数・対数関数】【複素数】【幾何学】幾何学上の2角形と「オイラーの原始量(Euler's primitive sweep)」について

まずはあらゆる空間的概念の原風景として「オイラーの原始量Euler's primitive sweep)=観測原点をすっぽり包む全球型スクリーン」なる概念を仮定します。
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 ①任意の観測原点「」を設置する。この時点ではまだ何も起こってはいない。

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  • この段階で既に「観測原点をすっぽり包む全球型スクリーン」は実在しているが上映前の映画館のスクリーンの様に何も投影されてない。この状態を幾何学上の1角形頂点や辺や面の概念が全て1点上に集約する図形。球表面上においてのみ認識可能)に対応させる向きもある。

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    *この時点で既に「回転の向き」なる概念も存在するが、それに特別な意味を持たせる事は出来ない。

  • ここで急浮上してくるのが「有意味なデータの抽出Extract Significantly result of the data obsertion)」が「無視可能なデータの切り捨てReject Ignorableresult of the data obsertion)」と表裏一体の関係にある問題。すなわちシステムの出力がゼロなのは入力がゼロだからとは限らない。「分析可能な情報」がまだ一つも得られてない段階だからに過ぎないかもしれないという話。

②何かが観測されると、たちまち観測原点「」と対象「」とを結ぶ距離1の線分(比較対象がないので、とりあえずそう認識するしかない。実際にはスカラー(定数)でなく状況に応じて伸縮するのかもしれないが、その判断にも相応の情報量を必要とする)の旋回範囲に(これを半径とする)円周/円や球面/球が現出し「観測原点をすっぽり包む全球型スクリーン」がやっと意味を持ち始める。「直径2」の概念が芽生える瞬間でもあり、その極限値は観測原点より半径分「」あるいは半周分「π」離れた先に極限値−1」。複素系座標操作でいうところのオイラーの等式Euler's identity1+πi=-1+0iの世界。
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  • これを球形幾何学における二角形digon)に対応させる向きもある。

    正2角形pi/2=3.141593ラジアンあるいは180度の場合…概ね「任意の円弧を2分割する2点直線距離1に対して円弧上の距離はπ/2倍)、あるいは出発地点と到着定点の間を等しい測地線で結ぶ球表面上の円弧を観測原点とその面幾何学においておける原点出発点と終点を等しくする円周もしくは球上の一点」を指す。例えば任意の球表面上において出発点「」とその座標上正反対に位置する対蹠地「−1」の間を(両者の直線距離1に対してπ/2倍の距離で結ぶ)無数の測地線など。

    二角形 - Wikipedia
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③このイメージは人類の想像力を微積分の様な解析学分野や量子力学の世界に誘った数学的直感の大源流でもあったと考えられている。

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ところでナチス・ドイツにそのまま残って協力者となった事から賛否両論あるドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーMartin Heidegger、1889年〜1976年)は「技術への問いDie Frage nach der Technik、1954年)」の中でこう述べています。

  • 集-立(Ge-Stell「特定目的達成の為に手持ちリソースを総動員しようとする体制」)システムは、しばしば元来の「秘匿され顕現を待つ真理Aretia,アレーティアへの到達」なる悲願を忘れ、自らの存続や発展のみを主題とする様になるから「我々に認識可能な範囲外を跋扈する絶対他者」の捕捉手段として相応しくない。
    *同時代のフランス人哲学者メルロ・ポンティもまた「知覚の現象学(Phénoménologie de perception、1945年)」の中で「現象への還帰=まさに忘却されている事物の生誕地(le berceau des choses)としての現象野において忘れかけていた最初の約束を果たす事」としている。

    メルロ=ポンティは既に「行動の構造(La Stracture du Comportement、1942年)」において「動物は自己を対象化できず、与えられた状況から抜け出ることができない。これに対し人間は、自分の行動を振り返り、それに対して態度を取ることができる。これは動物には見られない人間独自の性格である」「私たちの行動はたえず「ありうる」構造を「いまある」構造に繰り込むことによって成り立っている。人間の行動を考えるとは、これがどのようにして起きるか、どのような条件で私たちが「ありうる」を目がけるようになるのかを明らかにすることである」と述べている。

    たとえばニーチェは『道徳の系譜』で、良心を「約束を守る能力」と規定している。私たちは誰からも命令されることなく、また負い目や罪の意識に影響されることなく、自分の意志で、自分が「よい」と思うことをなすことができる。あるいはそこに人間としての自由があると了解している。カントは『実践理性批判』で、忠士は信頼する君主の命令であれば、自分の命さえも犠牲にすることができるとしている。だがその意味は、忠士はおそらく死を選ぶだろうということではなく、死を選ぶ可能性があると確信するとき、みずからの自由を了解するということだ。

    メルロ=ポンティが反射学説を批判する際に考慮しているのはこうした事情だ。つまり人間は、既存の法則(自己保存の法則など)に従うよう設計されている存在ではなく「ありうる」に向かって行動する可能性をもつ存在であると考えるのだ。

    *どれもまさに国家間の競争が全てとなった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の最中に、出口すら見えない状態で発された言葉であった事を忘れてはならない。さて当時の極度に理想化された「回帰すべき真理の世界」は今何処?

その一方でしばしば「現代経営学あるいはマネジメントmanagement概念 の発明者」と呼ばれるピーター・ドラッカーPeter Ferdinand Drucker、1909年〜2005年)は、その著書「マネジメントmanagement、1974年)」の中でユダヤオーストリア人として自ら直接経験したナチズム台頭による迫害にかこつけてビジネスモデルbusiness model)の在り方についてこう述べています。

  • 国家間競争や民族間競争を最優先課題とする体制は、いずれにせよ最終的には全体主義へと帰着する。それを回避するには「成果をあげる責任あるマネジメント」に立脚する自律的組織=企業の存続と発展が不可欠。それこそまさに全体主義に代わるものであり、われわれを全体主義から守る唯一の手立てである。

  • 自らは正義の絶対的批判者の仮面を被ってあらゆる非を弾劾する一方ええとこどりのし過ぎで矛盾だらけとなった自らへの言及は決っして許さない無責任体制」だったナチスを反面教師として打ち出されたモデル。実は彼がマネージメント理論のテンプレートに選んだテイラー主義Tailorism)も(レーニンソ連経営法として模倣されたくらいで)常にストップウォッチを持ち歩いて標準化された手順を守らない労働者を次々と解雇したり、労使関係に割って入ろうとする労働組合の存在を断固許さなかったりと案外全体主義色が強いのだが(当時の大日本帝国も含め、国家間競争が全てとなった総力戦体制下の国はどこも多かれ少なかれそんな感じ)、とにかく「責任問題から逃げない経営者の強いアイデンティティこそが経営の軸」「管理業務と労働そのものを峻別し、前者は工程管理と状況評価に専念させる」という部分に反ナチス的立場から大いに共鳴したらしい。
    *実際の「ナチスらしさ」と空想上の「ナチスらしさ」のギャップが凄い…

  • さすればドラッカーのマネージメント理論も「高度成長期=総力戦体制時代」への回帰を志向した「究極的には売価ゼロを目指して人件費や設備投資を含む原価を限りなくゼロに近づけていこうとする松下幸之助水道哲学」の暴走状態ともいうべき日本のデフレ信仰と完全に無縁とは限らない?

この様に「」をきちんと捕捉してるかどうかは、これに知覚を委ねている認識系にとって生存問題でもある訳です。そうした概念の大源流を辿るとカンブリア爆発時代Cambrian Explosion、5億4200万年前〜5億3000万年前)に全身を統括する中枢神経を備えないが故に動作が鈍重な放射相称動物(Radiata、ウニやクラゲやイソギンチャクの類)から明瞭な形で分化して「視覚とそれを処理する脊髄」を急速に進化させ始めた左右相称動物(Bilateria、カニやエビの様な節足動物の先祖筋)の中から生物史上初の「百獣の王食物連鎖の頂点)」アノマロカリスAnomalocaris、約5億2,500万- 約5億0,500万年)が突如現れ、やがて一切の末裔を残す事なく滅んでいった先例に辿り着く事になります。

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  • すなわち、とりあえず単純化してアノマロカリスとは原則として種として最初に「(「視覚とそれを処理する脊髄」なる有用な分析システム」の有効利用に成功し、かつその時樹立した生存手段の発展が間に合わなくなった時点で滅んだと考える。
    *例えば概ね一般的にはカンブリア爆発時代以降になって初めて「視覚とそれを処理する脊髄」が生存手段として突出して有望となったのは「それまでは海水が濁っていて見通しが悪かったから」、アノマロカリスが生き延びられなかったのは「捕食される側が毒や棘や硬い外郭で武装する様になったから」「魚類に生存競争で勝てなかったから」と考えられている。これが正解とも限らないが(通説はしばしば新たなる証拠の発見によって覆される)そういう部分も含めて大体こんな曖昧なイメージ。

  • そうした思考様式は社会と人間の関係を「外骨格生物とその中身」に例えたマックス・ウェーバーの「鋼鉄の檻Gehäuse理論」やヘルムート・プレスナーの「世俗信仰Die Weltfrömmigkeit」に容易に接続可能です。前者は「中身の成長に脱皮が間に合わねば全体として死ぬ時代への適応が必須となる点で、その中身は何らかの形で進歩主義的内容となる)」と考え、後者は「外殻は一緒でも、時代遅れになった中身は次々と交換されていくただしその内容が進歩主義的方向を志向するとは限らない)」と考えますが、要するにどちらの発想もマルクスの「上部構造/下部構造」概念のバリエーション。そもそもが環境と生物の関係からの類推と考えるべき。

    *ただしここでいう「環境=適応対象」があくまで自然そのものというより「オイラーの原始量(Euler's primitive sweep)が認識した適応対象」である辺りに注意が必要。

    *いずれにせよ「人は見たいものしか見ない」立場を貫き続けていると、いつの間にか気づくと肝心の「1」を手放していたという事態に見舞われる事になる。

    *ヘルムート・プレスナーマックス・ウェーバーとは逆にルターが世俗の職業(Beruf)を神の思し召し(Berufung)とする事で宗教的生活と世俗的生活の間に親密性(Innigkeit)を樹立してしまった事を問題視した。その結果ドイツでは「宗教的と見えるものが世俗的で、世俗的と見えるものが必ずしも世俗的でない」混沌が日常化。その結果、フランスや英国ではカトリシズム(国王と教会の権威を背景に領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統)がプロテスタント啓蒙主義と激しい衝突を繰り返数値に新たな妥協点を探り当てた様な展開が見られなかったと考えたのである。「すなわち教会から自由になる時期が早すぎた為に、宗教的拠り所を求める気持ちだけが、宗教自体が力を失った時代にも残ってしまった」のがドイツ人の世俗信仰(Die Weltfrömmigkeit)正体であり、ドイツ人を帝政やナチズムに傾倒させていった原動力だったという考え方。

ルネ・デカルトRené Descartes、1596年〜1650年)も、イマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)も、オーギュスト・コントIsidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)も経験知に依らない(すなわち物理モデルや数理モデルに拠らない)先験的直感を重視しましたが、要するにそんなものは最初から現実には実在しなかったという事なのでしょう。
*これらの社会自由主義的思考様式は主権国家絶対王政)全盛期にその文化面として開花した啓蒙主義に由来し、例え反王権的で知的な内容だったとしてもインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層のゴシック=バロック権威主義イスラム教のタウヒード(神中心主義)から完全には逃れ切っていない模様。

*むしろこの時代にはそれに対抗する知性が当時においては物理学や数学や商業(さらには国庫を管理する官僚や工房や鉱山)といった既存権威から離れた世界において研鑽されたといって良い。

*そして両者が本格的に倫理面で交わったのは、あるいはリスボン地震(1755年11月1日)を契機に18後半を席巻した公正世界仮説(just-world hypothesis)の大崩壊を契機としてだったとも考えられる。

公正世界仮説(just-world hypothesis) - Wikipedia

  • 国家間の競争が全てとなった「総力戦体制時代1910年代後半〜1970年代)」の前史として十分な火力と機動力を備えた常備軍を中央集権的官僚システムが徴税によって養う「主権国家時代17世紀〜19世紀)」を見据えると、自然にさらなる前史として大航海時代15世紀中旬〜17世紀中旬)が浮かび上がってくる。
    *十字軍運動などを契機に地中海経済圏との関係を次第に深めていった欧州は(イベリア半島におけるレコンキスタ運動も東欧への植民地拡大運動も一通り落ち着いてきた事もあり)14世紀における黒死病大流行を契機として(レコンキスタが完了してリストラの危機に曝されたポルトガルの修道騎士団やオスマン帝国ヴェネツィアレパント交易を抑えられたイタリア商人に先導される形で)外洋交易による起死回生を図る様になる。その結果、航海に必要な天体観測術や(三角関数を駆使する)測量術、事業運営に不可欠な複式簿記、医術、印刷術などが一斉に急速に発達・普及した。世界史における欧州世界の優位はまさにこの瞬間に始まるのである。

  • 当時を契機に「オクシデントOccident、古代ローマ帝国以西概念とオリエントOrient、古代ローマ帝国以東概念を統合する文化中心地帯としての地中海世界」が崩壊を始め、経済的の中心も大西洋沿岸部の西ヨーロッパへと推移した。その牽引力となったのが(中世オクシデント=オリエント世界における毛織物や香辛料の交易網を前史として世界を席巻した砂糖、綿織物、紙などの世界商品World products)の流通網形成であり、これが最終的には20世紀後半に入ってからのコンピューター/インターネット革命、さらにはAR技術やVR技術の発展を受けての「オイラーの原始量Euler's primitive sweep)=観測原点をすっぽり包む全球型スクリーン」概念による再統合へと結びついていく。

とどのつまりおそらく、惑星や恒星を巡る物理運動の研究が盛んとなった天動説から地動説への移行期に(航海や測量に不可欠な三角関数の計算を容易にすべくスコットランド人男爵のネイピア(John Napier, 1550年〜1617年)が対数logarithm)の概念を発明し、ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz、1646年〜1716年)やニュートンSir Isaac Newton、1642年〜1727年)が微積分(Calculus)の基礎を固め、賭博のリスクを計算する確率論から出発したスイス人数学者のヤコブ・ベルヌーイJakob Bernoulli、1654年〜1705年)とその弟子レオンハルト・オイラーLeonhard Euler, 1707年〜1783年)がスコットランド人数学者のジェームズ・グレゴリーが定式化したテイラー級数Taylor series、公式には英国人数学者ブルック・テイラーが1715年に導入)やスコットランド人数学者コリン・マクローリンが18世紀に積極活用したマクローリン級数 (Maclaurin series) に助けられながら指数関数Exponential function)やネイピア数自然指数関数や自然対数関数の底(root))に収束する確率論やπ円周率)の概念を組み合わせてオイラーの公式Euler's formulae^θi=Cos(θ)+Sin(θi)を導出したのはおそらく偶然ではありません。背景に確実に等速円運動などに対する関心の集中とイメージの深まりがあり、それに立脚する形で新たな「公然と自明たるすなわち伝統的身分制や宗教や権力者の権威的婉容を必要としない科学」が台頭したとしか考えられないのです。

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そして、かかる展開が必然的に生み出したのがピエール=シモン・ラプラスPierre-Simon Laplace, 1749年〜1827年)なる「怪物」だったという事になります。

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  • そう絶対王政全盛期、数学者をパトロネージュしたい啓蒙君主がいくらでもいたヤコブ・ベルヌーイJakob Bernoulli、1654年〜1705年)やその弟子のレオンハルト・オイラーLeonhard Euler, 1707年〜1783年)の時代とは訳が違うのである(三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg、1618年〜1648年)は、ボヘミアベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、スウェーデンのクリスティーナ女王からの招待に応じて1649年から1650年にかけてストックホルムに滞在した「合理主義哲学と近世哲学の祖」ルネ・デカルト(René Descartes、1596年〜1650年)こそ、そうした生き様の嚆矢だったとも。少なくともフランス本国のサロンを渡り歩く「自称有識者」層は「自分も招聘されたい」と死ぬほど悔しがったという)。「近代化学の父」化学者ラヴォアジエ(Antoine-Laurent de Lavoisier, 1743年〜1794年)がギロチンの露と消え、「社会学の創設者の一人」数学者コンドルセ侯爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet, 1743年〜1794年)ラヴォアジエのライバルだった英国非国教系神学者プリーストリー(Joseph Priestley, 1733年〜1804年)も迫害を受けた末に米国への移住を余儀なくされた科学者にとって過酷過ぎた時代、隠遁もせずちゃんと時折々の権力に取り入りつつ無事生き延びただけで「怪物」の尊称に値する。何しろお仲間といえばフランス新古典主義画家「妖怪ダヴィッド(Jacques-Louis David、1748年〜1825年)、「革命の土竜」シエイエスEmmanuel-Joseph Sieyès、1748年〜1836年)、「カメレオン変幻自在の冷血動物)」ジョゼフ・フーシェJoseph Fouché, 1759年〜1820年)と奸物揃いで、実際その胡散臭さのせいで歴史上一旦は完全に忘れ去られたともいわれている。

ナポレオン皇帝はラプラスに対して「お前の書いた本は不朽の大著作だと評判が高いが、神のことがどこにも出て来ないじゃないか」とからかうと、ラプラスは平然と答えてのけたという。「陛下、私には神という仮説は無用なのです」。

そういえばオイラーの公式のバリエーションe^θi=(1±θi/N)^Nをグラフ化した時、最初に脳裏に浮かんだのが「条件付き確率ベイズの定理)」の事だったのです。
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ベイズの定理(Bayes' theorem)の歴史 - Wikipedia

  • 英国牧師トーマス・ベイズ1701年〜1761年)が発見し、その死後リチャード・プライスが発表(Bayes & Price 1763)。必ずしも頻度には基づかない事前確率prior probability)及び尤度ある前提条件に従って結果が出現する場合、逆に観察結果からみて前提条件が「何々であった」と推測する尤(もっと)もらしさ)を仮定した上で事象観測の都度、事後確率posterior probability)あるいは条件付き確率conditional probability)を修正していくのが特徴。
    ペイジアンの源流トーマス・ベイズをめぐって

    エッセイ「第9命題Preposition 9)」の中で帰納法の伝統的課題(traditional problem of induction)に従って「経験X回の成功、N-X回の失敗を通じて次第に背後に存在する成功率を割り出していく過程そのもの」に注目。

  • その後ピエール=シモン・ラプラスが再発見して事象確率、すなわち必ずしも頻度には基づかない主観確率 (subjective probability、不確実性を含む問題を人によって異なる確率を用いて定式化することを許容する立場)を中心に据える形で体系化。

  • この立場はまだ解析対象となっていない新たな問題へのアプローチを可能にするという利点がある一方、客観確率主義者からの「確率の決め方について客観性に欠ける事後確率の計算結果の信憑性や有用性が事前分布と尤度の設定にかかっており、慎重を期すことが必要)」なる批判を免れ得ず、20世紀後半までその研究は秘密裏にしか行われてこなかった。

  • ところが1990年代に入ると突如として電子メール普及を背景に「迷惑メールの発見・分類を自動化するフィルタ」として一気にコモディティ化

    急激に世界常識を書き換えてきたインターネット技術

    1971年に世界で初めてネットワーク経由で送信可能となった電子メールが、1973年には既にARPANETトラフィックの75%を占めていた。同年にはFile Transfer Protocol (FTP) の仕様定義と実装もなされARPANET上でファイル転送も可能となる。

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    ②HTML普及はさらに早かった。HTTP/0.9RFC1945,1991年)の仕様は紙に印刷すれば1枚で済むような非常に簡素なドキュメントであったが、HTTP/1.0RFC 2068,1996年)とHTTP/1.1RFC 2068,1997年)2度のバージョンアップを経たHTTP/1.1の仕様書は実に176ページ近くの分量に膨れ上がる。そして1998年にはインターネット上の通信の75%がHTTPによるものになった。

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    ③国際的に1990年代後半から電気通信事業者数の急増が始まり、同時に迷惑メールやコンピューター・ウィルスへの対策需要が爆発的に増加し始める(明らかにHTML普及の恩恵とも)。

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    Apple社がQuickTimeコーデックを発表したのが1991年12月02日Microsoftが動画再生用APIのVideo for Windowsを発表したのが1994年。そして同時期から実用化が始まったVODVideo on Demand)システムが実用レベルに達したのが、クライエント側がブロードバンド化し、サーバ側に実装する新型ロードバランサーが登場した2004年以降。そして2012年になると「インターネット・トラフィックのリッチ化回覧内容がテキストから静止画・GIF・音声・動画中心にとモバイルスマートフォンシフト」なるトレンドが一挙に表面化してくる。
    *そして(学習に使える)餌(比較的容易に集められるデジタル・データ)の急増が(画像認識系を中心とする)機械学習発展の起爆剤となった側面も。

    さらには機械学習量子コンピュータ分野と相性の良いMCMCMarkov chain Monte Carlo methods=マルコフ連鎖モンテカルロ)との相性の良さもあってたちまち研究開発分野でも相応の市民権を得てしまう。

そしてそれまでの歴史残滓については「最後にティモシー・リアリー博士Timothy Francis Leary, 1920年〜1996年のマインドフルネス的アプローチだけが残った」というのが21世紀的ネット風景という…

*ただしティモシー・リアリー博士(Timothy Francis Leary, 1920年〜1996年)のマインドフルネス的アプローチは、巷に蔓延してる内観療法めいた「マインドフルネス風療法」とは全く別物の模様…

さて、私達は一体どちらに向けて漂流しているのでしょう?